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PTSD理論の正当性を問う 3

 PTSD理論の内部構造

 遅ればせながら、ここでお断りしておきたいことがあります。それは、言うまでもないことですが、本稿は誰かを、あるいは特定の考えを持つ人たちを非難する目的で書かれているわけではないということです。あくまで事実はどうなのかを、厳密な検討によって明らかにすることを通じて、真の意味での解決を図ることを目的にしているのであって、それ以外の意図はありません。だからこそ逆に、誰にも遠慮せずに、容赦のない批判をすることが可能になるわけです。

 この連載の3回目では、PTSD理論の内部構造を、可能な限り明らかにしたいと思います。これまで述べてきたことからおわかりいただけるように、この理論は、表面的には似通っているものの、本来的に同列に扱うことのできない症状や現象を、いわば同情という俗受けしやすい吸着剤を使って、もっともらしく見えるようにむりやり結びつけただけの、科学的にはほとんど根拠のない仮説です。もし正当性を欠く付属物を外していった後で、それらしき現象が残ったとしても、それは別の原因論で説明すべきものではないかと思います。

PTSDの流行性と多様性

 正統派精神医学の枠内にも、この理論を批判する人たちは、今なお少なからずいるようです。PTSDと呼ばれる症状群は、時代によってその内容を大なり小なり変容させているわけですが、そのことからこの症状群を、一種の地域的流行性を持つ現象としてとらえようとしている人たちもいます(たとえば、Jones, E. et al., 2003)。

 周知のように、古くからヒステリーと呼び習わされてきた疾患は、時代の流れとともにその外観を大きく変えます。たとえば、シャルコーの時代にはおそらくごくふつうに見られた激しい身体症状(たとえば、ディディ・ユベルマン、1990年)は、今ではきわめて稀なものになっています。時代の移り変わりとともに姿かたちを大きく変容させるのがヒステリー性疾患の最大とも言うべき特徴であれば、狭い時代、狭い地域に群発する多重人格障害も、その範疇に入る流行病ととらえるべきことになるでしょう(笠原、1999年)。

 そのような流行病が実際に存在することを考えれば、PTSDと言われる症状群の少なくとも一部がその点で同類のものだとしても、何ら不思議なことではありません。現代のPTSD概念を批判するカナダの医療人類学者アラン・ヤングは、政治的角度から眺めたこの問題について、既に10年以上も前に、非常に興味深い発言をしています。次の通りです[註26]

 外傷性記憶の最近の歴史を方向づけたのは、ベトナム戦争帰還兵の体験と、復員軍人局がPTSD研究およびその特別の治療のために提供した財源や奨励金である。しかし、この状況は変わりそうに思われる。ベトナム戦争帰還兵の記憶に対しても、その福利厚生や不満に対しても、大多数のアメリカ人の関心は衰えてきている。その外傷の原因たる苦難は、カンボジア、ボスニア、ルワンダその他で新たに発生した忌まわしい行為やそれによる犠牲者の前に、その影が薄れている。ベトナム戦争帰還兵たちが共有する記憶は不鮮明なものになり、もっと古い、記憶の不明瞭な朝鮮やヨーロッパや太平洋での戦争の記憶と次第に融合しつつある。ベトナム帰還兵が老いて消え去り、関係官庁の支援者たちが優先事項を他の方面へと移すにつれて、外傷性記憶の歴史の一章も、その幕を閉じるのである。(Young, 1995, p. 290; 邦訳書、432ページ)

 ここには、PTSDという“疾患”自体が、ベトナム帰還兵の示す症状に対する「大多数のアメリカ人の関心」を基盤にして作りあげられたものであるため、その関心が薄れるにつれて、別の“PTSD”へと焦点が移っていった(移らざるをえなかった)という、まさに政治的、歴史的な経過が冷静に記されています。大衆は“移り気”なので、その動きを把握するのは難しく、すべてを意図してコントロールできるわけではありません。したがって、意識的な作為がどこまで関与しているのかはわかりませんが、ファッションのようなものばかりでなく病気の場合でも、少なくともその一端については、まさに“流行が作られる”と言えるでしょう。

問題点の整理

 では、PTSD理論の内部構造を明らかにするため、前2回の連載で浮き彫りになったものも含めて、PTSDという考えかたが内包する理論上の問題点を、ここであらためて整理しておきましょう。一般大衆のみならず、多くの専門家の同情を裏打ちとした、一貫性を欠く政治的理念が基盤になっていることや、前章で検討したように加害者と被害者を無自覚なまま混在させていることを別にすれば、それらは、次の7点に集約することができます。

 どの心因性疾患にも当てはまる最後の7はともかく、寄せ集められたものを整理し直すと、以上のような問題点が浮き彫りになるわけです。“癒し”などというあいまいな治療原則に立つ限りにおいては、このような寄せ集めでも問題は起こらないのかもしれませんが、原因を精密に突き止めようとする立場からすれば、第一段階として、それぞれを別個に検討しない限り、とうてい真の意味での進展は望めません。厳密に検討した結果、まとめるべきものがあることがわかったとすれば、その段階でまとめ直せばよいのです。

 皮肉なことに、7を除いた6項目はいずれも、PTSD理論の推進者や擁護者からすれば、区別することなど考える必要もない瑣末事に見えるかもしれません。それどころか、それらは、大なり小なりPTSD理論の長所とされてきた点なのではないでしょうか。しかし、表面的な症状が共通しているだけでひとつの疾患にしてしまうというやりかたは、内科などの他科の医師たちから見れば、とうてい容認できるものではないでしょう。似て非なる疾患があるからこそ、鑑別診断という手続きが必要とされているからです[註27]

 また、これらのほとんどは、ご覧の通りそれぞれ相異なる角度から眺めたものなので、場合によっては、各条件が互いに重なり合っていたり、主従の関係になっていたりすることもあります。次節から、その点を整理しつつ、7を除いた6項目を順番に検討します。なお、5と6については、既に本連載の第2回(「PTSD理論の政治学」)で簡単にふれておきましたが、もう一度あらためて扱います。

 言うまでもないことですが、7はPTSD以外の心因性疾患全般にもそのまま当てはまります。したがって、この項目は、PTSDの原因論のみならず、心因性疾患全般の原因論を考える場合にも、きわめて重要な意味を持ってくるわけです。

伝統的な“虐待”と“先進国型”の虐待

 かつては、折檻のために子どもを叩くなどの行為は、きわめて日常的なことでした。子どもが言うことをきかないと、体を叩くことはもとより、押入れに閉じ込めたり、柱に縛りつけたり、玄関から締め出したり、果ては灸をすえたりなどが、どこの家庭でも多かれ少なかれごくふつうに行なわれていたのです。子どもたちも、それを、「そういうものだ」として受け止めていたわけです。したがって、それらを後年になって振り返る場合にも、懐かしい思い出になっていることが多いのではないかと思います。

 応接間の床の上に面壁させて坐らせるのである。〔中略〕 絶対にと言ってよいほど動いてはならないのである。時間がたつと足がしびれてくる。ちょっとでも体を動かすと、足のかがとに激烈な刺戟が加わる。煙管につめたタバコの火を当てられるのである。うしろからやられるから全く不意打で、 子供は飛び上る。すると父は、「動くなッ!」と咆える。かがとに残ったタバコの火がじりじりと神経の奥まで焼いてくる。(中原思郎、1970年、21-22ページ)

 これは、昭和初期の詩人・中原中也の弟が子ども時代(大正中期)の思い出を綴った中にある文章です。母親や祖母の折檻が懐かしく思い出されるのと比べると、父親のこれらの折檻はさすがに心に響いたということです(だからこそ、しつけとしての意味があるわけです)が、それにしても、それほどの深刻さは感じられません。ところが、現代では、そのような処遇はただちに、子どもの心に深い傷跡を残す深刻な虐待と見なされてしまいます。

 しかしながら、しつけは子どもを自立させるうえで必要なことであり、その点について疑う余地はありません。折檻という過酷な形を取った場合でも、それは、あくまで子どもの将来を念頭に置いたうえでの行動なのです。それに対して、虐待は、子どもの自立とは全く無関係に起こる行動であるため、しつけや折檻とは全く異質な行為ということになります。その点がきちんと区別できないと、しつけと虐待はどこが違うのかなどという初歩的な疑問が起こってきます。

 それとはまた別に、洋の東西を問わず、子どもに対する過酷な扱いという問題があります。江戸時代には、育てられない子どもを生まれた直後に殺してしまう、“間引き”と呼ばれる風習があったほどです。また、かつてはイギリスにも、昭和初期までの日本と同じように、幼い子どもを住み込みで働かせる悲惨な徒弟制度(丁稚奉公)がありました(小池、1991年)。現在では、イギリスや日本のような先進諸国では、そのような慣習は既にその役割を終えて消滅しましたが、今でも子どもに対して過酷な扱いをする国はたくさんあります。

 国によっては、社会の掟を破ると、家族の名誉を守るなどの理由から、火あぶりにして殺してしまうなどの風習が、今なおそのままの形で残されているようです(たとえば、スアド、2004年)。また、わが国でも、昭和9年に大凶作だった東北地方では、娘を“身売り”に出した農家がたくさんありました(その前年に、児童虐待防止法が制定されていたのです)。信じがたいことに、それは、今からわずか七十数年前の出来事なのです。

 発展を遂げた“民主主義国”から見れば、それ以外の社会制度を維持している国は遅れていることになり、その“民主化”を図りたくなるのかもしれませんが、よけいなお世話の場合が多いのです。原則として、その民族のことはその民族にまかせるべきなのでしょう。西洋“先進国”が手出しをした結果、アフガニスタンやイラクに起こった現在の混迷を見るとわかるように、ことはそう単純ではありません。

 わが国では、一部の発展途上国に見るような貧困や婦女子の人権無視から来る児童虐待はへってはいるが、親個人の精神病理や、家族の病理からくる児童虐待はふえている。いわば「欧米型」「文明国型」の児童虐待が社会や家族の変化に伴って増加しているのである(池田、1987年、206ページ)。

 発展途上国の“児童虐待”は、“先進諸国”から見ると、まさに虐待になりますが、それはあくまで歴史的、人権的な視点から見た場合の虐待であって、治療的な脈絡で考えた場合の(いわば個人的)虐待とは、互いに異質なものとして区別すべきです。その点をきちんとわきまえておかないと、児童虐待はギリシャ時代からあったとかなかったとかの不毛な議論にもなってくるわけですし、児童虐待の本質を不明瞭化することにもなるわけです。

被害が先か、症状が先か

 前章(「PTSD理論の政治学」)で紹介した事例で、「いらぬお世話」とか「必要な状態にない」として“暖かい心配り”を拒絶したのは、人災や犯罪などに遭遇した、被害が実際に確認された人たちでした。また、前々章(「PTSD理論の根本的問題点」)の末尾で述べておいたように、自分が自己主張をしてこなかった事実に“気づく”ことによって、それ以降、虐待を回避できた人たちもありますし、デイヴ・ペルザーさんのように、遡って問題を解消したばかりか、むしろ人格を大きく向上させた人たちもありますが、これらも、現実に大きな被害を受けたことがはっきりしている事例です。

 このように、PTSDとされるものには、被害を受けた事実が第三者によって先に確認される事例と、幼時に虐待を受けた“記憶”が、後年になって蘇ったりする場合のように、症状の存在が先に確認される事例の2種類が混在しているわけです。実例を列挙すると、次のようになります。

 DSM-Wの定義でも、ハーマンの“複雑性PTSD”の定義(ハーマン、1996年、189ページ)でも、両者はほとんど区別されておりません。“原因”から発症までの時間的間隔に差があることを除けば、完全に同一視されていると言ってよいのではないでしょうか。しかし、科学的な立場から考えれば、被害が先に確認される事例では、本当にその被害が、その後に出現する症状の原因になっているのかどうかが問題になりますし、逆に、症状が先に認められる事例では、その原因が主張される通りのものなのかどうかが問題になるわけです。

 ところが、そこに、“トラウマ”と呼ばれるトランプのジョーカー的な“原因”論が提示され、そのために、この問題が俎上に載せられずにすんでしまったのです。その背景としては、“トラウマ”への同情的な気持に加えて、DSMの登場によって、鑑別診断が事実上必要とされなくなったという事実があげられます。公私の混同を促すそうした援護射撃のおかげで、この2種類の事例群は、知らず知らずのうちに、ひとつの連続体(の両極)と見なされるようになったということなのでしょう。

 一見すると、このふたつがつながっていることの裏づけになりそうなものは、ふたつあります。ひとつは、虐待や自然災害に遭った人たちに、被害を受けている最中から、あるいはその後から“症状”が観察されることです。もうひとつは、“虐待の再現”と呼ばれる現象を中心とする行動の偏倚が存在することです。次に、この2種類を順番に検討することにします。

時間的に近接して発現した症状

 実際に被害を受け、その最中から症状が出るのなら、その症状はその被害が原因であり、したがって、それは、このふたつがつながっていることの何よりの証拠になりそうに見えるかもしれません。被害を受けたことははっきりしているし、少なくとも一部については、それによって症状が出たこともはっきりしているではないか、というわけです。ところがここでも、ことはそう簡単ではありません。そこには、いくつかの問題が潜んでいるからです。

 まずひとつは、実際に被害を受けている最中から症状が出た場合、それが正常反応と区別できないことです。ここでも、「正常と異常は連続体である」という救世主的な考えかたが、またしてもその間隙を埋めてくれるのです。しかし、このようなその場しのぎ的説明で、本当にこの問題が解決できるのでしょうか。この、正常反応と異常反応の区別という問題については、別の節で扱うことになっていますので、後ほどあらためて検討することにします。

 もうひとつは、“ストレス”の最中に起こるとされる症状でも、その“ストレス”との間に相関関係はあるかもしれませんが、因果関係があるかどうかは、それだけではわからないということです。あるいは、相関関係すらないかもしれません。実際問題として、その“ストレス”は状況証拠のように見えるかもしれませんが、症状の原因になっているとは限らないのです。内科の病気で言えば、咳や高熱やだるさや関節痛があり、本人がそう主張しているからと言って、それだけでその病気を、A/香港型のインフルエンザなどと断定することはできないでしょう。

 これまでの私の経験では、心因性の症状の場合、本人が“原因”と考えるものは、すべて本当の原因ではありませんでした。本当の原因は、症状が出現した直前にあり、その原因に関係する出来事の記憶は、必ず消えてしまっているのです。

“虐待の再現”

 被害が現実に確認される事例と症状が先に確認される事例がつながっていることは、“虐待の再現”という奇妙な現象が存在することで裏づけられると考える人たちもあります。虐待の再現という自虐的・自滅的行動を取るのは、そもそも幼児期に虐待を受けたことが原因だというのです。

 虐待を受けた子どもと関わる専門家が、「私にはこの子がどうして虐待されたのかわかるような気がする。この子と付き合っていると本当に腹が立つ」と言うのを耳にすることがある。子どもの言動に苛立ちを感じ、手をあげてしまいそうになったという人は多いはずである。それほどまで、彼らの言動や態度は大人の神経を逆なですることが多い。こうした「挑発的態度」や「反抗的態度」は、虐待を受けた子どもの特徴であると指摘されている。このように、彼らは関わりを持つ大人にフラストレーションを与え、虐待を誘うような形で大人と関わるのである。つまり、自分が過去に大人と持っていた「虐待的な人間関係」を、現在の大人との人間関係において再現する傾向があるといえる。(西澤、1998年、38ページ)

 実際に、このような子どもやおとなと接すると、まさにこの種の苛立ちを感じる(感じさせられる)はずです。時おり、相手を怒らせようとしているとしか思えない態度を取るのです。こうした、幼児期の“虐待を再現”する理由の説明には、たとえば次のようなものがあります。

 自分にとって慣れ親しんだ認知、たとえば「大人は自分を攻撃する」という認知が間違っていないことを「証明」しようとして、何とか大人からの攻撃を引き出そうとしているのだといえよう(この場合、子どもにとっては、新たな暴力を大人から受けることの痛みよりも、自分の従来の認知パターンが崩れてしまうことによる不安の方が大きいのだと考えられる)。(同書、100ページ)

 “虐待の再現”は、きわめて深刻な形を取ることが少なくないようです。その結果として、「新たな暴力」を受けるばかりか、人間関係がことごとく壊れたり、仕事が続けられなくなったり、異常行動を起こしたり、犯罪を犯したりすることも少なからずあるのです。しかも、それを止めようと思っても、自分で止めることができません。「自分の従来の認知パターンが崩れてしまうことによる不安」を避けようとするという着想と比べると、あまりに不釣合いで、人間というよりも故障した機械のような感じです。このように、“虐待の再現”という考えかたも、それ自体を裏づける証拠があるわけではなく、そのように見えることから演繹的に導き出された憶測にすぎません。では、なぜそのように見える行動を起こすのでしょうか。

 その問題を考える場合、ひとつのヒントになるのは、“虐待の再現”が始まる時期です。ふたりの子どもを持つある女性から聞いた話があります。第1子として生まれた長女は、スムーズにおむつを換えさせてくれたことすらなかったというのです。おむつを替えようとすると動き回ったり立ち上がろうとしたりしたために、毎回、非常に苦労したのだそうです。他の点でもことごとく同じで、母親はいつもひどく疲れ、苛立っていました。別の角度から見ると、生後まもない頃から、赤ちゃんなりの“虐待の再現”が見られたということなのでしょう。同列の問題としては、何があっても泣かない(反応しない)、いつもだっこを嫌がる、母乳やミルクを頻繁に吐くなどの異常行動があります。

 この女性が、育児とはこのように大変なものなのだと思っていた時に、第2子の長男が生まれました。長男は、長女と違って、すべてが順調かつ容易でした。この女性は、なぜ同じ子どもなのにこれほど違うのかと驚いたそうです。同じ母親に生まれ育てられても、ここまで違うのです。同じような話は、他の人たちからもたくさん聞いています。

 PTSD理論では、子どもに起こる問題はすべて母親や父親の育てかたが(あるいは他の家族の対応のしかたが)悪かった結果ということになります。しかし、生後まもない頃から“虐待の再現”が起こっていたとすれば、どういうことになるのでしょうか。たとえば私は、それまではふつうに泣いていたのに、生後1週間後には全く泣かなくなってしまった子ども(いわゆる“サイレント・ベビー”)を、生後1ヵ月の時点から1ヵ月ほど、ある事情で自宅に預かってずっと見ていたことがあります。その子は、おなかがすこうが、おむつが濡れようが、24時間、絶対にと言ってよいほど泣きませんでした。

 このような子どもの場合、生後1週間という短期間のうち(つまり、産科に入院中)に、どの程度の“虐待”が繰り返されれば、そうした“虐待の再現”が起こるようになるのでしょうか。どこまでが原因で、どこから先が結果なのでしょうか。この問題を鳥類の“刷り込み”という現象を持ち出して説明したがる専門家もいるようですが、そのような現象が人間にも見られることが別個に証明されない限り、その論証は成立しません。また、ごく幼少期であれば、後年に及ぼす影響は軽いとされているのではなかったでしょうか。

 もうひとつは、虐待の再現を起こす時点です。ハーマンは、「子どもの頃に虐待を受けていたにもかかわらず、仕事に就き、人を愛することができるほどには外傷が解消していた者も、結婚したり第一子を生んだりすると、あるいは自分が虐待を受け始めた年齢にその子が達すると、症状が蘇ることもある」(Herman, 1997, p. 212;邦訳書、336ページ)と述べています。また、「いわゆる強制収容所症候群」も、「社会状態が好転し健康な時期のあとにおこっている」(小木、1974年、273ページ)のです。そうすると、これらの場合には、本人に当たって反応(「私の心理療法の基本概念」を参照のこと)を確認しなければ本当のところはわからないにしても、好事に直面したことで幸福否定を起こし、その結果として症状が出現した――そして、その幸福を否定するために、その症状として過去の不快事と考えるものを持ち出した――という可能性のほうがはるかに高そうです。

 ここでまとめると、“ストレス”を受けている最中に出た症状は、正常反応と区別することができないか、さもなければその症状には別の原因がありそうです。また、“ストレス”があってからかなり時間が経って出現した(あるいは、久かたぶりに再発した)症状は、その“ストレス”とは別の原因によって起こったものと考えるべきです。そうすると、先のふたつをひとまとめにしてよい科学的根拠は全くないことになってしまいます。

出来事の直後から起こる症状と、時間を置いて起こる症状

 ここでは、出来事の“直後”に出現するとされる症状について、とりあえず私の経験とは別個に検討を進めることにします。この場合、まず“直後”という言葉の意味が問題になります。物理的な意味での“直後”は、まさに直後のことですが、心理的な意味の直後の場合には、その幅がかなり広くなります。しかし、数秒後などの物理的に近接した時間帯を指すことはまずなく、たいていはせいぜいのところ数時間後で、多くは数日後ないし数週間後です。

 “心因となるストレス”を厳密に検討しているはずの研究を見ても、ふしぎなことにその推定が当たっているかどうかの検討が行なわれた形跡はありません。そればかりか、両者がどこまで時間的に近接していれば原因になりうるかという、きわめて肝心な点についても、実際には全く検討されることがないのです。これでは、科学的考察として完全に失格です。

 この問題を、アメリカのロチェスター大学精神科で行なわれた研究を例にとって説明してみましょう。これは、アーサー・H・シュメイルという精神科医が50年も昔に行なった古い研究ですが、私が調べた範囲では、後にも先にもこのような検討はほとんど行なわれていないようなのです。この研究は、重要な人物を失った体験が、うつ状態の原因となるかどうかを検討しており、その中で、その喪失体験と症状出現までの時間的間隔を調べています。

 この研究では、本人や家族の証言のみをもとにそうした出来事を勝手に“原因”と決めつけてしまっています。その点を別にしても、この研究には大きな問題があります。ひとつは、先述のように原因と発症の時間的間隔がどの程度であれば因果関係が考えられるかという点に関する考察がないことです。もうひとつは、原因とされる出来事と、その結果であるはずの症状出現とが、時間的にかなり開いてしまっていることです。

 具体的に言うと、実際の喪失からうつ状態の発現までの間が、短い場合で24時間、長い場合には1年も開いてしまっているのです(Schmale, 1958, p. 264)。そうすると、その“喪失体験”が、その後に発生した症状と因果関係のあることは、どうすれば確認できるのでしょうか。両者の間隔が24時間であれば、因果関係が考えられそうに思われるかもしれませんが、本当に因果関係があるかどうかは、どうすればわかるのでしょう。この場合、その間隙を埋めてくれる(はずの)ものは、本人や家族の証言以外にありません。しかし、そうした証言によって、本当に因果関係があると考えてよいのかどうかについては、全く検討されていないのです。

 一方、両者の間隔が1年も開いている場合には、因果関係の決定はさらに難しくなります。ナチの強制収容所の生存者の観察でも、解放後数年間は何の異常も示さなかったのに、「年金を受けられる頃になって急に諸症状が現われはじめた」(小木、1974年、272ページ)人たちがいることがわかっています。このように、“原因”と目される出来事との間に数年もの開きがある場合には、両者の因果関係はさらにわからなくなります。

 30代のある女性は、阪神淡路大震災を経験してしばらく経ってから、父親による幼児期の性的虐待を想起しました。その手記には、次のような経過が記されています。

 ひどいうつ状態に陥ったのは、震災から三ヵ月と少したった五月の連休のころだった。私は突如、出口のない長いトンネルに入り込んだ。重力に逆らって身体を起こしておくことすら苦痛に感じた。毎日の仕事やさまつな家事、重要な仕事などが、どれもこれも等距離に感じ、以前ならそれらの仕事に優先順位をつけて能率よくこなすことができたが、その時は、どの仕事にもまったく手がつけられなくなっていた。起き上がって、食事の用意をすることも、着替えること、歯を磨くことも恐ろしくおっくうに感じた。時間も止まり、気温を感じるセンサーも働かなくなった。私は、一日中布団の中で波のように襲ってくるうつに身をゆだねていた。私は自分の手がずたずたに切り裂かれて血だらけになっている幻覚に頻繁に襲われた。
 そのころから過去の虐待場面が、瞬間的に脳裏に浮かんでくるようになった。それは、目に見える映像として再現されるのではなく、何かわからないがとても不快な感覚としてよみがえってきた。〔中略〕今まで応急処置的に表面からは見えないようにつぎはぎしていたものが、あのひどい揺れで無残な姿が暴かれてしまったようだ。何度も襲ってくるフラッシュバックに私は戸惑った。(川平、2005年、31-32ページ)

 この女性は、その後、心理学を学ぶ中でPTSDという疾患を知り、それまでの自分の異常行動は、幼児期に父親から性的虐待を受けた結果だったと“気づく”に至るのです。その着想の元になっているDSM-Wの定義では、過去に体験した外傷的出来事が、その症状の要素になっていることを、その原因の決定因と断定してしまっているように思えます。しかし、残念ながらそこには何の科学的根拠もありません。この事例の場合には、大震災とこのうつ状態の因果関係も、過去の性的虐待との因果関係も、「過去の虐待場面」が浮かんでくるという症状によって証明されたことになっているのです。

 この問題を、私が見たことのある実例を使って説明してみましょう。やはり30代のある女性は、自分が死んだ後、自分の遺体が逆さまに埋められるのではないかという強い恐怖を、繰り返し強迫的に経験していました。その恐怖に襲われると、パニックを起こし、私のところへ何度も電話をかけてきます。もちろん、通常の説得はまるで効果がありません。この症状は、その原因たるべき“トラウマ”が特定されておらず、内容的にはもちろん未来のことですが、それ以外の点ではPTSDの症状とほとんど区別できないのです。

 PTSD理論からすれば、このような事例はどう考えればよいのでしょうか。過去のトラウマとは関係ないのでそれはPTSDではない、と言って片づけてしまえば、それですませられるものなのでしょうか。しかしながら、それで問題はないと言うのなら、PTSD理論が砂上の楼閣にすぎないことを、自ら暴露してしまうことになるでしょう。

 以上の検討によって、時間を置いてからの発症はもとより、“原因”となる“ストレス”があった“直後”に発生した症状であっても、その原因を特定するのは難しいことがはっきりしたのではないでしょうか。しかし、ここに、今まで完全に見落とされてきた、きわめて重要な点があります。どちらの場合も、ある時点から症状が出ているわけですが、そのまさに直前に何があったのかが、少なくとも原因探求という点では完全に無視されていることです。症状出現の直前に真の原因が潜んでいるという観点から考えれば、症状の中で過去の“トラウマ”を繰り返し想起するのは、それを何らかの目的で(私見によれば、目の前にある幸福に水をさす手段として)利用しているということになるわけです。

 ところで、児童期の虐待による“PTSD”と診断される場合でも、症状が出た時点で本人が置かれていた状況としては、先述のように、結婚や第一子の出産、子どもの小学校入学などの出来事があることが知られているわけです。これらは好事であり、いわゆるストレスではありません。しかし、私の考えかたを別にしても、これらは、特に躁うつ病の場合には、まさに症状が発現しやすいとして知られている状況なのです。また、ヴァージニア大学精神科のイアン・スティーヴンソンは、好事の最中や直後に、死亡をはじめとする重大な身体症状が起こった事例が存在することを、数多くの実例をあげて指摘しています(Stevenson, 1950, 1970)[註28]。そうすると、その点を検討しなければ片手落ちということになるのではないでしょうか。そして、症状出現の直前にある出来事がその原因に関係していることが確認されれば、PTSD理論は完全にその根拠を失ってしまいます。

自然災害による被害か、人災あるいは犯罪による被害か

 自然災害の被災者は、さまざまな心身の不調を体験しても、ほとんどは一時的なもので、時間の経過とともに薄れてゆくものです。阪神淡路大震災で被災したある精神科医は、「地面が揺れているように感じる」という錯覚がしばらく続いたそうです。「じっとしているときに動揺感がある、なにかの拍子でテーブルが揺さぶられたときに思わずぎくりとする」などの感覚があったのですが、夏を過ぎる頃から(つまり、7、8ヵ月後には)気にならなくなったそうです。しかし、その頃にはまだ、その感覚が続いている人たちもいたのです(安、1996年、193ページ)。このような点には、多少なりとも個人差があるようです。

 自然災害の場合には、誰かのせいで起こるものではないので、対応のまずい行政や、被災者の心情をまるで理解しようとしないマスコミに対する怒り(たとえば、副田、1996年、248ページ)は起こるかもしれませんが、特定の人に対するうらみが起こることはありません。それに対して、人災や特に犯罪の被害に遭った場合には、加害者に対するうらみや復讐心がどうしても起こります。この違いはきわめて大きく、心の動きが全く異質なので、その点でも両者を同一視することはできません。

 ここで、第1章「PTSD理論の根本的問題点」で取りあげた正当なうらみと逆うらみという問題が出てきます。つまり、自然災害や犯罪など、本人の責任が特に問われるわけではない場合には正当なうらみが起こるのに対して、本人に責任がある場合には逆うらみが起こるのです。心の専門家は、ふしぎなことにこの2種類のうらみを区別していませんが、むしろ素人のほうがよく知っているように、このふたつは全く異質なものなのです。

虐待者との間柄――身内か見ず知らずの他人か

 本節では、虐待と犯罪によって起こる問題に焦点が絞られます。ここではまず、思春期以前(生後10ヵ月から12歳まで)に性的虐待を受けたことが、救急治療室に受診した記録から明確に確認できる129名の女性を、17年後に追跡調査した研究を取りあげます。その研究によれば、病院の記録に残されている通りに虐待体験を記憶していた女性は、80名(62パーセント)にのぼることがわかったそうです。その中で、事件後も虐待体験を記憶し続けていた群と、どこかの時点で忘れたことのある群とを比較すると、17年前の記録と照合する限り、記憶の精度に差は見られないことが明らかになりました。

 対象となった129名のうちの49名が、虐待体験の記憶を残していなかったことになりますが、この著者が提示しているデータをもとに計算すると、記憶を残していなかった者の比率は、虐待時の年齢が7歳未満だった事例では59.5パーセント、7歳以上だった事例では27.6パーセントでした。したがって、虐待時の年齢が低い群のほうが、その記憶がなかった者の比率が圧倒的に高いという結果が得られたことになります(Williams, 1994, p. 1171)。そのことからすると、7歳未満だった者の多くは、それを“抑圧”していたというよりも、通常の意味で忘れてしまっていた可能性のほうが高そうです[註29]

 このことは、同じ著者が別の角度から行なった検討によっても裏づけられます。加害者が見ず知らずの相手だった場合には、虐待体験を記憶していた者が82パーセント、記憶していなかった者が18パーセントでした。それに対して、加害者が自分の家族だった場合には、記憶していた者が53パーセント、していなかった者が47パーセントと、記憶が消えていた者の比率は、加害者が家族だった時のほうが圧倒的に高かった(18パーセント対47パーセント)のです(Williams, 1994, p. 1172)。

表2 加害者との間柄と性的虐待の記憶の有無

  記憶していた 忘れていた
家 族 53%  47% 
他 人 82%  18% 
*Williams, 1994, p. 1172.

 この結果を統計的に分析すれば、偶然によってはとうてい説明できない(統計的に高度に有意な)結果が得られるはずです(著者のウィリアムズは、これとは別のデータを使っているようですが、この2要因〔記憶の有無と加害者との親近性〕に対して、t 検定により p < 0.008 という高度に有意な結果を得ています)。この結果から、他人による(したがって、おそらくかなりの部分が不可抗力による)虐待のほうが、記憶が消えにくいらしいことがはっきりします[註30]

 この場合、PTSD理論の信奉者は、たとえば次のように考えるようです。「本来、自分を保護し、愛情を注いでくれるはずの親から、また自分にとって安心できるはずの場所である家庭において」(西澤、1994年、18ページ)虐待を受け、信頼が裏切られる(Freyd, 1994)からこそ、両親との間に当然築かれるはずの基本的信頼関係が築かれず、トラウマは見ず知らずの他人の場合よりも大きくなる。その結果として“抑圧”が起こりやすくなるのではないか。

 したがって、この考えかたを取る場合、トラウマを引き起こす原因は、身体的虐待や性的虐待そのものではなく、それによって本人に発生した心理的葛藤やそれ類似のものということになります[註31]。このように、この方向から考えたとしても、やはり本人自身に内在する問題や責任を無視することはできません。そうすると、本連載の第1回で紹介したデイヴ・ペルザーさんの場合のように、本人が虐待者に対してきちんとした(拒絶の)自己主張をすることで被害を回避できる可能性の高い場合のほうが、はるかに記憶が消えやすくなるという可能性がありそうです。

 以上の検討から、加害者が見ず知らずの他人の場合と、自らの家族の場合とでは、症状が出現する仕組みが全く異なる可能性があるため、同列に扱うわけにいかないことがはっきりするのではないでしょうか。ハーマンによる“複雑性PTSD”という着想は、そのような自覚はなかったし失敗に終わっているとしても、この問題を別の角度から解決しようとする試みだったのかもしれません。

最大の虐待者は誰か

 ところで、子どもにとって最大の虐待者は誰なのでしょうか。子どもの虐待が先に発見される“疾患”のひとつに、前章で説明した「身代わりミュンヒハウゼン症候群」があります。この症候群は、ほとんどの場合、長期にわたって激烈な虐待が繰り返されるという点で、幼児虐待としては最も激しいもののひとつと考えられますが、その117例をまとめた総説論文(Rosenberg, 1987)によれば、虐待者(実数で97名)は次のような特徴を持っていたそうです。

 つまり、最も過酷な虐待を繰り返すのは、他でもない実母なのです。事実、この虐待を経験したジュリー・グレゴリーさんの場合(グレゴリー、2005年)も実母でしたし、デイヴ・ペルザーさんの場合[註32]もそうでした。このことは、虐待が愛情の否定(笠原、2005年、第4章)から起こることの有力な裏づけとなるものです。しかも、医療に携わる女性――看護婦や看護教育を受けた女性――が、そのうちのかなりの比率を占めているという事実も象徴的です。次に多いのが在宅勤務者です。つまり、看護や医療に携わる女性や子どもと接する時間の長い女性がかなりの比率を占める、という結果になっているわけです。

わが国の統計的データ

 では、虐待一般については、特にわが国の場合にはどうなっているのでしょうか。わが国では、1973年に当時の厚生省が、153ヵ所の児童相談所を通じて、3歳未満の子どもを対象に最初の全国調査を行なっています。次表は、それによって得られた結果をまとめたものです(池田、1984年、13ページ)。なお、この調査での虐待の定義は、「暴行など身体的危害、長時間の絶食、拘禁など、生命に危険を及ぼすような行為がなされたと判断されたもの」であり、「遺棄」とは、いわゆる捨て子のことです(池田、1987年、23ページ)。

表3 虐待の内容と加害者の続柄

  総 数 実 父 実 母 継父母 その他 不 明
虐 待 26 6 16 2 2 0
遺 棄 139 26 74 0 2 37
殺害遺棄 137 7 51 0 0 79
殺 害 54 9 40 1 4 0
心 中 67 12 53 0 2 0
合 計 423 60
(14.2%)
234
(55.3%)
3
(0.7%)
10
(2.4%)
116
(27.4%)
*総数が423名になっているのは、総件数401の中に、実父、実母がともに加害者になっている事例があるためです。

 調査の時期や対象によってもばらつきがあるのではっきりとは言えませんが、わが国最初の幼児虐待調査の結果を見る限り、虐待者は継父母などではなく、やはり実母が圧倒的に多いようです。対象児の年齢が低いためもあるのかもしれませんが、「不明」を除くと、307例中の76.2パーセントにものぼるのです。ただし、このデータはより重度の虐待が中心になっており、本来の虐待とは異質な「心中」が含まれている一方で、最近になってから問題視されるようになった性的虐待や心理的虐待はあまり入っていないのかもしれません。

 もう少し信頼の置けそうな最近のデータとしては、厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課が発表した統計資料があります。この統計は、全国の児童相談所で受け付けた相談から集計したもので、対象児童の年齢は、0歳から18歳です。

表4 年度別に見た最近の虐待者

 
総 数

その他
実 父 実父以外 実 母 実母以外
平成
10年度
6,932
(100%)
1,910
(27.6%)
570
(8.2%)
3,821
(55.1%)
195
(2.8%)
436
(6.3%)
平成
11年度
11,631
(100%)
2,908
(25.0%)
815
(7.0%)
6,750
(58.0%)
269
(2.3%)
889
(7.7%)
平成
12年度
17,725
(100%)
4,205
(23.7%)
1,194
(6.7%)
10,833
(61.1%)
311
(1.8%)
1,182
(6.7%)
平成
13年度
23,274
(100%)
5,260
(22.6%)
1,491
(6.4%)
14,692
(63.1%)
336
(1.4%)
1,495
(6.4%)
平成
14年度
23,738
(100%)
5,329
(22.5%)
1,597
(6.7%)
15,014
(63.2%)
369
(1.6%)
1,429
(6.0%)
平成
15年度
26,569
(100%)
5,527
(20.8%)
1,645
(6.2%)
16,702
(62.8%)
471
(1.8%)
2,224
(8.4%)
平成
16年度
33,408
(100%)
6,969
(20.9%)
2,130
(6.4%)
20,864
(62.5%)
499
(1.4%)
2,946
(8.8%)
*厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課が発表したもの。一部はデータから作成。

 先述のように、先に紹介した30年ほど前の資料とは、虐待の内容その他の条件が必ずしも一致しているわけではなく、対象児童の年齢層も違うので、単純には比較できませんが、やはり実母の比率が群を抜いて高いという点では共通しています[註33]。この7年間で、実母の比率は55-63パーセントとなっており、わずかに増加傾向にあるように見えますが、実の両親を集計すると83-86パーセントとなり、ほとんど変動がありません[註34]

 話を戻すと、子どもを最も多く虐待するのは実母だという事実が統計的な裏づけを持っていることが、以上の資料によってはっきりわかるでしょう。これは、昔から「かわいさ余って憎さが百倍」と言い習わされてきた通りで、愛情が強いあまりに憎しみが強く起こり、遠慮がないために、容赦なく虐待に走ってしまった結果なのでしょう。もちろん、そのこととは別に、個々の虐待行動にはいちいち動機があるはずです。私のこれまでの経験では、その動機というか原因は、幸福の否定(この場合は「かわいさ余って」)に関係したものです[註35]

 以上の検討から、加害者が見ず知らずの他人の場合と家族の場合とでは、被害を受ける子どもの側も全く違う反応をする可能性が高いので、両者を同質のものとして扱ってよい理由はなくなってしまうのではないでしょうか。

正常反応と異常反応の間

 前2回の連載で指摘しておいたように、正常反応が強くなると自動的に病的反応に発展するという考えかたも、やはり科学的に裏づけられているわけではありません。病的反応には(幸福否定というしくみのように)別のからくりがあるかもしれないからです。

 ところで、アウシュヴィッツ強制収容所を生き抜いた精神科医ヴィクトール・フランクルは、自らの体験に基づいて、「異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動である」と発言しています。この指摘に意外な印象を受けるとすれば、それは、正常と異常という言葉に2通りの意味(質的観点から見た場合の正常と異常と、量的観点から見た場合の正常と異常)があることから生ずる錯覚のためでしょう。ナチの強制収容所に収容された人たちの場合には、そのほぼ全員に、多かれ少なかれ同じような反応が見られたわけですから、現象としては、取り立ててふしぎなことではないのです。

 しかし、“PTSD”の場合には、同程度の被害に遭った時にも、発症する人たちの比率のほうが発症しない人たちの比率よりもはるかに低いわけです。それでも、強制収容所の被収容者の場合と、程度が違うだけで同質の現象と考えてよいものなのでしょうか。次に紹介するのは、この問題にふれた、阪神淡路大震災で被災した精神科医による文章です。

 災害直後の被災者は、さまざまな心身の不調を体験するが、それは災害という「異常な事態への正常な反応」である。多くは一時的なもので、時とともに薄れていくが、衝撃があまりに大きいときは前述したようにPTSDとなって長期化することもある。(安、1996年、235ページ)

 この場合、既に検討した通り、そのまま症状が続くように見える事例と、時間を置いてから発症する事例とが区別されていないという問題がありますが、ここではその問題にふれないことにします。この引用文に見られるように、一部の人たちでは、それまでの正常反応が長引いた結果として異常な症状に発展すると考えるのが、一般常識というものなのでしょう。そして、それがPTSD理論を支えるひとつの重要な支柱になっているわけです。

 とはいえ、そのように考えるためには、その症状を長引かせる要因が、“トラウマ”を負ったこととは別に、本人に内在していることを想定する必要があります。そして、その個人差の説明として持ち出されることになるのが、“ストレス脆弱性”という概念です(そして、その裏に、基本的信頼関係の欠如という考えかたがあるわけです)。これは、ストレスの受けやすさには個人差があるというだけの、何の変哲もない同語反復的な考えかたで、ストレス理論の弱点を補うために案出された、まさにその場しのぎ的な概念です。とはいえこれは、正常反応が異常反応に移行すると考えるPTSD理論には、必要不可欠な充填材と言えるでしょう。

 本連載の第1回でふれておいたように、大災害の後には、あるいは監禁状態などから救出された後には、平時にはあまり遭遇しないさまざまな体験が必然的に続発します。大きな惨事や事件に遭遇した後には、その状況から解放されたこと、それを切り抜ける精神力や体力が自分にあることが自覚されたこと、家族の強い愛情があらためて感じられたこと、本当の意味で大切なものに気づかされたこと、人間の真の強さを実感として認めざるをえなかったことなど、ふつうの状況ではあまりすることのない経験をすることが多いのです。したがって、そのような要因が、問題の症状が出現する直前にあったとすれば、それがその症状出現の原因に関係している可能性が高いことになるでしょう(私の方法では、次の段階として、反応を利用してその推定が正しいかどうかを確認することになります)。

 以上のように、正常反応が異常反応に移行するという考えかたには、実際には科学的な裏づけがないのです。したがって、そうした主張をするのなら、その主張の裏づけとなる明確な証拠を提示する必要があるでしょう。

おわりに

 少々長くなりましたが、PTSD理論に内在する6点の問題を検討してきました。その結果、PTSD理論は、本来的に同列に扱うことのできない種々雑多な要素を、政治的意図や同情心から無秩序に寄り合わせただけの、科学的根拠を欠いた臆説であることが、これまで以上に明確になったのではないでしょうか。

 DSMは、現行の第4版になると、それまでにもまして生物学主義的になってきたのだそうです。つまり、精神疾患を脳の疾患としてとらえようとする傾向が強まってきたということです。しかし、その姿勢の裏打ちとなる科学的根拠は、残念ながら存在しないようです。さまざまな精神疾患の患者の脳内に見つかっている異常がその決定的証拠ではないか、という主張があることは承知していますが、その“異常”が症状の原因になっていることが証明されているわけではありません。症状と脳内の異常の間には、せいぜいのところ相関関係があるだけなのですが、専門家たちは、それを因果関係と取り違えているのです[註36]。何よりも、現在の精神医療が混迷状態にあるという事実が、その誤りを端的に示しているのではないでしょうか。

 PTSD理論は、そのような生物学主義一辺倒の中で気を吐く、心因論の唯一の砦だったはずです。その中心で政治的な旗印を掲げた理論家ハーマンは、精神分裂病といった精神医学の要衝にまで、PTSD理論という武器で切り込み、あわよくばそれによって精神医学理論を統一しようとする気概まで見せていたわけです(ハーマン、1996年、191-201ページ)。その心意気はおおいに買うべきだとしても、その努力が徒労に終わりそうな気配が、まことに残念ながらきわめて濃厚になってきました。

 診断というものは、それを確定することによって、それまでよりも治療が進展するものでなければ意味がありません。ところが、現在の精神医療ではそうではありません。ますます薬物中心主義になるだけで、それ以上の変化はほとんどないからです。皮肉なことに、そのひとつの象徴が、このPTSD理論なのです。特にわが国の精神医療に言えることですが、PTSDという診断が下されたからといって、薬物療法が中心になっていることに変わりはありませんし、それに取ってつけたように、“受容”と“癒し”を錦の御旗にしたカウンセリングが、患者やクライアント側の要望によって、あるいは時代背景による要請から行なわれるだけなのです。現実に、そのカウンセリングの効果を本音の部分で“信じて”いる精神科医など、今の日本にはほとんどいないのではないでしょうか。

 次回は、PTSD理論をはじめとする心因論がこれまで見落としてきた、症状出現の直前にある出来事について説明し、これまでそれがなぜ見落とされてきたのかを考えることにします。

[註26]残念ながらこの著書の結論部の翻訳にも、かなり深刻な問題のあることが判明したため、引用に際しては、あえて原著から拙訳することにしました。なお、参考までに邦訳書の当該ページも付記しておきます。

[註27]かつては、精神科でも鑑別診断が重視されていた時代があったはずです。それがほとんど問題にされなくなったのは、知識や経験が不要のDSMが登場し、それが世界的に採用されるようになったためなのでしょう。

[註28]たとえば、亡命先の南仏で病床にあったゴヤは、やはりフランスに亡命していた息子からすぐに見舞いに行くという手紙を受け取った直後に死亡しているそうですし、やはり病床にあったベートーベンも、財政難を解消してくれるはずの100ポンドが、ロンドンから舞い込んだ直後に死亡しているそうです。

[註29]記憶が消えているものにも、ふつうの意味で忘れてしまった場合と、無意識的な意味で意図的に記憶を消してしまった場合とがありますが、このような研究法では両者を区別することができません。一方、かつて虐待された記憶を持つ、あるいは後に想起したという12名の女性を個別に面接調査したフィヴッシュら(Fivush & Edwards, 2004<)によれば、その記憶は異常に不安定な傾向を持っているそうです。

[註30]「性的虐待の心理的影響は、子どもの年齢が幼いほど重くない」(池田、1987年、63ページ)と言われているそうです。

[註31]加害者が見ず知らずの他人の場合には、虐待が1回程度なのに対して、家族など近しい間柄の場合には、虐待が複数回に及んでいる可能性が高くなります。そうすると、虐待の回数が記憶の有無に影響を与える可能性が考えられるわけです。著者はその点に着目し、それ以前にも虐待を受けていた群と受けていなかった群とに分けて、それぞれの記憶の有無を調べました。その結果、両群間には差のないことが確認されたそうです(Williams, 1994, p. 1173)。もうひとつの問題は、年齢との相関です。被害者の年齢は、虐待者が家族の場合のほうが他人の場合よりも低い可能性が高いので、虐待者が家族の場合のほうが記憶が消えている傾向が高かったのは、虐待者が家族か他人かということよりも、虐待時の年齢が低かったためなのではないか、という可能性が考えられるわけです。しかしながら、著者によると両者の相関係数は -0.152(p=0.89)となり、有意ではなかったのです(ibid., p. 1173)。

[註32]この場合、基本的信頼感があるのかないのか、という点が問題になります。PTSD理論を信奉する人たちは「ない」と考えているようですが、そのように断定してよい根拠も存在しないのです。私は、長年の心理療法の経験から、基本的には親子の愛情が存在し、その否定が起こるからこそ問題が続くのではないかと考えています。

[註33]ペルザーさんの場合、特に代理によるミュンヒハウゼン症候群とされているわけではありませんが、内容的にはまさにそうです。

[註34]ただし、児童虐待調査会が1983年に行なった調査によると、「保護の怠慢・拒否」という項目を除いて、父親の比率が圧倒的に高くなっています(池田、1987年、103ページ)。私が調べた中では、なぜかこのデータだけが異質でした。

[註35]子どもを殺害するほどの重度の虐待に限ると、最近の新聞報道では、継父ないし、同居する母親の愛人などが目立つように思えますが、その印象は、統計的にもある程度裏づけられています。東京工業大学大学院・犯罪精神医学研究チームが、1994年から2004年までの11年間に、新聞報道を通じて明らかになった児童虐待死の発生件数を集計した調査によると、15歳未満の子どもが殺害された件数は293件で、その加害者は母親が177人、父親が173人とほぼ同数だったそうです。もちろん、双方ともが加害者になっている事例も少なくありません。そして、父親の中で、母親の内縁の夫が45パーセントと、半数近くを占めるのです(「読売新聞」2006年9月17日号)。

[註36]このあたりの仕組みについては、別項(「いわゆる押しつけの愛情」および「子どもに対する嫌悪感、恐怖心、虐待」)で詳しく説明しておきましたので参照してください。

[註37]その点の論証については、「ADHDと呼ばれる状態像の歴史と現状」中の「ADHDの原因探求史」を参照してください。

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Copyright 2008 © by 笠原敏雄 | last modified on 3/11/11