サイトマップ 
心の研究室バナー
戻る進む上へ

 書評 自閉症研究――6.『アスペルガー症候群』






『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書、2009/9/30 刊行)
岡田尊司(著)
新書版、271 ページ

信頼性に少々乏しい

 本書の著者は、驚くべきペースで一般向けの書籍を次々に出版しています。そのことに驚嘆したため、どのようなことが書かれているのかに関心をもち、たまたま手元にあった本書に目を通してみました。

 ていねいに書かれている部分も決して少なくないのですが、全体としては、専門家はまず参照しないだろうという印象を受けました。自閉症スペクトラムを扱った一般向けの新書版の中にも、杉山登志郎先生や小澤勲先生の著書を筆頭に、専門家から見て重要なはずの本はたくさんあります。しかし、本書はそういうものとはどうも違っているようです。いろいろな点で、研究者に求められる慎重さや誠実さに欠けていることが、そのひとつの理由でしょう。

 著者は、著名な科学者や芸術家や発明家などをアスペルガー症候群と決めつけて、それに基づいて、周囲はその長所を伸ばすような対応をすべきだと主張しています。しかしながら、自閉症なりアスペルガー症候群なりの診断を実際に受けてから、社会的に成功した人は、テンプル・グランディンさんを筆頭とするごく少数の人たちを除けば、あまり知られていないのではないでしょうか。

 アスペルガー症候群の特徴の一部をもつ人たちとアスペルガー症候群と診断された人たちを無条件に同一視してよい根拠は、実際にはないはずです。両者はどこかが根本的に違うのかもしれないのです。そのような安易な断定が許されるなら、著名人の少なからずが、アスペルガー症候群になってしまいます。この点については、同じく京都大学医学部出身の石坂好樹先生は、著者よりもはるかに慎重です(石坂好樹著『自閉症とサヴァンな人たち』〔2014 年、星和書店刊〕第三章参照)。

 また、長所を伸ばすべきだという主張が正しいとしても、実際には、本書に書かれているほど簡単なものではないでしょう。治療や療育についても、同じことが言えるはずです。たとえば、適切な行動をしたらほめるという方法自体は悪くないとしても、ドナ・ウィリアムズさんのように、そもそもそうした対応に強い抵抗を示し、パニックを起こしてしまう人たちも少なからずいるはずだからです。自閉症やアスペルガー症候群に限らず、人間は前向きになることに強い抵抗を示すのです。

具体的な検証

 本書に批判すべき点は多々あるように思いますが、ここでは、ひとつだけとりあげて検討することにします。この問題を通じて、著者の姿勢がある程度にしても透けて見えると思うからです。

 著者は、アスペルガー症候群を発現、悪化させる「環境的要因」に関心があるようです。それはそれでいいのですが、問題は、その扱いかたです。一卵性双生児の発病一致率は、最近の論文(Rosenberg, et al., 2009)によれば9割ほどになるらしいので、“先天性” の要因が大きいと見るのが一般には順当でしょうから、残りの 10 パーセントほどには、それ以外の要因も関与していることになります。科学的な立場で厳密に言うと、当事者の “無意識的意志” などの主体的要因を最初から排除して、残りを非主体的な「環境的要因」と決めつけてしまうのは少々短絡的ですが、そう考えるが常識というものなので、そこまではよしとしましょう。問題はその後です。

 著者は、「最近は、むしろ遺伝子が発現されるかどうかは、環境によって大きく左右されることが明らかになり、環境的要因の関与に関心が集まっている」(122 ページ)と断じたうえで、イスラエルの社会保障局が作成した資料をもとに、調査対象と接触することなく行なわれたある調査研究について、次のように述べています。

 イスラエルは移民の国であるが、ヨーロッパだけでなく、アフリカや新大陸からもユダヤ人が移り住んできている。ヨーロッパで生まれて、イスラエルに渡った人と、アフリカで生まれてイスラエルに渡った人を比べると、ヨーロッパで生まれた人は、イスラエルに生まれた人と同じ割合で広汎性発達障害が見られたが、アフリカで生まれた子どもには、まったく見当たらなかったのである。この結果は、何らかの文明的要因が広汎性発達障害の増加に関係しているということを強く示唆している。(122-123 ページ)

 もしこれが事実であれば、自閉症の原因探究に大きな手がかりを与えるものになるはずです。著者も実際に、この調査研究について、「驚きをもって迎えられた」と書いています。ところが、この研究は、驚きをもって迎えられたどころか、発表されてから既に13年も経つのに、これまで 14 件ほどの論文に引用されているのみのようなのです。では、本当のところはどうなのでしょうか。

 この移住は、イスラエルの帰還法による施策に基づくものでした。上の引用文にはアフリカのユダヤ人とありますが、実際にはエチオビアのユダヤ教徒(黒人)です。ユダヤ教徒は広く世界中にいて、たとえば中国には漢民族のユダヤ教徒がいるそうです。本書巻末の参考文献にはなぜか含まれていない原典(Kamer, A., et al., 2004)に当たってみると、確かにエチオビアで生まれてイスラエルに移住した子ども(11,800 名)の中には、広汎性発達障害がひとりもいなかったと明記されています。ただし、これについては、「移住の過程は、苦難と死の危険のため、ぞっとするほどのものであった」(ibid., p. 142)と記されていて、意図的なものかどうかはともかくとして、既に移住に際して選別が行なわれてしまっているようなのです。

 それに対して、ヨーロッパ(実際には「エチオピア以外の国」)で生まれて移住してきた 110,300 名の中には、広汎性発達障害の子どもは 59 名(0.053 パーセント)含まれていたのです。また、移住後にイスラエルで生まれた子どもの場合には、広汎性発達障害は両親がエチオピアからきた 15,600 名の中には 13 名、それ以外の国からきた 1,098,300 名の中には 991 名いたのです。したがって、発病率は、それぞれ 0.083 パーセントと 0.09 パーセントになります。ただし、エチオピアには、そもそも広汎性発達障害の子どもの発病率に関する統計的資料は存在しないそうで、そのため、本国での発病率との比較は残念ながらできませんでした(ibid., p. 143)。

 先の引用文からわかるように、著者は、まず、エチオピアをあたかもアフリカ全土であるかのように一般化(不明瞭化)してしまっていることや、私たちが知っているいわゆるユダヤ人ではなく、黒人のユダヤ教徒であること(このことは、原著にも明記されていませんが、Wikipedia の英語版で “Ethiopian Jews in Israel” を調べればわかります)を不明瞭にしていることに加えて、「エチオビア以外の国」を、ヨーロッパとすりかえるという操作もしています(あるいは、このほうが孫引きということになってもっと問題なのですが、もしかするとこの原典に当たっていないのかもしれません)。そして、エチオピア生まれの子どもには広汎性発達障害が存在しないことを、「何らかの文化的要因が広汎性発達障害の増加に関係している」ことの根拠にしているわけです。ところが、原著にはそう書かれているわけではもちろんありません。

 確かに原著でも、「イスラエルでは、子どもの発達の初期に、エチオピアにはない環境的影響が及んだ」可能性を認めています(ibid., p. 143)。しかしながら、それは、著者の論理とは違って穏当なもので、(1)広汎性発達障害の子どもをもたない両親が、イスラエルで生んで育てた子どもに、エチオピア以外の国から移住してきて、イスラエルで生んで育てた子どもの場合と同程度の発病率が、イスラエル生まれのイスラエル人ほどではないにしても見られたことに加えて、(2)エチオピア以外の国から移住してきてイスラエルで出産した子どもの場合の発病率が、移住以前に生んだ子どもの発病率よりも高いことがわかったためなのです。

 著者は、このように、自らの主張を裏づけてくれそうなデータに飛びついたわけですが、その場合に慎重かつ誠実な扱いかたをしないと、少なくとも他の専門家からは相手にされなくなってしまいます。ましてや、事実を捻じ曲げるようなことがあっては断じてなりません。このことは、口にするのも憚られるほどの、真理の探究のための初歩の初歩です。研究者であれ臨床家であれ、そうした悪魔の誘惑に負けないようにするため、絶えず念頭に置いておかなければならない大原則であることは、いつの世であってもまちがいないところです。

 最後に、その後に発表された、移民と発病率の関係を扱った主な論文を、この問題自体は重要だと思いますので、参考までに以下に列挙しておきます。

参考文献

2017年10月11日
戻る進む上へ


Copyright 1996-2018 © by 笠原敏雄 | created on 10/19/18; last modified and updated on 11/02/18