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PTSD理論の正当性を問う 1

 PTSD理論の根本的問題点

 幼時に虐待されたり、自然災害や犯罪に巻き込まれたり、戦争の惨禍を体験したりすると、それがトラウマと呼ばれる“心の傷”となって心の奥底に沈潜し続け、その結果として行動や性格にゆがみが起こったり、心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorder, PTSD)としてさまざまな症状を引き起こしたりすると言われています。このPTSD仮説は、伝統的、常識的なストレス仮説が基盤になっていますが、「心的外傷後」とあえて断っていることからもわかるように、単純なストレス仮説とは一線を画しています(ストレス仮説自体の批判については、「ストレス理論に対する批判」や「心理療法随想」の第5章「盲点について」を参照してください)。PTSD仮説は、当然のことながら“幸福否定”という考えかたとは相容れません。したがって、幸福否定という考えかたを取ろうとする限り、どうしてもPTSD仮説を無視して通ることはできないわけです。

 周知のように、この考えかたは、ベトナムから帰還した兵士たちに見られた症状が世間の耳目を引いたことから、専門家の間であらためて注目された概念ですが、フランクルの『夜と霧』(みすず書房)などを読むと、強制収容所から解放された後にも同様の症状が観察されていたことがわかります。それについても、既にいろいろな研究が行なわれています(小木、1974年、269-278ページ)。さらにそれ以前には、19世紀イギリスの“鉄道脊椎症”(ヤング、2001年)や、第一次世界大戦時に知られていた“シェルショック”があります(カーディナー、2004年)。

 この概念の主唱者のひとりであるアメリカの精神科医ジュディス・ハーマンは、主著『心的外傷と回復』(みすず書房)>の中で、同書は「レイプ後生存者と戦闘参加帰還兵との間に、被殴打女性と政治犯との間に、さらには、民族を支配する暴君が生み出す巨大な強制収容所群の生存者と自分の家庭を支配する暴君が生み出す秘密の小強制収容所の生存者との間に、それぞれ存在する共通点について書かれた本である」(Herman, 1997, p. 181; 邦訳書、xivページ)と述べています[註1]。この仮説の特徴は、このように、それまで別個の原因が想定されてきたさまざまな症状群を、統一的な心理的原因によって説明しようとするところにあります。精神障害を脳の機能障害として説明したがる昨今の風潮の中で、そうした心意気はおおいに歓迎すべきですが、問題は、はたしてこの考えかたにしっかりした科学的根拠があるかどうかです。

“加害者”と“被害者”

 PTSD仮説では、ストレスを受けてから何ヵ月か、場合によっては何年か経ってから初めて出現する症状や行動異常であっても、一定の基準を満たしさえすれば、かつて受けたストレスが原因で起こったものと考えます(この問題については後ほど検討します)。その基準に当てはまる(ように見える)だけでよいのなら、いくらでも拡大解釈が可能です。そのためPTSD仮説は、一種の根拠なき万能理論にまで拡張される危険性をはらんでいます。もちろん、根拠があって拡張するのならよいのですが、そのためには、そこに政治的根拠ではなく、科学的根拠がなければなりません。もっと正確に言えば、そこに政治的側面があってもかまわないのですが、それとは別に科学的根拠が必要だということです。

 ところで、虐待と言えるほどのものが実際にはなかったにもかかわらず、親に虐待されたためにつらい思いをし続けなければならなかった、と主張する人たちが少なからずいることは、疑いようのない事実です。境界例の治療を45年以上続けてきて先ごろ亡くなったある精神科医は、少々違う角度からですが、この点について次のように述べています。「静的な表現ながら、患者は被害者的加害者であり、両親は加害者的被害者である。この役割は発症後に限らない」(下坂、1998年、337ページ)。このことは、両者を同時に面接すると(親が黙っていてすら)簡単にわかるものですが、多くのPTSDの専門家のように、最初から“被害者”側に立ってしまうと、“加害者”の親から子どもを守ろうとするあまり、現実が見えなくなってしまう可能性が高そうです。

 この問題に関連して、虐待とその後の症状の因果関係について厳密に検討した、トロント大学の科学哲学者イアン・ハッキングも、「幼児期の虐待が成人期の機能障害の原因になるとする主張は、ひとつの知識というより、信仰という行為にはるかに近い」(ハッキング、1998年、65ページ)と明確に指摘しています。

 これまで私が扱った事例の中には、実際の虐待そのものが、その虐待に対する正常反応を超える症状の原因になっていた例は、事実上存在しません。虐待という出来事が心理的原因に関係していた例は稀にありますが、その場合でも、それに対して抵抗しなかったなど、何らかの形で本人の責任と――つまりは幸福否定と――関係していたということです(この点はわかりにくいでしょうから、後ほど詳しく説明します)。いずれにせよ、ここまで決定的な対立があるとなると、全く別種のものを扱っているとでも考えない限り、ストレス仮説やPTSD仮説と幸福否定という考えかたの、どちらかがまちがっているのは明らかです。

 ところで、PTSDの専門家の中にも、子どもの側の主張をそのまま鵜呑みにはできないことを認める人たちがいます。この問題について、ある精神科医は、「物事は、できることなら単純に考えるのがいい。人々を悩ませる疑惑の多くは、第三者から見ると、率直な話し合いの欠落から生じている」(斎藤、1999年、337ページ)と書いています。これは、話し合ってみればすぐに誤解だったと気づくのに、話し合うことのないまま疑惑を持ち続け、その結果として親をうらみ続ける場合が多い、という意味のようです。これまでの私の経験では、単純な話し合いによって問題が根本から解消した例はありませんが、反応などを使って事実関係を客観的に突き合せると、子ども側の主張に関する限り、ほとんどは親の主張のほうに分があることがわかっています[註2]

 虐待と、それによって起こるとされる症状や行動異常との因果関係についても、PTSDの研究者の中に、少々歯切れの悪い(そう言って悪ければ、私にはそのように見える)発言をする人たちがいます。たとえばある精神科医は次のように述べています。

 精神科治療においては患者の「心的事実」が重要である。それが事実かどうか、証拠があるかどうかを証明する必要はないし、証明しようとすれば多くの場合、治療の妨げになる(宮地、2005年、214ページ)。

 もちろん、警察の捜査ではないのですから、ことの善悪を判断する目的で事実関係を「証明」する必要はないでしょう。しかし、客観的事実ではなく、“心的事実”のほうが重要だというのなら、虐待と症状の間に真の因果関係がなくてもかまわないことになります[註3]。そうすると、虐待されたという患者側の主張をそのまま鵜呑みにするだけであり、虐待を問題にする理由がわからなくなってしまうのではないでしょうか。この点について先の精神科医は、「そのとおりにまるまる承認していくなら盲信のすすめというほかはなく、それは心理療法とは言えない」(下坂、1998年、335ページ)と厳しく批判しています。

事実を明らかにすることの重み

 私の経験では、事実を明らかにすることが治療の妨げになった例は、これまで一例もありません。逆に、事実を明らかにすることこそ、真の意味での治療になるのです。犯罪被害者の遺族を見ると、そのことがはっきりするでしょう。遺族たちの多くは、異口同音に、「自分の家族がなぜ被害にあったのかを知りたい」として、事実を徹底的に追求しようとします。典型例は、長男を殺害されたある女性の事例です。

 この女性は、長男を殺害した犯人を、その正体が不明なまま、それまで23年間も――事件が時効を過ぎた後も――憎み続けてきました。言うまでもなく、これは正当なうらみです。ところが、別の罪で服役している、その真犯人が、罪の意識に駆られたためか、時効後しばらくして名乗り出たのです。この女性は、既に法的な罪を問えなくなっている殺害犯に、殺害の状況を聞くため刑務所で面会します。その時、この女性は、正直に話してくれたことで、何とその殺害犯に向かって、「打ち明けてくれてありがとう」と、心底から素直にお礼を言っているのです。女性の娘(殺害された男性の妹)も、同じような心境になったそうです(小山、2004年、115、192ページ)。

 薬物による妄想から、自分が覚醒剤中毒であることを察知されたのではないかと思い込んだ犯人が、何の罪もない、通りすがりの息子を残忍な方法で殺したにもかかわらず、この女性は、その犯人に感謝したばかりか、面会終了まぎわには、「寒くなりますから、お体に気をつけてくださいね」などと、いたわりの言葉までかけています。そして、息子に何の非もなかったことを殺害犯から聞き出して、心から安心したというのです。非が全面的に犯人の側にあることを知れば、それによって、「何の罪もない息子をあっさり殺した」として憎しみが増すはずだと考えるのが常識というものですが、それとは逆に、心から安堵したわけです。癒やしというものがあるとすれば、これこそが本当の意味での癒やしでしょう。

 常識からすれば実にふしぎに見えますが、この女性は、息子が無残な殺されかたをしたのは、息子が悪かったためではないことを知らされて、素直に喜んでいるわけです。この生死を超越した心の動きは、逆うらみの場合とは正反対とも言える心の動きです[註4]

 先ほどの引用文に話を戻すと、事実を明らかにしようとする試みが“治療の妨げ”になるというのであれば、おそらくそれは、それまで使われてきた方法論に問題があるのであって、それまでの“共感”や“受容”という“共同幻想”にひびが入るという意味でしょう。腫れものにさわるかのように、ひたすら患者の側につこうとして遠慮した関係を保とうとする限り、真の意味での治療はできないのではないでしょうか。少なくとも、それによって患者の反省を促すことはないので、患者の(人格の)成長につながらないことははっきりしています。

 また、その一方でこの精神科医は、「トラウマに焦点をおくことで、症状の回復、つまり人格『障害』の改善や消失が起こることは少なくない」(宮地、2005年、227ページ)という発言もしています。「トラウマに焦点をおく」という表現が「病因に遡る」という意味であれば、それは、「心的事実」をそのままの形で受け入れることに限られず、事実として何があったのかを正視することも含んだ発言のように受け取れます。そうであれば、先の発言と矛盾してしまうように見えますが、どうなのでしょうか。ちなみに、先のハーマンは、自著の中で、「心理療法の基本的前提になるのは、事実を話すことが回復させる力を持っているとする確信である」(Herman, 1997, p. 181; 邦訳書、283ページ)と明言しています。

PTSD理論の弱点

 先述のように、PTSD理論の大きな問題は、その原因を、事故や事件によるショック体験と断定的に考えることです。確かに正常反応の場合には、そうしたショック体験をその反応の原因と考えてよいでしょう。これは、家族の死や自然災害に遭った経験がある人なら、誰であれ承知していることです。しかしながら、だからといってPTSDと呼ばれる病的症状も、そうした「心理的あるいは身体的なストレッサー」によって起こる、と断定してよいことにはなりません。正常反応が強くなると自動的に病的反応に発展するわけではなく、病的反応には(幸福否定というしくみのように)別のからくりがあるかもしれないからです。

 現在、事実上の“世界標準”になっている DSM-W(アメリカ精神医学協会による精神科診断マニュアル第4版)には、例によってPTSDと診断するための条件が列挙されています。それによると、PTSDという診断を下すためには、ある3条件が1ヵ月以上続いて観察されることが必要だとされています。したがって、症状発現の経過から見ると、PTSDと診断される症状には、ふた通りのパターンがあることになります。

 現在のようにPTSDが一般に知られるようになったのは、それが、ストレスを受けてしばらくしてから起こる深刻な“後遺症”のように見えたためなのではないでしょうか。アメリカでは、ベトナム帰還兵たちが示した症状からPTSDが注目を集めるに至ったわけですが、その経過から判断すると、1よりも深刻度の大きい2のほうが重視されているように思えます。

 しかしながら、PTSDの原因が、他の心因性疾患の原因と根本的に異質なものでもない限り[註5]、2のように、ストレスを受けてから間を置いて初めて症状が出現するものは、そのストレスとは別の原因で起こったものと考えざるをえないでしょう。ひとつには、その“原因”とされるストレスと、その“結果”によって起こった症状とが内容的に共通しているように見えることを除けば、その因果関係を裏づける証拠は存在しないからです。もうひとつは、そのストレスが原因だと決めつけても、それが治療とは直接に結びつかないことです。特に、向精神薬を治療の中心にすえているわが国の精神医療では、ストレスを原因としてもしなくても、何も変わらないという情けない現状があります。

 では、1のように、症状がストレスを受けた直後から起こったことがはっきり確認されている場合はどうなのでしょうか。しかし、そのことから言えるのは、「両者の間には時間的な近接がある」ということだけで、その間に因果関係のあることが、それによって証明されるわけではありません。にもかかわらず、何のためらいもなく因果関係があることにされてしまうのは、心理的原因はストレス以外にありえないという思い込みが、暗黙の前提として存在するからです。

 「心理的原因を探る」というページで説明しているように、他の心因性疾患の場合は、原因と症状との時間的近接という条件の他にも、症状が出た時点では、原因に関係した出来事の記憶が消えていることなどの条件が必要です。そのような意味でPTSDの因果関係が(推定ではなく)確定された事例は、私がこれまで目を通した資料には、事実上存在しませんでした。

 人間の心は、それほど単純なものでもなければ、弱いものでもありません。また、このような大天災の後には、平時にはあまり遭遇しないさまざまな体験が他にも必然的に続発します。したがって、原因の特定にあたっては、そうした要因も考慮しなければなりません。幸福否定の理論からすれば、たとえば、大惨事に遭遇したにもかかわらず、それを切り抜ける精神力や体力が自分にあることが自覚されたとか、家族の愛情の強さがあらためて感じられたとか、友人や知人が自分を心から心配していることが身にしみてわかったとか、他者との間に共感を強く抱くことができたとか、本当の意味で大切なものに気づかされたとか、人間の真の強さを実感として認めざるをえなかったとかの要因が、そうした症状の原因として推定されるでしょう。

 このように、PTSD理論は、常識以外にその正当性を裏づけるものがないのが実情なのです。そして、人間は、真の危機や脅威に対しては、PTSD理論がその基盤としているものとは全く違う反応をするのです。

生命の危険に直面した時の人間の反応

 アメリカ心理学の祖と言われるウィリアム・ジェームズは、それまでアメリカ東海岸でしか暮らしたことがなかったため、地震というものを知識でしか知りませんでした。ところが、1906年春に、スタンフォード大学で教えるため、仮住まいしていた宿舎で、サンフランシスコをほぼ壊滅させた大地震を家族とともに体験するのです。宿舎の煙突はすべて倒れ、居室は崩れ落ちたレンガで足の踏み場もない状態になりました。その時、ジェームズには、恐怖心も嫌悪感も起こらず、「これが地震か!」とむしろ感動したというのです。そして後に、ある私信の中で、次のように述べています。

 私の場合、感覚と感情が強かったあまり、その現象に心を奪われていた短時間のうちは、思念が入り込む余地はほとんどなく、熟考や意志介入は全く不可能でした。
 その時の感情は、もっぱら歓喜と驚異の念だったのです。歓喜とは、“地震”のような抽象的な観念や用語が、感知しうる現実に置き換えられ、それが事実であることが具体的な形で証明された時に初めて身につけることのできた迫真性に対する心情であり、驚異の念とは、かくも脆弱な小さな木造家屋が、あれほどの激震にもかかわらず、自力で持ちこたえることができたことに対する心情です。私は、わずかにせよ恐怖というものを感じませんでした。それは、純然たる歓喜と歓迎の念だったのです。(Hardwick, 1960)

 これは、決して異常な反応ではありません。たとえば、鴨長明も『方丈記』に、自ら体験した大火や地震を、人知の及ばない大自然の偉大な力として真摯に認め、ある種の感動を持って描き出しています。広島の被爆者たちも、「多かれ少なかれ〔中略〕異様な光景にある種の魅力を感じたと考えるべきであろう。蜂谷博士〔蜂谷道彦=広島逓信病院院長〕も、原爆の翌日に病院に現われたある男性が、前日に見た異様な光景をこまごまと説明し、しかも、それを何度もくり返した例を指摘している。〔中略〕誰もその話をとめようとするものなどいなかった。それほど皆その恐怖の物語に引きつけられていた」(リフトン、1971年、44ページ)ようなのです。そういう側面があったのもまた事実なのでしょう。

 また最近では、阪神淡路大震災のある体験者が、次のように述べています。「目の前が明石海峡ですので、激震時の空や海の表情を、カーテンを開けて観察しておくべきだったと今になっては悔やまれますが、その時は暗闇の中で病人を守ることしか考えられませんでした」(お茶の水女子大学桜蔭会兵庫県支部編、1996年、86ページ)。

 このような大震災や被爆などを体験した人たちが書いた記録(たとえば、同書。永井、1949年。蜂谷、1955年。藤尾、1997年)を読んでも、海や山の遭難者たちが書いた記録(たとえば、佐野、1992年。松田、1983年。山野井、2004年)を読んでも、もっぱらそこに浮かび上がるのは、年齢とは無関係に見られる、きわめて強靭な人間の姿です。負傷しても、前線で負傷した兵士と同じく、ふだんなら当然感じられるはずの痛みもほとんど感じられません。そこでは、脆弱な人間という仮の姿はほとんど影を潜め、生死を超越した人間の本性が、一過性に現出しているようです。

 超人と呼ばれたイタリアの著名な登山家ラインホルト・メスナーは、岩場から転落したたくさんの登山家の体験をまとめています。この著書は、人間が死に直面した時に、“火事場のばか力”的に発揮する体力や精神力が、さらにはそのような状況の中で起こる心の動きが明確に描写されている、唯一とも言える資料でしょう。

 私自身の調査によると、大なり小なり事故のあった登山者で、その後山へ行くことを尻込みした人はわずか2.4パーセントである。むろん残りの97.6パーセントのうち11パーセントが、事故体験を精神的に克服するまでに長い時間がかかったと告白している。しかし、この11パーセントがすべて非常に軽い事故だったことを考えると、重い事故よりも軽い事故のほうが精神的外傷が大きく、その体験も、大きい事故の場合より重いと結論していいだろう。〔中略〕ショックの強さはこのように致死率を意識するかどうかにかかっており、しかもショックの強さは転落の重さに反比例するのである。死の可能性が大きければ大きいほど、それがわれわれの心性に及ぼす作用は軽い。(メスナー、1983年、97-98ページ。強調=引用者)

 このことは、登山家の山野井泰史さんや松田宏也さんが、凍傷で手足の一部を失っても、それにめげることなく、強い熱意を持って登山を再開していることを見ても頷けるはずです。PTSD理論という常識論が専門家の手によって生まれ、世界中で確固たる地位を占めるに至った理由を解明するためのかぎが、どうやらこのあたりにありそうです。メスナーは、PTSD理論を否定しようとして、このデータを集めたわけではありません。先入見にとらわれず、客観的な調査をした結果、このように常識とは正反対の結論に自然に導かれたということです。

 また、臨死体験をした人たちの圧倒的多数で、死に対する恐怖心が弱まり、強まった者はいないという事実も、メスナーが導き出した結論の有力な裏づけになるでしょう。それに対して、同じように生命の危機状況に陥っても、臨死体験をしないまま蘇った人たちの場合には、死に対する恐怖心は変わらなかったのです(たとえば、セイボム、2005年)。メスナーの言うように、まさに、死に直面することが重要だということが、それによってわかるでしょう。

 話を戻すと、ショック体験自体を“PTSD”の原因とするためには、その出来事によるストレス以外の要因をすべて排除しなければなりません。にもかかわらず、その点についての検討は、これまで全くなされてきませんでした。常識がその裏打ちにはならないことが明らかになった今、その点がPTSD理論の大きな欠陥として浮かび上がってきます。ここで、PTSD理論を信奉する研究者に要求されるのは、メスナーが指摘するように、そのショック体験の大きさ(死との近接性)とそれによる“心的外傷”の大きさとの関係が、実際にはどうなっているのかをはっきりさせることでしょう。この理論の信奉者たちの言うように、また常識として考えられてきた通りに、両者ははたして正比例するのでしょうか。それとも、メスナーが調べた登山家たちの場合のように、反比例するのでしょうか。

本人の責任という問題

 これまでは、主に、原因になるかどうかはともかく、実際にそれらしきストレスが存在することを前提に話を進めてきました。しかし、私の経験では、その存在自体がそもそも疑問なのです。本節では、幼児虐待の事例を通して、その点を検討することにします。

 『“It”と呼ばれた子』という一連の自伝的著書で世界的に知られるようになったデイヴ・ペルザーさんは、実際に、母親から連日のようにひどい虐待を受けていました。ところが、ペルザーさんには、自分が親元から保護されるきっかけになった出来事の記憶が全くありませんでした。20年近く後になってペルザーさんは、その理由を当時の担任教師から聞かされます。それは、その日の朝、登校したペルザーさんの腕の皮膚がなくなっていたという事件でした。

 「先生方みんなが、警察に電話した、あの朝のこと、思いだした!」目から涙があふれてきた。「思いだしました」くり返して言った。「指も腕も……ひどくかゆくて。掻くのをやめられなかった……それで、あの、家の仕事が時間までに終わらなかったんです。先生が警察に知らせた金曜の朝……あの日、母はぼくを学校に送っていかなきゃならなかった。そんなことめったになかったけど、でも……すごく遅れちゃって、仕事をするのが遅くて。皮膚がないから……何もつかめなくて……時間までに終えられなくて……」〔中略〕
 「でも……あれは金曜の前日の、午後だった、あの人がぼくの腕をバケツに突っこんだのは……バケツの中身は……アンモニアと漂白剤を混ぜたものだった。そうだ。そのせいだったんだ」ぼくは背筋がぞっとして、目をつぶり身震いした。目を開けると、涙が頬を伝わるのを感じた。「すっかり忘れてたんです、何もかも。まいったな。あの人がやったことも、言った言葉も、すべて覚えているつもりだったのに」(ペルザー、2003年、297-298ページ)

 これは、本当に経験していなければ決して書けない経過です。これがひどい虐待であるのは、誰の目にも明らかでしょう。ところが、その後ペルザーさんは、母親による虐待には、自分にも責任があると考えるようになります。これは、よく言われる、すべてを自分のせいにするような卑屈な態度とは質的に全く異なるものです。次に引用するのは、後に妻となる女性の問いかけに答えている場面です。

 「ぼくには何かできたはずなんだ! それが何よりも許せないんだ。ぼくは決していやだと言わなかった。決して自分の立場を主張しなかった。きみにはわからないのか? ぼくには止められたはずなんだ。ぼくのせいで、あんなにひどいことになったんだ。あの日――彼女〔母親〕に刺されたとき、ぼくはただ突っ立ってるだけだった、まるでそうしてくれって頼んでるみたいに。ぼくの兄弟たちだったら、ぜったいにあんなこと許さなかったはずだ。彼らの目を見ればそれがわかったよ。でも、ぼくは許してしまった。いつもそうだった。彼女がほかの部屋にいるのに、犬の糞まで食べた。ディスポーザーに捨ててしまうだけで、気づかれずにすんだはずなのに、それでもぼくは食べた。彼女の望むことは何でもやったんだ。ぜったいに立ち向かおうとしなかった。ぼくがしなきゃいけなかったのは、たった一度でいいから、あの人をとめることだったのに。たぶん、一度でもそうしていれば、何もかも変わっていたかもしれないんだ」〔中略〕
 「みんなは思ってるんだろう、ぼくが――ぼくが、自分の哀れな過去の話をするから、ものすごく勇気があるって。実のところ、ぼくがそんなに勇敢なら、なぜあの人を止める度胸がなかったんだろう? 家を出ることだってできたんだ。いくらだってチャンスはあったんだから」(同書、329-330ページ)

 ここで、母親に反抗しなかった理由を、“虐待の再現”という概念を持ち出して説明しようとする専門家もいることでしょう。しかし、その概念は、そのような自虐的行動に名前をつけただけのものにすぎず、何の説明にもなっていません[註6]。また、虐待の経験者であっても、自分が虐待を“再現”する理由が意識でわかっているわけではないのです(たとえば、穂積、2004年、197ページ)。

 ペルザーさんの言う通り、一度でもはっきり拒絶していれば、母親はその後の態度を大きく変えた可能性が高いでしょう。母親の言葉にひたすら従順に従っていたため、たぶんそれが裏目に出てしまっていたのです。母親からすれば、子どもが自分の理不尽な要求に素直に従えば従うほど、その健気さを通じて、自分に対する子どもの愛情が切々と感じ取れるわけです。その場合、幸福否定が強ければその分だけ、子どもが自分に向けた愛情を否定しようとして、さらに子どもを虐待することで自分が嫌われるように仕向ける、にもかかわらず子どもは逆らわないどころか、ますます自分にすり寄ってくる、という悪循環に陥っていたことが推定されます。この仕組みは、オウム真理教の教祖と弟子たちの関係(笠原、2004年、200ページ)にも、そのまま当てはまるのではないかと思います。

 恐怖心が自己主張を避けた理由にならないことは、「身代わりミュンヒハウゼン症候群」[註7]のある女性が、その手記の中で述べている言葉を見てもわかります。その母親は、“治療”と称して、かなづちで足首などを繰り返し殴りつけて骨折させたり、刃物で切りつけたり、傷口の中に、そのためにわざわざ培養した細菌を植えつけたり、熱湯をかけて広汎に火傷を負わせたりなどして、週に3回ずつ、この女性に凄絶な虐待を繰り返していました。この女性は、それまでも母親の暴力から逃げようとしたことはありましたが、「じっとしていないと、よけい時間がかかるよ」と言われ、「お母さんが怒るのはわたしのせいだ。わたしはいい子じゃなかった。もっとがまんして、お母さんに気に入られるようにしなければ。そうすれば、かわいがってもらえるんだから」と思うようになっていたのです。ところが、この女性はその考えを変えます。

 自力で助かるしかないことがわかったのは、小学校4年生の時だった。私はひどく恥ずかしがりやで、恐くて人に助けを求めることができなかった。それまで人から聞かされてきたのは、母はすばらしい人物で、私のために自分を犠牲にしてきたという話ばかりだった。〔中略〕
 ある日の午後、母が“治療”の準備をしていた時、勇気をふるって、これから学校の先生とお医者さんに話しに行くと告げた。どうしてかわからないが、母はそれで手を引いた。〔中略〕虐待はなくなり、私の健康状態は“奇跡的”に改善して行った。それまでの8年間で初めて、完全に両脚を使えるようになった。その後、修復のために何度か手術を受けなければならなかったが、最悪の状態は終わりを告げたのだ。とはいえ、靴のサイズが左右でふたつ違っていることや、両腕と両脚全体に広がるひどい傷痕が、母の歪んだ愛情の記憶を、今なお留めている。(Bryk & Siegel, 1997, p. 3)[註8]

 この事例では、母親の虐待を止めるには、本人が、それを断固として拒絶する態度を母親に示すだけで十分だったのです。そして、その後は、1歳8ヵ月上の姉と、7歳下の弟と同じように、ふつうに育てられたようです。この女性の場合も、他の事例のようにそれまであきらめていたのですが、わずか10歳の時に、その考えを変えたわけです。また、この女性は、その虐待について、30年もの間、誰にも話さずにいたものの、その記憶はずっと保たれていたそうです。そのおかげかどうかはともかくとして、この女性は、その後、解離性障害などの疾患を起こすこともなかったのです。これほどの虐待が行なわれながら、この女性に大きな心理的問題が起こらなかったのに対して、心理的問題を起こした人たちに、これほどの虐待が行なわれていないことは、奇妙に思えてくるのではないでしょうか。

 虐待を受けた人たちの相談に乗っている、あるアメリカの牧師は、キリスト教の立場から、次のような発言をしています。

 〔虐待からの〕回復期の目標には、心の中の子供が喜ぶ宝を再発見することがあります。ある人にとってこれは自分の苦痛の根を理解することくらい複雑かもしれません。なぜなら、多くの犠牲者は、苦痛を抑圧したり忘れ去ったりしたのと同じように、宝の存在も抑圧しているからです。〔中略〕宝を見分け、それを受け入れようとするならば、罪責感や恐怖心と戦わなければならないかもしれないということを覚えておいてください。まるで、あなたの中の犠牲者の部分が罪責感と恐怖心を生じさせ、あなたを宝の喜びにはいらせないように番をしているかのようです。(ビューラー、1995年、210、217ページ)

 先のペルザーさんは、『“It”と呼ばれた子』3部作の完結編で、「何があったとしても、命を奪われずにすんだのなら、そのできごとは人をより強くするだけ」(ペルザー、2003年、361ページ)という、虐待を受け続けた人ならではの崇高な発言をしています。ふつうの人でも、ここまでの“気づき”に至るのは難しいでしょう。この“気づき”こそが、何ものにも変えがたい“宝”なのです。母性愛に逆らってまでして、最もかわいい子どもに過酷な虐待を続けてきた母親の隠された愛情を、虐待された子どもが素直に受け止めた結果なのです。ペルザーさんがそうした悟りに到達することができたのは、母親から凄絶な虐待を受け続けたという現実から目を逸らさずに、自分の内心が作り出すさまざまな誘惑を乗り越えてきたたまものと言えるでしょう。

 ここまで来ると、現在のPTSD理論が大きな過ちを犯していることが、ますますはっきりしてくるのではないでしょうか。

[註1]残念ながらこの著書の翻訳には、かなり深刻な問題があることが判明したため、引用に際しては、あえて原著から拙訳することにしました。なお、参考までに邦訳書の当該ページも付記しておきます。

[註2]もちろん、親にも問題がないわけではありません。ここで言っているのは、子ども側が主張している部分については、という限定がついています。子どもの側には、ささいな問題について、「一生うらんでやる」とか「何倍にもして返してやる」などの発言が目立ちます。そして、現実にも、親が困りそうなことを次々と繰り返す子どもが――30代、40代になっても――多いのです。ついでながら、子どもが親になった場合には、攻守が完全に逆転します。子どもといっても、年配の場合には本人も子どもを持っていることがあります。その場合には、自分の親に対しては一方的にうらみをぶつけますが、自分の子どもからは自分が一方的にうらまれることになるわけです。

[註3]そうなると、理論的にはジュディス・ハーマンとは逆に、誘惑理論を放棄した後のフロイト理論に与することになりそうです。

[註4]ふしぎなことに、これは、人間に普遍的に観察される心の動きです。この問題に関心のある方は、拙著『幸福否定の構造』第7章をごらんください。心理学者や法律家は、“被害者”に表面的に味方するのではなく、復讐心を越えた、このような被害者やその遺族の心の動きをこそ研究すべきでしょう。

[註5]オランダのマーストリヒト大学実験心理学科のヘラールツさんたちは、PTSDと診断された121名のクロアチア戦争の帰還兵を対象にして、健忘、フラッシュバック、悪夢などの症状を調べました。その結果、トラウマを起こす出来事に特有の記憶の仕組みがあることを裏づける証拠は存在しないことがわかったそうです(Geraerts, et al., 2006)。

[註6]ハーマンは、当然と言うべきか、被害者側の責任を認める発言もしています。「実際のところ、たいていの人は、時おり不必要な危険を冒す。女性たちはしばしば世間知らずのため、危険を知らないまま、あるいは反抗的に向こう見ずな形で危険を冒す。たいていの女性は、男性がどれほど自分たちの敵であるのかを実際にわかっておらず、両性間の関係は実際よりも好意的なものだと思いたがっている。同様に女性は、自分たちが実際よりも自由で社会的地位も高いと思いたいものである。自分たちが自由であるかのようにふるまう時――つまり、服装やしぐさや社交上の主導権について、伝統的に課せられている制約を守らない時――特にレイプされる危険性が高い。自分たちが自由であるかのようにふるまう女性たちは、「無軌道」と表現される。それは、「束縛されていない」ということばかりでなく、性的に挑発的だということも意味しているのである」(Herman, 1997, p. 69; 邦訳書、103ページ)。

[註7]これはアメリカに多い疾患ですが、病名の由来はともかくとして、要するにこれは、さまざまな手段を使って、現実に子どもを病気にさせたり、負傷させたりなどして、保護者が子どもを病気に仕立てあげ、治療を受けさせるという、特殊な形の幼児虐待と言えるでしょう。日本では最近、女子高校生が母親に毒物を飲ませ続けて意識不明の重体にさせるという親子逆転型が報道されました。

[註8]アメリカ小児科学会のホームページで、被害者自身の写真が掲載されたこの論文を見ることができます(2007年11月上旬頃までは無料で閲覧できたのですが、その後、12ドルの料金が課せられるようになりました)。その写真を一見するだけで、まさに想像を絶する虐待が行なわれていたことが、はっきりとわかります。

 【本稿の参考文献は、第5部の末尾に一括して収録しています。】
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Copyright 2008 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/11/11