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 書評 自閉症研究――2.『自閉症は津軽弁を話さない』






『自閉症は津軽弁を話さない――自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く』(福村出版、2017/4/8 刊行)
松本敏治 (著)
四六判、264 ページ

世界に先駆けた研究

 本書は、装丁や書きだしを見る限り、いかにも軽い読みものという印象を受けるため、重要な研究とはとても思えませんでした。ところが、読み進んでみると、幸いというべきなのでしょうが、その予測は完全に外れました。わが国の専門家によるものには珍しく、世界に先駆けた、きわめて斬新かつ重要な研究であることが、疑問の余地なくわかったのです。

 身近に観察される末端の現象を糸口にして、従来の学説を参照しながらもそれにとらわれることなく、確実に足固めをしながら、ことの本質に一歩ずつ迫ろうとするのが科学の本来のありかたですが、本書の研究は、そうした科学の作法にきちんと則って行なわれています。そして、驚くべきことに、自閉症のことばという狭い領域にとどまらず、自閉症の本態そのものへ、さらには、ことばというものの本質へ肉薄しようとすらしているのです。

 今まで、アカデミックな機関のなかで行なわれる研究には瞠目すべきものはほとんどないと、僭越ながら思っていたのですが、本書を読んで、それが先入見にすぎないことをあらためて認識させられました。筋金入りの研究者は、どこにであれ、ごく少数は存在するということです。

 人間は、意識だけで動く生きものではないので、詳細に観察すると、意識の内奥をうかがい知ることのできる手がかりが、身近なところにもたくさん見つかります。著者は、たまたま居住していた地方の方言である津軽弁を、その探究の足がかりとしたにすぎません。具体的には自閉症と診断される子どもや成人が、津軽弁を、さらには方言一般をあまり使わない傾向があるという観察事実から、その裏にある心の動きを、10年という年月をかけてどこまでも追い続けたのです。

“反響言語” と “まね”

 自閉症の人たちは、反響言語ということばがあるように、相手のことばをそのまま繰り返す傾向を強くもっています。にもかかわらず、自分の親や家族といういちばん身近な存在が使うことばをまねることはほとんどないのです。

 TD〔“定型発達”〕の子どもが家族の真似もテレビ・映画のキャラクターの真似も可能であるのに対して、ASD〔自閉症スペクトラム障害〕では家族の真似は困難だがテレビ・映画のキャラクターの真似が可能。(146 ページ)

 これは、実にふしぎな現象です。にもかかわらず、このきわめて重要な事実は、これまでほとんど注目されてこなかったようなのです。そして、ほとんどは “心の理論” などの外来の概念を使って、中に踏み込むことなく画一的に片づけられてしまっていたということなのでしょう。

 しかしながら、それでは先に進めません。それに対して著者は、斬新な角度から、この問題に果敢に切り込みます。「ASDの子どもたちは、共同注意〔対象物や他者への興味を相手と共有し合うこと〕が苦手で、意図理解にもとづく模倣ができず、他者の行動やことばをうまく自己化することができ」ない(165 ページ)という視点から、実証的なデータに基づいて検討を進め、ASDの人たちは「他者の心的状態の理解に困難を示す」ために、「方言を含むことば遣いの背景にある意図や認識を理解しうまく使うことは難しい」(208 ページ)のではないか、という暫定的な結論に到達するのです。

 では、なぜASDは「他者の心的状態の理解に困難を示す」のか。それが先天性のものであれ、あるいは脳に起因するものであれ心に起因するものであれ、ここにも、自閉症という症候群の由来の謎を解くかぎが潜んでいるに違いありません。そして、著者の主張の核心は、最終章の最後の段落で、次のように簡潔に表現されています。

 通常のコミュニケーションにおいては、相手を自由意志をもった存在として想定し、その意図を読み取り、働きかけ、参照します。相手も同様にこちらのことを自由意志をもった存在であると認識してかかわっています。いわば意図の読み込みの入れ子構造が成立しています。しかし、ASDにおいては、相手の意図理解や働きかけが弱く、私たちの意図との統合調整がうまくできません。見方を変えると、私たちは、彼らの持つ自我機能の弱さに気づきながら、独特のコミュニケーション形態をつくりあげているのかもしれません。(245 ページ)

 これが、著者が現段階で到達している結論のようです。また、この引用文の最後の一文を見るとわかるように、著者は、ASDといわゆるふつうの人たちとの間に観察されるコミュニケーションの行き違いについても、その構造の一端を明確にしたと言えるでしょう。

意識と行動の間

 もちろん問題の核心は、自閉症スペクトラム障害の場合、相手の意図理解や働きかけが弱く、相手の「意図との統合調整」がうまくできない理由にあるのはまちがいないのでしょうが、本書ではその点に言及されているわけではありません。ということは、おそらく今後の課題として、現在もその追究を続けておられるということなのでしょう。

 ここで、レビューの枠を外れてしまうのですが、この問題については、別の角度からの見かたも、もしかすると可能であるように思います。著者は、定型発達とASDの人を比較して、次のように述べています。

 人が道で転んだのをみかけたとき、普通の人は「まあ、あんな転び方をして痛そう」と思い、そばに駆け寄って「大丈夫ですか」と尋ねますよね。「大丈夫です」と言われても、何度か確認をします。しかし、この〔著者が主宰する集まりに参加している〕ASDの方は人が転んだのをみて『私だったらあのくらいなら大丈夫」と判断をするそうです。このことを、この方は「自分目線」と呼んでいました。しかも「大丈夫だとわかっているのにわざわざ嘘くさいやりとりがうざい。自分だったら、そんなやりとりはしたくない。ほら、自分がされたくないことは他人にしないでって言うじゃないですか」。(243 ページ)

 これは、実に興味深いやりとりです。著者は、ここで、「ASDは意図を自覚しているか」という節を設けて、この “ずれ” の原因について検討しています。そして、ASDの場合は、自分自身の意図が(自らの意識に)明確にわからない(245ページ)ために、この行き違いが発生するのではないかという結論に導かれるのです。しかしながら、この方の発言を見る限り、意識の上ではないにしても、本当のこと(この場合は、ふつうの人がとる行動を自分でもとったほうがいいという判断)がかなりわかっているからこそ、(意識的なものではないにしても)あえて避けていると考えたほうが、実態に近いように思いますが、どうなのでしょう。その脈絡で考えると、ASDの子どもや成人が方言を、あるいは家族のことばを使わないのは、あるいは感情がわからないのは、無意識のうちに何らかの理由からそれを避けているということです。

 たとえば、5肢の選択肢の問題が100問あるとすると、偶然でも20点前後はとれるはずなのに、いつも0点に近い点しか取れない(取らない)とすると、そこには明確な意図が働いていることになるでしょう。そうなると、もちろん、自閉症というものの見かたが、従来とは正反対とは言えないにしても、大幅に違ったものになってしまいます。この仮説を検証するためには、たとえば癖や習慣などの、感情や心理的距離にかかわりがなさそうな行動的指標を見つけて、それを利用した調査研究を行なえばよいのかもしれません。

 著者のいうように、この種の研究は、欧米ではまだ行なわれていないどころか、こうした構想すら存在しないようです。音韻という側面からの現象的研究があるだけなのです。調べてみると、アメリカのアスペルガーのいわゆる掲示板で、他の地方の方言を話す人たちがたくさん名乗りをあげているほかに、母語であるアイスランド語ではなく、外国語の英語を話す自閉症者を対象にした研究(Autism and English in Iceland)などが散見されるのみのようなのです(この研究は修士論文のようですが、ウェッブから pdf として入手することができます)。

おわりに

 わが国の主流研究者は、欧米の研究の後追いしか考えていないらしいので、このような独創的な研究に注目し、ひとつの分野として発展させるという展開は、ほとんど考えられないでしょう。ここはやはり、著者にはどのような批判や対応を受けたとしてもがんばっていただいて、この独創性の高い研究を大きく進展させてほしいと切に願うものです。

 最後に、ひとつだけ違和感を感じたことを付言しておきます。著者に対してはまさに釈迦に説法で恐縮きわまりないことなのですが、本書には、わずかですが読者を指して「あなた」ということばが使われています。周知のように英語の you は、相手が国王や大統領であっても対話の相手を指し示す代名詞ですが、日本語の場合には、そこに両者の上下関係が否応なくからんできます(アメリカに留学している日本人女子学生が、日本から来た大学教授の通訳を頼まれて、その相手が言った you を「あなた」と訳したら、その教授が怒り出したという話を〔川本茂雄先生の『ことばとこころ』か何かで〕読んだような記憶があります)。せっかくことばの裏にある意図という重要な問題を扱っているのですから、読者にはいろいろな人がいることを考えると、ここは、「みなさん」とか「読者」といった、中立的なことばを使ったほうが、少なくとも無難だったように思います。あるいは、ここに、著者の確たる自信を見るべきなのでしょうか。

 いずれにしても、それは些末なことです。臆面もなく大上段に振りかぶったレビューになりましたが、それも、本書がとてつもなく重要な研究であると確信しているためにほかなりません。すぐれた研究は、さまざまな着想の源泉にもなりますが、そればかりではありません。それを読むこと自体が大きな喜びになるのです。本書は、その稀な見本のようなものだと思います。

2017年7月11日
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