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日常生活の中で見られる抵抗や反応 3

 締め切りまぎわの問題

身近に見られる “抵抗” の好例

 誰でも知っている、締め切り間際にならないとその課題に手がつけられないという現象は、おそらく、全人口中の8割から9割の人々に起こるのではないかと思われるほど、きわめて普遍的な現象です。“一夜漬け” という言葉がここから生まれたことは、周知の事実です。これは、明らかな“異常行動”なのですが、数のうえからは異常どころではなく、ごくふつうの現象と言えます。このような事実を見ると、現実には、正常と異常の関係が、世間一般に考えられているのとはかなり違うものであることがわかるでしょう。

 人間は一般に、多かれ少なかれ、いわゆる怠惰な傾向を持っています。このような傾向を強く持つ人たちにとっては、この問題はきわめて具体的で切実な問題なのですが、奇妙なことに、心療内科や精神科やふつうの心理療法では、ほとんど問題にされません。そのような訴えがあっても、それに対しては、リタリンのような薬物を処方するか、「修行が足りないな」、「甘えているからだよ」、「幼児期に両親の愛情が足りなかったからでしょう」などと、高飛車な、あるいは通り一遍の“解釈”をされるか、「自分で努力するしかないね」などと、突き放されるだけでしょう。それは専門家がすべき応対ではありません。そういう治療者が、努力によって自らのその傾向を克服したのかと言えば、おそらくそうではないでしょう。そのような傾向を持っていないとすれば、あるいは克服しているとすれば、そうした応対はしないからです。自分でできないことを、人に対して、努力が足りないかのような言いかたで片づけるべきではありません。

 しかし、専門家ばかりを非難することはできません。患者やクライエント側も、やはりその努力を極度に避け、現状維持を図ろうとするからです。もしかすると、このような傾向を少しでも減らすことが、人間が生まれてくるひとつの目的なのかもしれません。一生の中で進歩がなかったとしたら、人間が万物の霊長などとは、とうてい言えないでしょう。小学生時代に、8月末にならなければ夏休みの宿題に手がつけられなかった人が、老年になってもいっこうに変わらないとすれば、その原因が何であれ、死に際して後悔することになるのではないでしょうか。

現実に起こる展開

 それまでゲームに熱中していた高校生が、中間テストの前の晩になって、それもかなり遅くなってから、ようやく勉強を始めようという気になり、その晩の計画を立て始めました。ところがそれに夢中になってしまい、気がついたら、勉強そのものをしないうちに朝になっていたなどという、四コマ漫画にでも出てきそうな話を聞いたこともあります。ここでは、結果的に勉強そのものを強く避けていることがわかります。それは、この高校生が勉強を苦痛に思い、嫌っているからなのでしょうか。

 締め切りまぎわにならないと手がつけられない人たちが、 特に、まだ時間的余裕がある段階で、自分の体に鞭打ってその勉強や仕事を始めようとすると、どのようなことになるものでしょうか。それについては、ある程度は想像がつくでしょう。この場合、片づけの問題を扱ったページで説明したのと全く同じ現象が起こります。やはり、勉強や仕事や片づけを始める態勢に自分を持ってゆくこと自体が非常に難しく、机に座るまでに、長い時間がかかります。

 ようやく机に座っても、今度は、別のことをしたい気持ちがきわめて強くなるでしょう。テレビやビデオを見たくなったり、ゲームをしたくなったり、関係のない本や雑誌を読みたくなったり、横になりたくなったりするわけです。この先にどのような現象が待ち受けているかについては、片づけのページに書いておいたので参照して下さい。

 それが何であったとしても、このように、自分にとって前向きの行動を積極的に取ろうとすると、いわば、万難を排して体が抵抗するわけです。では、もし本当に勉強が嫌いだとしたら、やはりこれと同じ展開になるのでしょうか。実例を見るとわかりますが、そうではないのです。それは、嫌いなものを無理やり食べさせられる時と同じで、がまんすればすんでしまうからです。そして、上のような苦痛や症状はありません。これはどうしてなのでしょうか。それは、そこに、私の言う抵抗が関係しているかどうかの違いがあるからです。

 一般的に言われる抵抗は、意識的にであっても、無意識的にであっても、自分にとっていやなものを避けようとする感情や行動を指しています。その点は、精神分析などでも同じです。これが、専門家と一般の方々が共有する、ふつうの人間観でしょう。ところが、私の考える抵抗は、それとは正反対のもので、ひとことで言えば、“幸福に対する抵抗”です。この抵抗が働く場合、いわゆる無意識が意識を操作します。無意識の強い力によって、意識は、何も気づかないうちに操作されてしまうわけです。それには二通りの方法があります。ひとつは、素直な気持ちとは正反対の思いを意識の上に作りあげるという方法です。それは、勉強で言えば、「勉強は好きではない」、「勉強は嫌いだ」、「勉強は苦痛だ」などという思い込みです。

 もうひとつは、その思い込みを自分の意識に証明するような形で、症状を出したり引っ込めたりするという方法です。犯罪で言えば、アリバイ工作のようなものです。それが、“青木まりこ現象”のページで説明した、“対比”という興味深い現象です。対比には、対人的対比、空間的対比、時間的対比、状況的対比などがありますが、勉強に対する抵抗の場合には、状況的対比という形を取ります。つまり、勉強しようとする時に症状を出し、勉強以外のことをしている時には症状を引っ込めるという操作を、無意識のうちにするということです。この変化は、きわめて急速に起こり、やはりストレス仮説で説明することはできません。では、どのようにして症状を出したり引っ込めたりするのでしょうか。それについては、拙著『隠された心の力』(春秋社)に詳しく書いておきましたので、関心のある方は、同書を参照してください。

 この考えかたはきわめて非常識的なものではありますが、これを裏づける証拠は限りなくあります。むしろ、それを反証する証拠を見つけることのほうが大変でしょう。これまで、ストレスの結果として出るとされてきた心身症状は、詳細に検討すると、幸福否定という無意識の強い意志によって操作されていることがわかります(これについても、『隠された心の力』に詳述されているので、参照してください)。そうなると、いわゆる心因性症状の原因ばかりでなく、人間観についても、根本的に考え直さなければならなくなることがおわかりいただけるのではないでしょうか。

最も抵抗の強いこと

 では、締め切りがないものについては、どうなのでしょうか。それは、結局、先延ばし先延ばしにされ、最後まで手がつけられないことがほとんどです。これは、容易に推測できるでしょう。しかし、それよりもはるかに大きい問題があります。それは、自分が本当にしたいことであればあるほど、それが難しくなってしまうことです。自分が本当にしたいことなら簡単ではないか、と思われるかもしれません。たとえば、ある人にその質問をしたら、「それはゴルフです」という答えが返ってきました。しかし、簡単にできることであれば、それは娯楽的な範疇――つまり、自分を楽しませる程度のこと――に入るでしょうし、本当にしたいことではありません。

 本当にしたいこととは、自分を楽しませる娯楽的、趣味的なことではないのです。それは、自分を心底から喜ばせることでなければなりません。そして、それは、心の奥底には、誰にでもあることなのです。とはいえ、自分が本当にしたいことを意識でわかっている人は、ほとんどいません。本当にしたいことをどのようにして見つけるのか、それをしようとすると、どのようなことが起こるのかについては、「心理療法随想 6」の「時間という問題」の項で扱っているので、参照してください。

 本当にしたいことは、実はひとつではないのですが、そのうちのひとつでもすることは、ふつうの勉強どころではなく、筆舌に尽くしがたいほど難しいものです。しかも、時間がある時に、自発的にすることは、絶望的といってよいほど難しいと思います。しかし、それができるようになれば、能力も大幅に向上したことになりますし、人格的にも大きな進歩を遂げたことになるのです。

参考文献

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