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PTSD理論の正当性を問う 2

 PTSD理論の政治学

科学と政治学

 パキスタンとアフガニスタンで活動する医療援助団体ペシャワール会の中村哲医師は、欧米の建前ばかりの物見遊山的ボランティア・グループを尻目に、旱魃を解消するため、2000年夏からアフガニスタンで、現地の人たちを指揮して、実用に供する井戸をこれまで1400本以上掘っています(「朝日新聞」2006年10月3日付夕刊)。それは、援助する者が他にいないため、きわめて深刻な旱魃から住民を救わなければ、それによって多くの人たちが病気になったり死んだりしてしまうので、病気を治療するどころではないという、やむにやまれない事情があるからです。「とにかく生きておれ、病気は後で治す」(中村、2001年)という姿勢は、こうした極限状況では一貫性を持つものとして十分に理解できます。このように、医療関係者でも政治的、行政的行動を優先させてもよい(あるいは、優先させない限り、自分たちの存在意義がない)場合のあることは、まぎれもない事実です。

 PTSDという概念(の少なくとも大きな支流のひとつ)は、政治的背景の中から生まれたものだそうです。それは、この概念の中心的主唱者であるアメリカの精神科医ジュディス・ハーマンが、主著『心的外傷と回復』(みすず書房)の冒頭で、「本書はその生命を女性解放運動に負うものである」(ハーマン、1996年、ix ページ)とはっきり謳っていることからもわかります。

 言うまでもありませんが、PTSDという概念には、最初から原因論が必然的に含まれています。しかし、この種の原因は、科学的方法を使って厳密に突き止めるべきものであり、そこに被害者への同情などの感情的要因や政治的要因が関与する余地はありません。もしPTSD問題に感情的、政治的側面が介入することが許されるとすれば、それは、純粋に科学的な方法を使って検討した結果、そうした要因がPTSDと呼ばれる症状の原因に含まれることが確かめられた場合に限られるはずです。その場合には、その症状を解消する手段として、あるいはその症状の出現を未然に防ぐ目的で、そうした側面をどうしても考慮に入れなければならなくなるでしょう。

 この点をきちんとわきまえておかないと、さまざまな問題が発生するおそれがあります。たとえば、病気や症状を治療しようとする、いわば公的目的と、被害者を被災状態から救い出したいという個人的願望とが、PTSD理論の内部で渾然一体になっているとすれば、そこに、この理論の大きな欠陥があることになるわけです[註9]

“心のケア”の問題点

 PTSDという考えかたには、その政治的姿勢の背景として、悲惨な状態にあって困っている人たちを救ってあげたいという同情的な気持ちが抜きがたく潜在しているように思われます。同情は、それ自体が悪いわけではないのですが、それが押しつけの形を取る時には、大きな問題に発展することが少なくありません。この点について検討するため、まず、“心的外傷”を負った人たちに対する“温かい”接しかたが、相手をどれほど困惑あるいは憤激させる場合があるかを見ておくことにしましょう。なお、PTSDの政治的背景の構成要素については、次章「PTSD理論の内部構造」で詳細に検討することにします。

 最初に取りあげるのは、1980年夏に起こった新宿西口バス放火事件で、全身に火傷を負ったある女性の事例です。これは、東京の新宿駅西口バスターミナルに停車中のバスに乗り込んだ、精神科の入院歴を持つ男が、ガソリンをまいて火をつけ、たくさんの乗客を死傷させた無差別大量殺人事件です。この女性の人生は、その時に負った火傷のおかげで、大幅な変更を余儀なくされました。

 この女性は、度重なるマスコミ取材の身勝手さに憤りを感じ、取材をずっと拒絶していました。しかし、ある時、あるテレビ局の記者の取材には応じることにしたのです。「こんなことを言っては失礼かもしれないけど、僕はあなたをうらやましいと思います。自分自身を真正面からみつめざるを得ない機会を得たということで」という取材記者のひとことが、そのきっかけになりました。「うらやましい」という言葉が、ひとつの本質をついていたのです。

 事件に遭遇したことを、彼はそう感じとる。不運、災難、不幸、あるいは貴重な体験をした被害者――と、それまでに私に取材を依頼してきた連中は、常にそういう言葉で彼等自身は理解しようとした。
 それらの言葉は私の感情にひっかかった。不運、災難、不幸、貴重な体験、と、いらぬお世話はやめてくれと言いたかった。不運であるか、災難であるか、不幸であるか、貴重な体験であったか、それは私が感ずる問題である。彼等自身が感じてもいない、感じようもないものを便利な常套句で規定してしまうことこそ、本来のマスコミが荷うべき使命とは桁はずれにかけはなれた、それは暴力でしかない。そんな常套句からは真実はかけらほども捜せはしないのだ。(杉原、1983年、224ページ)

 この女性から非難されているマスコミ関係者たちは、もちろん悪意を持っていたわけではなく、自分たちの“使命”や仕事に懸命に取り組んでいるつもりだったのでしょう。しかし、特に人災や犯罪の被害者の場合、相手の気持をわかって(あげて)いるつもりが、当事者からすれば「いらぬお世話」になってしまい、その結果として、両者の間に決定的なずれが生じてしまうのです(たとえば、副田、1996年、248ページ)。そのため、この犯罪被害者は、周囲の“好意”に強い憤りを感ずることになったのでした。この齟齬は、PTSDの治療のみならず“心のケア”を専門とする人たち一般にも、そのままの形で当てはまるはずです。

両者の間に発生するずれの本質

 次に取りあげるのは、2001年にハワイ沖で発生した「えひめ丸」事件に関係して起こった問題です。周知のように、宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」は、軍船にありうべからざる遊興的かつ低俗な目的で急浮上したアメリカ海軍の原子力潜水艦による、夢想だにしなかった下側からの衝突のため沈没し、高校生を含めて9人が行方不明になりました。

 急遽、現地入りした不明者の家族は、米軍側から事故について説明を受けたり、事故現場に案内されたりしていましたが、悲しみや怒りや憎しみは強まるばかりで、不眠や苛立ちなどを起こす人たちもいました。そこに、アメリカ赤十字社などの慈善団体が、ホノルルの日本総領事館を通じて、日本語が話せるカウンセラーの派遣を申し出ます。ところが総領事館は、「必要な状態にない」として、その申し出を謝絶したのです。この問題について、ある臨床心理学研究者は次のように述べています。

 断ったのは家族の意向を領事館が察したためであったと考えるのが自然である。もし家族がカウンセラー派遣を望むと予測されるなら、この申し出は当然実現していたはずだからである。ここにカウンセラーを派遣しカウンセリングを受けさせようとする側と、それを受ける側との間に起きるズレや溝を見ることができる。〔中略〕
 いったい何が起こったのか、その事実を少しでも正確に知りたい、そして相手方はできるだけ詳しく誠実に説明しようとしてほしい、さらに謝罪の気持ちの伝わる態度を表明してほしい。それが被害者に対する最低の礼儀であり、とるべき態度である。〔中略〕
 見も知らぬカウンセラーがやさしげに訪れてくることの見当違いや違和感は、言うまでもないことなのではないか。(小沢、2001年、154-155ページ)

 家族たちが示した“症状”は、PTSD理論を信奉する人たちから見ると、まさしくPTSDそのものなのでしょう。しかも、手を差し伸べようとしたのは、赤十字などの慈善的な医療援助を業務としている中立的で正統的な団体です。にもかかわらず、その暖かい申し出は、援助されるはずの側に拒絶されてしまったのです。肝心なことを何ひとつしないでおいて、いらぬおせっかいを焼き、これ以上われわれを苛立たせないでほしいというのが、この時の家族たちの偽らざる心境でしょう。

 自分の子どもや夫や父親が、米軍の遊興的愚行の結果として行方不明になったことに対して、自分たちが心配したり憤ったりして、食事がのどを通らなかったり眠れなかったりするのは、場合によってはパニックのようになるのは当然のことではないか。その正常な心の動きを病的なものと勝手に見なして、愛する家族を思う自分たちの気持をないがしろにするつもりか、ということなのだと思います。自分の家族が海中で行方不明になっている時に、落ち着いた気持で捜索活動の進展を待ち、夜には安眠しようなどという気持があるはずもないでしょう。

 正常な心の動きの場合、その解消は自然のなりゆきに任せるしかありません。この場合、援助は物理的なものに留め、あとは黙って事態の推移を見守るべきであり、できることがあるとすれば、米軍側にきちんとした対応を迫り続けることくらいのものでしょう。雲仙普賢岳の噴火による災害後に、精神保健活動に当たった精神科医も、この問題について、同趣旨の発言をしています。

 災害からしばらくの間は、ショックに打ちひしがれ、悲嘆にくれる時間が被災住民には必要であるので、その間は(応急的処置は別として)カウンセリングよりもむしろ生活支援に重点を置く方が精神的援助にもつながるであろう。(荒木他、1995年)

 これは、体験に基づいた発言であるだけに貴重です。また、レイプ犯に80日間も監禁された12歳の少女は、解放された後、次のような思いをめぐらしています。

 精神分析よりなにより私が必要としていたのは、事件を忘れるためのバリケードだった。私の負った傷は、治療で治していく類のものではない。起こったことを受け止め、自分なりに消化し、普通の生活習慣を少しずつ取り戻しながら、自分ひとりで切り抜けていくしかない。それなのに、誰も理解してくれなかった。〔中略〕進んで心を閉ざしたわけではなく、誰の力も借りられないから、だから自分ひとりで乗り切っていくしかなかったのだ。回復に必要なのは治療ではなく、放っておいてもらうことだった。(ダルデンヌ、2005年、194-195ページ)

 したがって、いくら被害者の立場に立ったつもりになって“受容的、共感的”態度を示したとしても、まるで的が外れていることになるのです[註10]

 話を戻すと、前章の「PTSD理論の根本的問題点」で取りあげた、何が起こったのか本当のことを知りたい、という強い願望を、ここでも被害者側に見ることができます。ところが、加害者側は、自分たちが窮地に追い込まれずにすむようにしながら、自らの責任を可能な限り回避ないし矮小化しようとするため、事実をありのままに見ることができません。そのため説明も、当然のことながら責任回避的で、高圧的か、逆に及び腰的なものになりがちです。その結果として、両者の間に介入しようとする“心の専門家”たちは、被害者側には、加害者側の責任回避に加担しようとしている“手先”のように映ってしまうわけです。

 自分たちが同じ立場に立たされれば、すぐにわかることなのに、好意から援助の手を差し伸べようとする側は、そうした被害者の心の動きを的確に把握することができません。ここが、身体的な援助の場合と根本的に違うところなのですが、手を差し伸べようとする側は、この「見当違いや違和感」が、少なくとも意識の上ではわからないのです。しかし、えひめ丸事件の場合は、“心のケア”をしようとする側が援助について事前に打診してきたので、まだましだったのかもしれません。好意のつもりで、いきなり押しかけてしまっていたら、最悪の状態に陥っていたことでしょう。

現実に起こった深刻な問題

 このように、“心の専門家”が、正常反応と異常反応を区別せず、政治的理念と治療的行為を分離することのないまま、“心の傷”を負った人々に救いの手を差し伸べようとすると、治療的な援助をしようとしているのか、相手の気持を逆なでまでして政治的な運動をしているのかが、まるでわからなくなってしまいます。政治的運動をしているのだとしても、はたして相手の立場に立って相手のためにしているのかどうかが、そもそも疑わしいわけです。その結果、子どもの虐待の“先進国”とも言うべきアメリカでは、現実にきわめて深刻な現象が発生したのです。

 現在は下火になってきたようですが、アメリカでは、自分が幼時に虐待されたとして、親を告訴する子どもが続出した時期がありました(斉藤、1999年)。それは、主として専門家が、子どもたちから催眠を使って幼時の“虐待の記憶”を引き出したひとつの帰結なのでした。子どもたちは、その記憶が事実かどうかが別個に確認されないまま、その記憶が正しいものとして親の告訴を始めたのです。その中には、悪魔崇拝儀式[註11]の中で乳児が虐待されて殺されたなど、現実にはありそうもない出来事を“思い出した”人たちも少なくありませんでした[註12]。そして、そのような子どもたちの親の中には、自分では子どもを虐待した記憶はないが、子どもがそう言っているのだからまちがいないのだろうとして、法廷で自分の“罪”を認め、潔く服役した男性もいたほどです(ライト、1999年)。

 ことは、それだけに留まりませんでした。信じがたい話なのですが、アメリカ心理学協会に所属する一部の(多くは博士号を持つ)会員(2709名)を対象に1991年に行なわれたアンケート調査によれば、儀式的虐待があったとする子どもたちを治療したことのある会員は30パーセントにのぼり、そうした主張を事実として認める専門家は、そのうちの93パーセントにも達することがわかったというのです(Noblitt & Perskin, 1995, p. 170)[註13]。それが事実なら、まさに異常と言うべき事態です。

 このような動きに対抗せざるをえなくなった親たちは、1992年に、子どもたちの“虐待された記憶”が本物ではないことを訴える団体(虚偽記憶症候群財団)を結成するに至ります[註14]。このような状況の中で、実の両親にも愛情を注がれたことがなかった(かわいそうな)子どもたちの味方になってあげなければならないなどの理由をつけて、治療者が無条件に患者の“味方”をすることは、患者を悪しき虐待者から救い出し、トラウマの解消に寄与している(はずだ)とする治療者自身の自己満足以上のものにはならないでしょう。そのような行為は、真の意味での治療にもならなければ、根本的な意味での問題解決にもならず、かえって事態の混迷を深めるだけであり[註15]、治療者の存在意義すら疑わしくなってきます[註16]

 このような食い違いが生まれるのは、PTSDという概念自体に治療者自身の同情的な気持が入り込む余地があるためというよりはむしろ、それがこの概念を現実に適用・運用する原動力になっているためなのではないでしょうか。前章で説明しておいたように、この概念には、他にもさまざまな問題が含まれています。そのうち、前章で扱わなかったのは、PTSDを起こすとされる人たちは、被害者ばかりなのか、それともそこに加害者も含まれるのかという問題です。もちろん、被害者や加害者という概念は、どの立場に立つかによって違ってきます。しかし、第三者的な立場に立てば、比較的公平な判断ができるものです。

加害者と被害者の混在

 DSM-WによるPTSDの定義と、ハーマンの定義は同じではありません[註17]が、自然災害や人災によるさまざまな“心的ストレス後障害”を同一平面上にまとめた概念という点では完全に共通しています。前章に引用しておいたように、ハーマンは、自著『心的外傷と回復』の中で、「レイプ後生存者と戦闘参加帰還兵との間に、被殴打女性と政治犯との間に、さらには、民族を支配する暴君が生み出す巨大な強制収容所群の生存者と自分の家庭を支配する暴君が生み出す秘密の小強制収容所の生存者との間に」(Herman, 1997, p. 3;邦訳書、xivページ)、共通性を持つ同質のトラウマによるPTSDが発生すると述べています。そして、これがPTSD理論の(おそらく最大の)長所とされているわけです。とはいえ、さまざまな被害者が列挙されている中で、“戦闘参加帰還兵”だけは際立って異質に見えます。

 現在ならまちがいなくPTSDとされる症状自体は昔から知られていましたが、PTSDが社会的に認知されるようになったきっかけは、ベトナム帰還兵たちが示した症状でした。そして、しばらくは、PTSDと言えばベトナム帰還兵が示す症状を指す言葉だったのです。しかしながら戦闘参加帰還兵は、特に、明らかな侵略戦争だったベトナム戦争の歴史的本質を考えると、本来は加害者のはずです。しかし、症状としては他と共通して見える“PTSD”を示したがために、他の被害者たちと同列に並べられることになったわけです。

 PTSD理論が政治性を謳うのであれば、どうしてもその点を問題にする必要があります。ところが、PTSDという脈絡では、この帰還兵たちが加害者として扱われているのか、それとも被害者として扱われているのかが、いまひとつはっきりしません。その点を明確にするため、ハーマンの主張を検討してみることにしましょう。少々長いですが、そのまま引用します。なお、原文には改行がありませんが、読みやすくするため、適当に改行しておきました。

 人間的なつながりが壊れ、その結果として心的外傷後障害が発生するおそれが最も高まるのは、生存者が暴力による死や残虐行為を目撃した時ばかりではない。それに積極的に関与した時も同じなのである。戦闘場面を目の当たりにすることによるトラウマが強度なものになるのは、暴力による死が、何らかの高尚な価値や意味という点でもはや正当化されえなくなった時なのである。
 ベトナム戦争では、戦闘によって勝利を収めるという目標の達成が不可能になり、戦果のものさしが人殺しそのものになり下がり、敵側の戦死者数をその指標にするようになった段階で、兵士たちの士気は深刻な低下をきたした。このような状況で、心理的障害が最も持続しやすくなる条件は、死の場面に遭遇することばかりでなく、むしろ悪しき意図を持った無意味な破壊行為に関与することなのであった。
 ベトナム帰還兵を対象にしたある研究では、その20パーセントほどがベトナムでの兵役期間中に残虐行為を目の当たりにしたことを認め、それ以外の9パーセントが自ら残虐行為に関与したことを認めたという。ベトナムから帰還した後に、最も強い症状を示したのは、残虐な蛮行を目撃したかそれに加担した者たちであった。このことを裏書きする、ベトナム帰還兵を対象にした研究がもうひとつある。残虐行為に加わったことを認めた者は全員が、戦争終結後10年以上経過した時点でも、心的外傷後ストレス障害を示したことが明らかになったのである。(Herman, 1997, p. 54;邦訳書、80ページ)

 この引用文を読んでも、やはりいまひとつ不明瞭です。アメリカが勝つ見込みがなくなり、侵略戦争がもはや正当化しきれなくなり、無意味な殺戮や蛮行を繰り返すばかりになって、兵士たちの士気がいやおうなく低下し、そうした状況の中で、「悪しき意図を持った無意味な破壊行為に関与すること」が、後年、最も重い症状の出現に結びつくという経過が主張されているところまではわかります。しかしながら、後年の症状の原因となる“トラウマ”は、積極的にせよ消極的にせよ、残虐行為に関与させられるという被害者的立場に立たされた状況に起因するということなのか、それとも自分の責任で残虐行為に関与したという状況に起因するということなのかが不明瞭なままなのです。またこの部分の原典であるブレスラウらの論文(Breslau & Davis, 1987)を読んでも、やはりはっきりしません[註18]。それとも、そもそも敗残兵であり祖国で冷たい扱いを受けたので、必然的に被害者だという前提でもあるのでしょうか。

 一般に“ストレス”というものは、本来的に被害的なものという暗黙の前提があるようです。そのため、上官の命令にしぶしぶ従って残虐行為に関与した場合ならともかく、自分の意志で積極的に残虐行為を行なった場合には、それがトラウマになるという発想は生まれにくいように思います。その場合には、戦争“犯罪”の責任が当人自身にあることになるからです。そこで次に、積極的加害者になったことに起因する“ストレス”や“トラウマ”というものが実際に存在するのかどうか、それによる“PTSD”ないしは心因性の反応が見られるものかどうかを調べてみることにしましょう。もしそれが存在するとなると、PTSD理論に別の方向から亀裂が入る可能性が出てくるからです。

積極的加害者であることによる“トラウマ”は存在するか

 ワシントン医科大学のトマス・ホームズらが1967年に発表した、ストレス尺度として有名な「社会的再適応評価尺度」には、根拠はよくわかりませんが、「配偶者の死亡」を100点として、11点の「軽犯罪」に至るまで、43項目のストレス因が、重い順に列挙されています[註19]。そのうち、加害に関係する可能性がありそうに見えるのは、4番目の「服役」(63点)だけのようです。ホームズらは、これを不名誉な事件を起こしたことによるストレスか、拘禁状況によるストレスと考えたはずですが、ストレスという考えかたで説明しようとする立場に立つのであれば、「自分が犯した犯罪の“外傷性記憶”に向き合うことによるストレス」という見かたも不可能ではないでしょう。

 また、DSM-WによるPTSDの診断基準を念のため調べてみると、次の2条件が必要とされていることがわかります。

 以上の条件を見る限り、自分が残虐行為を犯した場合でも、それが消極的なものであれ積極的なものであれ、それを見て恐怖や無力感や戦慄に駆られさえすれば、PTSDの必要条件を満たしたことになるようです。加害者としてであってもかまわないことが、これではっきりしました。

 ところで、東京拘置所で医務部技官を務めたことのある小木貞孝(加賀乙彦)さんは、零番囚(死刑判決を受ける可能性のある重罪被告)や死刑囚を含め、数多くの重罪被告や受刑者と接した経験を持っています。その小木さんによると、被拘禁者の「半数は被害者をごく稀にしか思い出さない」そうです。「彼らにとっては、犯行の瞬間をたびたび思い出すことは不愉快なことであり、このメカニズムは精神病理学的状態にもあらわれ、被害者が幻覚や妄想の対象となることはまったくない」というのです。換言すれば、自己の犯罪に向き合うことを極力避けているということになるでしょう。また、反省したとしても、その「道徳的反省は、常に真剣味を欠く」(小木、1974年、91ページ)のです。このように、重罪を犯して判決が下されるのを待っている被告の少なくとも半数には、“フラッシュバック”をはじめとして、PTSDとして知られる症状など、そもそも起こりようがないわけです。

 ところが、このような重罪被告の多くには、オウム真理教の麻原彰晃のように、拘禁反応という全く別種の心因性反応が起こるのです。しかもそれは、PTSDの発症率の比ではなく、きわめて高率に発生します。そのことは、一般被告や一般受刑者での発生率と比較した次表を見れば、まさに一目瞭然でしょう。こうした反応は、拘禁期間の長さとは無関係に起こります。したがって、拘禁反応の発生率は、犯した罪の軽重に従って、互いに比較の対象にならないほど極端に違ってくることがはっきりわかるでしょう。

表1 拘禁反応の発生率

  被   告 受   刑   者
一般被告 重罪被告 一般受刑者 無期囚 死刑囚
拘禁反応の発生率
    発生数/全体
0.87%
68.0%
34/50名
0.16%
70.6%
36/51名
61.4%
27/44名
*小木貞孝『死刑囚と無期囚の心理』(金剛出版)8ページのデータより作成。

 ただし、同じ拘禁反応といっても、重罪被告と死刑囚の多くは陽性の激しい活動的反応を示すのに対して、無期囚の多くは、陰性で鈍重な神経症的反応を示します(同書、8-9ページ)。重罪被告は、最終的には死刑囚と無期囚に分かれるわけですが、それ以降の拘禁反応も、この基準に従って分かれてゆくのです。

 拘禁状態は、その中にいると誰にも煩わされることがありませんから、真剣な反省をしようとする者にとっては願ってもない好適な環境ですが、万難を排して反省を避けようとする者にとっては、きわめて忌まわしい最悪の環境です。オウム真理教地下鉄サリン事件の実行犯で無期懲役刑に服している林郁夫さんは、真剣な反省の結果、人格を格段に向上させましたが、その点できわめて稀な例外的存在と言えるでしょう。その林さんも、自分の犯罪に向き合うまでには少々時間がかかったそうです(林、1998年、445ページ)。しかし、このような稀な例外を除けば、真剣に反省する拘禁者は事実上存在しないようです。

 犯した罪が重ければ重いほど、それぞれの良心(私の言う本心)から強く反省を迫られます。いわゆる良心の呵責によるものです。上述のように、被告や受刑者の多くは、少なくとも意識の上で深い反省をすることはありませんが、重罪被告や無期囚や死刑囚の拘禁反応が一般被告や一般受刑者の数十から数百倍もの高率で発生するという事実からすると、それが反省を避けるための有力な手段になっている可能性が考えられるわけです。この問題については、拙著『幸福否定の構造』第7章で詳細に考察していますので、関心のある方は参照してください。

 ところで、東京拘置所に、小木さんと非常に親しくなった重罪被告がいました。良家の出身で、名門大学を卒業して会社員として勤めていた時に、凶悪な殺人事件を起こし、逮捕拘禁されたのですが、判決を待っている間も、死刑判決が確定してからも、この男性は終始一貫して落ち着いており、拘禁反応は全く示しませんでした。とはいえ、事件そのものについて思い巡らすこともほとんどなかったのです。小木さんに宛てた私信(1968年8月18日付)の中で、この死刑囚は、その理由について次のように述べています。非常に重要な証言ですので、注意してお読みください。

 今から足かけ十七年前の七月下旬、私はあの方を殺しましたが、ソノ瞬間から私ははげしい吐き気におそわれ(それはむろん観念的な吐き気などではなく)、ゆえに私が逃げたのは司直の手から逃げようとしたというよりも、ソノ行為、その絶対的な現実拒否をしたことで突如としてとらえられた吐き気からの逃避を意味していたのでした。
 そして、その吐き気は今も当時に身をおくたびに、くり返し襲って来て、私を苦しめるのです。一旦、そこに陥るや、了解可能ないかなるコトバも消滅し、かくて、“おのが罪をザンゲし、告白する”などという、あの恐ろしい行為を客観視した時に始めて可能なおこないなど、 全く不可能という他はなくなってしまうわけなのです。(加賀、1990年、151ページ)

 事件に直面しようとすると強烈な吐き気に襲われるため、自分の犯罪が直視できなくなるというわけです。これは、まさしく私の言う反応です[註20]。抗がん剤の副作用としても、激烈な吐き気が起こることが知られています。がんの患者たちは、やむをえずにしても、それに耐えるわけです。しかし、吐き気が起こっても死ぬことはないのに、この死刑囚は、それを乗り越えて自分の犯した罪に向き合うことを最後まで断固として避け続けたわけです。

 この死刑囚は、司法精神鑑定によって、“情性欠如型精神病質”と診断されています。これは、「人間愛、同情、共同感情、博愛、利他心、良心、悔悟などの言葉で表わされる高等な感情」(吉益、1967年、200ページ)が欠如した精神病質――昨今の言葉を使えば、“人格障害”――を意味する専門用語です。しかし、事件について考えようとすると、吐き気という強い反応が起こるということは、幸福否定という観点からすれば、「自分は取り返しのつかない悪事を働いてしまった」という悔悟の念が、心の奥底にまちがいなく潜んでいることを意味しています[註21]。結局、この死刑囚は、事件に向き合うことのないまま、従容として刑の執行に臨んでいます。

 ついでながらふれておくと、最近、法廷で遺族たちを侮辱する発言を繰り返した小学生大量殺人事件の犯人が、刑の執行を早めてほしいと強く求め、それが実行に移された例がありました。このように、事実は一般の認識とは正反対で、死刑になるよりも反省することのほうがはるかに難しいのです。実際に、反省するくらいなら、死んだほうがましだという言葉を吐く人たちも少なくありません。したがって、殺人などの凶悪事件を本当に防止したいのであれば、それを阻止する力のない死刑制度[註22]は撤廃し、代わりに“反省刑”というものを設けて、心から反省するまでむりやり反省させるほうが圧倒的に効果的であるように思います[註23]。その“苦痛”は、死に直面することによる苦痛とは比較にならないほど強いはずです。また、そのほうが、遺族にとってもはるかに大きな救いになることでしょう。

PTSDの政治学の亀裂

 話を戻すと、現在のPTSD理論では、通常の犯罪や犯罪者が示す症状は考慮されていません。しかし、犯罪者に比較的近いのは、戦争犯罪を犯した一部のベトナム帰還兵です。もしベトナム帰還兵が“PTSD”を発症したと主張するのであれば、そのアメリカ兵たちに家族を虐殺されたベトナムの遺族たちのほうが先に“PTSD”を発症したはずなので、単に"politically correct"(建前として正当)であろうとするのではなく、真の意味で“政治的に正当”な立場から被害者に味方することを目指した理論であろうとするのなら、本当の被害者のほうも取りあげなければ、理論として片手落ちです。わかりやすく言えば、沖縄の民間人たちを火炎放射器で焼殺したアメリカ兵たちに仮にPTSDが発生していたとすると、そのアメリカ兵のPTSDを取りあげるばかりで、そのアメリカ兵に家族を虐殺された沖縄の遺族たちのPTSDを無視しているとすれば、沖縄の人たちは、その理論をどう思うものでしょうか。

 このようにPTSD理論では、“PTSD”を起こすベトナム帰還兵は、どうやら加害者としてのトラウマを抱えているとは見なされていないようです。しかしながら、これまで見てきたように、加害の度合いが大きければ大きいほど、加害者にも、少なくとも心の奥底には大きな“外傷性記憶”が潜んでいるとすれば、PTSD理論としては、ベトナム帰還兵を加害者としてとらえ、明示する必要があるのではないでしょうか。

 ストレスという脈絡で、加害行為も外傷性記憶になりうると主張できるとすれば、PTSDはストレス仮説を基盤にしているはずですから、その症状(広義のPTSD)を起こす人々[註24]の中に、さまざまな被害者と並んで、一般社会の凶悪犯罪者も含めなければならなくなるでしょう。そのようにすれば、現在のPTSD理論は、狭量な政治性を脱却して、理論として一貫性を持つようになります。レイプされてPTSDを起こした女性をPTSD発症者のリストに加えるのであれば、同じくその加害行為によって心因性反応を起こしたその加害者をPTSDのリストに加えたとしても、医学的には少しも違和感はないはずです。これが、PTSD理論に政治的一貫性を持たせた場合の論理的帰結です。ところが、そうなると今度は、あちらを立てればこちらが立たずで、女性解放運動を基盤としたこれまでの理論とは深刻な矛盾をきたしてしまうでしょう。

 特にハーマンのPTSD理論は、出発点からしておそらく同情から作りあげられた、つまりは“非科学的”理論であるために、本来的にさまざまな矛盾を抱えています。その結果として、たとえば自然災害と人災および犯罪、正常反応と異常反応、出来事の直後から起こる症状と時間を置いてから起こる症状[註25]とを区別することをしなかったわけです。そのため、本来遠くから見守るべきである、正常反応を起こしている人たちに対しても、好意のつもりから“受容的、共感的”態度で接しようとするなど、よけいな手出しをすることになるわけです。この理論は多くの人たちにどこかおかしいと感じられているようですが、それは、ひとつにはこのような事情によるのではないかと思います。

 では、PTSDとして一括されている症状群は、実際にはどのような構造になっているのでしょうか。

[註9]誤解を防ぐために書き添えておきますが、私は同情そのものが悪いと言っているのではなく、同情のために、混同してはならないものを混同すべきではないと言っているわけです。ついでながらふれておくと、多重人格障害の研究者コリン・ロスが、解離性人格障害のあるカンファレンスで、治療者たち自身を対象に行なった調査によれば、女性治療者(310名)の60パーセントが、自ら幼児期に性的虐待を受けたと主張していることがわかったそうです。なお、男性治療者(69名)の場合の比率は、35パーセントでした(Ross, 1997, p. 271)。

[註10]もちろん、相手から要請があった場合には、その限りではありません。

[註11]satanic abuse という言葉は、幼児虐待の一形態として、ランダムハウス英和大辞典にも研究社英和大辞典にも掲載されています。驚いたことに、既にそれほど一般的な用語になっているということです。

[註12]やはり催眠を利用して行なわれる前世療法でも、これと同じ問題が起こります。催眠状態では、施術者の指示にできる限り従おうとする願望があるため、それらしきものを作りあげてしまうことが少なくないのです。

[註13]この問題については、ハーマン自身が次のように述べています。「かつては、確実性を求めようとするこの欲求のため、治療者たちは、患者たちのトラウマ体験を無視ないし軽視するのがふつうであった。これが、今でも治療者に最も多い誤りかもしれないが、最近になって心理的トラウマが再発見されたことで、それとは正反対の誤りが発生するようになった。それらしき生活歴や“症状特性”があると、それのみに基づいて、まちがいなくトラウマ体験があったと患者に断言する治療者が登場するようになったのである。中には、儀式的虐待のような特殊なトラウマ的出来事の“診断”をもっぱらとするように見える治療者すらいる」。(Herman, 1997, p. 180; 邦訳書、282ページ)。

[註14]この問題については、ハッキングの著書(1998年)に詳しく書かれています。なお、わが国では、この問題をめぐって心理臨床家の間で“論争”がありました(『論座』2003年12月号、2004年2月号、周藤、2004年)。そのうちのひとり(矢幡、2003年)は、その中で精神分析を全否定しようとしていますが、一部にせよ経験的な裏打ち(たとえば、岸田、1982年; ダンブロジオ、2000年)を持つ方法論のすべてを、観念的、演繹的な論証のみによって否定することはできません。

[註15]ハーマンは、この点について次のように述べています。「ふだんは治療関係の限界を固守している、経験を積んだベテランの治療者の少なからずが、外傷性転移および逆転移の強烈な圧力のために、治療の限界を踏み外し、救援者の役割を演じようとする。〔中略〕いつのまにか治療者は、深夜や週末にも、さらには休暇の間にも患者の電話を受けているという状態に陥ってしまっているかもしれない。このような常ならぬ対応をしたからといって、患者が好転することはまずない。それどころか、自分はひとりでは何ひとつできない、依存的で無能な人間だと患者が思うようになればなるほど、一般にその症状は重くなるのである」(Herman, 1997, p. 143;邦訳書、221ページ)。

[註16]多重人格障害の原因を幼少期の虐待に求めるコリン・ロスは、悪魔崇拝儀式による児童虐待を扱った本(Ross, 1995)を書いていますが、そのロスですら、そうした儀式の存在を突き止めることはできなかったし、そうした記憶が正しいのは1パーセント程度だろうと、その中で述べています。なお、この本の「あとがき」は、虚偽記憶の実験的研究で有名なエリザベス・ロフタスが書いています。ロスのほうから依頼があったのだそうですが、呉越同舟と言うべきか、本来なら考えられない組み合わせです。

[註17]この問題については、本連載第5回目に当たる「ストレスに対する対応――被爆者を中心として」で扱う予定です。

[註18]ただ、その論文には、残虐行為の内容が少し書かれています。それは、敵兵や民間人を拷問したり、手足を切断したりなどのひどい虐待行為だそうです(Breslau & Davis, 1987, p. 583)。

[註19]この一覧表に対しては、あるストレス研究者が痛烈な批判をしています(林、1993年、129-148ページ)。

[註20]これは、反省を避けるための反応です。反省をすると、自分の人格が進歩してしまうことを、幸福否定のため内心が嫌い、反省を避ける目的でこのような反応を作り出すわけです。

[註21]このような角度から見ると、情性が欠如しているとされる“人格障害”でも、 心の奥底はふつうの人間であることがわかります。

[註22]小木さんは、死刑制度について、経験に基づいて次のような発言をしています。「死刑廃止反対論の重要な主張の一点は、この刑がもつ威嚇力にもとづいている。彼らは、死刑の廃止は社会から威嚇力を奪い、殺人が頻繁におきるようになるだろう、と言うのである。この問題について、私たちは次のような質問を受刑者にしてみた。犯行前あるいは犯行中に、この殺人が死刑に値するかどうか、考えたことがあるか。犯行前に、これを考えたことを記憶していた者は一人もなかった。ただ、数名の者が犯行中に、将来死刑になるかもしれないと一時的に思った、という。そのうち三名が死刑判決を受け、一名は無期であった。犯行時の心的興奮からさめたあとでは、およそ二〇%の犯罪者が、その犯罪のために死刑になるだろうと確信したという。この点からみると、死刑には私たちの社会を殺人犯の暴力から守るための威嚇力はないのであって、というのも、犯行前に彼らは死刑の存在を知っていたにもかかわらず、その衝動性と現在にしか生きられない無能さゆえに、死刑を予想して自制することはできなかったからである」(小木、1974年、72ページ)。

[註23]その場合、内観療法などでもいいのですが、それよりも私が使っている〈感情の演技〉のほうがよほど強力です。

[註24]ロンドンのGKT医科大学心理医学科のエドガー・ジョーンズらは、ヴィクトリア朝の戦役、ボーア戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、マラヤ戦争、朝鮮戦争、湾岸戦争の戦闘帰還者の軍人恩給記録から各人の病歴を調べ、戦闘によって起こったと思われる症状の有無と内容を検討しています。その結果、昔は身体的な症状が中心を占めていたのに対して、時代が下るにつれて心理的な症状が中心になってきたというふうに、時代によって症状の内容がかなり移り変わっていることが明らかになったのです。イギリスはベトナム戦争に参戦していないため、フォークランド紛争を除けば、朝鮮戦争(1951-53年)の次が湾岸戦争(1991年)になるわけですが、たとえば、PTSDでよく問題にされる“フラッシュバック”は、ちょうどこの間に当たるベトナム戦争以前には、退役軍人の間でもほとんど存在しなかったのです(Jones, 2003, p. 160)。フラッシュバックが多発するようになったのは、テレビやビデオの映像技法の影響なのではないかと考える人たちもいます。1984年頃までは、フラッシュバックというと、もっぱらLSDなどの幻覚剤によるものとしてしか知られていなかったので、現在見られる症状だけを根拠に“PTSD”の診断基準を作ることは、より普遍的な観点に立つと、ほとんど意味をなさないことになるのではないでしょうか。

[註25]DSM-Wでは、発症が「ストレス因子から少なくとも6ヵ月の場合」を「発症遅延」と呼んでいます。この場合もそうですが、DSMで決められているそれぞれの数値にどれほどの根拠があるのでしょうか。

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