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 ことの重大性と超常現象研究 5

 最終回となるこの第5部はまだ試論的な段階のものなので、不備が少々目立ちます。時として常識を大幅に逸脱するとしても、全くの臆測ではなく、私なりの根拠はあるつもりです。

真理の力

「本当のことを知りたい」という強い意志およびその効果

 これまで私が観察してきた経験からすると、心因性疾患の心理的原因であれ、犯罪の真の動機であれ、宇宙の森羅万象であれ、意識にとってそれが重要にして未知のものであれば、本当のことを知ろうとする行動全般に対して、人間にはなぜか強い抵抗が、場合によってはきわめて強い抵抗が共通して働くようです。心理的原因や犯罪の動機などのように、相手が物理的世界ではなく人間の場合には、相手もそれを意識に昇らせることを拒絶します[註1]。このように対象が何であっても真理の追究が難しいのは、偶然の一致の結果にすぎないのでしょうか。ともあれ本章では、宗教などでもよく取りあげられる、“真理の力”について検討することにします。

 「本当のことを知りたい」という言葉は、周知のように、科学者からばかりでなく、自分の肉親を殺害された遺族や医療事故で死亡させられた遺族などからもよく聞きます。後者の問題は、「PTSD理論の根本的問題点」の中の「事実を明らかにすることの重み」という章で扱っていますが、ここでは少々別の角度から検討します。犯罪や医療事故による被害者の遺族たちは、自分の肉親がなぜ、どのようにして殺されたのか、あるいは死ななければならなかったのかを知りたい、そのために犯人や当事者には本当のことを話してほしい、と心から願うものです。それとともに、同じような犯罪や事故を二度と起こさないようにしてほしいと、加害者や関係者に求めるのです。

 ある犯罪被害者の母親は、自分の息子が手前勝手な理由から残忍な手口で殺害されたことを、別の犯罪のために服役中の加害者の口から聞いた時、反省の言葉はひとこともなかったのに、自分の息子を殺害したその犯人に向かって、「打ち明けてくれてありがとう」という言葉が、自然に口をついて出たのだそうです(小山、2004年、115―120ページ)。この母親は、絶対に犯人を許さないという強い気持ちを、21年間も持ち続けてきたにもかかわらず、犯人の告白を聞くと、それだけであっさりと態度を逆転させてしまったのです。これは、通常予測されるものとは正反対の心の動きでしょう。

 この加害者は、問われるまま、その犯行の模様を無愛想に語っただけで、反省の言葉はひとことも口にしていません。別れ際に、「どうもすいませんでした」と、謝罪にもならない言葉を小声で発しただけなのです。時効が成立していたという事情があったことも手伝ってか、実際の行動としては、問われたことを包み隠さず語ったにすぎないのです。にもかかわらず、この母親が加害者に対する態度を一変させたところを見ると、むしろ、ここにこそ大きな秘密が隠されていると考えるべきでしょう。加害者は、自分が殺した相手には全く非がなかったことを、逆に言えば、すべての罪は自分にあることを全面的に認めています。そこには隠しごとというものが一切ありません。自分を守ろうとする姿勢が全く見られないのです。それはたとえば、「金輪際、酒は一滴も口にしません」などと、家族に向かって泣きながら謝罪しても、まもなく、何ごともなかったかのように再び飲酒を始めるアルコール依存症患者などとは、完全に異質な態度と言えるでしょう。

 この例は特殊に見えるかもしれませんが、そうではありません。それまで加害者を絶対に許さないと公言し、死刑にしてほしいと強く願っていた遺族であっても、加害者が真の改心に向かう姿を目の当たりにすると、それまでの頑なな態度を大幅に和らげ、「一生反省してほしい」という気持ちに変わるもののようなのです。この時、加害者は人格を向上させ、被害者の遺族は、加害者に対する怨念の束縛から自由になり、その経験を踏まえたうえで自らの生活に戻ることができるのみならず、全く新しい生きかたをするようになるのです。そのあかつきには、いわばそうした地獄の経験をする前よりも、さまざまな方面に対して、はるかに目が開かれていることでしょう。

 逆に、加害者が自分をかばって本当のことを口にすることがなければ、おそらく加害者自身も救われないし、ほとんどの被害者の遺族も、怨念の束縛から逃れられないまま一生を送ることになってしまうのです。そのような“仕組み”を考えると、加害者の率直な告白の持つ意味は、絶大なものであることがわかるでしょう。

 イエス・キリストは、自分が罪びとたちと一緒に食事をしているのを見とがめたファリサイ派の人たちや律法学者たちに向かって、次のような言葉を口にします。

 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(「ルカによる福音書」第15章7節)

 罪人が悔い改めることは、とてつもなく「大きな喜びが天にある」ほど大変なことなのでしょうか。それが絶大な力を持っているとしても、実際には、本人が意識で承知している事実(場合によっては、反省を嫌って記憶を消している事柄)を、自分をかばい立てせずはっきり口にする、あるいはそれに沿った行動をするという、たかだかその程度のことにすぎません。その程度の行為が、このうえなく大きな喜びを天にもたらすというのです。この落差は、とてつもなく大きなものに見えるでしょう。しかし、たとえば世界の政治家たちが、国際問題にせよ内政問題にせよ、すべてを覚悟したうえで本当のこと(いわゆる本音)を包み隠さず語るようになったらどういうことになるかを考えると、ある程度にしても、その意味がわかるはずです。それだけで、かつてなかったほどの革命的大変化が起こるに違いないからです。

 ここで思い出されるのは、第2部で引用したメスナーの言葉です。ヒマラヤ最難関の氷壁を短時間で単独登攀したと主張するトモ・チェセンに向かって、メスナーは、「究極のアルピニズムを追求する人間すべてに対して」も、「トモ・チェセンを尊敬する多くの若いアルピニストに対して」も、本当のことを正直に語る責任がある、と問いかけたのでした。そして、その真偽を明らかにすることは、世界の崩壊にも匹敵するほど重大な問題なのだ、と付言したわけです。

 ここまでは、主として意識の上で承知していることを、包み隠さずありのまま話すことの意味や影響力について考えてきました。では、それまで意識の上では誰も知らなかったはずの事実を知ることには、どのような意味や影響力があるものでしょうか。次に、その問題を考えることにします。

未知の真理を知ろうとする行為が持つ力

 意識の上で知っていることをありのまま話すことが、それを話す側にも聞く側にも、とてつもなく大きな影響を及ぼすことがあるとすれば、いわゆる未知の重大な事実が人間の意識に明らかになる時には、そのことの重大性に比例するほどの影響が及んだとしても、何のふしぎもないでしょう。一見すると、本当のことを知るという側面が共通しているだけなので、両者を同質のものとして扱うのは論理の飛躍のように思われるでしょうが、幸福否定に基づく抵抗が、両者で共通していることからすると、それを乗り越えた時の変化も、両者に質的に共通していると考えてよいはずです。

 では、個人が幸福否定に基づく通常の抵抗を乗り越えると、一般にはどのようなことが起こるのかを、手短に説明しておきます。ただし、この場合のいわば〈個人的な幸福否定〉は、未知の重大な事実を発見することの裏に潜む、いわば〈普遍的な幸福否定〉と比べると、強さという点で雲泥の差があります。とはいえ、相対的に弱い個人的抵抗を乗り越えるだけでも、どれほど大きな変化が起こるものかはおわかりいただけるでしょう。

 私の心理療法では、自らの幸福に対する抵抗を乗り越えるにつれて、これまで心因性とは考えられていなかったものも含めて、心理的原因による症状が次第に消え、落ち着いてきますが、それ以外にも、さまざまな変化が起こります。全般に共通して見られる主な変化をあげると、両親に対するうらみが消え、家庭内の関係をはじめとして対人関係上の問題が改善され、判断力が鋭くなり、段取りがよくなり、正当な主張をきちんとするようになり、集団への帰属傾向や権威への従属傾向が弱まり、自信や能力や自発性が発揮されるか高まり、人格や徳性が向上するなどの変化が、徐々にですが、本人の自覚や意識をほとんど伴わず不可逆的に起こるのです[註2]。これらは、通常の心理療法ではほとんど起こることもなければ、期待されることもない変化でしょうが、“感情の演技”や心理的原因の探究を通じて幸福否定を弱めようとする私の心理療法では、それぞれの変化を直接に目指さなくても、全例で自然に起こるのです。

 そうした変化もふしぎかもしれませんが、もっとふしぎなことが起こります。たとえば、長い間(ある例では20年近くも)遠ざかっていた楽器演奏や外国語会話の能力が維持されていることが、場合によってはそうした能力がむしろ高まっていることがわかったり、それまで悪酔いや二日酔いを繰り返していた場合には、同量の飲酒をしてもそうした状態に陥ることがなくなってしまったり、それまで感情がなかった場合には正常な感情が表出するようになったり、精神病の場合には、通常の方法ではどうしても身につけさせられなかった常識が、本人も意識しないまま自然に発揮されるようになったりなど、内科学や心身医学や精神医学などを含め、既存の心理学や医学の知識では、起こりえないとされる変化も起こるのです[註3]。その中には、催眠暗示によって一過性に引き起こせる変化もあるでしょうが、精神病患者に常識を発揮させることは、催眠によってもできないはずです。

 また、個々の問題を解消させようとする努力は全く不要で、かなりの時間を要するとはいえ、幸福否定による抵抗を乗り越えようとさせるだけで、自然に問題が解消し、前向きな生活をするようになることに加えて、さまざまな潜在的能力なども自然に表出するようになります。いわば舵取りは全く必要ないのです。後ほど検討しますが、このことは、人間の本質や進化を考える場合、このうえなく重要な点です。またこれは、ベルクソンの創造的進化論や今西錦司の主体性の進化論の傍証ともなる、おそらく最も重要な現象なのですが、体制派科学者にはその重要性は認識されにくいと思います[註4]。しかし、たとえばそれまで表面化していなかった能力が、幸福否定を弱めた結果として表出し、意識的なコントロールができるようになるとすれば、その能力はどこからきたと考えるべきなのでしょうか。

 この問題については後ほど検討することにして、いったん話を戻します。同じく未知の真理と言っても、その抵抗の強さは内容によって大きく異なります。これまでの経験から推測すると、その強さは、人間の心の本質がどこまで深く関係しているかによって違ってくるようです。また、どの科学分野であれ、「定説が確固たる地位を占めてきた期間が長ければ長いほど、また、その定説を信奉する研究者が多ければ多いほど」、その反証に対する抵抗は、当然のことながら強くなりますが、それは、おおまかに言えば、人間の心の本質が関与している度合と比例しているように思います。

 ところで、最大級の心理的抵抗による産物は、科学の領域で言えば、第3部でふれておいた「ネオ・ダーウィニズム」と「唯脳論」だと思います。また、唯脳論の下位領域に「ストレス理論」がありますが、この、心因性疾患のストレス理論に異を唱える研究者を見つけ出すことは、現在ではきわめて難しいでしょう。

影響力は個人を超えるか

人間の心の進化

 人類の歴史を振り返ってみると、有史以来、人間全体の人権意識が徐々に進歩してきたことは、まちがいない事実です。二千年前には、庶民は支配者の意のままになってなっていたわけです。奴隷制も、“お国のための滅私奉公”も、それほど遠い昔のことではありません。このきわめて重要な変化を、拙著の中で私は、幸福否定と関連づけて次のように述べています。

 二千年ほどの間に起こった、人類史上きわめて重要なものとして位置づけるべきこうした変化〔個々人の人権が尊重される方向に向かっていること〕は、 多少の起伏はあったし、これからもあるにせよ、漸進性のものであって、後戻りすることはない。それは、個々人の本心の一端が徐々に意識に浮かび上がり、本心および内心を包み隠す、いわば隠蔽のための意識が、きわめてわずかずつではあるが、本心に由来する目覚めた意識と入れ替わった結果なのではなかろうか。そのために、個々人の人格を尊重しようとする素直な気持ちが、ごく一部であれ表出するようになったのではないか。(笠原、2004年、268ページ)

 さらに脇道にそれるようですが、私が考える意識は、従来の概念とは全く違うので、少々説明しておく必要があります。進化という脈絡で考えると、人間の意識は、いわば夢遊病者的な状態から徐々に浮かび上がって前面に出てきたとみるほうが実態に近いはずで、そうした観点からすると、現在もその明瞭化の途中の段階にあると考えなければなりません。つまり、現在の人間の意識は、まだまだ欠陥だらけの状態にあり、したがって、その意識で考えたことを組み立てたのでは、机上の空論になりやすいということです。創造的な人たちが、直観(この場合、おそらく本心から発せられた真理へのヒント)に導かれたと語ることが多いのは、そのような事情があるからでしょう。類人猿からヒトになった後、最初に浮かび上がった人間的意識は、心の本質をむしろ隠蔽するための意識で、それが徐々に目覚めた意識に入れ替わる過程が、私の心理療法の経験から導き出された人間の心の進化です。

 ところで、私が長い時間をかけて検討してきたところからすると、幸福否定というとてつもなく強い意志を、生後に身につけたと考えることはできません。育てられかたなどとは全く無関係に、人間ならおそらく誰であれ生得的に持っていると思われる普遍的性向のようなのです。西方で昔から悪魔サタンと呼ばれてきた存在が、能力的にも性質的にも、私の言う内心にいちばん近いのですが、現実に生身の人間の内部にあるものとしては、これまで全く知られていなかったように思います。

 人間が前向きの行動を取ろうとすると、幸福を否定しようとする内心が、幸福に対する抵抗から、動物では起こりえない人間独自の問題を次々と生み出します。それに対して、いわば夢遊病者状態にある意識は、右往左往しながらそれを克服しようとしますが、その中で、内心が生み出す、自らの幸福に対する抵抗にまた直面するという循環が発生します。後述するように、自分自身の内心が(自分の意識を説得する目的で)作りあげたものが、人間特有の悩みや苦しみの正体です。意識の関与はないものの、自分で作った苦しみなので、いわば架空の苦悩にすぎないのですが、自分を苦しめるためのものであるため、意識の上では非常に苦痛に感じられるのです。そして、苦しみながらその抵抗をわずかずつ乗り越えてゆくと、それにつれて、きわめてゆっくりとではありますが、心の奥底に潜んでいた本心が意識に浮上し、その分だけ意識が目覚めてゆくというのが、現在の私の考えかたです[註5]

 人間の本心は、長期的視点に立って、自分が前向きに進むように仕向けるわけですが、そのためにこそ、そこに内心が割って入って幸福否定が起こるというふうに、前向きになろうとする意志が強ければ強いほど、その循環が頻繁に起こってしまうのです。ですから、現象的に見ると、小林秀雄がいみじくも語ったように、「苦しまなくては、本当の喜びはない」(高見澤、1985年、221ページ)という、一見矛盾した状態が、どうしても起こってしまうわけです。ここに、“創造の苦しみ”が生まれます。動物のように現状に満足し、千年一日のごとく生活している場合には、外部からの激烈な刺激でもない限り、ほとんど進歩しないのではないでしょうか。

 もしそうであれば、何百万年という長い年月をかけて類人猿がヒトになり、直立二足歩行や言語の獲得も手伝って、意識がそれまでより明瞭になると、以後は何万年かの、さらには何千年かの単位で目覚めた意識の占める割合がごくわずかずつ増えてゆくことになるでしょう。それにつれて、自らを苦しめてまで自らを高めようとする、まさに人間特有の性向を持つ個体が徐々に出現してくるはずです。おそらくこれが、芸術派人類の台頭です。そして、現代に近づくにつれ、進化は加速度的に進むことになるのでしょう。人間以外には、わずかにせよ修行的な生活をする動物はいないことと、現生類人猿を筆頭とする動物たちと現生人類との差が、肉体的にも能力的にも大きく開いてしまっていることの間には、密接な関係があるように思います。

 それに対して、ことの重大性をきちんとわきまえたうえで、この努力を続けることが、当人のさまざまな進歩につながることまでは、これまでの経験から明言することができます。問題は、そうした努力が、当該の個人を越える影響力を持っているかどうかです。

 抵抗を乗り越えようと努力することが、当人とじかに接する人たちに肯定的影響を多少なりとも及ぼすことは、これまでにはっきりと確認されています。では、それを越えて不特定の人たちにまで広く影響を及ぼす可能性はないものでしょうか。これは、おそらくこれまで誰ひとり想像したことのないほどの、とてつもなく考えにくい可能性です。その場合、何よりもまず、超常的な波及効果を想定しなければならなくなりますが、そのような実例はこれまで全く知られていないからです[註6]。しかし、もしその努力が超常的影響力を持っているとすれば、影響を及ぼす相手側との物理的な距離にも範囲にも、制限のなくなる可能性が高そうです。また、他の人たちにも影響をもたらすとすれば、その内容としていちばん考えやすいのは、やはり、幸福否定に対する抵抗を乗り越えようとする本人に起こるのと同質の変化でしょう。

抵抗を乗り越えようとする努力と人間の進化

 ここで、先ほどの人権意識の歴史的変遷の問題に戻ります。人権意識の進歩は、人間の心の進化における重要な要素とみるべきではないかと思います。そのような立場から私は、幸福否定という意志を、悪しき側面としてのみとらえるのではなく、心の進化の一方の立役者と考えるべきではないかとして、先の引用文の少し後に、次のように書いています。

 人間の本心は、生命体を絶えず進歩させようとする駆動力と密接に関係しているはずである。人間の一生の中で起こるさまざまな好事や悪事には、本心と、 それを否定しようとする、本能的とも言うべき強力な意志(幸福の否定)の双方が、いつも深くかかわっている。そのことからすれば、内心に潜む意志は、何らかの形で本心と協同して、心の進化を進めるうえで、積極的な役割を演じているのであろう。(笠原、2004年a、270-271ページ)

 引用文中の「生命体を絶えず進歩させようとする駆動力」は、ベルクソンがエラン・ヴィタールと呼んだものと、おそらくほぼ同じものです。このように、もし心の奥底に潜む本心と、それを覆い隠すような形で存在する、本心を否定する内心とが、両者の相互作用を通じて、少なくとも心の進化の要因として重要な役割を演じているとすれば、超常的な力を自在に操作できるはずの本心と内心とが、直接に肉体に影響を及ぼすとしても、それほどふしぎなことではありません。催眠暗示という純粋に心理的な要因によって、身体的変化が起こることは、体制派科学者ですら異論の余地なく認めているからです。しかしながら、その変化は、現行の科学知識では説明できないのです(笠原、1995年、128-135ページ)。

 そうすると、ここで、とてつもない可能性が浮かび上がります。意識が強力な内心に負けまいと努力するその力が、当該の個人を超えて、ヒトという種全体を変化させる力として働く――つまり、ヒトの進化の推進力になっている――可能性があるのではないか、ということです。その場合、当人が前向きの変化をするのと同じように、他の個体も前向きに変化することになるはずです。ここでは、今西錦司が唱えた種社会という概念が必要不可欠な要素になってきます[註7]

 今西が繰り返し主張していたように、個体の突然変異によってごくわずかずつ進化が起こるというネオ・ダーウィニズムの考えかた(斉一説)は、実際には希望的観測のみで、科学的な裏づけが得られているわけではありませんし、どう考えてみても、種全体として変化する以外には、大進化はもとより、小進化すら起こりえないように思います[註8]

 人間は幸福否定を弱めるだけで、舵取りする必要もなく、自然に、より完成した姿へと例外なく向かう、という私の観察事実から推定すると、進化の方向は、少なくとも大きな方向づけは、あらかじめ決まっていると考えたほうが、事実を簡明に説明できるのではないかと思います。そう考えると今度は、それでは説明になっていないとして、あるいはそのような考えかたは科学的ではないとして、体制派から強い抵抗が起こるのはまちがいありません。

 この着想自体が正しいかどうかを、現在の科学的方法を使って検証することは、残念ながら不可能です。しかし、ネオ・ダーウィニズムの妥当性にしても、科学的方法を使って検証できるわけではないのです。そのことからもわかるように、科学的方法には限界というものがあります。それに加えて、超常現象研究の場合によくあるように、厳密な科学的方法を使って得られた有力な結果を提示しても、それを他の科学者が素直に受け入れるかどうかわからない、という問題もあるわけです。ここには、科学のいわば政治性が関係しています。科学の厳密性、客観性と言ってみたところで、現実にはその程度のものなのです[註9]。逆に、厳密な方法を使って得られた結果が周囲に認められても、その内容がつまらないものであれば、何のための研究なのかわからなくなってしまうでしょう。今西錦司のような芸術派科学者なら、こうした科学的方法の限界をひとたび悟れば、科学者を廃業してまでも、真理の探究を優先させるのは、むしろ当然のことでしょう[註10]

 では、科学的方法にこだわらずに真理を追究するには、どうすればよいのでしょうか。ここでは、「意識が強力な内心に負けまいと努力するその力が、ヒトの進化の原動力になっている」とする着想の妥当性を検討するには、どうすればよいかということです。そのためにはまず、その裏づけになりそうな間接的、状況的証拠を積み重ねるという方法や類推を利用するという方法が考えられます。これまでの検討によって、生物一般と人間には、進化に関係しそうな特徴として、次のようなものが共通して存在することがわかりました。体制派科学者がその多くを認めるはずはないでしょうが、いちおうここに列挙してみましょう。

 以上のような間接的、状況的証拠を全体として眺めると、そうした特徴ばかり並べているので当然だと言われてしまいそうですが、生物が強い主体性を持った存在であることがよくわかるはずです。それとともに、人間は最近になればなるほど、外的な束縛を離れて、より自発的な行動を取るようになっていることや、そうした人間の進歩を文化的脈絡ではなく進化史的背景の中に位置づけることができることも、よくわかるのではないでしょうか。だからといって、「意識が強力な内心に負けまいと努力するその力が、ヒトの進化の原動力になっている」という、とてつもない着想が妥当であることが、以上の特徴によって裏づけられるわけではありません。しかしながら、その可能性の検討をさらに続ける意味は、おおいにありそうです。次に、この問題を別の方向から検討してみることにしましょう。

肯定的で内発的な変化

 繰り返しになりますが、これまでの私の経験によれば、人間の場合、自分にとって重要な未知の真理を探り出そうとすると、強い抵抗が起こります。そして、その抵抗を乗り越えようとする努力を続けると、望外のものを含め、さまざまな肯定的変化が、舵取りなくして自然に起こるわけです。換言すると、内心の抵抗に向かって進みさえすれば、道を誤らないようにできているということです。その場合の変化は全般に及びますが、個人差が大きく、何が先に変わり何が後になるかは、結果を見るまでわかりません。ここには、心の進化の謎を解くための、きわめて重要なヒントがいくつか含まれています。

 そのうちのひとつは、言うまでもなく、(1)自分にとって(あるいは人類にとって)重要な未知の真理を意識化することが、強い幸福心を呼び覚ますことになるという事実です。もっと重要なヒントは、(2)反応が出るものならどのようなものであっても、その強い抵抗を乗り越えようと努力するだけで、さまざまな肯定的変化が自然に起こるという事実です。第三の最も重要なヒントは、(3)自分が進むべき方向を、反応が、質量ともにきわめて正確に教えてくれることです。以下、この3点について順番に検討します。

 (1)で問題になるのは、未知の重要な真理を意識に明らかにするという、最も先端的な創造活動であって、創造活動全般ではありません。とはいえ、創造活動一般が幸福心を呼び覚ますことは、その理由は述べられていないにしても、既にベルクソンによって明確に指摘されています[註11]

 創造的進化論の立場に立つベルクソンは、「生命の目標が創造によって達成される」とすれば、「すべての人間が追求できる人生の目標は、創造にこそある」と明言しています。それに続けてベルクソンは、その創造活動の本質を敷衍します。すべての人間にとって人生の目標は、「自己によって自己を、小さなものから大きなものを、何もないところから大切なものを引き出し、世界が内包する豊かさを、何であれ絶えず拡大しようとする努力を通じて、人格を成長させることにこそあると考えざるをえない」(Bergson, 1920, p. 31)。誰であれ、人生の目標は、何ものかを生み出そうとする努力を通じて、自らの人格を成長させることだというのです。ベルクソンの主張と私の得た結果を総合すると、これまでのまとめにもなりますが、次のような結論が導かれます。

 人間は、意識の上でも幸福を希求し、それが達成されると、あるいは達成されることがはっきりすると、二通りの反応を示す。その幸福の大きさが、いわば“幸福の許容範囲”にある限りにおいては、「その創造が豊かであればあるほど、喜びも深いもの」になるが、それが許容範囲を超えてしまった場合には、意識ではその事実を認めることをせず、逆に自分が幸福ではないことを意識に言い聞かせる目的で、その記憶を消し去るとともに、あえて不幸を捏造する。この時、人間は、いわゆる心因性の症状を――必要に応じて超常的能力を援用して――作りあげることが多い。人間特有の“不幸”や“心の苦しみ”は、このようにして生まれるのである。

 人間は、自分を苦しめてまで自分を高めようとする、動物には見られない修行と呼ばれる行為を上位に置いている。したがって、本来的な意味での修行には、そうした動機に起因する抵抗が強く、そのために修行そのものが変質したり形式化したりすることが多い。真の意味での修行の目的は、肉体を苦しめることではなく、キリストが荒野で行なったように、自らの内心という最強の悪魔と闘うことにある。それゆえ真の修行は、生物進化の最先端にいるヒトの、さらに最先端に位置づけられる。

 創造活動の最たるものは、真の芸術と科学という内的な純粋探検行動である。しかし、そこに至る道は狭く険しく遠く、そのうえに、内心によるありとあらゆる誘惑が随所で待ち受けている。自分の内心が作ったそうした誘惑を乗り越えて進むところに、“創造の苦しみ”が生まれる。自分の内心がこしらえたものとはいえ、大きな苦しみを乗り越えると、好転の否定から生ずる時間差はあるにしても、創造活動の成果がはっきりと見えてくる。すなわち、自らの人格の成長をはじめとする、さまざまな進歩を実感できるようになり、そのたびに人間は“神の喜び”に浸ることができる。

 そして、内的純粋探検行動の中でも最難関に位置づけられる真理の探究が、人間の心の本質の探究である。超常現象の研究という、人間の心が持つ力の探究は、その重要な一角を占める。そのため、あらゆる科学分野の中で、最大級の幸福心をもたらすが、その代わりに、幸福否定に基づく抵抗も最も強いのである。

 次は、(2)についての検討です。抵抗を乗り越えようと努力するだけで、さまざまな肯定的変化が自然に起こるということは、先述のように、心因性の症状や不安や緊張が薄れるか消えるのと相前後して、対人関係が改善され、正当な主張をきちんとするようになり、判断力が鋭くなり、段取りが適切につけられるようになり、自信や能力や自発性が発揮されるか高まり、人格や徳性が向上するなどの変化が、不可逆的に起こるわけです。これらは、未来の人間が持つはずの特性に向かおうとする変化のように感じられます。にもかかわらず、本人には自分が変化したことの自覚や意識がほとんどありません[註12]。進化論的な背景で考えれば当然のことなのでしょうが、先に行動的変化が起こり、意識はその後を大分遅れてついてくるのです。この事実からも、意識中心にものごとを考えたのでは、本質を大きく逸脱してしまう可能性の高いことがわかるでしょう。

 繰り返すようですが、ここで重要なのは、舵取りを全く必要としないということです。このことから、その際に発揮される知識や技術は既に内在しているため、その伝達や教育は不要であることがわかりますし、変化の方向があらかじめ、それぞれかなり明確に決まっていることもわかります。それまで発揮したことのある能力が、心理的理由から包み隠されており、それが幸福否定による抵抗の低減に伴って再発現したということなら、もちろん従来的なパラダイムで十分説明可能です。しかし、抵抗の減少に伴って、それまで発揮されたことのない能力が発揮されたとすれば、それまで表出したことのない感情が表出したとすれば、また、それまでよりも人格や特性が高まったとすれば、あるいは、それまでいくら常識を身につけさせようとしてもできなかった分裂病患者が、幸福否定による抵抗が減少することで自然に常識を発揮するようになったとすれば、この変化を従来的な考えかたで説明することはできません。その能力や徳性の由来が、従来的な概念では説明できないからです。

 最後は、(3)の検討です。反応が、自分の進むべき方向を、質量ともに正確に教えてくれるという事実は、舵取り不要という側面と表裏一体の関係にあります。抵抗によって起こる反応を目印にして進んで行けば、道を誤ることなく自分が希求する方向へ向かうことが、なぜか自然にできるようになっているのです。しかし、そのことが意識でわかったとしても、それを実行するのはこのうえなく難しいものです。その方向へ向かおうとすればするほど抵抗が強くなるからです。急流に逆らって川の上流に進もうとするのと同じで、流れの強い方向に向かって進めばよいことはわかっていても、何度となく押し戻されてしまったり、流れの中心部からそれてしまったり、流速の小さい支流に入り込んでしまったり、望みはかなく押し流されてしまったりするわけです。それにしても、なぜ抵抗は、本来進むべき方向を正確に教えてくれるのでしょうか。これは、ベルクソンや今西錦司の進化論にも大きく関係してくる部分です。このきわめて重要な問題は、次節で検討する、内発的変化の由来という問題と密接に関係しています。

内発的変化の由来を探究する

 では、そうした能力や倫理観はどこから来るのでしょうか。ここでの核心は、それが現行の科学知識で説明できるかどうか、という点にあります。その場合、モーツァルトのような、神童と呼ばれる稀に出現する子どもたちが発揮する能力についても、同じ疑問が起こるはずです。その由来については、常識的なものから非常識的なものまで、次の4通りの可能性を考えることができると思います。

 最初の仮説は、対照として含めたもので、錯覚や記憶錯誤や捏造の結果だとするものです。ちなみに2番目は、超常現象研究で言えば、前世記憶に対する“隠蔽記憶”に当たります。私の心理療法によって起こる変化は、主として、本人たちからの証言や心理療法場面での観察を通じて確認されるわけですが、家族の方々(両親、配偶者、子ども)から知らされることもあります。その場合、発病前より好転したという事実を、私の質問への返答という形ではなく自発的に、具体例をあげて教えてくれることも少なくありません。また、註3に書いておいたように、多くの人たちが、たとえば楽器の演奏をしばらくしていなかったのに、腕が少しも落ちていないことがわかったとか、二日酔いをしなくなったとかと、異口同音に証言しますが、それらは、そもそも本人ですら予測していなかったため驚き入ったほどの変化なのです[註13]。したがって、この隠蔽記憶仮説が当てはまる事例も一部にあるのかもしれませんが、全例の変化をこの仮説で説明するのは難しいでしょう。

 第2の仮説は、遺伝によって受け継いでいたものの発揮されることのなかった“素質”が、抵抗の減衰によって表出したと考えるものです。同様の変化が偶発的に起こることは、経験的に知られているでしょうが、いずれにせよ稀なものだと思います。私の心理療法では、それを、ある程度の期間を要するにしても、事実上全例で操作的に起こすことができるのです。この第2仮説が妥当だとすれば、それなりに新しい人間観が導き出されることになるのは確かです。能力も徳性も、遺伝を通じて伝達されるが、そのままでは表出せず、抵抗の減衰を待って発揮されることになるからです。先祖がそのような能力や徳性を実際に発揮していたのであれば、現行の科学知識でも説明できるのかもしれませんが、ここで問題になるのは、言うまでもなく、はたして本当にそうなのかということです。ところが、私の心理療法は、狭義の心因性疾患ばかりでなく、本来的に人間全員を対象にしたものであり、自発的にではあっても対象となった全員が、能力や徳性を多少なりとも向上させるようなのです。私の観察がまちがっていない限り、この事実を、遺伝的素質など、現行の科学知識で説明することはできないでしょう。

 そうすると、第2仮説は、残るふたつの仮説のどちらかと同じになってしまいます。では、第3と第4の仮説はどうなのでしょうか。第3の仮説は、万が一その人物の前世が確実に突き止められたとしても、その能力や徳性を現世の人格と比較するのは不可能に近いでしょう。確認する方法がないのです。第4の仮説は、このうえなく考えにくいものです。通常のものとは全く異質な進化論を前提にしなければならないからです。このように、常識や現行の科学知識に照らすと、両仮説とも、とてつもなく考えにくいわけですが、私の心理療法理論との整合性という観点からすると、第3仮説よりも第4仮説のほうが脈がありそうに思います。モーツァルトを代表例とする神童については、第3仮説のほうが当たっているような感じがするかもしれません[註14]が、前世時代の資質が表出するだけであれば、後退こそすれ、前世の人格の能力を超えることはむしろ考えにくいでしょう。

 ここで整理すると、これら4仮説のいずれについても、それぞれ別の理由で難点のあることがわかりました。第1仮説は、私の心理療法の中で起こった変化が私の主張通りのものであれば成立しませんし、第2仮説は、私の心理療法とその背景にある幸福否定という考えかたが正しければ、第3仮説か第4仮説のいずれかに吸収されてしまいます。したがって、第3か第4の仮説が残されるわけですが、これらは、現行の科学知識と真っ向から対立するのです。体制派科学者なら、「どこかにまちがいがある!」(ホノートン、1987年)として、第1か第2の“通常”仮説が妥当だという結論にむりやりもってゆくのでしょうが、そう簡単に片づけてしまうべきではありません。私が開発し実践してきた心理療法の方法と観察とがまちがっていなければ、後の2仮説がいかに非常識なものであろうとも、いずれかが正しいことになり、その方向に歩を進めなければならないことになるからです。まさにこれが探検的態度なのですが、純粋探検行動に“理解”のない生活派たる体制派は、この主張を無視するか、さもなければ私の心理療法が全面的にまちがっているとして、私に矛先を向けてくるでしょう。

 しかし、それは科学的な態度ではありません。科学的な態度とは、私の心理療法によって得られた成果が私の主張通りのものかどうかを、中立的な立場から長時間をかけて独自に追試し、それによって得られた結果を公正に検討したうえで、冷静に判断を下すことです。私の心理療法を通じて得られる結果は、内的純粋探検行動の成果としてきわめて大きなものですし、これが正しければ、進化論や心身問題に計り知れないほど大きな影響を及ぼすはずのものです。したがって、ためにする批判をして、ことを不明瞭化してしまうのではなく、あくまでことの真偽を明確にすることを優先しなければ、真の意味での科学者とはとうてい言えないでしょう。超常現象研究について言えば、そうした必要不可欠な対応は、これまで全くと言ってよいほど取られたことがありませんでした。しかし、ベルクソン流に言えば、そのような対応を取ることこそ、生命の向かうべき方向なのです。

抵抗を乗り越えようとする努力と人間の進化――再考

 長い回り道をしてきましたが、ここで、本題に戻ります。「意識が強力な内心に負けまいと努力するその力が、ヒトの進化の原動力になっている」という着想の妥当性をまがりなりにも検討するためのひとつの手段として、人間が前向きになろうと努力するだけで、舵取りなくして自己完結的に能力や徳性が向上するという事実に着目し、その理由を推測していたのでした。そして、私の心理療法によって起こる変化が私の主張通りのものだとすれば、「前世で発揮していた能力や徳性が引き出された」という仮説と、「生命に本来的に備わっている要素が発現した」という仮説のいずれかが妥当ということになるわけですが、前者だけであれば、前世時代を超える能力や徳性が発揮されるはずはありません。したがって、従来の科学知識や常識に照らせば、このうえなく非常識的な後者が、最有力の候補として残されるわけです。

 ところで、超常現象には目標指向性という非常に興味深い特徴があります。これは、目標だけを念ずれば、途中の経過について意識しなくても(あるいは知らなくても)、自動的に目標が実現されるという、いわば魔法のような特性です。超常現象は、であれ念力であれ、この特性を必然的に伴うのです。たとえば念写能力を持っている者(念写能力者)が、フィルムや印画紙に写し出すイメージを心の中に描き、それが写るよう念ずるだけで、感度をはじめそのフィルムの構造や特性を知らなくても、そのターゲットがそこに自動的に写し出されるのです。もちろん、いつも成功するわけではありませんが、成功した場合には、まさにそのような経過で目標が実現されるということです。

 超常現象の否定論者は、そのような話を聞くだけで、それでは説明になっていないので“科学的”ではないとして、超常現象の主張を全面的に却下してきたのです。超常現象の目標指向性は、今西錦司が唱える進化論のスローガンである「生物は変わるべくして変わる」という特性と相似形になっています。このスローガンに対しても、“科学的”ではないとか、疑似科学にすぎないとかの批判があります(たとえば伊勢田、2007年)が、これは、超常現象の否定論者が行なう批判と瓜ふたつです[註15]。そのことからも推定できるように、今西進化論が想定する特性と超常現象が持つ特性は、私の心理療法によって舵取りなくして実現される変化と、主体性、目標指向性、自己完結性という点で共通しています。またこれは、第4部の表2に掲げておいたように、芸術派の持つ自然観とも共通しているのです。これは、単なる偶然の一致にすぎないのでしょうか。それとも生命の根本原理の反映と考えるべきなのでしょうか。

 内的純粋探検の立場からすれば、「意識が強力な内心に負けまいと努力するその力が、ヒトの進化の原動力になっている」という、途方もない着想を検討するためには、まず第一に、このような符合がはたして偶然の一致によるものなのか、それとも必然の結果なのかを明らかにする必要があります。私の直観が教えるところによれば、このような符合は、偶然の一致によるものではなく、生命に最初から備わっている基本的属性のなせるわざのようですが、ここでは、できる限り直観を離れて検討することにします。

 この場合、最も有力な手がかりは、やはり、同質のきわめて強い抵抗が三者――今西進化論性、超常現象、私の心理療法――に共通して見られることでしょう。私の経験では、抵抗は非常に正確かつ精密に出るものなので、未知の真理を探る際に、信頼の置ける指標として実用的に使えます[註16]。ただし、抵抗と言っても、通常の抵抗とは正反対の“幸福に対する抵抗”ということですから、私の心理療法を経験したことのない人にとっては、全く未知の概念です。とはいえ、この考えかたを理解していなくても、三者の相似性が偶然の産物か必然の産物かを、まさにその抵抗を利用して実験的に検証することはできるかもしれません。

 たとえば、ことの重大性をきちんと認識したうえで、以下のような実感を作ろうと懸命に努力するのです。その方法を私は“感情の演技”と呼んでいますが、この場合、それぞれを2分間程度ずつ5回繰り返すのが通常のやりかたです。その際、キッチン・タイマーなどを使って時間を計るとよいでしょう。

 たとえば、「超常現象は実際に存在する」という実感を作る場合なら、その言葉を心で繰り返しながら、その実感をむりやり作ろうとするわけです。この方法は、しょせん空想には違いないのですが、超常現象などあるはずがないという否定的態度のまま実感を作ろうとすると、さらに空想的になってしまうので、抵抗は起こりません。第2部に掲げたキリストの言葉のように、本当にそのようなことがあるとして――つまり、ことの重大性をきちんと認識したうえで――それぞれの実感をむりに作るよう努めるのです。感情を作る手段としてイメージを利用してもよいのですが、イメージを発展させる形にすると、感情を作るという目的から離れてしまうので、イメージを利用するのであれば、たとえばスプーンが曲がる場面など、ひとつのイメージを繰り返すようにします。

 最初は雑念が湧きやすいと思いますが、繰り返し行なえば、次第に集中できるようになるでしょう。3仮説ともに、あるいはそのいずれかに私の言う抵抗があるとすれば、集中が十分できるようになった段階で、眠気、あくび、心身の変化という反応のいずれかが起こるはずです。最初から反応が出ることはあまりありませんが、数回から十数回ほど繰り返せば、反応は出やすくなります。もし3仮説ともに反応が出るとすれば、3番目の仮説で最も強い反応が出る可能性が高いでしょう。

 一般に反応が非常に出にくいか、出ても弱い人はいるものですが、これまでの経験からすると、本来、反応が出るはずの事柄に対しては、反応は原則として例外なく出るものです。自分で判断しにくい場合には、実感を作ろうとしている間とその前後の状態を比較するとわかりやすいでしょう。反応について詳しく知りたい方は、「私の心理療法の基本概念」か拙著(笠原、2004年a、2005年)の説明を参照してください。

 もし上の3仮説のすべてで反応が出たとすると、私の経験からすると、まさに3仮説の類似性は表面的なものではなく本質的なものと言えることになるのですが、そう言ったところで、一般の科学者に対してはほとんど説得力を持たず、無視されるのがおちでしょう。しかし、その場合はっきりしているのは、そうした実感を作ろうとすると、反応という、従来の科学知識では説明できない変化が一過性に起こるという事実が、否定しようもなく存在することです。

 すべての人間で3項目ともに反応が出れば、疑いを差し挟む余地はないのですが、現実にはそのような結果になることはありえません。どれかに、あるいはすべてに反応が出る人は決して少なくないはずですが、全く出ない人もたくさんいるはずです。そのような結果に直面した場合、それをどう考えるかという問題が出てきます。私の経験では、反応が出るための条件として、集中力やことの重大性の認識がどうしても必要ですし、ある程度の練習を重ねる必要もありますので、評価に当たっては、その点を考慮しなければなりません。いずれにせよ、それをどう解釈するかは、各人の判断に委ねるしかないでしょうが、反応は完全に再現性のある現象なので、反応が出る場合、明確な説明が必要なことだけはまちがいありません。

 ことの重大性という観点から見ると、「意識が強力な内心に負けまいと努力するその力が、ヒトの進化の原動力になっている」という着想を却下するにしてもしないにしても、軽々な判断は避けなければなりません。結局のところ、私の主張についてであれ、反応の存在についてであれ、少なくとも一旦は権威や定説から離れて、冷静かつ厳密な検討をしてゆく以外の道はないのではないでしょうか。

おわりに

 「“ことの重大性”と超常現象研究」と題したこの連載は、まず、ことの重大性の認識と超常現象の研究が両立困難なものであることを明確にしたうえで、超常現象研究を究極の探検的行動と位置づけ、続いて、生活とは無縁の内的純粋探検行動が持つ意味について検討しました。そして、そのような困難な努力を続けることの意味はどこにあるのかについて考察し、真理の探究そのものが大きな力を持つのではないかという疑問から、重要な未知の真理を突き止めようとする努力が、あるいは意識が内心に負けまいとする努力自体が、進化の原動力になるのではないか、という途方もない着想に辿り着きました。続いて、科学的方法を必然的に拒絶するその着想を、超常現象の目標指向性や今西進化論の中心概念である主体性と共通していることを指摘し、できる限り客観的な方法でそれを検討しようとしました。

 人間の純粋探検行動は、生物の進化の辿った道筋を遡ると、高等動物のいわば半意識的探索行動になり、さらに遡ると、いわゆる下等動物や植物のいわば無意識的な棲息域拡張行動に行き着くのではないかと思います。したがって、人間の場合、もし意識が内心に負けまいとする努力が進化の推進力になっているのであれば、人間以前の動物や植物の場合には、探索行動や棲息域拡張行動がそのまま進化の推進力になっている可能性が考えられるでしょう。

 あらためて言うまでもなく、どのような生物でも、意識の有無とは無関係に、その環境にほぼ完全に適応しています。つまり、どの生物も、行動としてはそれなりに完璧なのですが、意識という点では大きな差があるわけです。進化論的に見ると、人間のような意識は、人間に近づいてから発生したのですから、そのような未発達の意識を疑わず、それを信頼できる基盤として研究を進めるという従来的方法には、したがって、大きな限界のあることはまちがいありません。

 全生物の中で意識が最も明瞭なはずの人間でも、実際には行動が意識に先行しているわけです。そして、その行動が根本的なものであればあるほど、意識が関与する余地は少なくなります。その証拠については、それこそ枚挙に暇なしで、たとえば、言語(母語)は、正常な成長を遂げる個人であれば誰でも例外なく習得できますが、それほどあたりまえの現象であるにもかかわらず、その過程は未だに解明されていないという点を強調しておけば十分でしょう。内的純粋探検行動という現象は、その最有力の実例と言えるでしょう。

[註1]少々混乱しやすいので説明しておきますが、私が考える犯罪の真の動機とは、警察や司法関係者が想定しているようなもの――つまり、怨恨や金銭的利得など――ではなく、犯罪者も自分の意識ではわからない、本当の意味での動機という意味です。たとえば、借金の返済という正常行為のために、強盗殺人という、自他の一生を左右する異常行動を起こすという理屈は、よくよく考えると理解しにくいのではないでしょうか。借金を踏み倒して夜逃げでもするか、自己破産でもするほうが、よほど自然だと思います。また、通常の意味での動機が突き止められない犯罪も少なくないでしょう。その裏には、全く別の――おそらく幸福否定という心の動きに基づく――動機が潜んでいるのではないかと、私は推測しています。それに対して、肉親を殺害された遺族が、「本当のことを知りたい」と言う場合には、単に加害者が意識で承知している事実を包み隠さず告白してほしいという意味であって、特にそれ以上のものを求めるわけではありません。

[註2]幸福否定という心の動きがある限り、ある限界を超えて好転が起こると、必然的に好転の否定という現象が起こり、その結果としてさまざまな心因性症状が出現します。したがって、一直線に好転するという形を取ることは絶対になく、大きな起伏を何度も繰り返しながら、基線が次第に上昇する形で好転してゆくのです。好転の否定が一般の心理療法で起こることは稀にしかないはずですが、この現象も、心因性疾患の本質を考えるうえできわめて重要なものです。

[註3]他にも、ひどい音痴や長年悩まされてきた痔が治ったなど、心因性のものとは考えられていない症状が解消した、さまざまな実例があります。これらの症状が心理療法で解消されるとは誰も思っていないことからもわかるでしょうが、こうした変化は、それを治療しようとして起こったものではありません。私としても、他の問題のために心理療法を続けている方々から、これらの問題が解消した後に聞かされて初めて知ったことなのです。
 よほど大量の飲酒でもしない限り、二日酔いは、ほとんどの例でなくなってしまうようです。極端なものとしては、それまで、大量に飲酒すると、意識が朦朧として帰宅途中に転んでけがをしたり、持ちものをなくしたりなど、さまざまな問題を起こすばかりでなく、その後1週間ほどは不快感が続くため、週に一度程度しか飲酒できなかった40代の女性が、しばらく心理療法を続けてからは、大量の飲酒(ビールで5リットル)を毎日繰り返しても、そうした問題が全く起こらなくなってしまった例があります。この時点で、今度は飲酒がやめられないという問題が出てきたわけです。これも、好転の否定のひとつの現われでした。この状態はしばらく続きましたが、次第に解消に向かうとともに、この女性は、それまでなかった世間的常識を、自然に少しずつ発揮するようになりました。

[註4]この現象は、体制派科学者からは完全に無視される可能性が高いでしょう。しかし、ことの重大性を(無意識のうちに)逸早く察知すれば、逆に、このような現象は起こりえないことを、追試研究によってではなく、従来的な科学知識を振りかざすことによって否定するという、まさに超常現象研究に対して起こっているのと同じ“現象”が再現されるのではないかと思います。

 ついでながら、今西錦司の主著とされる『生物の世界』(今西、1941/1972年)が、2002年に英訳、出版された(Imanishi, 2002)こともあって、海外でも今西の評価が高まりつつあるようです(たとえば、ドゥ・ヴァール、2002年;Asquith, 2002, 2007; Fuentes, 2004b; Groppi, 2003; Segerdahl, Fields & Savage-Rumbaugh, 2005)。また、その書評もいくつか出ています(たとえば、de Waal, 2004; Fuentes, 2004a; Sprague, 2004; Walker, 2003)。しかし、今西の進化論に対しては、やはり理解されていないようです。

[註5]自分の意識を説得するための、いわば芝居という考えかたも含めて、この問題に関心のある方は、拙著(笠原、2004年a)を参照してください。

[註6]知識が伝達されるという意味なら、イギリスの生物学者のルパート・シェルドレイク(シェルドレイク、1986/2000年)が唱える“形態形成場”という概念があります。

[註7]この問題について、生物学者の柴谷篤弘は次のように述べています。非常に率直な発言で、大変興味深いと思います。

 そのとき種社会の成員は、相互に彼ら独特の了解の方法のもとに――どうしてやるのかはわれわれには未知である――やはり現状ではおれたちは変わらねばなるまいということを、たがいに感じあい、結論しあう。極端な場合には全員がよりあつまって「会議をひらく」ような形があってもいいかもしれないが、実際の形ではまずそうはならないだろう。そして種社会全体の了解のもとに、各個体が自主的に変わるのである――われわれには未知の、ある、主体的な、生物学的方法によって。(柴谷、1981年、241ページ)

[註8]私は、唯脳論もネオ・ダーウィニズムも、精神病患者の“孤立妄想”に対する“共同妄想”と考えています(笠原、2004年a、265ページ)。どちらの妄想も、事実や真理の否認から発生します。ネオ・ダーウィニズムと根本から対立する今西進化論を批判する人たちは、そこに要因論がないことを、その批判の最大の理由にしているようです。それでは“科学的”ではない、というわけです。超常現象の否定論者が、超常現象の仕組みが説明できなければ、科学的ではないので超常現象の研究は疑似科学だ、と主張するのと瓜ふたつです。
 ここで肝要なのは、科学的にもっともらしく見えるかどうかではなく、大進化も含めて、進化という現象を本当に説明するにはどうすればよいのかということでしょう。たとえば、カナダの無脊椎動物学者であるM・シンクレアは、群集動態や種分化が、競争という要因によって本当に説明できるのかどうかという問題こそ肝心なのだと指摘しています(Sinclair, 1986)。しかし、こうしたあたりまえの主張をする研究者はほとんどないようです。突然変異と自然選択という要因だけで、人間を含めたあらゆる生物が自動的に誕生したという定説には、とてつもない魔術的要素が包み隠されているように思えます。“科学”たらんとして、互いに同意しやすい要因論をふりかざして、肝心な争点を切り捨てるようであれば、まさに本末転倒と言うべきです。科学的方法には限界というものがあるので、もしそれが科学的方法で対応できない現象であれば、それはそれでしかたがないことなのです。

[註9]この問題については、イギリスのふたりの科学社会学者が的確に指摘しています。次の通りです。

 科学の予測が筋道立った論理の産物であり、明確な実験結果によって立証されるもの、というイメージは全くの誤りである(コリンズ、ピンチ、1997年、118ページ)。
 ひとたび論争に火がついたのちは、理論的予測と実験結果のせめぎあいは永久に解決しない状態となる。実験科学の膠着状態である。この膠着状態の解決もしくは決着は、「科学的」と普通考えられる方法とは別の強引なやり方でもたらされるのである。こうしないことには科学論争が収まることはない(同書、148ページ)。
 多くの科学上の論争がそうであったように、反対意見を打ち負かすものは事実でも理屈でもなく、力と数の論理なのである。事実と理屈は常に確実な根拠とはならない。注意深く観察すれば真実が見えるというのは科学に対する幻想に過ぎない(同書、153ぺージ)。

[註10]今西錦司は、次のように発言しています。「ぼく自身科学者のつもりでおりましたけれど、科学はね、窮屈でね。イヤになりまして、もう科学から足を洗ったつもりで、いまおるんです」(東山他、1983年、99ページ)。しかし、生活派科学者から見れば、このような態度は進歩ではなく退歩としか考えられないでしょう。

[註11]ベルクソンが言っている創造活動は、喜びが意識で感じられる範囲内のものであり、意識で否定されるほど強いものを含むわけではありません。しかし、意識で否定されるか否かはともかく、喜びを伴っているという点では、どちらも同じです。この問題に関するベルクソンの発言は、次の通りです。

 喜びは、生命が目指す目標を達成したこと、進歩を遂げたこと、障害を乗り越えたことを、いつも告げてくれます。大きな喜びはすべて、 成功したという実感を伴っています。そこで、このような目印を考慮に入れ、新たな目で事実を見て行くと、喜びがあるところには、どこであれ、創造のあることがわかります。その創造が豊かであればあるほど、喜びも深いものになります。(Bergson, 1920, p. 29

[註12]ついでながらふれておくと、このように、いわゆる気づきは、変化が起こった結果なのであって、変化の原因ではありません。

[註13]この種の好転もめざましいものなので、好転の否定が起こってもふしぎではないのですが、私の経験では、それらしき事例は今のところ一例もありません。

[註14]神童に関心のある方は、トレッファートの著書(トレッファート、1990年)や拙著(笠原、1995年、第1章)を参照してください。従来的な進化論では説明困難な現象であることがわかるはずです。

[註15]たとえば、ジョージ・R・プライスは、次のように発言しています。「科学的手順では、各段階が具体的に規定される。それに対して魔術的な手順では、そう望むだけで降って湧いたように所定の結果が得られ、その間に介在するはずの段階がすべて省略されるのである。魔術の本質的特徴は、目に見えない知的存在が働いたと考えると一番簡単に説明のつきやすい形で現象が起こることである。科学の本質はメカニズムであるのに対して、魔術の本質はアニミズムである」(プライス、1987年、34ページ)。

<[註16]抵抗が正確に出ることについては、少々説明が必要です。抵抗というものは、本来、真理を意識に隠すための手段として使われるものなので、その逆手を取って、真理を突き止めるための手段として抵抗を利用する場合、不明瞭化という現象が起こります。反応を出さなければいけないし、出してしまうと、真理が意識に明らかになってしまうのでまずいという、いわばジレンマが発生するためです。この場合、以下に説明する感情の演技を何度も繰り返すと、不明瞭化が難しくなり、徐々に真理が浮かび上がってきます。

参考文献


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Copyright 2008 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/13/11