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 書評 自閉症研究――5.『自閉症とマインド・ブラインドネス』






『自閉症とマインド・ブラインドネス』(青土社、2002/6/1 刊行)
サイモン バロン=コーエン(著)、長野敬、今野義孝、長畑正道(翻訳)
四六版、278 ページ

著者の立ち位置

 1978 年にデヴィッド・プレマックら(Premack & Woodruff, 1978)が提唱して以来、霊長類研究でひとつの研究分野を形成してきた “心の理論”(他者にも自分と同じ心があるという前提で、その心の動きを推測する能力)仮説が、自閉症の症状の説明にも適用できる可能性を、著者は 1985 年以来、共同研究者とともに検討してきました(Baron-Cohen, Leslie & Frith, 1985)が、本書は、そうした一連の研究を集大成的にまとめた出版物と言えるでしょう。

 この場合の焦点は、それによって、多くの “二次症状” を含め、自閉症の症状のすべてが説明できるかどうかにあります。自閉症の中核症状とは、対人関係の重度の障害、コミュニケーションの異常、紋切り型の常同行動からなる、いわゆる三つ組みの症状(Wing & Gould, 1979)、あるいは最後の項目を「ごっこ遊びの異常」とした同じく三つ組みの症状(Frith, Leslie & Baron-Cohen, 1985)ということになっています。そして著者は、「これらの症状は、心を読むことの発達の失敗からもたらされた結果と考えられる」と述べるのです(117 ページ)。

 著者の主張に対しては、少なからぬ研究者から異論が出されていますが、本レビューではこの問題には直接ふれないことにして、本書の主張について、それとは別の角度から検討することにします。その結果、どのような光景が出現するのかを見ることにしましょう。

 著者は、社会生物学 Sociobiology の旗頭のひとりであるリチャード・ドーキンズや、当時、最前線にいた自閉症研究者であるウタ・フリスおよびローナ・ウィングらの薫陶を受けた、著名な英国の臨床心理学者です。ドーキンズを師としていることから、著者は、思想的には漸進論の立場に立つネオ・ダーウィニストらしいことがわかります。実際に、後述する “視線の検出器=EDD” について、著者は、ニコ・ティンベルヘンの唱えた概念である生得的解発機構をモデルにして、次のように述べています。「他の個体の目はEDDの引き金を引くと考えることができる」(79 ページ)。これでは、ふつうの人間も、何やらロボットのような扱いです。ここに、ネオ・ダーウィニストの面目躍如たるものを見ることができます。

 著者は、本書では「心を読む本能」と言うべきものを扱うと述べています(34 ページ)。そうすると、自閉症が “心の理論” を欠いているとすれば、本能的なレベルの能力が欠如していることになってしまいます。かつて岸田秀は、わが子を虐待する母親が存在することなどから、「人間は本能が破壊されている」と主張しましたが、留学仲間であった日高敏隆は、それに対して、人間の本能が本当に破壊されているとなると、生物学者にとっては大問題になってしまうとたしなめています(岸田『続・ものぐさ精神分析』〔1982年、中公文庫〕「解説」参照)。

 しかしながら、自閉症の場合には、食欲や排泄欲や性欲などの最も基本的な本能的欲求が奇妙に歪んでいることがあります。これは、やはり本能が欠落している結果と考えてよいのでしょうか。それとも、何か他の理由によってそのような現象が起こっているのでしょうか。

 進化論者としては著者と対極的な立場を標榜していた今西錦司先生は、本を読むのは、そこに何が書かれているかを知るためではない。そこに何が書かれていないかを知ることこそが肝要なのだという名言を吐きました。今西先生は、生物はその発生当初から種の社会をもっていたと考える生物社会学 Biosociology の創始者です(生物社会学については、小田柿進二『文明のなかの生物社会』〔1985 年、NHKブックス〕を参照してください)。何が書かれていないかという視点で本書を見ると、大きな遺漏と言うべきものがいくつかあることがただちにわかります。そのような意味での遺漏は、それが重要なものであればあるほど問題を大きくします。

 著者は、その立ち位置からわかるように、本書でも功利的な自然選択的説明に終始しており、生物に自発性や主体性という属性が存在しないことを、最初から当然の大前提と考えています。これらは、生物が無生物と異質なものであることを教えてくれる、生物にとって何よりも重要な属性のはずなのです。本書の随所に見られるこうした処遇は、ネオ・ダーウィニストが無自覚的に繰り返す常同行動のようなものなのでしょう。

 著者は、他者の心を読むためには、(1)他者がもつ意図の検出器(Intentionality Detector=ID),(2)他者からの視線の検出器(Eye Direction Detector=EDD)、(3)他者との注意の共有装置(Shared Attention Mechanism=SAM)、(4)心の理論装置(Theory of Mind Mechanism=ToMM)という4種類の仕組みが必要だと主張します。そのうえで、「EDDがSAMを通じてIDと結びつくとき、視線は欲求や目的や参照〔refer=指示〕(目的の特殊な例である)という心の状態にもとづいて解釈される」(96 ページ)と述べるのです。

 著者によれば、自閉症者にはIDおよびEDDは備わっているが、SAMについてはもっている群といない群とがあるものの、ToMMはどちらの群ももっていないという結論が導かれるのだそうです(209 ページ)。そのために、自閉症者は他者の心が読めないというわけです(著者のこうした論証や、その結果として導き出されたとされる主張が正しいかどうかについては、ここではあえてふれないことにします)。

 ここにおいて、種内に既に存在する要素や特性が、何らかの理由で発現を阻止された個体の状態(この場合には,失感情的症状)と、そこまで進化していないために種内には未だ発現ないし表出していない心的状態(他者の心を “意識” の上で推測できる能力)とが、無自覚のまま混同されるようになったのです。

何が避けられているか

 前置きが長くなりました。ここで、本レビューの本題である、本書で避けられているいくつかの重要な領域のうちの一部について検討したいと思います。ひとつは、自閉症当事者の半生記や手記を、なぜか完全に無視していることです(そうした半生記やインタビュー記事を扱った論文としては、Williams, 2004 や Chamak et al., 2008 があります)。もうひとつは、この方面の研究では最も重要なひとつと思える領域の実験的研究や観察所見が、ほとんど引用されていないことです。

 では、第一の問題です。本書の原著が刊行されたのは 1995 年2月ですから、既にテンプル・グランディンさんの Emergence Labeled Autistic(Arena Press, 1986;邦訳『我、自閉症に生まれて』1994 年、学研)や ドナ・ウィリアムズさんの Nobody Nowhere(Doubleday, 1992;邦訳『自閉症だったわたしへ』1993 年、新潮社)という重要な資料は既に出版されていたのです。特に、ドナさんの著書は、同じ英国の、しかも大手の出版社から出ており、当初から大きな話題になっていたので、著者が知らなかったはずはありません。にもかかわらず、ふたりを筆頭とする自閉症者による記録は、その後の論文も含めてまったく引用していないようなのです(ドナさんのブログによると、著者はその後、あるシンポジウムでドナさんと同席する機会があったそうです)。また、グランディンさんを一躍有名にしたとされる、オリヴァー・サックスの『火星の人類学者』の原著も、前年の 1994 年 12 月には出版されていました。

 杉山登志郎も『発達障害の子どもたち』(2007 年、講談社現代新書)に書いていますが、自閉症の場合、統合失調症とは逆に、会話は成立しにくくても、文章を見ると理路整然としているのが特徴のようです。のみならず、編集者の力も借りているとはいえ、一般読者から見ても、違和感のない文章になっているのです。自閉症特有の行動にふけっていた過去を振り返っているところでも、それがふつうの人にもよくわかるように、しかもふつうの人以上にきちんと説明できています。もし相手の心が本当に読めないのであれば、もっと自分本位の書きかたになるはずです。要するに著者は、自閉症者の口語体だけをとりあげたために、その重要な点が完全に見失われたということになるでしょう。意識の上で意図的に行なったものとはもちろん思いませんが、その結果は、推して知るべしです。

 自閉症者が書いた本は既にかなりの数にのぼっていますが、その中でも突出しているのが、ドナ・ウィリアムズさんの自伝4部作(いずれも邦訳あり。刊行順に、『自閉症だったわたしへ』、『こころという名の贈り物』、『ドナの結婚』〔以上、新潮社〕、『毎日が天国』〔明石書店〕)です。今後も、ドナさんの自伝を越えるものが出るとは思えません。こういうことは誰も言いたがりませんが、これらには、自閉症という枠をはるかに越えて、驚くべきことがたくさん書かれているのです。たとえば、次の文章をご覧ください。なお、文中のウィリーとは、ドナさんが対人的折衝を目的として幼時から作りあげていた別人格のことです。

〔生まれ育ったオーストラリアから英国への〕出発の日に、ティム〔別れた恋人〕はわたしのアパートにやって来た。二人分の朝食を持ち、傷ついたような表情を瞳の中に揺らめかせながら。彼の姿を目にしたとたん、わたしは自分が丸裸にされ、捕らえられてしまったような気持ちに陥った。ウィリーは、ティムを怒鳴りつけた。それでもティムは気にしなかった。彼にとって、二人が会うことは、それほどまでに大切なことだった。
 今わたしは、ティムの勇気を心からたたえたい。ウィリーが憎々しげなことばをぶつけても、彼は懸命に聞かないふりをしようとした。あんたなんかに会いたくない、帰ってよ、とウィリーは怒鳴った。しかしティムはわたしの手を取ると、わたしにやさしくキスをしたのだ。わたしは両手で乱暴に彼を押しのけた。親密さは痛みに感じられて、耐えることができなかった。ティムは立ち尽くしたまま、そうやってわたしが一人で自分と闘っているのを、見つめていた。(ウィリアムズ、1993 年、214 ページ)

 ここでわかるのは、ひとつには、自閉症者は相手から愛情を向けられると、強い拒絶を示す傾向が極度に見られるという事実です。ドナさんも明言しているように、自閉症者が体にふれられるのを嫌がるのも、これが原因のようです。この場面でドナさんは、自分に愛情を注いでくれる相手に対して素直になれず、ウィリーという別人格に姿を変えてティムを強く拒絶するという、まさに自分の中でひとり芝居を演じています。それを、ティムは完全に見通していて、それにひるむことなく自分の素直な気持ちをドナさんに伝えるわけです。ドナさんは、それをすべて承知しているにもかかわらず、自分の体は、もう一方の自分の言うことをまったく聞いてくれないのです。のみならず、ドナさんは、自らのそうした心の動きを、もう一段上から客観的に観察しているのです。

 このような心の動きの客観的描写は、フィクションとして、あるいは第三者の立場からなら書くことができるかもしれませんが、当事者の場合には、それがふつうの人(“定型発達者”)であっても、ほとんど不可能です。

 これが、わずか4週間で書きあげられ、見直しも修正もされなかったという最初の著書の一部なのです。この本のどこを見ても、非常に鋭い洞察に満ちていて、ただただ驚嘆するばかりです。ふつうの人とは逆に、口語よりも、歴史的にはごく最近になって使われるようになった文章体のほうを先に身につけてしまうとは、自閉症者とはいったいどのような人たちなのでしょうか。“心の理論” 仮説などを唱えるより前に、地元の方言を使いたがらない傾向が見られること(『自閉症は津軽弁を話さない』書評参照)も含めて、まずこのような現象をきちんと把握し、見据えなければなりません。

キリスト教的動物観の参入

 第二の問題は、“心の理論” 仮説とも深い関係にあるはずの、類人猿の行動観察や実験のうち、最も重要なはずの研究を引用していないことです。そのうちのひとつは、ゴードン・ギャラップの実験的研究(Gallup, 1970)から始まった、鏡を利用した霊長類の自己認識研究です(たとえば、Gallup, 1982; Itakura, 1987a,b)。それによると、ニホンザルなどの旧世界ザルの場合には、自己認識ができると考えてよい証拠は見つからなかったのに対して、類人猿の場合には、明らかに自己認識ができていることを示す証拠があるのです。ただし、後に、ウィスコンシン大学の神経科学者、アビゲイル・ラジャラのグループが報告した実験の結果(Rajala et al., 2010)を見ると、旧世界ザルであるアカゲザルにも、自己認識が可能であることを裏づける証拠が得られているようです。

 もうひとつは、類人猿に人間の言葉を教えようとした――つまり、類人猿のいわば人間的能力を調べようとした――一群の実験のうち、本書に引用されているのは、スー・サヴェージ・ランバウの研究のみであり、しかも大量に存在するうちの1件にすぎないという問題です。それも、なぜかスティーヴン・ピンカーの著書(Language Instinct)からの孫引き(208 ページ)という、非常に不適切な形で行なわれているのです(正確に言うと、ピンカーは、カンジというボノボを対象にした実験を扱った、サヴェージ・ランバウらの、同じ編著書に収録されたふたつの論文を参照しています)。そして、他の研究をいくつか参考にしているにしても、ほとんどそれだけで、「高等霊長類」には “心の理論” がないという結論を短絡的に導き出しているのです(208-209 ページ)。これでは、自説を強引に押し通そうとして、つごうの悪い研究を選択的に排除したのではないかという疑いがかけられても、とても文句は言えないでしょう。

 では、原典たるピンカーの著書には他の研究が引用されていないのかといえば、そうではありません。ピンカーも少なからずが孫引きなのですが、この方面の主たる研究は、この著書にひと通り引用しているからです。それは、チンパンジーのグアを同年齢の自分たちの息子と一緒に育てて、チンパンジーがどこまで人間的になるかを調べようとしたケロッグ夫妻の先駆的研究や、夫の勤めるヤーキーズ研究所から借り受け、ヴィッキと名づけた赤ん坊のチンパンジーに口頭英語を教えようとしたキャサリン・ヘイズの試み、ウォシューと名づけたメスのチンパンジーにアメリカ手話を教えたガードナー夫妻の画期的研究、サラというチンパンジーにプラスチック片を使ってことばを教えようとした、心の理論仮説の提唱者であるプレマックによる実験的研究、ニム・チンプスキーと名づけたチンパンジーに身振り言語を教えたハーバート・テラス率いる学生グループによる、少々未消化に終わった研究、ココ(ハナビコ=花火子)と命名されたゴリラに身振り言語を長年月にわたって教えたフランシーン・パターソンによる、生涯をかけたまさに献身的な観察研究です。

 この中で “心の理論” に大きく関係する文献として重要なのは、キャサリン・へイズの著書(The Ape in Our House. New York: Harper, 1951. 邦訳『密林から来た養女――チンパンジーを育てる』1953 年、法政大学出版局刊)および、フランシーン・パターソンの著書(with E. Linden. The Education of Koko. New York: Holt, Rinehart and Winston, 1981. 邦訳『ココ、お話しよう』1984年、どうぶつ社刊)と、サヴェージ・ランバウのグループによる大量の出版物でしょう(当時、ガードナー夫妻の研究助手を務めていたロジャー・ファウツによる『限りなく人類に近い隣人が教えてくれたこと』〔2000 年、角川書店刊〕も非常に貴重な資料です)。ちなみに、ヴィッキもココも、人間の場合と寸分かわらないほどみごとな “ごっこ遊び” を自発的に見せています。これは、特に “心の理論” 信奉者には味読する価値があります。

類人猿を対象にした重要な研究

 もうひとつ重要なのは、当時は日本語の文献しかなかったので、しかたがないのでしょうが、松沢哲郎がまさにプレマックのもとへ留学していた時(1985-87 年)に、チンパンジーを対象にして行なわれた「他者とのかけひき」の実験的研究(松沢、1991 年)も無視されていることです。まさに他者をだますとしか考えられない行動が繰り返し観察されたのでした。この研究は、平田聡が英文(Hirata, 2008)で紹介していますが、残念ながらそれは、2008 年になってからのことでした。

 以上のような研究があったにもかかわらず著者は、その中から、サヴェージ・ランバウの研究のみを、しかもそのうちの1件だけ、それもその否定的に感じられる側面に限って引用したのです(まさにこの側面については、サヴェージ・ランバウ自身が、後に共同研究者とともに実験を通じて厳密に検討し、この種の批判は当たらないことを明確にしています。Lyn et al., 2011 参照)。

 サヴェージ・ランバウの研究は、本書が出版された時点でも既に大量に発表されていましたし、その中には瞠目すべき研究もたくさんあります。カンジというボノボを対象にした一連の実験的研究に着手する前にも、シャーマンとオースチンという2頭のチンパンジーを対象にした、“心の理論” がまちがいなく証明されたように見える実験的研究(たとえば、Ape Language: From Conditioned Response to Symbol. New York: Columbia University Press. 邦訳『チンパンジーの言語研究』1992年、ミネルヴァ書房刊)も発表されているのです。ちなみに、2003 年に発表されたオコンネルらの実験では、自閉症者よりもチンパンジーのほうが “心の理論” をもっていることを示唆する結果が得られています(O'Connell & Dunber, 2003)(この場合、実験を通じて得られた所見がどこまで意味があるかは、また別に検討しなければならない問題でしょう)。

 また、リチャード・バーンらが世界中の霊長類野外研究者に問い合わせて得られた観察所見を列挙した論文(Byrne & Whiten, 1990)には、相手の裏をかいているかに見える行動を示した類人猿(一部は有尾猿)がたくさん出てきます(これは、著者が引用している文献の原典に当たるものです)。

 そうすると、“心の理論” は、著者が考えるように、人間独自のものではないことになるはずです。したがって、それらのデータを無視したことは、この問題を厳密に検討しようとする立場からすると、きわめて不適切ということになるでしょう。科学者の態度としては、信頼性が非常に乏しくなってしまうわけです。

 ついでながらふれておくと、マックス・プランク進化人類学研究所のマイケル・トマセロのグループも、その後に “心の理論” との関連で、類人猿や子どもや自閉症児を対象にして数多くの実験を行なっているのですが、類人猿にも “心の理論” があることを、トマセロ自身が実験を通じて認めるに至ったのは、ごく最近のことなのです(Krupenye et al., 2016)。これは、特にキリスト教文化圏に住む、動物を心のない物体と考える人々にとっては、いかに難しい問題であるかを示す証拠と見ることもできるでしょう。とはいえ、このようにきわめて懐疑的な研究者がそれを認めたことは、非常に大きな意味をもっているはずです。

 ところでピンカーは、ボノボも含め、動物は人間のような言葉をもちえないと考える恩師のノーム・チョムスキー(Golden, 1991)と同じ立場に立っています。ピンカーのこの引用は、後にサヴェージ・ランバウが反論する(Savage-Rumbaugh, Shanker & Taylor, 1998, p. 168)ほど、かなり否定的な形で行なわれているのです。このような事実経過を客観的に見ると、ピンカーの所見は、あるいはそれに基づく著者の所見は、これまで発表されている研究成果を冷静かつ公正に検討した結果というよりも、自らの信念に基づいて導き出された、多少なりとも必然的な結論であり、しかる後に、その裏づけとなりそうなデータを選択的に引用し、それによって自閉症の中核症状が説明できることにしたという経過になりそうです。そして、その一連の作業は、そのほとんどが、おそらく無自覚のうちに行なわれているのです。

おわりに――対人関係における文化差

 最後に、これまたついでながら、対人関係のもちかたには大きな文化差が存在することを示す、たいへんに興味深い発言を紹介しておきます。ボルネオ島でオランウータンの野外観察を長年にわたって続けてきた、ドイツ生まれのアメリカ人女性人類学者は、初来日した際に、松沢哲郎との対談の中で日本人の印象を尋ねられ、注目に値する発言をしているのです。

 礼儀正しくて、親切で、無駄な言葉をしゃべらない。物静かに応対してくれる。私が暮らしたアメリカでいえば、人びとはいつも声高にしゃべっています。そうしないと、うまく意志の疎通ができない。しゃべっていないと安心できない。人と人との絆が保てないのです。日本では、声高にしゃべる必要がない。ただ黙って座っているだけで、じゅうぶん気持ちが通じあえるのだと思います。緊張することがありません。〔中略〕アメリカの文化では、人と人との関係において、つねに緊張を強いられます。出会いの場面と逆に、別れて行く場面でも同じことがおこります。声をかけて、肩を叩いて、抱擁して、微笑みを交わして、眉を上げ下げして……。他愛のない話をしばらくして、そうしてようやく絆を確かめて別れて行く。日本では、せいぜい、ただ見つめあってお辞儀して、「こんにちは」ですむ。別れは「さようなら」ですみます。(ガルディカス,2000年,16 ページ)。

 行動観察の筋金入りの専門家だけに、この発言は貴重です。互いにこれほど違う文化圏に住んでいるのなら、それぞれ地元に密着した自閉症観を生みだせてもよさそうに思ってしまうほどです。異なる文化圏に属する私たちが、動物を心のない物体と見なす欧米で産声を上げた理論に、いつものことながら無条件に追従する意味は、どこにあるのでしょうか。

参考文献

2017年10月27日
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