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 書評 自閉症家族――1.『高機能自閉症』






『高機能自閉症――誕生から就職まで』(ぶどう社、2008/2/10 日刊行)
内藤祥子(著)
A5版、174 ページ

はじめに

 私はまだ読んでいないのですが、自閉症児の母親によって発表された最初の手記は、1970 年に押尾玲子によって綴られた『あすなろの祈り――自閉症とたたかう母の記録』(講談社)のようです。それ以降、自閉症児の家族、特に母親が書いた記録は、当然のことながらたくさん出版されています[註1]。本書もそのうちのひとつで、小学校高学年で高機能自閉症と診断された長男(純)の生育の過程を、その母親(以下、著者)が年代順に記録したものです。

 同種の本にそれほど目を通しているわけではないので、当たりまえのようなことしか言えませんが、本書の特徴は、高機能自閉症児について、長期にわたって続けてきた詳細な観察を、明確な形で記録している点にあるように思います。それまでの親の手記は、ほとんどが古典的な重度の自閉症を対象としたものでした。本書には、高機能自閉症であるがゆえに、自閉症の謎を解くためのヒントになりそうなことが数多く記録されています。本書の刊行当時、日本自閉症協会会長を務めていた石井哲夫(1927-2014 年)は、本書に寄せた「序文」のタイトルを、「優れた多くの資料が盛り込まれている貴重な書物」としていますが、それは決して社交辞令ではありません。本書は、自閉症の研究者にとっても、非常に重要な位置づけにある好著だと思います。

 著者は、長男である純君の幼少時からさまざまな異常に気づき、自閉症を疑って、何人かの専門家に相談していました。特に、次男が生まれてからは、ふたりのあまりの違いからその疑念を強くしていたのですが、専門家からはいつも問題はないとして片づけられていたのです。“高機能” が災いしたのでしょうが、その結果として、確定的な診断が下されるまでにかなりの時間を要してしまいました。

 専門家側からすれば、高機能自閉症の診断は、それほど難しいということなのかもしれませんが、なかなかそれと見定めることができなかったのは、やはり定説にこだわったためなのでしょう。たとえば、1歳半の検診時には、保健師から、“指差し” をしないのでおかしいという指摘を受けたものの、結局は「目と目が合うので、たぶん大丈夫」と言われた(14-15 ページ)そうですし、保育園の頃には、ある専門家から、「純君は私とトランプができるのだから、自閉症ではないですよ」と保証されたそうです。

 その専門家は、「この歳で計算〔暗算〕がすらすらできるなんて、すごいなあ」と感心していたということです(54 ページ)が、驚くべきはそのようなことではありません。小学3年生の時には、自閉症児には難しいとされるごっこ遊びを、3歳ほど年下の弟としていたのです。

 「純は、タカシ君の家にあった『ドンキーコング』のゲームが大好きです。それはゴリラがバナナを一つずつ取っていくものです。純は家に帰るとバナナの絵を描いて切り抜き、そのゲームを再現しようとしました。
 また『ドンキーコング』では、ゴリラがゲームの登場人物を次から次へと背中に乗せてゲームを進行させていくので、純は家で弟の歩(あゆむ)を背中に乗せてそれを再現して遊んでいました」。(83 ページ)

 弟をただ背中に乗せているだけで、弟とのやりとりはないらしいので、その点では少々見劣りかもしれないものの、これでは、定型発達児(いわゆる正常児)と区別するのは難しいように思います。このように、自閉症的ではないとされる特徴が幼時からいくつか見られたのは確かですが、その後に明らかになったように、純君は、“高機能” であるとしても、まちがいなく自閉症なのでした。したがって、著者の直観のほうが、専門家の判断よりも正しかったことになります。そうした角度から見ると、本書には、自閉症の本質を突き止めるうえでヒントになりそうなことが少なからず記されている可能性が高そうです。

“定説” からはずれた行動や言動

 自閉症や高機能自閉症と診断されたとしても、たとえば視線が合いにくいとか、だっこを嫌うなどの症状が見られるとは限りません。実際に純君は、先述のように他者と視線が合うことのほかに、「抱っこされるのが大好きで、歩くのが嫌になると、無言で私〔母親〕の前に立ちはだかり両手を差し出し」た(17 ページ)というのです。とはいえ、さすがに「だっこ」という言葉を発したことは一度もないそうです。

 同じ高機能自閉症であっても、ドナ・ウィリアムズさんやテンプル・グランディンさんなどは体にふれられるのを極度に嫌っていました(たとえば、ウィリアムズ、1993 年、175 ページ;グランディン、1994年、357ページ)。したがって、この点については、何らかの理由で、個人差が大きいということなのでしょう。

 発語は遅れていたにもかかわらず、1歳半頃から純君は、著者の手伝いをするようになったそうです。にわかには信じがたいことですが、食器を戸棚にしまったり、片づけをしたり、さらにはゴミ出しまでしたというのです(16 ページ)。これは、単に著者の真似をしていたにすぎないのでしょうか。1歳半といえば、まだよちよち歩きをしている頃ですから、定型発達児でも、実際に親の役に立ちそうなことなどほとんどできないでしょう。もしそうであれば、この点では定型発達児よりも発達していたということになりそうです。

 中学1年の時に、不登校になったことがあったのですが、その時には、洗濯物を干すのを手伝うなど、「まめまめしく」働いたうえに「勉強も一人で取り組んで」いたそうです(110 ページ)。定型発達児であっても、特に不登校の間には、このように自発的で前向きな姿勢を見せることはあまりないでしょうから、自閉症児としては相当に珍しいのではないかと思います。

 小学6年生になると、さらに積極的になってきて、たとえば子ども会のリーダーに立候補し、当選したこともあるそうです。部活動では、担任の先生から「とてもよく頑張っています」とほめられていました。自分から進んで子ども会のリーダーになったことは、著者にしても思いもよらないことでした。しかしながら、「リーダーとは名ばかりで、子ども会では純が一生懸命に号令をかけてもなかなか生徒たちをリードするところまでには至らな」かったようです(97 ページ)。

 高等工業専門学校に入学すると、パソコンの操作が得意なことからコンピュータ部に入り、やはり自分から立候補して部長になったそうです(157 ページ)。著者は、その理由を、負けず嫌いな傾向が強いためと考えていますが、部員の多くは定型発達者なのでしょうから、それにしても、やはり珍しいことのように思います。

 自閉症やアスペルガー症候群の子どもは、一般に “運動神経” が鈍く不器用とされています。ところが、純君はそうではありません。たとえば、2歳になる前のことのようですが、ポニーにも怖がらずに乗り、「馬上で背筋をぴんと伸ばして」いたため、飼育係から「馬の乗り方がうまい」とほめられたそうです(18 ページ)し、小学6年生の時の水泳大会では、クロールで好記録を出して、初めてのことですが賞状をもらったそうです(98 ページ)。それどころか、中学2年の3学期に行なわれた学校の行事では驚くべき妙技を披露しているのです。

 「発表会で、生徒たちで大縄跳びをしているところを、純が小縄跳びで跳び抜けるという大役を任されました。私はそれを体育の先生から聞き、純には無理ではないかと思いました。しかし先生は『純君なら必ずできます!』と励ましてくれました。〔中略〕
 とうとう発表会の日が来ました。私は内心はらはらしながら見ていましたが、純は私の心配を吹き飛ばすかのように、縄跳びを見事に成功させました。満場から拍手が鳴り響きました」。(133 ページ)

 ここまでできるようになるには、かなりの練習を積んでいるはずですが、それだけでは不十分です。他者との協調は、自閉症児には難しいとされているからです。たとえば、独唱ならまちがえずに堂々と歌うことができたとしても、それが合唱になると、同じメロディーでも、合わせるのがとたんに難しくなってしまうことが多いのです(たとえば、十亀、1973 年、96 ページ)。

 三重県立高茶屋病院の十亀(そがめ)史郎(1932-1985年)は、この器用さという側面について、非常に興味深い、しかも重要な指摘を行なっています。次の通りです。

 器用さ(筋神経の協調的機能)については実際に障害があるのではなく、器用さは別の作業では十分示されるに〔も〕かかわらず、現実的な作業においてはまったく不器用になることがある。(同書、81ページ。強調=引用者)

 これは、運動機能や技術自体に欠陥があるわけではないという事実を明らかにする、他の研究者があまり指摘していない所見です。他の(実用的以外の)場面では器用な動作を示すことができるとしても、いざ現実の場面になると、とたんに不器用になるということです。したがって、そこにはまちがいなく心理社会的な要因が関係していることになるわけです。これは、実用性状況性という要因によって器用さをはじめとする行動特徴が変化することを示す、自閉症の本質に迫るうえで非常に重要な所見と言わなければなりません。このことからすると、言葉をコミュニケーションの手段に使わないとか、口語よりも文語を先に覚えるなどの行動特徴も、そうした要因によって規定されている可能性が考えられそうです。

能力の奇妙なアンバランス

 自閉症児は、定型発達児と比べると、遅れている部分がきわだっているわけですが、その一方で、ある部分が光って見える場合もあります。純君のような高機能自閉症と言われる子どもたちの場合も、程度の違いだけで、その点は同じです。

 とはいえ、いずれの場合も、その能力の偏りの方向が不可解なのです。同じ偏りでも、生活にかかわる行動がふつうにできて、いわゆる高度なことが難しいのであれば、誰もふしぎには思わないでしょう。ところが、その方向が逆なのです。この点こそが、ハンス・アスペルガーやレオ・カナーといった先人たちを、ふしぎな思いに駆り立て、その研究に邁進させた大きな理由のひとつなのではないでしょうか。

教えられずに発揮される技能

 本書の著者が、純君の驚異的な能力に初めて気づいたのは、純君がまだ言葉を発する前の満1歳の時のことでした。純君は、いつものようにおもちゃの踏切で遊んでいました。その時、遮断機の警報が鳴らなくなったのです。そのおもちゃは、電池で音が鳴る仕組みになっていました。その時、純君は驚くべき行動を起こします。

 「電池が切れたことに気づいた純は、分解して新しい電池四個をプラス・マイナスをまったく間違えずにきちんと入れてしまいました。
 この子って、いったい何者? ことばはひとつも出ないのに、なぜこんなことができるの? 私はこうした純の姿に、ある種の不可解さを感じました。純が一歳の時のことです」。(13-14ページ)

 この出来事の場合、少々不思議に感じられることがふたつあります。ひとつは、最初から、自力で解決できるという自信をもって行動を起こしているように感じられることです。純君は、親を含めて誰に対しても依存的な傾向をほとんど見せていないらしいので、その点では一貫性があると言えるかもしれません。それにしても、いざ問題が発生した時に、独力でそれを解決できるかどうかは、そうした特性とはまったく別の問題でしょう。

 純君が誰にも教わらずに電池の入れ替えができるためには、あらかじめ以下の事実を知っている必要があります。

1.このおもちゃの音は、電池によって発生していること
2.音が鳴らなくなったのは、その電池が消耗した結果であること
3.再び音が鳴るようにするには、別の(新しい)電池と交換する必要があること
4.電池は特定の収納ボックスに入っていること
5.交換するためには、電池の収納ボックスの蓋を開けなければならないこと
6.電池には極性というものがあり、それをまちがえずに装填しなければならないこと
7.その場合、直列で4本の電池を入れる必要があること

 加えて、その交換作業ができるだけの技術をもっていなければなりません。電気が存在しない文化圏の住人を考えればわかりますが、以上の条件以前に、電源とか電池の消耗とか交換とかといった基本的な知識が必要です。仮に、親が電池を入れ換えている場面を過去に目にしたことがあったとしても、1歳の子どもでは、それだけでこれほどの離れ業を演ずるのは難しいでしょうし、そもそも自閉症児は、他者の行動を見てまねること自体が必ずしも容易ではないとされているのです[註2]。したがってこれは、その能力の起源が不明であることから、サヴァン的な能力と言えるでしょう。

 もうひとつふしぎに感じられるのは、サヴァン症候群と呼ばれる人たちが一般に示す能力と違って、これが、少なくとも本人にとっては実用的なものだということです。サヴァンが演ずるのは、驚異的ではあるものの、実用性からかけ離れたものがほとんどなのです。たとえば、カレンダー計算が即座にできたり、電話帳や百科事典をまるまる暗記できたとしても、時計などの壊れた機械を修理して使えるようにすることはあまりないでしょうし、機械類を分解することまではしても、再び組み立てて元通りにすることもあまりないのではないでしょうか[註3]

 自閉症児の中には、図柄の精密な記憶とその再現技能が特段に優れている者が少なくありませんが、その例にもれず、純君もそうでした。車のナンバープレートや交通標識、車検のステッカーなどを、絵の描きかたを教わったわけでもないのに、見てきた通りに正確に描き出したのです(51ページ)。さらには、いとこの家にあったゲーム盤を見て、家に帰ってくるなり、そのまま同じものを作ってしまったそうです。そのため、純君の「いとこたちは我が家に遊びに来るたびに純の作ったゲーム盤を使って遊び、みんな、純の能力を賞賛」したのでした(80ページ)。これも、それなりに実用的な形で能力を発揮した実例と言えるでしょう。

理論や技能の上達の速さ

 純君は、このように、教えられたことがないにもかかわらず、さまざまな能力を自発的に発揮したわけですが、教えられた場合には、その技能を速やかに身につけたばかりか、それが高度な段階にまで上達したのです。その点でも、純君はきわだっていました。たとえば、縁戚のピアノ教師にピアノを習ったのですが、純君の素質を認めたその先生は、演奏だけでなく、音楽理論や作曲のしかたまで教えたそうです。すると、純君は、教えられたことを次つぎとマスターしました。小学校の2、3年生になると、音楽理論の理解がさらに深まり、「音大の学生が学ぶ音楽理論」を身につけるまでになったのです。その先生は、「どうして、純君はこれがわかってしまうのでしょうね」とふしぎがっていたそうです(71ページ)。

 そればかりか、母親の予測に反して、純君にはフルート演奏の才能もあったのです。フルート教室の先生が、「純君にはとても音楽的才能があります」とほめてくれたというのです(130ページ)。実際に、純君は、中学校の送別会の時に短い曲を演奏したのですが、その「演奏が終わると、クラス中が拍手の嵐」に包まれたのだそうです(131-132ページ)。

 その一方で、社会的、対人的な技術は、教えられても簡単には身に着きませんでした。ここでも、自閉症特有のアンバランスがきわだっていることがわかります。そうすると、習得が難しいものと容易なものとを正確に見きわめる必要性が高くなるはずです。純君の場合も、実用的なものの習得が難しいということなのでしょうか。

言葉にまつわるふしぎ

 わが国で自閉症児の療育が始まってまもない頃から、言葉の習得順という点で不可解な実例が報告されています。たとえば、「一語も出さず、また絵もかかないうちに突然『東芝』という字を書き始め、それからしばらくして音読をした」というたぐいの事例です。そして、その後も、この種の事例は連綿と報告され続けて、現在に至っているわけです[註4]。この事例を報告した十亀先生は、「要求言語もろくろく使えぬうちに、アルファベットや仮名、漢字などを覚えていることが多い」のは「まったく不思議といえば不思議」という率直な感想を残しています(十亀、1973年、116ページ)。

 本書の著者も、「ことばを話さないのに、なぜ、ひらがなや漢字を覚えてしまうのだろう? 私は、こうしたアンバランスさにある種の疑問を感じるようになりました」(33ページ)と、十亀先生と同じ感想を抱いています。このような印象は、昔の研究者や自閉症の家族のみならず、現代の研究者にも完全に共有されています。それは、この謎が依然として解明されていないことを意味しています。著者の疑問は、次のような形で表明されています。

 〔4歳になる少し前に〕「高速道路のパーキングで、〔まもなく著者と離婚することになる〕夫は純に数字とひらがなの磁石版を買ってやりました。すると純は車の中で、数字とひらがなを早くも覚えてしまったのです。(30ページ)
 〔ふたつめの幼稚園に入園する5ヵ月ほど前のことですが〕このころから、ことばの発達の伸び悩みとは裏腹に、純は、ひらがなをたくさん読めて書けるようになりました。漢字も、車のナンバープレートを見て、いろいろの地名も書けるようになりました。(33ページ)
 〔5、6歳頃には〕ビデオで覚えたひらがなや漢字の読み書きができました。私は時どき、漢字の絵本やビデオを買ってあげていたのです。ただそれだけで、純は自然に漢字やひらがなを覚えてしまいました。漢字への興味は特に強く、停留所に書いてある行き先の駅名を次つぎと読んでいきます。(53ページ)
 学齢前には、簡単な足し算、引き算がらくらくとできました。漢字も学齢前に、読んだり書いたりすることができました。純は、こういうことになると抜群の才能を発揮したのです。国旗を覚えたり、交通標識などを覚えるのも、純の特技です。/けれども、ことばは、『たべる』『のむ』『ねる』という単語と『ミジュ(水)』『ポトジ(緑)』『カータン(お母さん)』がやっと出るだけでした」。(41ページ)

 子どもは、まず母親をはじめとする周囲の人びとが発する話し言葉をまねしながら覚え、少しずつ会話ができるようになるものです[註5]。しかる後に、主として学校で読み書きや計算を習うのです。そのことを経験的に知っているからこそ、著者は純君の学習のありかたに疑問を抱いたわけです。数百万年に及ぶ長大な人類史の中でも、口語が使われるようになったのが、たとえば 10 万年ほど前だとしても、一般庶民が読み書きそろばんができるようになったのは、先進国とされるわが国であっても、たかだかこの 150 年ほどのことにすぎません。このふたつは、人類史的に見て大幅に隔たった事象であり、定型発達をする子どもがその順番をまちがえるようなことは決してないのです。

 ところが、多少なりとも言葉を身につける自閉症児の場合、人類の伝統とも言うべきのこの順番が逆転しているわけです。重度の自閉症者である東田直樹さんは、「今でも人と会話ができない。声を出して本を読んだり、歌ったりはできるが、人と話をしようとすると、言葉が消えてしまう」(東田、2007年、2ページ)と述べていますし、高機能自閉症者であるグニラ・ガーランドさんも、「書き言葉で表現するのは、口で話すよりもはるかに楽だった。話し言葉というのは、私にとっては回り道のようなもので、ひどくもどかしかった」(ガーランド、2000 年、55 ページ)と発言しています。このように、自閉症児には、人類としてきわめて不自然と言うべき現象が起こっているわけです。では、それはいったいなぜなのでしょうか。これほどまでに一貫性があるからには、ここにも重大な理由があるはずです。

読み書きができても意味がわからない

 純君は、このように話し言葉の発達が遅れていたため、小学校で「ことばの教室」に入るのですが、その先生の前で、小学1年生の国語の教科書のほとんどを音読してしまったのだそうです。それを聞いた先生は、いたく感心し、純君が「吃音もなく、はっきりした声で音読できることを褒め」たたえました(55ページ)。

 ところが、著者は、この称賛の言葉を聞いても喜ぶことはありませんでした。すらすらと本が読めても、「その本の内容についてはまったく理解できていなかった」からです(55ページ)。この心配は、親として当然のものでしょう。本がいかにみごとに音読できたとしても、その意味がわからなければ、あるいは、それ以前に他者との対話がふつうにできないようであれば、日常生活を送るうえで非常に困るからです。

 この小学校は、3年生から漢字教育に力を入れていたため、毎週、漢字の小テストがありました。純君は、このテストが大の得意で、いつも満点をとっていたそうです。現に、漢字検定で2級に合格するほど漢字の読み書きが得意で、四字熟語などのかなり難しい漢字でも正確に記憶しているのですが、その一方で、簡単な言葉の意味がわからないわけです。このように読解がまったくできていなかったため、国語の評価は芳しくありませんでした(82ページ)。純君がどれほど理解できなかったかは、著者の証言を見るとわかります。高等工業専門学校(高専)に通うようになってからでも、

 「たとえば、『セメント』とはどういう意味なのか? といったことを聞いてきます。また『腸(はらわた)が煮えくり返るような』といった比喩の意味もわかりません。『煮えくり返る』の意味がわからないというのです。
 中学校のころは、『涙が出る』という表現ができず、『目からよだれを垂らした』と言っていました。染谷先生〔染谷利一。当時、東京大学附属病院精神神経科〕から諺の問題を出されましたが、純はほとんど答えることができません。(153ページ)

 引用文中の「目からよだれを垂らした」という表現は非常に興味深いと思います。それは、ひとつには、「口からよだれを垂らした」という表現はたぶんできるのに対して、「目から涙が出る」という表現ができないことになるからです。そうした表現ができないということは、教えても簡単にはできるようにならないという意味でしょう。そこには何かはっきりした理由があるはずです。この場合、悲しみや喜びといった高度な感情にまつわる表現であることが関係しているのでしょうか。

 また純君は、高専の3年生の時に、教科書に出ていた「スパルタの花」という言葉の意味がわからないと言い出したことがあるそうです。これは、隠喩がわからないため、自閉症児はその言葉を文字通りにとってしまうとされる現象のことです[註6]

 「教科書を読むと『ギリシャ人は、アテネやスパルタなどポリスとよばれる都市国家にすぐれた文化の花を咲かせました』と書いてありました。純は『文化の花を咲かせた』というところを読んで、本当に花が咲いている光景を連想してしまったのです。〔中略〕そこで『スパルタやアテネで、文化が栄えたということなのよ』と説明すると『そういうことだったのか』と、やっと納得しました。
 翌日、『文化の花を咲かせたってどういう意味?』と弟の歩に聞いてみると、歩はいとも簡単に『文化が栄えたということでしょ』と答えました。ここに歩と純の違いがあるのだなということを再認識させられました」。(153-154ページ)

 定型発達児である弟は、このような隠喩表現を、おそらく自然に理解できるようになっていたのに対して、3歳上の純君はそうではなかったのです。ここにも、定型発達児との大きな違いがあるのです。

言葉の断片的理解

 英語も好んで勉強していた純君は、英語の単語は訳せたとしても、その日本語の意味がわからなかったそうです。そのため、英語を学びながら、それと並行して日本語も学んでいるような状態だったというのです(153ページ)。

 この現象も、非常に奇妙な感じがします。双方の単語の意味がわからないまま、記号のように操作していることになるわけですが、複数の意味をもつ単語の場合はどうなっていたのでしょうか。単語というものは、文脈の中で初めて意味をもつことが多いので、文章によっては、意味がわからないと、そもそも翻訳のしようがありません。その場合には、意味の通らない翻訳になってしまうはずです。一般にも、誤訳の多くはそのような理由で発生します。純君は、どのような翻訳をしていたのでしょうか。

 純君は、言葉を奇妙に誤解するという側面もありました。たとえば、次の通りです。これは中学1年の時の出来事のようです。

 「純は、ことばの断片しかとらえられないところがあります。健常児は、それを補足して全体像をつかむのだと思いますが、純にはそれができません。
 ある朝、純は、数キロ離れた街に、一人でCDを買いに行くと言いだしました。〔徒歩で9時頃に出て、午後1時頃に帰ってきた。〕純はとても落ち込んでいます。理由を聞くと『お店ではCDを売ってくれないんだ』と言います。純の話だけではよく事情がのみこめないので、私は純と一緒に再びCDショップに行きました。
 そこでわかったことは、『買取りには身分証明書が必要』というお店の張り紙を見て、純は『買取り』を『販売する』と誤解してしまったらしいのです」。(111ページ)

 この場合、「買取り」を「販売」と誤解したとしても、「身分証明書が必要」の意味は、ある程度にせよわかったということでしょう。そうすると、わざわざ遠くまで、しかも徒歩で出かけて行ったにもかかわらず、店員に尋ねることもなく、再び遠い道のりを、目的を達成することのないまま戻って来てしまったことになります。この場合、すべては、自閉症の特徴である融通が利かないためであるとされるわけですが、そう考えてすませてしまってよいのでしょうか。

 自閉症者を描いた「レインマン」という有名な映画に、主人公の自閉症者(レインマン=レイモンド)が横断歩道を渡っている最中に信号が変わって「止まれ」になると、道路の真ん中で立ち止まってしまう場面があります。当然の帰結として、動き出そうとする車のじゃまになるわけですが、本例は、このレイモンドの対応とどこか似ている感じがします。

 レイモンドの場合には、言葉を字義通りに解釈することの裏に、「『止まれ』と出たから止まっただけだ。どこが悪いのか」という卑屈でひねくれた思いが潜んでいる感じがするのですが、純君の場合も、同じような印象を受けるのです。自分にとって有利な方向に歪めて解釈するのならまだしも、いつも不利な方向に解釈するとすれば、そこにはいつも共通の動機が潜んでいると考えなければならないはずです。

 その一方で、逆の意味で驚くべき出来事もありました。それは、同じ頃に起こった、次のような出来事です。純君が一時的に登校せず自宅にいた時、担任から電話がありました。本人を出してほしいというので、電話を受けた著者が純君に電話を替わると、

 「純は『〇〇です』『わかりました』『はい』というように、きわめて真面目に丁寧なことばで応対しています。
 『です』『ます』ことばを使う純を見たのは、この時が初めてです。
 その後、私が電話に出なければならなくなりまごついていると、『お母さん、先生をお待たせしちゃいけないよ、早くして!』と言いました。
 こんな大人びた淳の態度に、今までにない中学生らしさを感じ、私はその成長に驚きました」。(114ページ。傍点=引用者)

 人の気持ちがわからないはずの自閉症者が、相手の立場や気持ちを的確に把握できたということです。のみならず、それに相応した言葉をまちがいなく使うこともできたわけです。

 ところが、それと同じ頃に、家庭教師に向かって「かていきょうし!」と呼びかけるという出来事があったのだそうです。それに対して著者は、そのような言いかたは先生に対して失礼に当たると注意したのですが、純君はその意味がわからず、「どうして家庭教師の先生に、かいてきょうしって言っちゃいけないの?」と何度も聞いたというのです(111ページ)。

 こうしたアンバランスに見える対応にも、何か重要な理由があるはずです。たとえばそれは、他者である母親については客観的な判断ができるのに対して、いざ自分のことになると客観視することができなくなる、という、一般にもよく見られる現象の一例にすぎないのでしょうか。あるいは、本当はそれが不適切な表現であることを、意識の上ではないにせよ知っているにもかかわらず、何らかの理由でそうしたということなのでしょうか。

後退や悪化の原因

 自閉症の中に、全体の2割から5割ほどを占める(米村、生和、1987年、14ページ)後退型や退行型と呼ばれる一群があります。生後、ふつうに発達しているように見えたのに、それまでできていたことが途中からできなくなったり、ある程度にせよ出ていた言葉が消失してしまったりする子どもたちのことです。このようなグループがあることを裏づける論文は大量に存在します。

 それに対して、ホームビデオの記録と突き合わせると、途中まで正常に発達していたという両親の観察自体がそれほど正しいわけではないという主張があります。ホームビデオの記録を精密に観察すると、最初から異常が見られる場合が多いというのです(Ozonoff et al., 2011)。とはいえ、ある時点で悪化したように見えるのは確かなので、その原因は必ずあるはずです。本節では、その問題を扱うことにします。

どのような出来事が関係しているのか

 これまでの研究で、後退や悪化した原因に関係していると思しき出来事に言及している研究はいくつかあります(Williams & Harper, 1973;市場、1984年;Volkmar et al., 1989;神園、1994年;Kurita, Saito & Kita, 1996;Kobayashi et al., 1998;Shinnar et al., 2001)。その中で、出来事との関係が明確にされているものを一覧表にまとめると、次のようになります。ただし、その性質上、ほとんどは家族の証言をそのまま使っているだけなので、分類のしかたもその精度もさまざまです。

表1 後退ないし悪化の原因に関係すると思しき出来事

  市場 
1984 
Volkmar   
et al., 1989 
神園 
1994 
Kobayashi   
et al., 1998  
合 計 
両親の不和  1 1
家庭の事情で祖父母に預けられる  2 2
母親の入院  1 1
母親がパートの仕事に出る  1 1
母親のひきこもり  1 1
母親の妊娠、出産  3 3
母親の妊娠、出産、転居  1 1
家族の死  2 2
葬儀に列席  1 1
同胞の誕生  4 5 1 2 12
母親が病気の同胞を看病  1 1
兄に手がかかり、本人をかまえない  1 1
母親が仕事と家事で多忙  1 1
母子通園施設に通所開始  1 1
言語教室に通所開始  1 1
転居  1 4 5
海外への転居  1 1
偶然、家にひとりで閉じ込められる  1 1
小児喘息のため入院  1 1
男児による性的虐待  1 1
高熱を出す  2 2
腸重積  1 1
疑似コレラ  2 2
頭部の打撲  1 1
電線による感電  1 1
U度の火傷  1 1
ガス中毒  1 1
自己被毒  1 1
市場、1984年、472ページ;神園、1994年、392ページ;Kobayashi & Murata, 1998, p. 297; Volkmar & Cohen, 1989, p. 720 のそれぞれの表から引用。

 表中の出来事を、たとえば、けがや病気を「外傷や疾患」などとしてまとめることができればいいのですが、次の事情からそれは難しいため、各論文で行なわれている分類のまま表示しました。それは、けがや病気の場合、その重症度や部位、病院への受診の形態や経過、親の対応や看護などさまざまな要因が関係しているわけですが、そのうちのどれが肝心な要因なのかがはっきりしないため、一括して扱ってよいのか、それともいくつかに分類できるのかがわからないということです。

 また、母親が関係している出来事を、「母親の不在」などとしてまとめることができれば、それなりに意味をもってくるわけですが、それも同じような理由で難しいでしょう。ただし、母親から2歳までに物理的、感情的に分離されたことが発病に関係している事例は全体の半数ほどにのぼるとする報告(Williams & Harper, 1973, p. 165)もあるので、あるいは「母親の不在」としてまとめることができるのかもしれません。

 この表で特に目立つのは、「同胞の誕生」や「転居」という要因です。このふたつの要因がきわだっていることを示す研究は他にもあります(Kurita, Saito & Kita, 1996, p. 26; Shinnar, et al. 2001, p. 186)。

 とはいえ、これは、あくまで見かけの相関関係を示しているだけなので、それらが実際に後退や悪化の原因に関係しているかどうかは、これだけではわかりません。たとえば、同胞の誕生という出来事が後退や悪化に関与しているとしても、弟や妹が生まれたこと自体に関係しているのか、それとも、その結果として母親が自分をかまってくれる時間が減少したことに関係しているのかが、そもそもはっきりしないからです。したがって、少なくともそうした心理的要因を明確にするためには、もっと精密な観察所見が必要です。そのような側面から見ると、著者の観察記録はきわめて重要です。

 ところで、何らかの出来事の直後に悪化や後退が起こったことを示す詳細な事例報告は、これまでにもなかったわけではありません。たとえば、ノース・ダコタ大学のラリー・バード(特殊教育)とジェイコブ・カーベシアン(児童精神医学)のふたりが報告した、非常に興味深い事例があります。それまで正常な発達を遂げていたように見えた1歳 10 ヵ月の女児が、両親が遠方に出かけた直後から、明らかに自閉症の症状を示すようになり、そのまま戻らなくなってしまった事例です。これも、先の分類では「母親の不在」に該当するのかもしれません。

 アメリカ先住民族の両親のもとに生まれた女児(以下、A)は、大きな病気をすることなく、にこやかな笑いを見せるなど、正常な発達を続け、両親との接触も良好であった。生後 11 ヵ月目に歩行を開始し、1歳1ヵ月の時に言葉を話すようになった。また、短時間であれば両親がいなくても、祖父母と一緒に過ごすことができていた。母子関係についても、年齢相応の発達を見せ、目立つ問題はなかった。
 1歳 10 ヵ月の時に、遠方に住む母方祖父が死亡した。両親は、葬儀に出席しがてら、親族を訪ねることにした。ふたりは、この計画をAに話して聞かせたうえ、父方祖母にAの世話を頼んで出発した。Aは、祖父母の居室の窓辺に立って、両親が出かけるところを見ていた。ふたりが車に乗って遠ざかって行くのが見えると、Aは泣き叫び始め、それが8時間から 10 時間ほど続いた。何度となく泣きじゃくりながら、「ママ行った。ママ行った」という言葉を口にした。それからベッドに入り、翌朝に目を覚ますと、窓のところに行き、「ママ行った。ママ行った」と言いながら泣いていた。
 祖母は、1時間ほどすると、Aの気を紛らせ落ちつかせることができたものの、Aが意気消沈して、肩を落として歩きまわりつつ、ひどく涙ぐみ、よそよそしい態度で、押し黙っているのに気がついた。その日からAは、口をきかなくなり、壁のそばに座ってまっすぐ前を向き、おもちゃをひっくり返したり、車輪を回したり、指を鳴らしたり、ひもをブラブラたりなど、とりとめのない遊びを始めた。これが2日半ほど続くと、今度は一転して極度に活動的になった。その時には、Aは身体的な接触を拒絶し、口をきかなくなり、祖父母と視線を合わせようとしなくなっていた。
 こうした状態は、9日後に両親が帰宅するまで続いた。母親と父親が玄関を入ってくると、Aは、ふたりの存在に気づいていないかのようにふるまった。母親が抱きあげようとすると、Aは顔をそむけた。Aは、両親に抱かれることに対して不快そうな態度を見せ、Aのために買ってきたみやげにも関心を示さなかった。それどころか、ひとりでいることを好み、顔を壁に向けていた。Aのこうした行動は、次第に手に負えないものとなった。最終的には、多動や破壊行為が目立つようになり、糞などの異物を口に入れ、不潔な状態になった。糞便をあちこちに塗りたくり、睡眠が不規則になったため、在宅でケアを受けることになった。(Burd & Kerbeshian, 1988, pp. 252-53)

 この状態はその後も続き、4歳の時には多動がひどくなったため、精神科へ入院したのですが、入院7日目には睡眠が正常となり、落ちつきが出てきたそうです、ただし、6歳になっても自閉症の症状は依然として続いており、やはり言葉は出ないままで、深刻な知的障害が見られたということです(ibid., p. 253)。

 1歳前後の乳幼児を、10日近くも自分の両親に預けて出かけること自体が、母親の心情として考えにくいことのように思いますが、それはともかくとしても、この事例では、両親が自宅を離れて、9日後に帰宅したという一連の出来事が、この女児の自閉症の発症に関係しているのは明らかなようです。この女児の発症の経過を見ると、両親が出かけてから自閉症状が出現し、両親の帰宅後にそれがかえって悪化しているからです。

 ここで重要なのは、両親の帰宅後に悪化しているという点です。自閉症の本質を追究している児童精神科医、小林隆児先生(現在、西南学院大学)は、長年の禁を破って、自閉症児の母子関係にあらためて焦点を当て、母親に対する子どもの “あまのじゃく” を問題の核心と考えています。この視点は、幸福否定という考えかたと軌を一にしているように思います。いずれにせよ、あまのじゃくや “すねる” いう角度から経過を精密に観察する必要がありそうだということです。

本書の事例の場合

 本書は、母親自身の観察に基づいて書かれているわけです。そのおかげで、悪化の原因に関係がありそうな出来事もいくつか記録されています。両者の間に因果関係のあることが、何らかの形で証明ないし確認されれば、少なくとも一部の自閉症児の悪化は、心因性のものであることが明らかになるはずです。以下にそれらを列挙して、簡単に解説します。

【第1例】3歳の時に大学病院で多動児と診断された後のことです。まもなく著者と離婚することになる父親が、長男である純君を、自分の実家に強引に連れ去ろうとする事件がありました。その際に、父親と母親が純君の体を文字通り引っぱり合う形になったのだそうです。幸いなことに、近所の人たちの応援もあって、父親による連れ去りを阻止することができました。ところが、その時に異変が起こったのです。「純は真っ青になっており、体は石のように硬くなっています。そして、もうひと言も口を開きません。〔中略〕純はあの日以来、まったくことばを失ってしまいました。そして、特有の問題行動も次第に増えていきました」。(31-32ページ)

 この出来事が起こったのは、自閉症の診断を受ける前のことですが、それまでにも多動という症状があったので、後退型というよりも症状の悪化と考えたほうが実態に近いのかもしれません。そして、純君がいったん言葉を失い、問題行動が増えたことと、この出来事が時間的に近接しているとすれば、双方の間に因果関係が存在する可能性を考えることができるはずです。純君の場合は、上述のAの事例ほど極端なものではなかったとしても、質的には同じ経過をたどったように思われます。そして、それ以降にも、小さな悪化が何度か起こっているのです。

【第2例】「ある日、純が〔弟の出産のために入院していた病院に〕私の母と見舞いに来た時、偶然、私が歩を抱いている場面を見てしまいました。すると純は、顔面蒼白になり、明らかに混乱している様子です。純は、弟が生まれるという事態を想像することができなかったようです。私が純以外の子どもを抱いているというのは、純にとっては予想外のことだったのでしょう。
 私は硬直して青くなっている純に、『純ちゃん、あなたの弟よ』と声をかけましたが、彼は青い顔を引きつらせながら、ひと言もしゃべらず、ただ黙っています」。(34ページ)

 これは、同胞の誕生によって後退ないし悪化するという、最も多く観察される経過の一例でしょう。ここに因果関係があるとすると、どういうことになるでしょうか。自分が兄となった、あるいは家族が増えたという事実を素直に受け止めるのに抵抗があるということなのでしょうか。それとも、自分よりも下の世代が家族の中に誕生したことによって、自分が年長の立場になることに対する抵抗が起こったということなのでしょうか。あるいは母親の関心が弟に移ったように見えたことに関係しているのでしょうか。この時には、一時的な反応で終わっており、目立つ悪化はなかったようですが、次の場合にはそうではありませんでした。

【第3例】ある日、著者が次男の世話で忙しかった時、著者と一緒に飲もうとしてか、純君がオレンジジュースのペットボトルと紙コップをふたつもってきました。30 分ほどしてから、著者が純君のもとへ戻った時、「純は二個のコップを並べて、黙って座っていました。私は純に『ごめん、待たせたね!』と言って、ジュースを注ごうとしました。すると純がいきなり奇声をあげたかと思うと、ぴょんぴょん跳ねだします。私は純を抱きしめようとしましたが、さらに激しく『キッチン! キッチン!』と意味不明なことばを叫びながら、ぴょんぴょんと跳ね回ります。しばらくして、純はぐったりと疲れ果てたように、その場にうずくまってしまいました。
 その日を境に、純は人が変わったようになりました。私とさらに視線が合わなくなり、意味不明の奇声をあげるようになりました。また歩行困難になり、数歩歩いてはすぐに倒れてしまうのです」。(36-37ページ)

 これは、本格的な悪化と言わなければなりません。自閉症的な症状のみならず、何歩か歩くと倒れてしまうという心身症的(ヒステリー的)な症状も加わっています。これは、純君が、自分と母親がジュースを一緒に飲むために準備していたことに関係して起こった悪化と考えてよさそうです。この場合、母親が、「待たせたね」と言ってジュースを注ごうとした直後に異常行動が始まったという経過なので、待っていたこと自体が関係している可能性よりも、母親にねぎらいの言葉をかけてもらったことに関係している可能性や、そこまでがまんして待つことができたという自分の進歩に関係している可能性[註7]のほうが高そうです。どちらにしても、幸福否定という角度から考えると理解しやすい悪化です。

 先の小林先生は、母子ユニットという実験室で観察した、この種の問題に関係する興味深い実例をたくさん掲げたうえ、次のようにまとめています。

 子どもは目の前の母親に対して回避的態度を示しているにもかかわらず、母親が退室して不在になると泣き始めて大なり小なり心細そうな反応を示す。しかし、母親が再び入室する段になると、母親に近づくことはあっても、手を握ろうとしたり、抱き上げようとすると途端に視線をそらしたり、背を向けたりして、まるで母親を求めていなかったかのような態度を取る。(小林、2014年、63ページ)

 要するに、離れると追い求めようとするにもかかわらず、いざ母親と向き合う段になると、とたんに素直ではなくなるということです。これは、まさしく幸福否定の結果として一般にもよく見られる現象です。

 では次に、本書に記録されている、幸福否定という考えかたで説明できやすい出来事の一部を以下に列挙し、簡単に説明することにします。あまのじゃくという側面がきわだって見られるはずです。

幸福否定との関連

 最初は、愛情の拒絶の事例です。幸福否定の結果として、相手からの、特に母親からの愛情を強く拒絶するという現象は、自閉症児に限らず、ごくふつうに見られるものです。それが自閉症児にも観察されるとすれば、定型発達の子どもと自閉症の子どもとが、少なくとも愛情否定という側面で、質的にはいわば地続きであることがはっきりするはずです。これまでこのような指摘がなかったのは、要するに比較の対照となるべき “ふつうの人” の心理的特性がほとんどわかっていなかったためでしょう。

 絵本を読み聞かせるのがいいと聞いた著者は、そうすべく純君を膝に抱くのですが、すると「純は私の持っている絵本をポーンと天上高く放り投げてしまいます。これを何度も繰り返すので、私は次第に疲れてきました。本来なら楽しいはずの、子どもとの絵本読みがまったくの難行苦行になってしまったのです」。(17ページ)

 これを自閉症の症状としてとらえると、そこで思考が停止してしまいますが、それをふつうの母子関係としてとらえようとすると、まったく違う光景が見えてくるはずです。子どもは母親に絵本を読んでもらうのを好むものなのに、それを嫌っていることになりますし、著者が純君を喜ばせようとしていることを、あえて拒絶していることになるでしょう。さらにそれを幸福否定という脈絡でとらえると、実は母親の愛情を本心では喜んで受けとめているにもかかわらず、意識の上では素直に受け入れることができず、あまのじゃく的な行動をとっていることになるわけです。

 また、愛情否定があると、その結果として、放っておかれたほうが楽という、自己憐憫的な思いを抱くことが多いのですが、純君の場合も、そうだったようです。次にそうした事例を引用します。ただしこれは、相手が母親ではなく、小学校の担任です。

 「面白いことがありました。純が小学三年生から四年生の時の担任は、一年生の時と一八〇度違いました。この先生は、無関心さからか、純が何をしても気にしないし、純が自分の髪の毛を引き抜いて円形脱毛症のようになっても連絡も入れてこない、という何事にも平気な先生でした。
 ところが純はこの先生については、不思議なことに『いや』とは言わなかったのです。むしろ先生から徹底的に無視されて放っておかれたことが、かえって純の自尊心をいたずらに傷つけなかったというわけです」。(77ページ)

 自尊心を傷つけなかったためという著者の解釈はともかくとしても、定型発達児ならいやがるはずの対応を、いやがっているように見えなかったのは確かなのでしょう。おそらく本心ではいやがっていたはずなのですが、幸福否定が強いと、そうした素直な感情を意識にのぼらせること自体に抵抗が働くため、意識の上では自分でもわからなくなっているものなのです。あるいは、意識の上でわかっているとしても、正当な主張は難しいので、何ごともなかったかのような態度をとるはずです。

 次は、誰にとってもわかりやすい事例です。それは、前向きの対応を嫌って楽なほうに逃げるという、一般にもごくふつうに観察される現象です。以下に紹介するのは、純君が小学5年生の頃の出来事です。先述のように、国語の読解がまったくできなかったため、著者は、純君のそばについて読解の問題集にとり組ませました。5年生の問題ではとうてい歯が立たないので、2年生の問題集から始めたそうです。

 「私は純の隣でいろいろと勉強の指導をしました。ところが純は、この勉強スタイルを嫌いました。元来彼は勉強嫌いの子ではなかったのですが、私がそばにいてドリルをやらせたりするのには激しい抵抗を示しました。
 純は勉強が嫌で、とうとうファミコンに逃げてしまいます。『ことばの教室』の佐藤先生も『ファミコンの時間を制限した方がいいですよ』とアドバイスしてくれたので、彼には『一時間だけ』と制限しました。
 しかし、結果的には純に勉強を強制したのは、あまり良いことではありませんでした。とうとう純はパニック状態になり、急に大きな声で笑い出したかと思うと、失禁をするという結果になってしまいました。(93-94ページ)

 定型発達児の場合でも、ふだんは嫌っている父親に勉強を教えてもらう時には、比較的素直に従うことが少なからずあるのに対して、母親に勉強を教えてもらう時には抵抗することが多いものです。純君の反応は、その傾向が強かったために病的なレベルになったものと考えるとわかりやすいでしょう。その結果として、ヒステリー反応を起こしたということです。これは、心因性疾患を起こす仕組みとまったく同じです。

 純君は、このように抵抗を続けながらも、努力は怠りませんでした。そのおかげで、成長に応じて、さまざまな進歩が見られたのです。それはすなわち、自閉症の症状が次第に薄れてきたということです。

どのように進歩したか

 繰り返しになりますが、自閉症児は、社会性の欠如というきわだった特徴の裏に、幸福否定の結果でしょうが、あまのじゃく的な傾向が強く見られるようです。そうすると、そうした傾向が薄れること――ひとことで言えば、素直になること――が、とりもなおさず好転したことになるわけです。

 これも自閉症には限らないのですが、幸福否定が強いと、自分がほしいものを手に入れることに対する抵抗も強いものです。そのため、自分からほしいものを口にすることも難しい場合が多いわけです。純君は、小学6年の時の移動教室で、リクレーション係になった時、往復のバスの中でかける音楽の歌集を作る仕事を担当することになったのだそうです。そのため純君は、「お母さん、ZのCDが欲しいんだ」と著者に伝えました。著者はZが何かを知りませんでしたが、近くのCDショップで聞いて、人気のロックバンドの名前であることがわかりました。

 「純から、音楽のCDを買って欲しいと頼まれたのは、これが初めてです。純は今まではニューミュージックに興味を持つことはまったくなく。CDショップに行くこともありませんでした。
 純も、普通の子どもが好きなものにはまるのだと、私は妙に嬉しくなりました」。(98-99ページ)

 これは、クラス全員にバスの中で聞いてもらうためのCDであって、自分個人のためのものではないので抵抗が少なく、頼みやすかったという事情もあるのでしょう。それにしても、自分の興味の現われであるのは確かなのでしょうから、それなりに進歩した結果と見ることができそうです。

 中学校に入ると、いじめなどの問題が起こり、別の中学校に転校するのですが、そこでも問題が起こって、2年生の2学期からまた別の中学校(Q学園)に転校しています。すると、そこでは「見違えるほど成長し」、学校でのトラブルが激減したばかりか数多くの友人ができ、表情の変化も見られたのです。「それまで能面のように顔が無表情でしたが、Q学園中学に転校してしばらくすると、みるみる明るい表情に変わ」ったのです(135ページ)。それでも、「家でもたまにパニックが起きて」いたそうです(134-135ページ)。

 自閉症児は、社会性が希薄なため、集団への帰属意識が乏しいと言われています。したがって、逆に帰属意識が出てくれば、社会性が増したことの裏づけになるはずです。次に紹介するのは、純君が高専の時の出来事です。

 「合唱コンクールは一年生から三年生まで、いつも純がピアノ伴奏を受け持ちました。
 二年生では、合唱コンクールで純のクラスが優勝しました。純は、『クラス全員で最優秀賞を取れたのが嬉しい』と大変喜びました。
 私は、純にクラスの所属意識が芽生えてきたことがとても嬉しく感じられました。〔中略〕
 〔高専3年生の時には、本人の話によれば〕純がコーラス全体にまで指導をするようになり、どこのパートが足りないとか、指揮者のようにいろいろと友達に言っていたようです。
 その成果が合唱コンクールに反映し、生徒たちがとても素晴らしい合唱をすることができ、見事に、この年も最優秀賞をかち取ることができました」。(146ページ)

 自閉症児は、協調が必要なコーラスも指揮も苦手のはずなのですが、ここまで他者と協調できるようになったということです。これは、大変な進歩と言わなければなりません。高専を卒業すると、純君は、何度かの職場実習を経て会社に就職するのですが、その実習のひとつに、9日間に及ぶホテルの事務がありました。その時には、職場の担当者から、「職場の女性と歓談するなどよく雰囲気に溶け込んでいました」というコメントをもらったそうです(147ページ)。社会的行動がそこまでできるようになったということです。

 アスペルガー症候群をもつ藤家寛子さんは、自著『30 歳からの社会人デビュー』の中で、「努力なく、障害に抱え込まれて生きていく人生に、多分出口はない。/ただ同じところをグルグルと、同じ景色を見ながら、ひたすらまわり続ける人生は、安全だけれども、何の喜びもなく、つまらない人生だろう(藤家、2012年、223 ページ)と述べ、修行――すなわち苦手なものを克服する努力――を勧めています。純君も、まさしく、そうした生活を続けていたひとりです。

 「高専三年生の最後のスポーツ大会が六月にありました。もともと運動が苦手な純にとって、スポーツ大会はあまり楽しくない行事ですが、今回は違っていました。
 絶対に優勝を取ると意気込むほど、純は大変気合が入っていました。今までの純は、スポーツ大会のシーズンになると、たいていパニックになっていたのが、今回は珍しくとても張り切っているのです。ずいぶん成長したなと思いました。
 純は私に『絶対に見に来て』と言いました。私も、このスポーツ大会は純の最後の大会だと思ったので、その日は早ばやと出かけました。純は、百足競争や宇宙遊泳などの競技に参加しました。応援合戦でも一生懸命に他の生徒たちに混じって演技をしていましたが、そのおかげで純たちの三年生が優勝を果たしました。
 応援合戦でも一位を取ったので、純は嬉しそうにみんなと一緒に手を取り、飛び上がって喜んでいます。こんな純の姿を、私は初めて見ました。友達と一緒に喜びを分かち合う姿は、今までにない純の姿です。〔中略〕一生懸命努力すれば、必ず報われるという貴重な経験を、純はここで学んだのです」。(158ページ)

 ここでは、これまでパニックのもとになっていた状況を乗り越え、本来の前向きな姿が見られるようになったことが具体的な形で描き出されています。純君が著者を見物に誘ったのは、よほど自信があったからなのでしょう。そして、純君には、定型発達の子どもたちと一緒に競技や応援に喜んで参加し、評価されたことを、同級生たちとともに素直に喜んでいます。それにより、自閉症的な特性がさらに薄れたことがはっきりするはずです。

 先述のように著者は、純君には幼少時から、ゴミ出しや食器の片づけなどの手伝いを日常的にさせていました。ただし、「あくまでも強制や無理強いは禁物で、いつもゆったりとした楽しい気分で、純と一緒にするように」していたそうです。そのおかげが大きいのでしょうが、純君は、自発的な実用的行動という、自閉症児には珍しいはずの行動が数多く見られるようになったのでした。

 純は、昔から毎週一回、自分の部屋の掃除を一人でしています。その他にも、年末には家中の窓ガラスを拭きます。どんな仕事も嫌がらずやります。ただし、強制的にやらせたり、やかましくあれこれ指示したりするのは禁物です。指示は、あっさりと要点だけを具体的に言うことが肝心です。こうしてお手伝いができるようになれば、将来社会に出てからしっかりと仕事ができる人間に育つと思います。(162ページ)

 かくして、純君は、高等工業専門学校を卒業し、会社づとめを始めます。高専を卒業した時に、「高専三年間と、これからの試練」というタイトルで、次のような文章を書いています。職場実習を終えた後だったこともあって、その時の経験にもふれています。

 私は、三年間いろいろありました。イライラしたこと、喧嘩したこと、激怒したことなどいろいろありました。私は、三年生が一番良かったです。一年生のときは何もわからず優柔不断になったり融通が利かなかったりいろいろありました。二年生のときは荒れたりして大変でした。三年生になってから、精神が安定してきました。その他には嫌いな行事が好きになったり、人に優しく接することができたり、いろいろ社会人としての大人に近づいてきました。〔中略〕
 私は、秘書検定とビジネス検定でマナーや優しさ、謙虚さ、いろいろな社会性を身につけました。精神的に落ち着いてきましたので、検定取得に続いて普通自動車運転免許を取るために教習所に通い始めました。理由はいくつかあります。自動車の運転をしたいこととか、交通ルールやマナーを学ぶために通い始めました。頑張って免許取得できるようにしたいです。
 私の一番思い出に残った行事は、スポーツ大会と合唱コンクールです。スポーツ大会では、優勝できたこと、応援賞を取ったこと、嫌いだったスポーツ大会が好きになったことなどいろいろありました。〔中略〕
 私は、社会人になることが楽しみです。職場の人に愛されたり、仕事の成果を発揮できたり、いろいろできてよかったです。また、夏休み、冬休み、春休みがないことが嬉しいです。なぜならば、休みになると、憂鬱になったり、イライラするからです。他にも、出張するときや、クレーム電話の対応をするとき、とても忙しいときなども大変ですが、これらもとても楽しみです。
 社会人になると嫌なこと、大変なことなどいろいろあって難しいです。立派な社会人になれるように努力していきたいです。できればミドルマネージメントに慣れればよいです。(160ページ)

 そして、実際に運転免許を取得して、会社に務めるようになるのです。この引用文には、自分の状態を客観的に(とはいえ、むしろ少々他人ごとのように)観察していることが明瞭に描き出されています。「優柔不断になったり融通が利かなかったり」いていたのに、3年生になってからは、「嫌いな行事が好きになったり、人に優しく接することができたり」など、「社会人としての大人に近づいて」きたこともはっきり書かれています。また、たくさんの資格を取得するのですが、そのための勉強を通じて、「優しさ、謙虚さ、いろいろな社会性」を身につけたことをきちんと自覚していることも明記されています。

 興味深いのは、社会人になると、それまでとは違って、学校であった長期の休みがなくなるわけですが、それを喜んでいることです。「休みになると、憂鬱になったり、イライラする」ためだというのです。これは、自閉症児に限らず、ふつうの人にもよく見られる症状です。定年後症候群という言葉がある(岩崎、2009年参照)ように、人間は、時間があり余ると、自分が本当にやりたいことができる状態になるため、幸福否定から、そこに強い抵抗を示すものです。私はこれを “有閑症候群” と呼んでいます。土日に用事がないと、時間をむだにしてしまう人はたくさんいますが、それと同じです。純君は、そのことを自覚しているために、長期の休みがなくなるのを喜んでいるということなのでしょう。

どういう症状が残ったか

 では、ここまで好転した後に残った症状にはどのようなものがあるでしょうか。最後まで変わりにくく残存することになった症状こそが、自閉症の症状の中核に当たるはずです。この場合、少なくとも純君については。

 校長賞を受賞して高専を卒業した後、純君は、実習をした会社に(障害者として)採用され、晴れて会社員となって経理の仕事を始めます。その仕事は、資格を有する得意分野でもあるのできちんと対応することができました。また、最も苦手とする会社の忘年会なども、「会社の人たちとの交流を一緒に楽しみながらしっかりこなすことができる」ようになっていました(169 ページ)。とはいえ、その一方では、対応が難しく、立ち往生したりパニックを起こしたりなどの問題もあったようです。それは、「社会人になると嫌なこと、大変なことなどいろいろあって難しいです」(160 ページ)と、純君自身が予測していたとおりです。

 入社して2年目の9月に、先輩から「ブリキ缶を取って」と指示されるという出来事がありました。それに対して、そのブリキ缶が何を指しているのかわからずにパニックを起こしてしまったのだそうです。そのため、こんな簡単なことがわからないのか、と強く叱られたというのです(169 ページ)。この場合、そのブリキ缶の意味がわからなかったのであれば、「すみません。どのブリキ缶のことでしょうか」などと聞き直せばいいわけですが、CDショップの時と同じく、まだそうした対応ができるようになっていなかったということなのでしょう。純君にとっては、そのような “ふつうの” 率直なコミュニケーションが難しいわけです。

 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺があります。説明するまでもありませんが、知らないまま恥をかき続けるよりも、恥を忍んででもその時に聞いておいたほうがよいという意味です。その場で自分の無知を自他に対してさらけ出すのを嫌う人たちは、障害の有無とは関係なくたくさんいます。純君の場合は、それ以前に、聞き直すという着想自体が浮かんでこないのかもしれません。しかしながら、ある高機能自閉症者による少々厳しい表現をあえて借用すれば、そこで「素直に負けを認め、人生のドロ沼でもがく」(ナジール、2011 年、60 ページ)必要があるのです。にもかかわらず、それをしないまますませてしまうと、困るのは本人自身です。

 そのような状況にあったためなのでしょうが、純君は青い顔をして帰宅するなり「ばたんと倒れて」しまうという状態が、1週間ほど続いたそうです。それから出社に抵抗が起こるようになり、うつ病と診断されて自宅療養という状態になっています。この時、著者は、やはり純君にはふつうの仕事は難しいのではないかと思ったそうです。

 その後の経過としては、幸いというべきか、1ヵ月ほどが経過した時点で、それまでもやさしく対応してくれていた女性の課長から電話をもらったことがきっかけで、純君は急速に立ち直り、久しぶりに出社することができました。加えて、その課長のもとへ異動させるという会社側の配慮もあって、再び元気に仕事ができるようになったのです(169-170 ページ)。

 この悪化を幸福否定という脈絡でとらえた場合、心理的原因に関係する出来事の記憶は消えているはずなので、「ブリキ缶を取って」と言われたことや、こんな簡単なことがわからないのかとあきれられたこと自体は、その核心ではないことになります。肝心な出来事はその周辺にあるはずですが、それは本書の記述だけではわかりません。

 ただし、その後も1週間ほど同じ状態が続いており、最後にさらに悪化したという経過に着目すると、原因に関係しているのは単発的な出来事というよりは状況であることが推定されます。そして、その状況は1週間ほど継続していて、出社拒否を起こす前日に何か決定的な出来事があったということなのでしょう。1ヵ月ほど後に、やさしく対応してくれる課長から慰めの電話が入り、その課長のもとへ異動することが決まってから安定しているので、探り出すべき状況や出来事は、前の課での周囲の対応に関係しているように思われます。

 そのような経過から推定すると、この時の悪化は、“ふつうの社会人” として扱われたことに関係している可能性が高そうです。同僚や上司から、「自閉症ということで逃げてはいけない」と何度か諭されていたため、純君は、そのことを自分に言い聞かせていたそうです。同僚や上司は、純君が、一方では高い能力を発揮するため、この程度のことならわかるはずだと考え、その結果として障害の部分を軽視してしまったという事情はあったのかもしれません。いずれにせよ、厳しさという点でも、その裏にある、一人前の社員に育てあげようとする見えない心遣いという点でも、ふつうの人として扱われることが少なからずあったということでしょう。そうすると、やはりそれに関係して症状の悪化が起こったという可能性が最も考えやすいことになるわけです。

 統合失調症に特徴的に見られる現象なのですが、上司などから叱責されている最中に再発するという経過を辿る事例が時おりあります。これは、自分が見下されることなく、“ふつうの社会人” として扱われたことに関係して起こる再発です。私は、他の心因性疾患ではこのような事例を見たことは一度もありません。仮にこのことが自閉症にも当てはまるとすれば、“はれものにさわる” ような扱いを受けたり、あからさまに見下されたりするのではなく、“ふつうの社会人” として扱われたことによるうれしさの否定が、この時の悪化の原因になっている可能性が考えられるはずです。

 ここでまとめると、純君に残った症状は、まさに社会性の欠如として一括することができるのかもしれませんが、それを切り分けると、次のように整理することができそうです。

1.対人的な状況の中で、ものごとを迅速かつ的確に判断するのが何らかの理由から難しいため、その場に依存した省略表現が理解しにくいこと
2.わからないことをその場で明確にしようという着想に至らないためもあってか、聞き直すなどの率直な行動が難しいこと
3.ふつうの社会人として扱われるのに強い抵抗があるらしいこと

 この3項目は独立しているわけではなく、つながっています。もしこれらが、純君の場合に限ってであれ、自閉症の中核症状であるとすれば、自閉症とは、自らの対人関係がからんだ状況[註8]の中で、その場で起こっていることを迅速かつ的確に判断することが、何らかの理由のために難しいことに加えて、自分の欠点や欠陥を素直に認めるのを嫌う一方で、ふつうの社会人になることや、そうした扱いを受けることに対する抵抗がきわめて強い状態なのではないか、という推測ができそうです。仮にこの推測が当たっているとすると、ふつうの社会人になりたいという思いが、なぜか人一倍強く、だからこそ、それに対する抵抗が強く見られるという構造になっている可能性を考えることができるでしょう。

 この推測が妥当かどうかを検討するには、数多くの事例に関与しつつ、精密に観察する必要がありますが、本書は、そうしたヒントを与えてくれたという点で、やはり非常に重要な資料であるのはまちがいないと思います。

[註1]自閉症関係のしばらく前までの本については、1990 年に増補版として刊行された『増補・「自閉の本 九十九冊」』(阿部、1990 年)が参考になります。

[註2]この問題については、重度の自閉症者である東田さんは、「体操やダンスなども、どんなに簡単な振り付けもできなかった。それは真似をするのが難しかった」(東田、2007年、46ページ)ためだと述べていますし、先のガーランドさんも、「私は言葉で聞いても、目で見てもだめで、一段階ずつ、自分の手でやってみないと覚えられないのだということがわかった」(ガーランド、2000年、188 ページ)と書いています。それに対して、高機能自閉症者であったドナ・ウィリアムズさんは、「聞こえたり見えたりしているものが何であろうと、おかまいなしに音や動きを真似することができた」(ウィリアムズ、1996年、12ページ)と述べています。この点は、個人差が大きいということなのでしょう。

[註3]小林先生が報告しているある自閉症者は、壊れた時計を修理したり、機械類を壊して組み立てたりするのが好きだったそうです(小林、1984年、317ページ)。

[註4]古典的なカナー型の自閉症者である東田直樹さんは、母親の報告によれば、3歳の頃から、「ひらがな・カタカナはもちろん、漢字も大好きで」、「道にある看板や辞典など、何でも目で見て覚えては、大人でも書けないような難しい字も書き写し」、「わざと鏡文字を書いたり、書いたものを鏡に映してながめたりしては、喜んで」いたそうです(東田美紀、2005年、82ページ)。

[註5]大阪で、長年、幼稚園に勤務していた経験のある女性によると、自閉症児は、関西弁ではなく共通語を話すのですぐにわかるということでした。このように、自閉症児には、自分の母親や家族の話し言葉をまねしないという傾向が強く見られるようです(松本、2017年参照)。

[註6]自閉症児に隠喩がわからないという定説は本当なのでしょうか。たとえば、ドナ・ウィリアムズさんは、最初の著書の冒頭に掲げた詩の中で、「心の奥底で、冷たい風が吹きすさぶ the wind can blow cold, in the depths of your soul」という表現を使っています(ウィリアムズ、1993年; Williams, 1992, p. vii)し、森口奈緒美さんも、やはり最初の著書の冒頭に掲げた詩の中で、「光を受けて 波たちが笑う」(森口、1996年)という表現を使っています。これらは、明らかに隠喩です。このふたりは高機能自閉症ですが、話し言葉に難渋している重度の自閉症者の中にも、同じく隠喩を使っている人があります。たとえば、ビルガー・ゼリーンさんは、19 歳の時に、全編が詩のようになっている最初の自著の中で、「ぼくはネアンデルタール おまけに新奇な性癖がある」(ゼリーン、1999年、103ページ)と書いていますし、東田さんは、12 歳の時に書いたやはり最初の著書(母親との共著)の中で、「心の中に風が吹いていったよ」(東田、東田、2005年、61ページ)という表現を使っています。したがって、隠喩であっても、少なくとも自分から使う時にはそれが可能であるのはまちがいないでしょう。隠喩が理解できないとすれば、他者が使った時に限られるということなのかもしれません。いずれにせよ、この問題については再考の余地があります。

[註7]自閉症児は、一般にがまんができないと言われています。したがって、そこまで待つことができたとすれば、大きな進歩ということになります。

[註8]先述のように、不登校の際に担任から電話をもらい、母親に電話を代わらなければならなくなった時に、「お母さん、先生をお待たせしちゃいけないよ、早くして!」と言った(114 ページ)そうなので、同じ対人関係でも、他者が関係している場合には、自閉症者には不得意なはずの臨機応変な判断や対応が可能となるわけです。したがって、肝心なのは、自分の対人関係がからんだ状況ということになるでしょう。

参考文献

2019年1月7日
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