サイトマップ 
心の研究室バナー
戻る進む上へ

 書評 自閉症当事者――2.『もう闇のなかにはいたくない』






『もう闇のなかにはいたくない――自閉症と闘う少年の日記』(草思社、1999/9 刊行)
ビルガー・ゼリーン(著)、平野卿子 (翻訳)
四六判、221ページ

ことばのない自閉症者の伝達法

 本書の著者であるドイツ在住のビルガー・ゼリーンさんは、2歳の時に自閉症と診断され、早期小児期を除いて、その後は言葉をひとことも発したことがありませんでした。ところが、Facilitated communication(FC)という対話促進技法を使ったおかげで、キーボードを介した発言や対話が可能になったのです。19歳の時のことでした。ビルガーさんは、この技法を利用したという点でも、カナー型の重度の自閉症者に見られる症状が、成人に達した以降もそのまま残っているという点でも、わが国の東田直樹さんと似通った位置づけにある自閉症者ですが、東田さんよりもさまざまな点で重症のようです。にもかかわらず、東田さんよりも一歩踏み込んでいるように思える、非常に興味深い発言をしているのです。

 「訳者あとがき」に詳しく書かれているのですが、本書は、ドイツの有名な週刊誌『シュピーゲル』で絶賛された後、「母親のアンネマリーがついているときにだけ、文字はきちんと意味のある文章になる」ことから、母親が書いたのではないかという疑いの記事が、まもなく同誌に掲載されたのだそうです。東田さんの場合も同じでしょうが、本人の外見とその作品とがあまりに食い違う感じがすると、専門家も非専門家も、ここぞとばかりに否定したくなるものなのでしょう。この問題については、中村尚樹著『最重度の障害児たちが語りはじめるとき』(草思社)や、柴田保之著『みんな言葉を持っていた――障害の重い人たちの心の世界』(オクムラ書店)が参考になるはずです。

 それに対して、新聞各紙をはじめドイツのマスコミは、ビルガーさんを擁護したのだそうです。そのため、同誌はふたりの記者を派遣して、ビルガーさんが実際にキーボードを打っている場面を観察させるという英断を下したのです。その結果として同誌は、そもそも母親にはこのような作品は書けないのではないかとして、さらには「〔ビルガーさんは〕自分の意思でキーを叩いているようにしか見えなかった」として、潔くもわずか2週間後に自らの主張を撤回したのでした(「訳者あとがき」219-220 ページ)。

 19歳の時、キーボードを一本指で打ち始めた時点では、まだミスタッチも多く、幼児語のような言葉しか出てこなかったのですが、2、3か月後には、年齢相応とも言える文章をつづり出すようになっています(その後も、キーボードはずっと一本指で打っているため、文章をつづり出すのにはかなりの時間がかかっているようです)。そして、半年後には、「苦悩からほとばしり出た、暗い孤独の影にすっぽり覆われた神秘的な章句。そのひとつひとつが並外れて凝縮された言葉で記されていた。その多くはニーチェやヘルダーリン、〔アントナン・〕アルトー、あるいは古ノルド語の叙事詩を思わせ」る(監修者序文)までになったのです。ところが、この本書監修者が実際に当人に会ってみると、ビルガーさんは、自傷行為を含め、奇妙な行動をする重度の典型的な自閉症者なのでした。監修者は、「見たところ精薄〔ママ〕としか思えないこの気の毒な青年」が、この文章を書いたとはとうてい思えず、「ひとりの人間の外見と知能が、これほどまでにはなはだしく矛盾している」ことに驚く(12 ページ)のです。

ことばのない自閉症者の重要な発言

 ビルガーさんは、自閉症について非常に重要な発言をたくさんしています。ここでは、あまり長くならないように、その一端を紹介するにとどめます。最初は、自分を客観視した発言です。ただし、そこには、自己過信とともに自閉症者によく見られる自己卑下が、独特の皮肉とともに、少々混入しています。

「頑固な、いわゆるまさに奇矯な人間であるぼく」(65 ページ)
「孤独な人間は時間厳守病患者 時間を守ることに腐心する ただそうせずにはいられない」(66 ページ)
「今日は、ぼくは手に負えないきちがいだった 社会に適応した人なら 現代では苦もなくやること まさにそれをしなかった それは人類にとって 非常に不運なことだ/きのう センターである事件がおこった 孤独で頭のおかしいビルガーが 偉い教師に腹を立てたのだ かれらがどんなふうにぼくを怒らせたか 例をあげよう/ぼくがいるところで ぬけぬけと ぬかしたんだ なにからなにまで/ぼくを無視して ぼくが空気だとでもいうみたいに/ぼくは ようやく話の切れ目とやらをとらえて 口をはさみ 声を限りに泣き叫んだ/どうしてこんなことになってしまったのか 自分でもわからない」(70 ページ)

 次は、自らの心の動きについて述べている部分です。これらの洞察の中には、“ふつう” の人でも難しいものもあるはずです。

 孤独な人間は 自分を偽装するためには労を厭わない けれども ぼくはみなに示そう 孤独な人間がいかに苦しんでいるかを 自ら招いた苦しみにせよ。(71 ページ)
 以前は ぼくの重要な洞察にさからって ありったけの常同行為をこころみた あるいはとっさに目をつぶることで 鎮めてきたのだが。(74 ページ)
 きちんとした行動をとろうとすると ぼくはきまって粗暴になる だからまわりは神経がまいってしまう とはいえ 平穏はいっそうぼくの気を高ぶらせる きちがいじみた考えが次から次へと湧きだしてとまらなくなる しかもこれが何時間も続くのだ。(75 ページ)
 頭のなかでは明晰にものが考えられる 感じることもできる それなのにどうだ 一歩箱の外に出ると 決死の覚悟で臨んでも いわゆるいちばん簡単な行為さえできないとは/動揺がおそいかかり 愚劣なパニックと不安でぼくはほとんど絶望的になる。(107 ページ)
 ぼくはなんでもわかっている それでいて理性的な行動がとれない/みんなにあわせる顔がない/あまりにみっともない。(154 ページ)

 自分が現実の中で、ふつうに、前向きに対応しようとすると、そこで足を引っ張る自分が出てくるわけです。その “正体” について、ビルガーさんは、次のように書いています。

 ある霊のようななにかが ぼくのなかで性急にあふれだし 知があり孤独で まさしく鋼のように強固なビルガーのような人間を 未熟なままで せきとめている。(62 ページ)
 狂気の重要な精神的法則をどうやって現実に応用するか そういう課題にぼくはとりくんでいる だが それについて語ろうとすると たちどころにある力によって押しとどめられてしまう そいつはさながら悪魔 そいつのためにぼくはたえずおなじことをくりかえし しゅうしゅう息をはき ばかげたことをやらかし きちがい人生を余儀なくされているのだ/これはまるではてしない闘いのよう/ぼくはぜひ平和な状態を味わってみたい けれどもすると悪魔の復讐がはじまる/やつの望みは不穏と闘争 見る間にはびこっていく/こんなふうに考えるようになったのは 初めて強烈な不安を感じたときだった。(77-78 ページ)

 これらは実に驚くべき洞察と言わなければなりません。このことは、実際には自閉症に限らず、人間一般に当てはまる大原則なのです。このようなものを、自閉症の当事者が自力で発見したことは、自らの経験に基づき、かなりの時間をかけた結果とはいえ、驚嘆するほかありません。自閉症者は、ものごとの本質を見抜くというか、そもそもなぜかそうした本質の近くにいるのかもしれません。あるいは、自閉症という生きかたを貫かざるをえなくなるのは、そのようなことのためなのかもしれないと思うほどです。

脳の障害ではないという証言

 のみならず、ビルガーさんは次のような発言もしています。これは、ある人に宛てた手紙に書いたものですが、他の人たちはまず言わないことです。

 自閉症というこの無益で腹立たしい病の原因は自分でもわかりません よく思うのですが それは器官の障害ではなく 心理的あるいは精神的な領域にあるのではないでしょうか ぼくのなかにエネルギーがあり余っているように思えることがよくあります それがぼくという人間に好き放題おかしな行為をくりかえさえるのではないかと でもそれをどうすることもできません 反復行為や強迫行為にこのところまたひどく苦しめられています 心の休まるときがありません〔中略〕
 ぼくを分別のないきちがいだというのはまちがいです 困ったことにぼくは分別のあるきちがいなのですから。(172−173 ページ)

 テンプル・グランディンさんは、「カナー型の古典的自閉症者が示す奇異な社会的行動や硬直した思考様式は、おそらく思考や認知が真の異常をきたした結果なのであろう」と述べています(Grandin, 1995, p. 152)。しかしながら、以上紹介してきたような著者の発言からすると、「思考や認知が真の異常をきたした結果」ではないかというグランディンさんの主張に対しては、疑念を抱かざるをえなくなります。同じ自閉症スペクトラムの中にいても、わからないことはわからないということなのでしょう。

 自閉症の原因を脳の障害に求めるのが昨今の流行ですが、その場合でも、著者の発言にあるような、また東田さんを含め他の自閉症者も異口同音に語っているような、その中でもとりわけ、現実の中で前向きの対応をしようとすると、行動が阻止されたり、逆の方向のことをしてしまう、昔からネガティヴィズムとして知られてきた現象や、平穏や安定やリラックスを嫌うという性向や、人間以前の生物としてきわめて不自然な発達阻害についても説明できなければならないわけです。ほかの点でもそうですが、そのような重要な事実を教えてくれる本書には、やはり自閉症研究にとって重要な位置づけを与えられてしかるべきだと思います。

 最後に、本書の訳文にふれておきたいと思います。本書の邦訳は、冒頭にあえて設けられた「翻訳について」の説明にあるように、やはり相当に苦労した末の産物なのでしょうが、非常に読みやすいものになっています。これについては、訳者の力量とともに、その努力をたたえるべきでしょう。ここで引き合いに出して申し訳ないのですが、それに対して、ドナ・ウィリアムズさんの重要な著書である Autism and Sensing の邦訳は、判読に非常に苦労する訳文の連続になってしまっています。これでは、原文のほうがはるかにわかりやすいように思います。ドイツで自閉症の言語治療をしていたという訳者により、『自閉症という体験』(誠信書房)という邦題で翻訳出版されたものなのですが。正確な訳文にすべくかなりの努力が重ねられたことは訳者のあとがきからわかるものの、結果的にそうなってしまったのはまちがいありません。よけいなことですが、この違いは、読者をどこまで意識しているかによって生まれるものなのではないかと思います。

2017年10月9日

参考文献

戻る進む上へ


Copyright 1996-2018 © by 笠原敏雄 | created on 10/18/18