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 書評 自閉症研究――4.『自閉症の世界』






『自閉症の世界――多様性に満ちた内面の真実』(講談社ブルーバックス、2017/5/17 刊行)
スティーブ・シルバーマン(著)、正高信男(翻訳)、入口真夕子(翻訳)
新書判、640 ページ

一次資料を使った調査

 本書は、自閉症研究を大きく方向転換させかねないほどの、きわめて重要な位置づけにある著作[註1]だと思います。そのことは、原著のたくさんの書評を見ても、はっきりわかります。著名な神経学者であり、本書に序文も寄せている、先ごろ亡くなったオリヴァー・サックス先生の影響を大いに受けていた著者は、アスペルガーやカナーを除き、晩年を迎えた(そして、その後まもなく亡くなった)、いわば第一世代の自閉症研究者たちにも直接インタビューして貴重な証言を得ているばかりか、知られざる歴史にも果敢に分け入って、これまで知られていなかった重要な事実も数多く発掘しています。2点だけあげておくと、

 従来は、カナーとアスペルガーは互いに無関係とされていたわけですが、実際にはそうではなかったのでした。

 アスペルガーは、第二次世界大戦後にカナーを引用するようになりますが、ドイツ語圏出身であったにもかかわらず、カナーは、アスペルガーを最後まで徹底的に無視していました。ある小児科医の著書(The Autistic Child, by Isaac Kugelmass)の書評で、唯一、アスペルガーにふれているそうですが、理不尽な批判者によくみられるように、名前の綴りを Ansperger とまちがえたうえ、その業績を冷笑していたようです。そうしたカナーの高飛車で硬直した態度のためもあって、自閉症研究は大きくゆがめられてしまったというのが、本書の主張のひとつです[註2]

 もうひとつは、既に 1970 年の時点で、成人の自閉症者(当時 21 歳だったウィリアム・ドノヴァン)が専門家や家族の前で、自らの小児期の体験を語っていたことです。この口頭発表は、バーナード・リムランドやエリック・ショプラー、イヴァ・ロヴァースをはじめとする、当時および後の大御所たちも目の前で聞いていたのです。ドノヴァンさんは、また、聴衆から受けた 15 件の質問にも的確に即答しているようです[註3]

 自閉症者が自分の内界を初めて明かしたのは、杉山登志郎先生によれば、その9年後に当たる 1979 年ということになっていたそうです。それはジュールズ・ベンポラッドが Adult recollections of a formerly autistic child という論文(Bemporad, 1994)に掲載した男性(ジェリー・ゴールドスミス=仮名)に関する幼児期からの詳細な臨床報告で、その中で 31 歳の時点での診察時のやりとりが紹介されているわけです。この男性は、4歳の時にカナーによって自閉症と診断され、「よくなる見込みはない」と言われていたのだそうです(したがって、診断に疑問をさしはさむ余地はないことになります)。

本書の位置づけ

 本書の主題は、原題である NeuroTribes という造語に込められているように、自閉症は治療の対象というよりは、脳神経レベルの先天性“異常”によって生じた特殊な状態[註4]であり、当事者同士が自然発生的につながってきたことからもわかるように、その伝統は未だ乏しいとしてもいわば脳神経学的少数民族と位置づけるべきなのではないか、ということです。

 “同時多発的現象” ということなのかもしれませんが、わが国でも、たとえば花風社という出版社の出版物や活動として表出しているように、同じような現象が自然発生しているように思います。東田直樹さんが 13 歳の時に書いた著書が、いまや 30 か国語に翻訳され、ドナ・ウィリアムズさんやテンプル・グランディンさんの著書をしのぐ大ベストセラーになっている(アメリカのアマゾンでは、現在(2018 年 10 月 21 日)、1900 件ほどのレビューがついている)のも、そのひとつの現われなのかもしれません。わが国の専門家が無視し続けていた著作が、世界中に広く受け入れられるに至ったことは、きわめて皮肉なことであるとともに、まことに興味深い現象だと思います。

 本書には、他にも、おそらく自閉症の研究者ですら驚くほどの、貴重な資料がたくさん盛り込まれています。本書のような自閉症研究の通史は、筋金入りの探検的ジャーナリストでなければ決して書けなかったはずなのです。このような本がこれまで存在しなかったことからも、そのことは明らかでしょう。ただし、あまりに大部になったためなのかもしれませんが、自閉症研究を描き出す際には欠かせないはずの領域、たとえば Facilitated Communication(FC)という今なお議論の多い対話促進技法その他がとりあげられなかったのは、少々残念でした。著者の立場からすれば、これを肯定的に扱ったのではないかと思われるからです(ちなみに、この技法は、もうひとつの通史と言うべき著作(Donvan & Zucker, 2016)ではとりあげられています)。

 自閉症の研究には、なぜか謎が多いように思います。そのひとつは、自閉症は一般に悲惨な末路をたどるという通説が、その後もまかり通って現在に至っていることでしょう。特にカナー型とされる自閉症者については、その傾向が強いようです(カナーですら、最初の論文でとりあげた11例の追跡調査で、そのうちのふたりは、かなり好転し、社会的に適応した生活を送っていることを報告しているにもかかわらず、そうなのです)。そのため、東田直樹さんのような存在は、主流の専門家からは相手にされないわけです(たとえば、Fein & Kamio, 2014 参照)。本書を通じて、そのような傾向が少しでも弱まることがあるとすれば、本書の邦訳出版に関係した方々の労はおおいに報われることになるに違いありません。

おわりに――本訳書の問題点

 ここで、邦訳書に内在する深刻な問題にふれざるをえなくなります。それは、本書の訳文にはきわめて問題が多いという事実です。風野春樹先生もご自分のブログ(「サイコドクターにょろり旅」)で、問題点を詳しく解説したうえで勧告しているように、全文を翻訳し直し、再出版する道を考慮したほうがいいのではないかとさえ思うほどです。監訳者はコミュニケーション研究の専門家だそうですが、それにしては、文章の途中でいつのまにか主体が変わったりなどのためもあって、日本語として通じない文章が多すぎますし、すぐに誤訳とわかるほどの箇所も、異例と言わなければならないほど多いのです(実例の一部については、風野先生のブログを参照してください)。本書は、専門家も参照せざるをえない重要な本ですし、当然のことながら自閉症の当事者や家族も読むはずです。自閉症者のように、ことばというものに敏感な人たちなら、なおのことそのような印象を強く抱くことでしょう。

 本書は、一流出版社の出版物ですから、優秀な編集者が介在していたはずです。にもかかわらず、このような悲惨な結末になってしまったのは、なぜなのでしょうか。好意的に見れば、それは、元の翻訳文があまりにひどすぎた結果、大きな問題を修正するのに追われてしまい、細かいところは出版期限までに直しきれなかったためなのではないかと思われます。編集者としては、そこでやむなく手を打ったということなのでしょう。翻訳出版の契約書には、出版期限が明記されているはずですが、まにあわなければ、エージェント(翻訳著作権取次店)を通じて延長してもらえばよかったのです。また、社内の出版期限についても、難しいにせよ何とか調整できたでしょう。

 もうひとつは、原著が大部にすぎ、そのままでは分厚な四六判で2巻という体裁になり、かつ専門的になってしまうので、初版部数をふやして廉価で販売するため、一般向けに大冊の新書版として刊行する方針に変更した(あるいは、最初からそのつもりでいた?)ためなのかもしれません。その結果として、専門家には必要不可欠である、原著巻末の長大な Notes をはしょり、「主題と関連のない部分を一部割愛」(「訳者あとがき」)せざるをえなかったのでしょう(実際に削除したのは「一部」どころではなかったはずです)。ただし、参考文献は、原著の巻末にも収録されておらず、著者のホームページに掲載されていることが Notes の冒頭に記されています。

 おそらくは以上のような顛末のため、これほどの問題が起こってしまったわけです(ちなみに、邦訳出版契約書には、著作権者による書面での許諾がない限り、誤訳はもちろん削除もまかりならぬという条文があるはずです)。原著者のためにも、本書でおおいに啓発されるはずの読者のためにも、善処を望みたいと思います。

[註1]そのためか、原著の電子版(pdf, ePub, Kindle その他)は、おそらく著者の希望で(あるいは、著者の了解を得て)、アメリカの Internet Archive という半ば公的なウェブサイトに掲載され、無料でダウンロードできるようになっていたのですが、その後、削除されてしまったようです。
[註2]余談ですが、カナーがジョンズ・ホプキンズ大学のアドルフ・マイヤーのもとで働くようになった 1928 年を 10 年ほどさかのぼると、そこには、秋元波留夫先生によって広く知られるようになった石田昇をはじめ、わが国からの留学生が何人かいたのです(岡田、1994 年参照)。
[註3]ちなみに、ウィリアム・ドノヴァンさんの発言と質疑応答(My experiences as an autistic child)が掲載されているのは、1970 年に開催された National Society for Autistic Children の第2回年次総会の議事録(Claiborne,1971)です(ただし、この出典は、なぜか本書の原著にも明記されていません)。 [註4]一卵性双生児の発病一致率は、90 パーセントもの高率にのぼるようです。たとえば、Rosenberg et al., 2009 参照。

参考文献

2017年6月8日
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