『自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで』(飛鳥新社、2016/9/30 刊行)
イド・ケダー(著)、入江真佐子(翻訳)
四六判、248 ページ
もちろん違う点もあります。ひとつは、自閉症の主流研究者に対してかなり辛辣な批判をしていることです。ラピッド・プロンプティングと名づけられた Facilitated Communication 法を考案したソマ・ムコパディエイ(高度な能力を発揮したことで欧米の研究者の間で高く評価されている自閉症児ティト・ムコパディエイさんの母親)という専門家が、たまたますぐ近くに住んでいたことから、著者であるイドさん(正確には、エエドーという発音になるそうです)はそのレッスンを受けるようになり。そのコミュニケーション能力を大幅に進歩させました。そのような経緯および経験から、イドさんは次のような批判をしているのです。
ぼくを担当していた専門家たちは、ソマ〔・ムコパディエイ〕のデータが自分たちの仮説〔model〕を脅かすものだったので捨ててしまったんだろう。こんなことをいうなんて、先生たちに厳しすぎると思われるかもしれないけれど、ぼくにはその権利があると思う。(109 ページ)
知識にではなく、自分の経験に基づく発言ほど強い力をもっているものはありません。専門家は、この主張に対してきちんとした返答や対応をする責務があるでしょう。
つらい現実から逃げだしたい〔to escape reality〕といつも思っているぼくを、スティムは別世界に連れだしてくれる。エネルギーの波が押し寄せるような、空想の世界だ。
銀色の光と、あふれ出る色。
空想の中で、数えきれないほどの色が、狂ったように踊りだす。
美しくてついうっとりと見とれてしまう〔mesmerize me〕。でもときどき怖くもなる。
たとえは悪いけれど、スティムは麻薬〔a poisonous prison〕のようなものだ。
われを忘れられる、空に舞いあがるような心地。(26 ページ)
自閉症の人には、ごく単純な作業も不可能に思える。だからやってみもしないでスティムにふけって焦りやいらだちを振りはらおうとしてしまう。「ポジティブな人生は生きられないけれど、この幻覚にひたっているだけでいいや」
長い間、ぼくはそう感じていた。スティムにふけって人生をむだにしてきたのだ。(167-168 ページ)
本書が、以上のような点でたいへん貴重な資料であるのはまちがいないでしょうが、邦訳には、残念ながら大きな問題があります。まず、原著の全体の半分強しか収録されていないらしいことです(原著で127章、邦訳書で71章ほど)。また、ハイファ大学の専門家による Foreword はもとより、付録や用語集も割愛されています。そればかりではなく、大変ゆゆしき問題なのですが、訳文そのものが、全体として抄訳のようになっているのです。これはおそらく編集者の判断で、そのまま訳出すると、この倍以上の分量になり、内容も少々高度になるのを嫌った(わが国の読者には読みにくくなるうえに、定価が高くなるため、売れなくなると短絡的に判断した)結果なのでしょう。そのおかげというべきか、日本語の本としては非常に読みやすくなったわけですが、結果的には大きな欠陥や汚点を残してしまいました。原著が、自閉症研究のためのすぐれた文献になっていることを考えれば、そのことがさらに惜しまれるわけです。