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 わが国精神医学史上の若干の再発見について

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本項の目的

 つい最近のことですが、旧満州で発行されていた「満州日日新聞」に夏目漱石が寄稿した、伊藤博文暗殺に関する記事が発見されたのだそうです。続いて、平塚らいてうが創刊した『青鞜』という雑誌の原本が、古書店で大量に発見されたという新聞報道もありました(それぞれ、2013年1月7日、1月9日付朝日新聞)。しかしながら、発見という言葉を使ったとしても、これらは当時の人たちがふつうに接していた刊行物なので、自然界の発見などとは全く異質なものです。その報道を知っている、あるいはそれを承知しながら原本を所持している人たちがいなくなってしまっただけのことですから、どうしても発見という言葉を使いたいのであれば、この場合、言葉の厳密な定義からして、再発見という表現を使うべきでしょう。

 ただいま、今西進化論に関する拙著を執筆しているのですが、そのための参考文献として、さまざまな分野の古典的資料を渉猟する中で、ごく最近、そのような再発見と思しきものがいくつかありました。ひとつは、長崎医学専門学校(現、長崎大学医学部)精神病学教授であった石田昇について、もうひとつは、京都帝国大学精神病学教授であった今村新吉について、それぞれ調べている中で、たまたま行き当たった資料群です。それらは、現代の専門家の間で知られている事柄なのかどうかを判断する力が私にはなかったため、そのことについてわが国で最も詳しい、精神科医療史研究会の岡田靖雄先生に問い合わせました。岡田先生は、私の心理療法の師である小坂英世先生の、都立松沢病院時代の同僚であり盟友でもあります。

 その結果、それらがどうやらわが国では知られていない(つまり、現在存命中の研究者は誰も知らない)ものらしいことが判明しました(岡田靖雄、2012年11月30日付私信)。そして、岡田先生から、その発見と思われるものを「できるだけ多くの研究者の目につく形で発表して」ほしいというご要望をいただいた(岡田靖雄、2012年12月14日付私信)ので、ここに、その要点をお知らせすることにしました。この場を選んだのは、私の自由にできる発表媒体が、現段階では他にないためであり、この情報に誰もが自由に接することができるようにするためです。

 大正3年(1914年)に、第一次世界大戦が勃発したため、それまで伝統的にドイツやオーストリアに留学していた日本人研究者たちは、渡航が不可能になった両国に代わってアメリカに留学するようになりました。それより前の1899年にアメリカに渡ってシカゴ大学に入学した畑井新喜司(しんきし)や、1900年にペンシルヴァニア大学の助手となった野口英世といった先人たちは、この一群の研究者が1910年代半ば以降に留学した時には、周知のように、既にたいへんな活躍をしていました。野口については言うまでもなく、畑井も、ペンシルヴァニアにある、今なお世界的に有名なウィスタ研究所で中心的な研究者になっていたのです。畑井はその後、東北帝国大学に生物学教室を創設するためわが国に呼び戻されるのですが、その後も、東北帝国大学の総長とウィスタ研究所の所長との間で、畑井をめぐる激しい争奪戦がしばらく繰り広げられたそうです(蝦名、1995年、106-116ページ)。双方の研究施設から欠くべからざる存在と見なされていた、きわめて有力な研究者だったということです。

 しかしながら、これらの、いわば後発組も、野口や畑井のレベルには及ばなかったにせよ、かなりの活躍を見せました。その研究者たちが、主として留学中に現地の定期刊行物に掲載した論文は、決して少なくなかったのです。しかし、奥ゆかしい研究者が多かったためか、帰国後に、留学先で発表した英文論文をひけらかすようなことはあまりしなかったのでしょう。そのため、それらの存在は、時代の経過とともに忘れ去られてしまったようです。今回、私は、そうした論文の一部を、意図せずしてたまたま探り当てたということです。ここで紹介するのは、岡田先生にご教示いただいた後に再発見した(と思われる)資料も何点か含んだものです。

石田昇という人物

 今回の再発見は、石田昇について調べている中で起こったものなので、直接間接に石田に関係するものがほとんどです。再発見の内容を紹介する前に、世間ではほとんど知られていない石田昇について手短にふれておきます。ここでは、秋元波留夫による『実践精神医学講義』(2002年、日本文化科学社。第1講「呉秀三」および第2講「石田昇」)および、『99歳精神科医の挑戦』(2005年、岩波書店。特に第3章および第4章)と、元長崎大学医学部精神科教授、中根允文による『長崎医専教授石田昇と精神病学』(2007年、医学書院)の3著に従って説明します。石田は、1917年(大正6年)末に、長崎医学専門学校教授の身分のまま留学したアメリカで、まもなく(いわゆる晩発性の)精神分裂病を発病し、同僚のアメリカ人医師を拳銃で射殺するという事件を起こしました。そして、終身刑の判決を受けて服役していたのですが、病状が悪化したため、1925年にわが国に送還されて松沢病院に入院し、1940年5月末、精神分裂病の人格荒廃状態から一度も軽快することなく、64歳で死去したのです。松沢病院では、後に東京大学精神科教授となる秋元波留夫が主治医のひとりを務め、後年、それまでタブーになっていた一連の事実が、東京大学医学部の最終講義の中で、秋元によって初めて公にされたわけです。

 1875年(明治8年)に、仙台で屈指の医家に生まれた石田は、地元の第二高等学校に続いて長崎の第五高等学校(医学部)を経て東京帝国大学医科大学に入学します。当時の五高は、夏目金之助(漱石)が英語教師を務めており、後に森田療法を編み出す森田正馬と寺田寅彦が在籍していました[註1]。1903年(明治36年)に大学を卒業すると、わが国精神医学の確立者である呉秀三が主宰する精神病学教室の助手となり、わずか3年後の1906年には、早くも自験例を中心にした自著『新撰拐~病學』を出版したのです。この著書は、今でもそのリプリント版(石田、2003年)が市販されています。

 石田は、その先進性と卓抜性とを率直に認めた呉の推挙を得て、その翌年、31歳の若さで長崎医学専門学校精神病学科の初代教授に就任します。第五高等学校医学部は、1901年に長崎医学専門学校と改称されていたのです。したがって、石田は母校の教授になったということです。石田の先進性は、長崎の地でもいかんなく発揮されました。ひとつは、当時としては斬新な開放式病棟を導入したことです。後に石田は、1918年にアメリカの医療専門誌(The Modern Hospital, vol. 10, no. 5)に掲載された写真入りの論文でも、開放式病棟が導入される経過と現状を、堂々たる筆致で紹介していますが、その中で、興奮状態の患者であっても、最初から開放病棟で対応していることを明言しているのです(Ishida, 1918b, p. 393)。

 石田の先進性として第二に注目すべきは、『新撰拐~病學』第6版(1915年)で、当時の新進気鋭の精神医学者オイゲン・ブロイラーの精神医学をわが国に逸早く紹介し、クレペリンの早発性痴呆に代わる病名として、ブロイラーが提唱した Schizophrenie という疾患名に、初めて「分裂病」の訳語を充てたことです。石田は、別著で、精神保健の思想や催眠療法および精神分析を、かなり早い時期にわが国に紹介していますし、催眠療法については、実際にも試みていました。したがって、石田がさまざまな点で先覚者であったことはまちがいありません。

 石田は、1916年4月に東京で開催された第15回日本神経学会総会の席で、「早發性癡呆に對する食塩水注入の効果について」という研究を口頭発表しましたが、その論文を、アメリカ医学心理学会(現、アメリカ精神医学会)の機関誌である American Journal of Insanity(現、American Journal of Psychiatry)に投稿し、第73巻3号(1917年1月号)に掲載されます。これは、わが国の精神科医によるものとしては、同誌に掲載された最初の論文のようです。ちなみに、当時の同誌の版元は、ジョンズ・ホプキンズ出版(現、ジョンズ・ホプキンズ大学出版局)でした。

 石田は、1918年初頭に、メリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学のアドルフ・マイヤーのもとに留学します。1909年にユングとともにアメリカに招聘されたフロイトは、クラーク大学で連続公演を行ないますが、それに刺激されて、15年にボルチモアにアメリカ精神分析学会が設立され、続いて17年には、ジョンズ・ホプキンズ大学に、医学部としては初めて精神分析の正規の講座が設けられます。その中心にいたのが、アドルフ・マイヤーなのでした。後に東北帝国大学で精神分析を講じ、森田正馬と激論を戦わせることになる丸井清泰や石田昇は、まさにその渦中に飛び込んだことになります。

 石田は、近郊のタウソンにあるシェパード・プラット病院にも籍を置いて研究に従事します。ここには、作業療法の父と言われるダントン(Le-Vesconte, 1961)が指導者として勤めており、当時はまさに、作業療法の実践や作業療法士協会の組織化を進めている最中だったのです(長谷、1993年、465ページ)。石田が殺害することになるウォルフ医師は、この病院の勤務医なのでした。

 留学期間は、合わせて2年半の予定でしたが、石田の留守中は、同じ呉門下生である齋藤茂吉が、当初は代理として教授を務めました。齋藤は、1917年11月にあらかじめ長崎を訪れ、石田と会って仕事の打ち合わせを行ないます。この時、ふたりは、長崎の街を歩き、呉が傾倒するシーボルトの鳴滝校舎址も訪れています(秋元、1985年、215ページ)。

 6月3日、石田は、シカゴで開催された第74回アメリカ医学心理学会総会で、名誉会員に推薦され、前会長のブラッシュに伴われて壇上にのぼります(Anonymous, 1918-1919a, p. 259)。もちろん、日本人としては初めての栄誉です。石田より前に、アドルフ・マイヤーのもとで研究していたわが国の精神科医には、いずれも呉門下生である松原三郎、斎藤玉男、丸井清泰の3人がおり、中でも、松原はマイヤーの信頼が特に篤かったようです(岡田、1994年、426ページ)。しかしながら、新参の石田が、渡米後まもなく名誉会員になったのに対して、他に名誉会員なった者はひとりもいませんでした。

 1918年末に同僚医師を射殺して、その場で身柄を拘束された石田は、巡回裁判所で行なわれた3日半の裁判で、終身刑を宣告されました。死刑判決が下されるべきところ、犯行時に錯乱状態であった情状を酌量された結果なのでした。石田のその前後の様子については、石田と同じ船で留学し、しばらく一緒にいた小酒井光次(後の推理小説作家、小酒井不木)が、当時の日記と評論(小酒井、1925年、1929年)に克明に記しています[註2]

 石田事件のあらましは、American Journal of Insanity(当時は季刊誌。第1号が7月、第4号が翌年4月刊)第75巻に掲載されました(Anonymous, 1918-1919c)が、それは、ウォルフ医師の訃報(Anonymous, 1918-1919b)が掲載されたのと同じ巻でした(それぞれ、第4号と第3号)。さらに皮肉なことに、それは、自らが名誉会員に推挙され、ブラッシュ元会長に伴われて壇上にのぼったことが(第2号に)記録されている(Anonymous, 1918-1919a)のと同じ巻なのでした。かくして、石田の人生の絶頂とも言うべき晴れの舞台と最悪の局面の双方が、世界有数の精神医学専門誌の同一の巻に(しかも、2、3、4号と連続して)、永久に保存されることになってしまったのです。

今回、再発見したと思しき論文や資料のリスト

 では次に、今回再発見したと思しき論文や資料を列挙します。ただし、アルファベット順ではなく、それぞれのグループ別に掲載します。このグループ分けは、次節に対応しています

 以上の論文の掲載誌は、ほとんどが、後出の Internet Archive から pdf ファイルとして無料でダウンロードできます。

再発見した内容の説明

 以下、今回の再発見について箇条書きで説明します。

 当時のわが国の留学生たちが英米で発表した論文の再発見は、だいたい以上の通りです。ところで、当時のわが国精神医学史で、欠くべからざる重要な外国人の専門家がふたりいます。ひとりは、1906年に来日して、洛北の岩倉村を視察したロシアの精神科医ウィルヘルム・スチーダであり、もうひとりは、1909年に来日して、岩倉村を含め、各地の精神医療施設を訪ね歩いた、コロンビア大学精神科教授、フレデリック・ピーターソンです。スチーダについては、その報告が当時の『神経学雑誌』に掲載されていますが、ピーターソンについては、ほとんど知られていませんでした。

フレデリック・ピーターソンについて

 フロイトとユングが(それぞれ別個に、しかし、たまたま時を同じくして)初めてアメリカに招聘されたのと同じ1909年の夏に、わが国の精神科医療の実態を調査するため、コロンビア大学精神科教授フレデリック・ピーターソンが来日しました。ピーターソンは、東京帝国大学医学部の呉秀三、三浦謹之助、京都帝国大学精神科の今村新吉の協力を得て、わが国の精神科医療の歴史を調べ、各地の精神科病院を訪ね歩きます。そして、今村とともに洛北の岩倉村を訪れた時、深い感銘を受けたのです。そして、パリの著名な精神科医たちが、近郊のヴァンヴに作りあげたメゾン・ドゥ・ファルレという治療共同体を引き合いに出しながら、「日本とフランスでは、既に一定の標準が達成、実現されている。〔中略〕治癒しうる精神病患者の看護に必要不可欠なものが、今やここにある」(Peterson, 1910, p. 7)と絶賛するのです。ピーターソンは、帰国すると、翌年5月にセントルイスで開催された社会福祉全国協議会の総会で、その経験を発表します(Peterson, 1910)。

 その論文で、ピーターソンは、わが国の11ヵ所もの大学や医学専門学校に精神科が存在していることに驚嘆しています。にわかには信じがたいことですが、合衆国にそれほどの数はないというのです。また、わが国の精神科病院が、清潔でゆったりしており、患者たちがおとなしいことにも強い印象を受けています。さらには、ニューヨークと比べると、医師ひとり当たりの患者数がはるかに少ないことや、特に、他のどの国にも見られないほど、看護者が優しく親切で辛抱強いこと、脱院しようとする患者がいないことにも驚いています。

 ピーターソンは、その後、アドルフ・マイヤーらが主催するニューヨークの研究会でも、これと同じ報告(Peterson, 1912a)を行なっています。ピーターソンが、スチーダとは独立に、岩倉方式をひとつの理想形として評価していたことは、同趣旨の論文(Peterson, 1912b)を別の専門誌に発表していることからもわかります。アメリカでは、呉秀三たちが明らかにすることになる悲惨な実態(呉・樫田、1918/2002年)とは裏腹に、わが国の精神科医療の“先進性”が、それなりの注目を受けていたようです。そのことは、たとえば、ウィリアム・メイボンの論文(Mabon, 1907-1908, p. 27)を見てもわかります。この論文には、わが国の精神病者慈善救治会と思しき団体の紹介があり、その資料の英訳者として、石田の先輩に当たる松原三郎の名前が出てきます。

 ピーターソンが来日する3年前には、やはり岩倉村を、ロシアの著名な神経学者ウラジミール・ベヒテレフの弟子に当たる(橋本、2006年、22ページ)、ロシアの精神科医ウィルヘルム・スチーダが訪れています。ピーターソンは、スチーダが岩倉を訪れていたのを知っていました。ピーターソンと同じく、スチーダも、患者たちがおとなしいことに驚嘆しています。そして、岩倉を、精神病患者を家族で預かって看護する、ベルギーのゲールという共同体と同種のものと明言するのです(中村、2007年)。ただし、岩倉とゲールを同一視することに対しては批判的な意見があります(橋本、2002年)。

 ちなみに、ピーターソンは、当時、石田が留学することになるジョンズ・ホプキンズ大学精神科のアドルフ・マイヤーらとともに、Journal of Nervous and Mental Disease の編集顧問を務めており、それより前の1907年には、チューリヒにあるブルクヘルツリ精神科病院院長のオイゲン・ブロイラーのもとにいたカール・ユング[註5]と共著で、検流計と呼吸記録器を使って、正常人と精神病患者を対象に行なった、言語連想の精神物理学的研究(Peterson & Jung, 1907)を発表しています。これは、ユングがフロイトと交流を始めてまもない頃でした。ピーターソンは、それほど国際的で有力な研究者だったわけです。なお、ピーターソンが来日した年に、ユングがアメリカのクラーク大学に招聘されたのは、まさにこの研究に関する講演のためでした[註6](Jung, 1965, p. 120. その時の講演は、『連想実験』(1993年、みすず書房)に収録されています)。

 フレデリック・ピーターソンの名前は、呉秀三の記名帳に出ている(岡田靖雄、2012年11月30日付私信)そうですが、呉秀三側の資料では、それ以上のことはわからないようです。しかしながら、愛知県立大学の橋本明は、ピーターソンについて、次のように書いています。「明治42年に来日したコロンビア大学の精神科教授ピーターソン(Peterson)は横浜に入港するや直ちに京都の岩倉に向かっている」、「ワシントンで第一回国際精神衛生会議(The First International Congress on Mental Hygiene)が開かれた昭和5年〔1930年〕のことである。この会議に出席すべく渡米した植松七九郎(慶応義塾大学教授)は、呉秀三経緯で渡された土屋栄吉〔岩倉病院院長〕の岩倉紹介の記事を同年の5月14日にニューヨーク医学アカデミーで代読した。岩倉講演の機会を与えたのは明治42年に岩倉を訪問したピーターソンである」(橋本、第83回精神科医療史研究会)。この会議の議事録は、後に2巻本として出版されています(わが国では、東京大学医学図書館にのみ所蔵されています)が、American Journal of Public Health, 1930, vol. 20, no. 4 には、その総会の予告が掲載されており、日本からも参加者がいることが記されています。

アメリカ心理医学会総会に初めて出席したわが国の医師

 石田昇より前に、アメリカ医学心理学会 American Medico-Psychological Association 総会に出席した日本人がいるかどうかをたまたま調べてみたところ、早くも1873年(明治6年)にいたことが判明しました。それは、この年にボルチモアで開催された第27回総会の席で紹介された Dr. J.J. Mayeda という男性医師です(Anonymous, 1873, p. 182; Curwen, 1875, p. 91)。その医師は、フィラデルフィアの A.S. Ashmead という医師のもとで、「心の病気とその治療法について研究している」そうで、日本から来たと言っています。開国まもない頃に、わが国からアメリカの精神医学に関心を持って渡米したか、渡米後に関心を持った医師がいたことになります。Mayeda とは前田なのでしょうが、J・Jと、なぜかミドルネームが入っています。この人物のその後を辿ろうとしても、今のところはっきりしません。この件については、ただ今、オハイオ州立大学のジェームズ・バーソロミュー教授に問い合わせています。バーソロミュー教授は、The Formation of Science in Japan という著書で有名な、日本の医学史や科学史に詳しい、日本近代史の専門家です。何か情報が得られたら、その段階でまたお知らせします。

おわりに――今回の再発見が意味すること

 海外で発表された研究から、わが国の専門家が大幅に隔絶されているらしいことに、最初に気づいたのは、超常現象関係の論文を調べ始めた1970年代の半ばのことでした。その頃、ある医学文献のコピーを取り寄せたところ、最後のページが、次の論文の最初のページとたまたま重なっていました。それは、ニューヨークのマイモニデス病院の精神科医、モンタギュー・ウルマンとスタンレー・クリップナーが同病院の中で行なった、夢テレパシー実験の研究なのでした。しかもそれは、アメリカ医学協会が刊行する月刊専門誌 Archives of General Psychiatry に掲載されたものだったのです。そのような論文が、れっきとした精神医学専門誌に掲載されているのに驚いたことがきっかけとなり、それから、医学や心理学の専門誌に掲載された、わが国ではその存在が全く知られていない超常現象研究の論文を丹念に調べるようになったのです。その結果、そのような論文は、実は大量に存在することが判明したわけです。

 たとえば、超常現象の肯定的な研究論文が掲載された医学雑誌や心理学雑誌だけをあげてみても、Journal of Nervous and Mental Disease, American Journal of Psychiatry, Archives of General Psychiatry, British Journal of Psychiatry, JAMA (Journal of the American Medical Association), Lancet, Annals of Internal Medicine, Psychological Reports, American Journal of Clinical Hypnosis, Medical Hypotheses などたくさんのものがあるのです。加えて、Journal of Nervous and Mental Disease に至っては、ヴァージニア大学精神科教授であったイアン・スティーヴンソン[註7]の“前世記憶”研究の特集号(Ian Stevenson on Reincarnation)まで出しています。この時の編集長は、メリーランド大学精神科教授、ユージン・B・ブローディでした(現在は、元アメリカ精神医学会会長、ジョン・タルボット)。精神医学や心理学の関係者なら、このリストを見ただけで非常に驚くと思いますし、超常現象研究に対する見かたも、多かれ少なかれ変えざるをえないでしょう。

 しかし、あくまでそれは、超常現象の研究という、正統科学から大きく逸脱した領域での出来事でした。通常の医学や心理学の領域でも同じことが起こっているとは、その頃は知識がなかったこともあって、考えてもみなかったのです。その後、拙著『隠された心の力』や拙編書『多重人格障害――その精神生理学的研究』『偽薬効果』(いずれも春秋社刊)を執筆・編集する中で、わが国の専門家は、海外で発表された他の分野での研究からもやはり隔絶されているらしいことに次第に気づかされるようになりましたが、その事実が否定しようもなく明確になったのは、まだわずか3年ほど前のことにすぎません。

 その頃、拙著『加害者と被害者の“トラウマ”』を執筆するため、加害者の“トラウマ”に関する論文を渉猟していました。最近は、わが国でもようやく加害者の“トラウマ”にもわずかながら目が向けられるようになり、専門学会でもシンポジウムのテーマとしてとりあげられるようになりました。さらには、“外傷後成長 post-traumatic growth”などという概念も入ってきています。もちろん、そのような傾向自体はよいことです。ところがその一方で、海外で発表されている、加害者の“PTSD”に関する論文を、わが国の専門家はほとんど把握していないことが判明したのです。このような研究論文は、海外にも2点しかないなどと言われていたにもかかわらず、私が調べたところでは、確かに数は少ないにしても、その方面では10件以上の論文が発表されていることがわかりました。のみならず、わが国で発表された、加害者のPTSDの本質に迫る重要な文献(福原、2003年;福原・宮嶋、2000年、2002年)が、わが国の研究者からなぜか完全に無視されていることも、同時に判明したのです。

 これらの海外の論文は、いずれも大手医学出版社の定期刊行物に掲載されたものです。にもかかわらず突き止められなかったのは、おそらく、PubMed という通常の医学文献データベースに未収録の雑誌に掲載されているためです。PubMed に収録されていないからといって、そのような論文が存在しないことにはならないのですが、それ以上は追及しなかったということなのでしょう。しかしながら、次の「付録」で紹介するように、一般的な google.com を筆頭として、検索手段は他にもたくさんあるのです。にもかかわらず、なぜかそのような方法は使っていなかったことになります。

 とはいえ、問題はそこにあるわけではないように思います。インターネットによる検索が可能になるはるか以前から、わが国の専門家は、海外の研究にどこか疎いところがあったからです。それに対して、海外の文献の把握が今よりも格段に難しかった明治・大正期の研究者のほうが、海外の情報を懸命に取り込もうとしていたためか、現在よりもむしろ海外の事情に通じていたように思います。

 医学の方面で言えば、たとえばわが国には偽薬効果の研究論文は事実上ひとつもありませんが、欧米にはおそらく2千件を超える論文があります。このように、なぜかわが国には、決して入ってこない領域の研究があるということです。そうした領域の研究がわが国に入ってこない理由ははっきりしませんが、いずれにせよ、その結果として、大きな不備や欠落が生じます。海外の研究者と伍して研究を進めるのは、非常に難しくなるのではないでしょうか。

付録――再発見の方法

 最後に、門外漢の私では役不足であるのは承知のうえで、これらの論文をどのように見つけだしたかについて、行きがかり上、ご参考までにここに紹介しておきます。ただし、特に目新しい方法を使ったわけではなく、基本的には、 Google 英文版による検索をごくふつうに利用しただけでした。時に Google Scholar を使ったこともありますが、ほとんどが通常の検索です。

 昔は、文献調べには非常に手がかかりました。Index Medicus, Psychological Abstracts, Chemical Abstracts などという大冊の月刊抄録集があって、それを、医学図書館などに行ってめくって調べたのです。ようやく読んでみたい文献が突き止められても、今度は、その入手が大変でした。掲載誌があれば、そこからコピーをとれるので簡単ですが、ない場合は大変です。著者から別刷りを送ってもらうこともできましたが、そのためには、連絡先を調べる必要があるわけです。このようにいちいち手間がかかりました[註8]。ところが、今は、パソコンの前に座っているだけで、ほとんどのことができるようになっています[註9]。最近では、入手したい論文を登録しておくと、それが pdf ファイルの形で公開された時点でメールで知らせてくれるサービス(Research Gate)まで登場しています[註10]

 アララギ派の歌人で医師でもある加藤淑子は、斎藤茂吉の "Meningoenzephalozystozele mit Hydromyelie und Gliose" という論文を発見して感激し、その喜びを歌にまで詠んだそうです。それは、茂吉が欧州に留学中に現地の専門誌に発表した論文の情報が乏しかったため、方法が限られていた当時としては見つけるのが難しかったからでしょう。しかし現在では、この論文を含め、『斎藤茂吉全集』(岩波書店刊)第24巻に収録されている5編のドイツ語論文の情報は、IndexCat Database, National Library of Medicine, National Institute of Health というアメリカの国立医学図書館のデータベース(以下のリストの最初のもの)にすべて収録されています。既に、“発見”の楽しみのようなものは、欧文の、とりわけ英文の文献の場合、ほとんどなくなってしまっているのです。

 では、実際の検索法をもう少し具体的に説明します。その前に、欧文文献の主なデータベースを列挙しておきます。これらは、すべてアメリカのサイトであり(しかも、上から3番目まではアメリカ国立医学図書館のサイト)、他の国のものはありません。

 最も簡単なのは、言うまでもなく、これらのデータベースから、著者名や論文名などのキーワードにより検索する方法です。しかし、たとえば、石田昇の論文その他の文献をそれぞれのデータベースで検索しても、IndexCat Database で2件見つかるだけで、他のデータベースではひとつも見つかりません。そこで、Google を使うのですが、単に Ishida, N. や Ishida Noboru としただけでは、たくさんのヒットがあるものの、肝心な石田昇については、わが国の研究者による最近の論文か、Wikipedia の記事くらいしか出てきません。そこで、少し工夫が必要です。たとえば、二重引用符つきの "full text" と psych というふたつのキーワードを追加します。psych は、psychiatry と psychology の双方に共通するキーワードになります。そうすると、2ページ目に次のような結果が得られます。

 何と、この2ページ目だけで、3件(上から3,4,6番目)の石田関係の論文や資料が並んでいます。5番目はたまたまヒットした、大変興味深い、大隈重信監修の開国五十年史(2巻本)ですが、本題には関係ありません。キーワードを変えれば、また別の論文が見つかるかもしれません。ここで、なぜ "full text" をキーワードにしたかというと、収録されている定期刊行物や古書が全文検索できる Internet Archive にアクセスしやすくなるからです。ただし、ここから先にまたひと工夫が必要です。

 3,4,6番目のリンクをそれぞれクリックすると、Internet Archive の当該ページが開きますが、そこは、テキスト・ベースの表示になっています。このページの左上に、see other formats という赤のバナーがあるので、それをクリックすると、Read online, PDF, EPUB, Kindle, Daisy, Full text などのフォーマットが並んでいるので、必要なものをクリックすれば、そのファイルが無料で得られる仕組みになっています。この手順だけで、かなりの資料を入手することができます。ただし、PDF の項目が PDF (Google.com) となっている場合は、pdf ファイルがダウンロードできる場合とできない場合とがあるので、その時には、Read online のページから、右上にある i をクリックすると、About this book という窓が開き、その中から PDF をダウンロードすることができます。

 PubMed で Ishida Noboru を単純に検索しても、日本精神神経学会が発行する英文機関誌 Psychiatry and Clinical Neurosciences に掲載された秋元波留夫の論文が出てくるだけですし、PubMed Central では目指すものは何も出てきません。それぞれのデータベースは、その特徴に沿った使いかたをしなければなりません。

 次に、先ほどの斎藤茂吉の論文をためしに検索してみましょう。ここでは、IndexCat Database を使ってみます。茂吉の本名は、義父の斎藤紀一が呼んでいたように「シゲヨシ」らしいので、Saito, M. ではなく、Saito, S. で検索する必要があります。Saito, M. で検索すると、たくさんのドイツ語論文が表示されますが、それは、大方が、斎藤眞(まこと)という別人のものです。斎藤眞は、脳神経外科学のわが国のパイオニア的研究者で、同時期にウィーン大学やベルリン大学に留学して、ドイツ語専門誌にたくさんの論文を発表していたのです。

 そこで、検索ページの search for の欄に Saito, S. を入力し、右の within の欄で、author search を選択し、下の collection の4項目をすべてチェックして検索すると、index catalogue series 2-4 にたくさんのヒットが表示されます。これらを丹念に見て行くのです。そうすると、茂吉がヨーロッパ留学中に発表した5編のドイツ語論文のタイトルがすべて含まれていることがわかるでしょう。

 古典文献を網羅的に電子化すべく Google が始めた取り組みは、このような形で実用化されてきています。事業者側にも内容がわかないまま電子化され、テキストファイル化されたものが、世界中の誰もが自由に検索できる状態で提供されているということです。その中から、貴重な情報をいかに発掘するかは、まさに利用者側の工夫にかかっていると言えるでしょう。

[註1]元長崎大学精神科教授、中根允文先生から送っていただいた資料を見ると、驚くべきことがわかります。これは、中根先生が新たに再発見された事実であり、いずれ中根先生から正式な発表があると思います。なお、旧制五高は熊本にありましたが、医学部は、最初から長崎にありました。五高の同級生同士であった森田と物理学者、寺田寅彦の交流(野村、1974年)は有名であり、寺田と漱石の師弟関係もよく知られていますが、森田側の資料には、なぜか夏目金之助の名前が全く出てきません。当時の夏目は、教頭心得になっているので、長崎と熊本と離れていたとしても、森田が知らないはずはないのです。これには、何か理由があるのでしょうか。

[註2]小酒井についての情報は、武蔵野病院精神科、風野春樹のブログと、小酒井不木研究家、萌倉望のブログを参照しました。

[註3]ただし、石田昇自身は、自分がアメリカ医学心理学会(現、アメリカ精神医学会)の名誉会員に推挙されたのは、ひとつには『新撰拐~病學』が「第七版を重ねたる為なりとのこと」(『神経学雑誌』1918年、第17巻、611ページ)と呉秀三に報告しているので、この書評を念頭に置いていたのかもしれません。

[註4]今村新吉は、『今村新吉精神医学論文集』(1975年、精神医学神経学古典刊行会)の「解題」にも、医学科を卒業して東京帝国大学医学科助手になったと記されていますが、どの教室の助手になったのかはなぜか明記されていません。京都大学精神医学教室編『精神医学京都学派の100年』(2003年、ナカニシヤ出版)を見ても、ふしぎなことに、その点については何も書かれていないのです。ちなみに、今村は、東京帝国大学心理学助教授、福来友吉と一緒に超常現象の研究をしていた1911年に、ロンドンの心霊研究協会に入会していますが、このこともわが国では知られていない事実かもしれません。

[註5]ユングの秘書を務めたアニエラ・ヤッフェによれば、ユングは、1920年代に、当時、一世を風靡したルディ・シュナイダーという、思春期にあったオーストリアの物理霊媒(今で言う念力能力者)を囲む交霊会に列席し、その中で物質化現象などを目撃しているそうです。この一連の交霊会は、院長のオイゲン・ブロイラー教授らとともに、何とブルクヘルツリ病院の院内で催されたのだそうです(Jaffe, 1971, p. 10)。

[註6]同大学のスタンレー・ホール教授のもとに留学していた蠣瀬(かきせ)彦藏というわが国の心理学者は、その時、ユングから生理的指標の研究(Jung, 1907)について聞き、自ら実験を行なって、それを論文(Kakise, 1911;蠣瀬、1913年)にまとめて発表しています。そして、その英文論文がユングの言語連想論文(Jung, 1919)(の参考文献欄)に引用されるのです。

[註7]ちなみに、スティーヴンソンという不世出の医学者がどのような経歴を持っていた研究者であったかに関心がある方は、スティーヴンソンが半生を語った講演の記録 Some of my journeys in medicine をご覧ください。

[註8]この歴史的経緯に関心のある方は、ご参考までに「私の超常現象文献渉猟小史」をご覧ください。

[註9]必要な論文のコピーを手に入れようとした場合、すべてがインターネットで入手できるわけではもちろんありませんが、簡単に入手できるものも少なくありません。まず、英文版 Google で、その論文名を検索してみることです。それだけで、求める論文の pdf ファイルが手に入ることもあります。古典であれば、雑誌名を、上に紹介している Internet Archive から検索してみればよいでしょう。また、出版者のサイトから入手できるものもあります。たとえば茂吉の論文であれば、シュプリンガーのサイトからは、Experimentelle Untersuchungen uber Nekrose, Erweichung und Organisation an der Hirnrinde des Kaninchens という1925年の論文の pdf 版が、この場合は購読者以外には料金が必要ですが、居ながらにして手に入ります。

[註10]わが国でも、CiNii, J-Stage, Webcat Plus, 国会図書館近代デジタルライブラリーなどのデータベースが整いつつありますが、現段階では、アメリカでの充実ぶりにはとうてい及びません。

参考文献


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