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 書評 自閉症研究――1.『自閉症スペクトラムとは何か』






『自閉症スペクトラムとは何か――ひとの「関わり」の謎に挑む』(ちくま新書、2014/1/7 刊行)
千住淳(著)
新書判、240 ページ

基礎研究者にあらざる基礎研究者

 本書は、自閉症をもつ人たちの脳や心の働きについて基礎的な研究をしている科学者によって、自他による最近の研究成果をもとにして書かれた一般読者向けの著作です。一般向けとはいえ、研究の背景や研究の流れのみならず、研究の結果を解釈する際の注意点などについても解説されている、専門家にとってもたいへん重要な位置づけにある好著であるのはまちがいないところでしょう。

 心の理論などに関する英文の論文を検索していたときに、Senju, A. という名前が日本人研究者としては珍しく頻出するため、どのような研究者なのかを調べたところ、著者の所属や邦文の著書の存在がわかり、専門的な著書に加えて、遅ればせながら本書の存在を知った次第です。

 基礎の研究者は現場をあまり知らないことが多いため、とかく言い過ぎになったり、全体的なバランスを欠いたりしやすいものですが、著者は逆に相当に慎重であるうえにきわめて謙虚でもあり、その点でも、本来の科学者がもつべき資格を十二分に備えた例外的な存在と言えるように思います。著者はまた、英国の研究所に籍を置いているためもあって、文化的な背景が自閉症の症状や診断にもたらす影響という問題も重視しており、その側面からの研究も行なっています(180-187 ページ)。

 また、診断という問題についても、当然のことながら正確にとらえていて、「これらの特徴、『症状』が社会生活や学業、就労など、日常生活に著しい困難さを引き起こしている場合にのみ」自閉症と診断されるのであって、診断基準を満たすような特徴や「症状」をもっていたとしても、「日常生活に問題がなく、本人や家族に『医者に何とかして欲しい』と思う状態(愁訴)がない場合」には、自閉症の診断を受けることはないと、ある医師のことばを借りて述べています(47 ページ)。医療の場合の診断とは、要するに、科学的な基準による客観的な判断というよりは、原則として、治療者側と被治療者側の合意によって成立する、実用に供するためのものなのです(川喜田、1970年、157 ページ)。

“定型発達症候群”とは何か

 本書の最大の特徴は、他のレビューアーも書いている通り、自閉症を鏡として、“定型発達症候群 Neurotypical disorder” とはどのようなものかという、人間にとってより根本的な問題に、「自閉症者のコミュニティを中心に流行している、インターネット上のジョークに類するもの」と譲歩しながらも、真摯に直面しようとしていることでしょう。そして、自閉症者からの視点は、「人間とは何か、人間社会とは何かについて考え直すきっかけ」になるとして、次のように述べているのです。

 人口の多数を占める「定型発達者」の心の動き、脳の働きは、決して「当たり前」のものでも、「普通」のものでもありません。定型発達者の脳がどのように「社会」という問題を解いているのかを考えれば考えるほど、その複雑さに目がくらみます。他者の協力する心の働き、他者から学び、文化を伝える心の働き、自閉症を抱えた方々について学び、その困難さを理解しようとする中で繰り返し浮かび上がってくるのは、人間という動物が生みだす「社会」や「文化」の独自性や不思議さです。(206-207 ページ)

 こうした方向に進むことは、異常心理学と呼ばれる領域の本来の目的のはずなのですが、現実には、そこに辿り着くことのないまま終わってしまう場合がほとんどです。その点でも本書は、自閉症を扱った著作の範疇を越えた、きわめてすぐれた著作と言えるでしょう。なお、“定型発達症候群” という着想はいくつかの点でたいへん重要なので、これについては、後ほどあらためてとりあげることにします。

 著者は、若手ではあってもきわめてすぐれた科学者ですから、主として他の研究者があまりふれることのない問題を扱っています。そしてそれらを、共同研究者たちとともに、中心的な研究テーマにしているわけです。そのうちでも特に重要なのは、自発性という、生物にとって最も肝要な特性に注目していることでしょう。ネオ・ダーウィニズムのような机上の空論的な立場に立つ研究者はそうは考えないのでしょうが、生物から自発性を除いてしまったら、定向的な進化は言うに及ばず、それぞれの生物種に属する各個体が生存を続けることすら難しくなってしまうはずです。

 自閉症や類人猿を対象とした “心の理論” に関する実験的研究に、“誤信念 false belief 課題” をテーマとしたものがあります。それは、マンガや動画であれ、あるいは現実の場面であれ、そこに登場する人物が、事実に反する思い込みをするまでの経過を被験者に観察させ、事実のほうではなく、その人物がどう思っているはずかを当てさせるものです。そのような実験ではいずれも、自閉症児は、その人物の思い込みを正しく言い当てることが、同年齢の定型発達児と比べてかなり難しいという結果が得られているわけです。場合によっては、その正答率が、同じ実験に参加したチンパンジーと比べてすら低くなってしまうのです(たとえば、O'Connell & Dunber, 2003)。

“心の理論” に替わるもの

 これまでは、このような所見を通じて、自閉症児はやはり “心の理論” をもっていない、つまり、人の気持ちがわからないという観察所見が、それらの実験によって裏づけられたという結論に辿り着くのが常でした。事実、サイモン・バロン=コーエンは、それを自閉症の人たちに共通して見られる特性としたわけです(バロン=コーエン、2002年)。ところが、その点でも著者は非凡でした。成長に伴って誤信念課題を突破できる者が増加することからも明らかなように、自閉症者は必ずしも “心の理論” をもっていないのではなく、「自閉症者における対人コミュニケーションの困難さには、心の理論が素早く自発的に働かないことも影響している」のではないかと述べているからです(85 ページ)。

 著者の研究グループは、誤信念課題を簡単に解ける成人の自閉症者を対象にした実験を、被験者の視線が検知できるアイトラッカーという特殊カメラを使って行なったのですが、通常の誤信念実験とは違って、被験者にはその目的を知らせずに、ただ「映像を注意して見ていてください」とだけ伝えたのでした。その結果、定型発達者は、相手の知っていることや意図していることを自発的に読みとり、その行動を予測するような視線の動きを示したのに対して、自閉症者はそうではないことがわかったのです。

 自閉症成人は、『相手の知識』からではなく、『現実の場面』に基づいて、相手の行動を予測するような視線の動きを見せました。つまり、『相手は何を知っている?』という質問をされれば正しく答えられる自閉症者でも、何の質問もされず、ただ相手の動きを見ている場面では、相手の心の状態に自発的に注意を向け、それを使って相手の行動を予測する傾向が見られにくい、ということが示されたのです。(84 ページ)

 この発見は非常に重要です。定型発達者の場合、そうした手順を、意識することなくごく自然に踏み、その観察結果に基づいて自然に(つまり、意識で自覚することなく)行動していたのに対して、自閉症者は、自発的にそうした手順を踏むこと自体が難しく、そのために「意識的な努力が必要」になるということです。その結果、「めまぐるしく展開される日常場面や会話の最中に相手の気持ちに『努力して』注意を保ち続けること」が困難になってしまうわけです(85 ページ)。

 これは、ドナ・ウィリアムズさんをはじめとする自閉症者たちが、たとえば歩きながら話すという2種類の行動を同時にとることができないため、話をする時には座らなければならないなどの、“単一回路型”ということばで表現している現象を、多少なりとも裏づける結果と言えるように思います。

 ところで、少し考えればわかるように、定型発達者であっても、ふたつの事象に同時に意識を向けることができるわけではありません。最近、“歩きスマホ” の危険性が駅のアナウンスなどを通じて繰り返し訴えられているのも、まさにそのためです。このことは、自閉症者に限って見られる “欠陥” ではないということです。

 定型発達者の場合、ふたつのことが同時にできるように見えるのは、一方がほぼ “自動的” にできているか、意識的な注意を交互にすばやく振り向けているためにすぎません。自閉症者にとっては、そのどちらも難しいということになるのでしょう。ちなみに、わが国で有名な自閉症当事者のニキ リンコさんは、この事実を知って驚いたようです(ニキ、2005年、185-187 ページ)。

 ここまでであれば、他の研究者も注目していないわけではありません(たとえば、バロン=コーエン他、1997年、78 ページ)。ところが著者は、この現象から一歩も二歩も踏み込んで、ふつうの人間の行動すら、実はよくわかっていないという厳粛な事実にまで目を向けているのです(第4章)。ついでながらふれておくと、この着想を、発達という方面で進めようとする探究のひとつが、京都大学大学院の明和(みょうわ)政子らの、やはりアイトラッカーを使った実験的研究(Myowa-Yamakoshi, Yoshida & Hirata, 2015)なのではないかと思います。

“定型発達症候群” をもつ人々の隠れた能力

 しかしながら、これはただの一例にすぎません。著者は、いわゆる “あくびの伝染” (87-88 ページ)や「自分に向けられた視線」(92-94 ページ)などについても同様の実験を行ない、これらの現象でも自発的に気づくか否かという点で、同質の結果を得ているのです。したがって、自閉症者ははっきり指示されないとそこに注意を向けることがほとんどないのに対して、「定型発達者は、何も言われなくても、相手の動きに常に注意が向いている」という結論が導かれるわけです(89 ページ)。

 この意味での自発性は、生物としての人間の発達という側面から見た場合、きわめて重要な位置づけにあるはずです。ところが、自閉症の研究者はもとより、人間の心の動きを研究している科学者も、この種の問題にはなぜかあまり関心を寄せていないように思われるのですが、どうなのでしょうか。

 ここで、ふたつの難問が浮かび上がります。

 先述の現象にいざ焦点を当てると、このように、「自分たちが無意識のうちに行っている『自然な』コミュニケーションが、実は自分たちも理解していない、複雑で素早い脳の働きに支えられている」(98 ページ)ことが、逆に明らかになるわけです。これを「脳の働き」と言い切ってしまってよいものかどうかはともかくとして、動物としての人間がごく “自然に” 行なっている行動も、実際にはほとんど未知の仕組みに従って生起していることが、自閉症という “障害” をもつ人たちの行動様式を細かく観察することを通じて浮かび上がってくるということです。

 上のふたつの疑問には、まだ誰も答えることができないわけですが、いずれも非常に重要な意味をもっています。1について言えば、圧倒的多数の人間は、進化の過程で “自然に身に着いた” 行動様式に無自覚的に従っているわけですが、その舞台裏を考えると、それがきわめて複雑なものであることはまちがいないでしょう。現行の科学知識やその延長線上にある概念をいかに駆使したとしても、それだけではとうてい太刀打ちできないのではないかと思うほどです。

 たとえば、先述の “あくびの伝染” という現象です。これは、経験的には誰でも知っていることでしょうし、実験的にも確認されています。しかしながら、同じあくびと言っても、眠気に伴うあくびと、退屈な時に出るとされる “生あくび” という少なくとも2種類があり、伝染するのはどちらのあくびなのかという問題がまずあります。次に、まったくの他人同士でも知人や親しい間柄でも同じ結果が得られるのかという問題があり、さらには、無自覚的にあくびをまねようとする普遍的動機の存在という問題があり、その発生のメカニズムという大問題があるわけです。

 プロの役者であっても、あくびを自由自在に出すことはできないという事実を考えればわかるように、あくびは意識的に作り出せるものではありません。これだけでも、“まね” をするということばではとうていすませることのできない、大変な難問になってしまうのです。

 また、大勢の中から自分に注がれているひとりの視線になぜか気づくという現象について言えば、これは、今から120年前に英国の心理学者、エドワード・ティッチェナーが Science 誌に報告した「注視されている感覚」(Titchener, 1898)と同じものだと思います。最近では、形成形態場の理論で知られる、同じく英国の生物学者、ルパート・シェルドレイクが、Seven Experiments That Could Change the World(邦訳、1997年、工作舎刊。第4章)の中でとりあげ、続いて、ティッチェナーの論文とほとんど同じタイトルの自著(Sheldrake, 2004)を発表しています。

 シェルドレイクがこの種のものを “the seventh sense 第七感” と呼んでいることからもわかるように、特に、目を向けていない方向や背後からの注視に気づくとすれば、人間の五感では感知できないはずなので、これは要するに extra-sensorial な現象ということになるでしょう。したがってこれも、現行の科学知識では説明のつかないと考えられる現象なのです。しかしながら、というよりは、だからこそ、この方向に進むことは本来の科学者に課せられた使命であるにちがいありません。

 ところで、人間を含めた動物は、個々の個体が生活を持続させることができない限り、現在まで生きながらえることはなかったわけですから、そのための工夫が、生物学的に、そして高等動物になってからは文化的にも行なわれてきたのです。人間の場合には、それは、“定型発達者” と呼ばれる人たちがふつうに行なっているものになるはずです。ところが、自閉症をもつ人たちの場合、そうした根本がなぜか違っているわけです。これは、考えれば考えるほど不思議なことに思えてきます。

 昭和初期の詩人であった中原中也は、結核のため30歳で夭折する10ヵ月ほど前に入院先で記した「千葉寺雑記」(1937 年2月)の中で、「生活派が生活だけをすることは出來る。しかし藝術派が藝術だけをすることは出來ない。即ちも食はねばならぬ」(中原、1968年、243 ページ)と書いています。自閉症者は、この「藝術派」にも似て、中也の言うように、「生活派」から独立しては存続しえないわけです。

 そこまではよいとしても、動物からの延長線上に位置する生活派から、それとは異質な芸術派が生まれるのは、なぜなのでしょうか。サヴァン症候群や、ほとんど練習することなくことばを発したり(たとえば、玉井、1983年、69、162ページ;バロン=コーエン他、1997年、12 ページ)楽器を演奏できたりする能力(たとえば、石坂、2014年、第2章;バロン=コーエン他、1997年、89-97 ページ)を含めた自閉症の謎を解く鍵は、このあたりにも潜んでいるのではないでしょうか。

“定型発達症候群” をもつ人々の弱点

 著者によれば、人類全体の 98 パーセントほどを占める定型発達者すなわち「定型発達症候群」は、自閉症者とは違って、社会的に独立するのが難しく、コミュニケーションの手段や創造性に乏しく、活動や興味の幅が狭いという特徴をもっているのだそうです(192-194 ページ)。

 さらに大きな問題としては、「自分に似た人たちでグループを作り、自分と異なる特徴をもつ人たちを排除する」という、きわめて深刻な問題を生みだす心の動きもあります(198-199 ページ)。このことは、人類の歴史をひもとくまでもなく、すぐにわかることでしょう。加えて、「集団内での地位や立場にこだわったり、そのために他人の足を引っ張ったり、自分たちと異なる人たちを排除したりと、社会には機能的でない、困った面」も少なからずあるわけです(202 ページ)。

 著者とは違う表現ですが、定型発達者は、仲間外れになることを極端に嫌うという性向を根強くもっています。著者はふれていないようですが、定型発達者の典型的な特徴は、他にもあります。それは、自閉症とは正反対の極にあるように見える、いわゆる俗物を考えるとわかりやすいでしょうが、「長い物には巻かれろ」と言われてきたように、権威に積極的に従いたがるという欲求を頑強にもっていることです。これは、異端の社会心理学者だったスタンレー・ミルグラムが、一連の巧妙な実験を通じて明確にした特性です(ミルグラム、1975年)。かくして、権威に従いたがり、仲間外れになるのを嫌うという性向のおかげで、筆舌に尽くしがたいほどの悲劇が繰り返されてきたのが、まさに人類の歴史なのです。

 しかしながら、定型発達者も自閉症者も同じ人間なのですから、共通点はあるはずです。それは、ひとつには、前向きな行動をとるのを嫌う傾向を強くもっていることです。探検的、修行的なものを含め、前向きに行動しようとする強い欲求が内在していることは、人間を類人猿から大きく飛躍させた原動力になっているのではないかと思われますが、怠惰な傾向を考えるとわかるように、人間は、自ら内在させているそうした志向を、いざ現実に直面すると強く嫌う傾向も、なぜか内在させているのです。

 ただし、両者に共通して見られる特性も少なからずあります。そのひとつは、体面を気にすることです。このことは、自閉症の人たちが書いた半生記や手記を読むとはっきりわかります。高機能自閉症という診断を受けていたドナ・ウィリアムズさんも、自伝4部作の中でこの問題について繰り返し述べています。また、重度の古典的自閉症と見られる東田直樹さんも、「人に迷惑をかけていることはわかっているが、これまで奇声を上げて何度となく恥ずかしい思いをしてきた」(東田、2007年、14 ページ)と発言しています。見かけが違うだけで、この点も定型発達者と同じなのです。

 レビューは私見を述べるところではもちろんありませんが、このように読者なりに考えを進めるためのヒントが、本書には実にたくさん盛り込まれているということです。このような刺激を与えてくれることこそ、すぐれた本であることのあかしなのです。

おわりに

 最後に、誤植であることを願うばかりなのですが、アルバート・アインシュタイン(1879-1955 年)が「5歳ころまではことばが出なかった」記録も残っているという記述(219 ページ)について少々ふれておかなければなりません。たまたま私はアインシュタインの伝記を何冊か読んでいたため、ことばが遅かったのは確かだとしても、「5歳」という年齢に違和感を覚え、その点についてあらためて調べてみたわけです。

 まず、幼少期の記述が比較的多いロナルド・クラークの決定版的な伝記 Einstein: The Life and Times を見ると、ことばを覚えるのが遅かったこと、9歳になってもことばがすらすらとは出なかったこと、何を聞かれても、しばらく考えてからでなければ答えられなかったこと、将来、どういう仕事をさせたらいいかという父親の質問に対して、学校の校長が「ご心配には及びません。何をやってもうまくいくわけないですから」と答えたという逸話が家族の語り草になっていたことなどが書かれています(Clark, 1984, p. 13)。しかしながら、5歳になるまでことばが出なかったという記述は、そこには見当たりません。

 何と言っても最も信頼性が高いのは、やはり子ども時代を一緒に過ごした2歳半ほど年下の妹、マヤ(1881-1951 年)が後年にしたためた、幼少期から少年期にかけての兄の追想録(Winteler-Einstein, 1987)でしょう。その中には、兄の外見的、行動的、心理的特徴が、次のように記されています。これらは、もちろん後に家族から聞いた話なのでしょう。

 巨大児で生まれたアルバートは、後頭部がきわめて大きく、しかも角ばっていたため、それを見た母親が驚いたこと、おとなしくて手がかからなかったこと、何時間でもひとり遊びをしていたこと、成長が遅く、ことばがなかなか出ないのを家族が心配していたことなどです。

 ところが、2歳半になって妹が生まれた時、遊び相手ができると聞いていたアルバートは、おもちゃを想像していたらしく、初めて妹を見た時のことなのでしょうが、「where are the wheels? 車輪はどこにあるの」と聞いたというのです(ibid., p. xviii)。このことから、少なくとも、5歳頃までことばが出なかったという記述は、それが誤植でなければ、正しくないことがわかります。

 以上の証言や、かんしゃくを起こしやすく、ある時にはボーリングの大きなボールを妹の頭に投げつけたり、子ども用の鍬で妹の頭に穴を開けようとしたりしたこと、口に出したことばは、決まりきったものでも、小さな声で必ず反復する癖が7歳になるまで続いていたこと(ibid., p. xviii)などの行動や性癖からしても、アインシュタインは確かに自閉症的な特徴をいくつかもっていたとまでは言えるのかもしれません。

 しかしながら、著者の言うように、「歴史的な人物の心の特徴を調べることは不可能」なので、バロン=コーエンのいう「自閉症スペクトラム状態」には該当するのかもしれませんが、それ以上に踏み込んだ発言は難しいでしょう(219 ページ)。何よりも著者は、そうした安易な “遡及的” 診断を下す人たちに対しては、批判的な立場をとっているのです(22 ページ)。

 それはともかく、「5歳」が誤植ではなかったとしても、この程度の瑕疵は無視してよいほどのものです。本書は、自閉症スペクトラムについての最近の知識が手際よく盛り込まれ、実に鋭い洞察に基づく著者の、すぐれた実験計画による研究が手際よく紹介されている、一般読者にとってはもちろん、専門家にとっても非常に重要な著作であるのはまちがいありません。

参考文献

2018年1月26日
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