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PTSD理論の正当性を問う 4

 PTSD理論が忌避するもの[註38]

心理的原因と精神科医

 心理的原因とは、本来は心因性疾患と総称される病的状態を生み出す原因を意味する言葉のはずです。とはいえ実際には、心理的原因がどこまで発症に関与しているかについては、昔からさまざまな見解がありました。その細目や歴史的経緯については、ここで詳しく説明する余裕がありませんので、詳細についてはしかるべき参考資料(たとえば、佐藤、2001年)を参照してください。いずれにせよ、精神科(および後発の心療内科)では、1960年頃に登場した薬物療法が普及するにつれて、心理的要因の(認識的)重要性が次第に低下して現在に至っているわけです。

心理的原因と薬物療法

 抗精神病薬が登場する以前に東大精神科教授を務めていた著名な精神科医は、1940年代に刊行した著書の中で次のように述べています。「拐~原因が分裂病の原因として何の意味も有しないと言ひ切ることは早計である。〔中略〕フランス學派の中には、拐~原因を重視するものが他の國々の學者に比して多く、この問題の解決には今後にまつべきものが殘されて居るとはいへ、拐~衝撃の誘因としての役割は、特別の例においては否定し得ないと思はれる」(内村、1948年、141ページ)。

 この引用文からわかるのは、当時のわが国を代表する精神科医が、「誘因」としてではあっても、現在では脳内の異常によって起こると断定されつつある分裂病に対してすら、心理的要因をそれなりに重視していたことです。それに対して、最近のある精神科医は、心理的要因の位置づけについて、次のように述べています。これは、現在の精神科医の代表的意見というわけではないかもしれません。しかし、それをうかがい知るうえでひとつの参考にはなるでしょう。

 この数日眠らず独り言を呟き、ときに興奮する子供を連れてきた母親は、その初診も終えないうちに、「どんな病気なのか、何が原因なのか、私の育て方のせいなのか」と性急に治療者に詰問してくる。〔中略〕この種の問いに対して、精神科医は苦し紛れに「不眠ゆえの異常な脳の興奮のせい」とか「衝動行為は幻聴のせい」などと答えたりする。そして、母親は一応納得した態度を示す。〔中略〕上記の要素還元的な説明では、「なぜ脳の異常が独り言という現象をもたらすのか」「なぜ幻聴が衝動行為を出現させるのか」という、逆のプロセスを説明することができない。分裂病の遺伝子異常が明らかになったとしても、なぜ「この」患者に「この」病態が出現しているのかを、その遺伝子所見は教えてくれないであろう。(松本、2000年、42−43ページ)

 これは、「精神分裂病の心因論をめぐって」というタイトルの論文から抜き出した文章です。ですから、この場合の「子供」は幼児という意味ではなく、母親に対しての子どもという意味です。これを読むと、昨今の精神科医たちが心理的要因というものをどのように考えているのかが、ある程度にしてもわかるでしょう。つまり、分裂病は、もはや脳の異常から生じた疾患にまちがいないという大前提のもとで、“心因論”を、治療者や家族が「納得」するための説明概念ととらえているようなのです。したがって、心理的要因や心理療法などは、せいぜいのところ心を落ち着かせる程度のもので、分裂病の原因の解明にもその治療にも全く無意味なものと考えているはずです。

 このいわば余裕のある態度は、薬物療法という、多少なりとも実用的な対症療法を持っているために生まれたものなのでしょう。それに対して、薬物療法を手にする以前の精神科医は、電撃療法をはじめとする各種痙攣療法(および、場合によってはロボトミー)を除いて、症状を鎮静させるための効果的な対症療法を事実上持っていなかったため、やむなく心理的原因を考慮しなければならなかったということなのではないでしょうか。両者が置かれている立場の違いは、非常に大きいと思います。痙攣療法は病院で、しかも単発的にでなければできない(毎日続けるにしても、施行回数が限られる)のに対して、薬物療法は、特別な装置や管理を必要とせず、自宅で、しかも継続的にできるからです。

 薬物療法が登場する以前にも、心理療法と呼ばれるものは存在していました。催眠療法がそうでしたし、精神分析やその対極的な位置にある後発の行動療法もそうです。そしてその背景には、それぞれの原因論があります。しかし、精神分析も含めて、現実に有効な形で応用できる心因性疾患の原因論があったわけではありません。治療法として比較的有効な催眠療法[註39]も、一時しのぎ的な役割しか果たさないことが多かったようですし、特に精神科で最も数が多く治療も難しい精神分裂病に対しては、とうてい歯が立つものではありませんでした。

憧憬と現実

 このように効果的で実用的な対症療法が存在しないという事情があったためなのかもしれませんが、わが国のかつての精神科では、シュヴィング(1966年)やセシュエー(1971年)による接近法などへのあこがれがありました。そのおかげで、心因論にもそれなりの地位が与えられていたとはいえ、現場では心理療法など問題にもされなかったのです。少なくともわが国では、理論だけで実践はほとんどありませんでした[註40]。私が精神科病院で心理療法を始めた1970年代の初めは、まさにそのような状況でした。

 ところが、現在のわが国では、臨床心理士という認定資格制度ができて、その資格を持った“心の専門家”たちによって、津々浦々の病院やクリニックや職場や学校で心理療法やカウンセリングが当然のごとくに行なわれるようになっています。昔を知る者からすれば、まさに隔世の感があります。

 “心の専門家”の進出自体は悪いことではないのでしょう。しかし現段階では、ほとんどの場合、その背景にある動機が問題です。患者やクライアント側の要望と被害者の救済願望という、時代の要請にひたすら応える形で行なわれているにすぎないように見えるからです。薬物療法を必須とする精神科や心療内科で、治療法としての心理療法やカウンセリングが、一部の患者やクライアントに対してであれ、必要不可欠なものとして認識され、重視されるようになったわけではないのです。

 以下、いわゆる心因性疾患の心理的原因が、精神科や心療内科ではどのように考えられ、どのように扱われているかを説明します。しかる後に、PTSD理論を含めて、ほとんどの心理療法理論が、症状出現の直前にある、真の意味での原因に目を向けないようにしているという現実を浮き彫りにし、その重大性を明確にしたうえで、その理由について考えることにします。したがって、本稿では、PTSD理論に的を絞るというよりは、PTSD理論を含めた心因論全般を対象とすることになります。

心理的原因の推定と確認

心理的原因とはどういうものか

   DSM−Vまでは心因性疾患として扱われていた神経症群も、Wからは「不安障害」として扱われるようになり、心因性疾患としての位置づけを失っています。この事実からも、精神分析や行動療法など、従来的な心理療法がいかに有効と見られていなかったかがわかろうというものです。なお、DSM−Wでただひとつ心因性疾患としてお墨付をもらっているPTSDは、この不安障害の下位項目のひとつに位置づけられています。

 ところで、心因性疾患の心理的原因とは、実際にはどのようなものなのでしょうか。実生活の中で起こった何らかの出来事だけで、心因性疾患が発症するものなのでしょうか。それとも、何らかの準備状態があるところに発生した出来事が、引き金のような形で作用することによって初めて発症するのでしょうか。前者であれば、“ストレス脆弱性”を考慮するにしても、それなりに大きな出来事でなければならないことになるでしょうし、後者であれば、「引き金」の内容に加えて、どのような準備状態が必要なのかという点が重要な問題になるでしょう。

 また、どちらにしても、心理的原因を探る意味はどこにあるのでしょうか。ただ病気になった理由を知りたい、それによって納得したいというだけのことなのでしょうか。それとも、心理的原因を突き止めると、それによって症状に何らかの変化が起こることが想定されているのでしょうか。

 いずれにしても、推定を重ねるだけでは何の進展もありません。推定された原因が事実なのかどうかを、何らかの科学的方法を使って確認しなければならないのです。ところが、これまでの精神科や心療内科では、単なる推定が、知らず知らずのうちに断定にすり替わってしまうという、奇妙な状況が、疑念をもたれることなく当然のごとく続いていたのです[註41]。まさに妄想の世界というか、思い込みの世界です。

 次に紹介するのは、分裂病(緊張病)を持つ男性の発病状況に関する、ある精神科医の報告です。原因に関係する出来事として推定されているにすぎないはずが、そのまま断定になってしまっていることがはっきりとわかるでしょう。

 A男の場合には祖母の死が直接の契機になっている。A男自身がこの問題についてもはや陳述する能力を持たず、家族も説明することができないため謎のままであるが、緩徐発症の過程のなかにあってA男の自我を震がいさせ、崩壊させるような体験であったことは推察できる。幼い時から母から愚図と軽んじられ、支配され、父からの庇護も受けず、学校ではいじめにあってきたA男は祖母だけが安全を保証する基地であったのかもしれない。
 他方B男は、第1回の発病は、暴力団にからまれたホステスを庇った後でやくざに追われるという恐怖体験とそれに引き続いた事故が契機になっている。第2回目は店長会への出席という晴れの場面が契機になっている。いずれもそれに先行して疲労が積み重なっていた。(市橋、1994年、31ページ)

 ここでは、「祖母の死が直接の契機になっている」、「やくざに追われるという恐怖体験とそれに引き続いた事故が契機になっている」、「店長会への出席という晴れの場面が契機になっている」として、それらの出来事が発症の原因にそれぞれ関係していると断定されています。しかし、時間的に近接した珍しい出来事というだけで、発症の原因に関係していると断定してよいはずはないでしょう。その推定を出発点として推定を重ねても、屋上に屋を重ねるだけで、そのような姿勢から信頼性のある原因論が生まれることは決してありません。

わが国独自の心因論的取り組み

 ところで、今から50年ほど前(1958年頃)に、群馬大学の精神科で、「分裂病再発予防5箇年計画」と名づけられたプロジェクトが発足しました。これが、62年に、有名な「生活臨床」という分裂病の長期的治療指針に基づく取り組みへと発展するのです。これは、分裂病患者に対するわが国独自の、一貫性を持った心因論的対応法でした。「理論的な統一よりも実用的な指針」を優先させたこの生活指導法は、「患者が生活上のできごとに反応しておこす生活破綻」を重視したユニークな方法です。その中で、分裂病の患者は、「色、金、名誉、身体」(異性、金銭、名誉、身体)という4方面でつまずいた時に再発を起こしやすいことがわかってきたのでした(臺、1978年、1、5ページ)[註42]

 わが国でこのように斬新な取り組みが、しかも中央ではなく地方の大学で始められたことについては、驚きであるとともにおおいに評価すべきでもあります。とはいえ、この方法には、患者に生活規制を課した結果として、現実に再発を回避させることができたかどうかがわからないという、重大な欠陥がありました。科学的な立場から見ると、実証性がまるでないのです。

 その一方で、既にその目覚しい活動ぶりを高く評価されていた精神科医の小坂英世さんは、少し遅れてではありましたが、文字通り徒手空拳の取り組みの中から、社会生活指導と呼ぶ、生活臨床に似た方法論を独自に生み出していました。そのため双方は、しばらくの間、互いに影響を与え合いながら交流を続けます。ところが、1970年頃、ある発見を契機に、小坂さんは生活臨床グループと袂を分かったのです[註43]。正統精神医学の枠内では、ここから先で両者の評価が完全に分かれます。生活臨床は今でもそれなりに評価されているのに対して、小坂さんは、それ以降、その存在をほぼ抹殺されて現在に至っているのです[註44]

 生活臨床グループの側は、このあたりの事情について、次のように論評しています。「生活臨床の考え方に強く影響された小坂さんは、これを分裂病の発病原因とみなすようになり、いわゆる分裂病家族因説にいちずにのめり込んでしまった」(臺、1978年、6ページ)。しかし、小坂さんのほうがまちがった道に入り込んで行ったとするこの主張は、事実を完全に歪曲しています。小坂さんが独自に発見した方法こそが、原因を推定するだけで終わっていたそれまでの不毛な伝統的方法論から、それを科学的に確認することができる革命的な方法論へと大きく飛躍したものだったからです。

 次節では、生活臨床グループから離れた小坂さんが、独自の道を行くようになるまでの経過をもう少し詳しく眺めてみましょう。精神疾患の心理的原因の本質がどのようなものかをはっきりと知るためです。

小坂理論から見た心理的原因

社会生活指導

 小坂さんがその原因論(小坂理論)を構築するきっかけとなった最初のヒントは、社会生活指導で、「色、金、名誉、身体」という“弱点”を患者たちに回避させようとする試みの中から浮かび上がったものでした。1969年、再発して急性症状を出している分裂病の患者に、その原因に関係すると思われる、ある具体的解決策を与えたところ、いったん出現した症状を消失させることに、初めて成功したのです。それを嚆矢として、その後、症状の消去に続々と成功するようになったのでした。つまり、そのおかげで患者に生活規制を強いる必要がなくなったということです。人権という側面から考えても、この進展はきわめて大きいものでした。次に紹介するのは、分裂病症状出現の経過を明確に示す実例です。

 ある時、自宅静養中の男性が、高額商品を購入し、その代金を父親に渡して銀行に振り込んでもらいました。ところが、その領収証には収入印紙が貼られていなかったのです。それに気づいた本人は、 銀行に抗議に行こうとしたのですが、それまでのように短絡的行動を起こして失敗するのを恐れて、そのことを小坂さんに電話で相談しました。本人から事情を聞いた小坂さんは、銀行に電話を入れて、担当者を本人のもとへ謝罪・訂正に来させるよう手配したのですが、行員はなかなか来ませんでした。

 いら立った彼〔J〕は、しだいに興奮状態に発展していった。大声で、数分おきに私に電話してきた。しまいには嗄声になってしまった。はじめのうちは、 銀行側の来宅が遅い、 待っているといらいらするなどといっていたのが、しだいに支離滅裂な、苦悶状の内容になってきた。ついには苦しいので入院させてくれと喚くようになった。在宅していた両親もオロオロしてしまい、今までにない興奮で、あたりちらし、手のつけようがない、入院させてくれといってきた。私は電話で、あるときは本人をなだめ、あるときは本人を叱りつけるいっぽう、患者の手もとにあるクスリを追加服用させるようにした。そしてJと両親に、行員が謝罪・訂正にきさえすればおさまるはずだから、それまで辛棒〔ママ〕して待つように指示した。
 やっと行員が到着し、謝罪と訂正が行なわれた。まるで引き潮のように、Jの興奮はしずまっていった。(小坂、1970年、37―38ページ)

 この男性は、“待つ”という、ふつうの行為がふつうにできなかったのです。もちろん、この鎮静は、一時的なもので終わったわけではありません。この時の興奮というか再発は、銀行員の事務的処理と謝罪によって完全に解消したのです。薬物にしても、大量に投与されたわけではありませんでした。このような実例から突き止められた方法を使うことによって、再発後に症状のコントロールができるようになったのでした。

 こうした操作を意図的に行なうことで、単なる主観的推定ではなく、原因を客観的に確定できる方向へと一歩踏み出したことになります。ただし、この方法が使えるのは、具体的解決が可能な場合に限られてしまいます。したがって、本当の意味で心理療法と呼べるような段階には、まだ到達していませんでした。しかし、次の段階はまもなく訪れます。

心理療法としての小坂療法

 具体的解決策を取る方法と相前後して、小坂さんは、再発した患者が、まさにその直前に起こっていた、その原因に関係する出来事の記憶を消しているという事実に注目するようになっていました。1970年、ある再発患者に、再発の原因に関係しているらしき出来事を指摘して、その記憶を蘇らせたところ、それまであった症状が一瞬のうちに消えることが確認されました。そして、急速に薬物を服用する必要のない状態になったのです(小坂、1972年a、14ページ)。

 この手続きは、神経症について精神分析で主張されている抑圧解除と全く同じだと考えた小坂さんは、この手順を、フロイトに敬意を表して、抑圧解除という精神分析用語で呼びました。そして、この時点で、生活臨床グループと袂を分かったのでした。ところが、この時から、想像を絶する小坂さんの苦難が始まるのです。

 この段階になると、心理的原因の意味がはっきりしてきます。本人はその症状の原因を“抑圧”しているため、それと引き換えのようにして心因性の症状(この場合は幻覚妄想や興奮)が出ています。したがって、その記憶を意識に引き出せば、その瞬間にそれまで出ていた症状が消えるわけです(実例については、「心理療法随想」中の「精神科病院での経験」をご覧ください)。これは、見たことのない人には、絶対にと言っていいほど信じられない現象でしょう。仮にも本物の“内因性”精神病の幻覚妄想や興奮が、その程度のことで治まるはずはないではないか、というわけです。しかし、まさに「百聞一見」で、実際に目の前で見れば認めざるをえなくなります。

革命的な方法論

 現に、小坂さんの言う通りの現象が起こることについては、小坂理論を批判しているある精神科医も、その講演の中で、「確かにその霊験あらたかな症例があったことも事実で、私達の眼前で『よくなってしまう症例』を見せられたものです」と、皮肉を交えながらも率直に認めています(浜田、1986年、256ページ)。この表現から判断すると、この精神科医は、小坂さんの方法で症状が消える場面を、目の前で一度ならず目撃していることがわかります。そればかりか、自分でも、その成功例らしきものを何例か持っているようなのです(たとえば、浜田、2001年、150―151、202ページ)。

 これが本当なら、未だに“原因不明”で治癒不能とまで考えられてきた精神病が、症状出現の直前にあった出来事を思い出させるという簡単な手続きによって操作的に治療できることになります。しかも、“慢性化”した患者であっても、薬物が必要のない状態にまで好転するというのです。しかし、世の常識からすれば、そのようなことがあるはずはないでしょう。

 ここで、現に症状を示している患者に、心理的原因を指摘して思い起こさせることができさえすれば、その瞬間に症状が消えてしまうという小坂さんの主張が正しいとするとどういうことになるのかを、あらためて整理しておきましょう。まず、そうした手続きを通じて、心理的原因が明確かつ客観的に特定できることになります。また、もしそうなら、分裂病は可逆的な心因性疾患だということになりますし、それを操作的に治療できることにもなります。したがって、それが本当なら、精神医学が始まって以来の、まさに革命的な方法と言えるはずです。

小坂理論とトラウマ理論の相似性

 それまでもそうだったのですが、その後も小坂さんの治療理論は目まぐるしく変わります。次の段階では、再発の真の原因は出来事自体ではなく、患者がその打撃を受けた時に、その気持を思いやることができない両親の“冷たい仕打ち”にあるとされました(小坂、1972年a、18ページ)。

 そのため、その頃の小坂さんは、患者への両親の謝罪を治療の根幹と位置づけ、それを両親に強く迫るという方法を取っていました。それとともに、幼少期の“抑圧体験”の心理的解決も重視するようになったのです。幼時の“抑圧”体験が、初発の準備段階として重要な役割を演じていると考えたからでした。この頃の考えかたは、抑圧解除を別にすれば、昨今のトラウマ理論とほとんど同じです。患者に対する謝罪を両親に強く迫っていたことも、一部の理論と共通しています。

 当然と言うべきか、その段階の小坂療法には、両親に対する患者の逆うらみという概念がありませんでした。そして、子ども側の言い分をほとんどそのまま受け入れ、徹底的に子どもの味方をしていたのです。加えて、患者たちが、逆うらみから親元を離れたがるのを、自ら保証人になって、自宅の近くに転居させるまでして援助していたのでした。要するに、「親に虐待されて分裂病を発病した不憫な子どもたち」という認識だったのです。

 この段階までの小坂理論を、ここで整理しておきます。両親による幼少期の虐待が“抑圧体験”を生み、それが無意識の中で積み重なった結果、小坂さんが皮肉を込めて“分裂病患者のもちあじ”と呼んだ性格の偏り[註45]が起こります。そして、思春期以降に社会的な自立を求められる段階で、さまざまな出来事に直面すると、特有のもちあじのゆえに対応に失敗し、その傷つきから新たな抑圧が起こり、その結果として分裂病症状が発生するというのです。“もちあじ”自体も親のせいで形成されたと考えるわけですから、PTSD理論からしても全く違和感のない、まさに分裂病のトラウマ理論です。ただし、言うまでもないことでしょうが、症状出現の直前に、その時の心理的原因があるという考えかたは、現今のトラウマ理論とは根本から違っています。

 この頃の小坂さんは、先述のように心理的原因を、「患者がその打撃を受けた時に、その気持を思いやることができない両親の“冷たい仕打ち”にある」と考えていました。つまり、初発や再発は、そのたびごとに両親が子どもの気持ちを思いやらず、“冷たい仕打ち”をした結果として起こるということです。したがってこの部分は、そこまで徹底していないPTSD理論とは一線を画するところでしょう。

 ところが、親元を離れて、親と絶縁した状態で生活している患者たちにも、やはり再発が起こることがはっきりしてきました。そうすると小坂さんの考えでは、その再発は、親とは無関係に、本人自身の責任で起こったことになります。そのためもあって、発病の責任が親にあるという考えかたを、根本から変更する必要に迫られたのです。この時点から、患者の責任を厳しく問う方向へと自然に転換してゆきます。この変化は、まさにコペルニクス的転回でした。ここは、科学史的に見てもきわめて重要な転換点なので、この変遷の経過やそれに対する周囲の反応を丹念に検討しておく必要があります。

トラウマ理論から脱却した小坂理論

“抑圧解除”法による治療と患者の対応困難化

 “抑圧解除”による症状消失を経験した分裂病患者の多くは、社会的に容認されにくい発言や行動を、それまでにもまして示すようになりました。要するに、以前よりも御しがたくなったということです。小坂流に表現すれば、それまでの段階よりも、分裂病患者の“もちあじ”が表面に出てきた、ということになるでしょうか。ですから、それを悪化と見る人がいても不思議はないでしょう。この状態は、ふつうの精神科治療を受けている患者には、全く(あるいはごく稀にしか)見られないものだと思います。

 分裂病症状の発現を、分裂病患者特有の“弱点”(名誉、金銭、異性、身体に対する特有のこだわり)を刺激された結果と見ていた頃には、そのようなことはありませんでした。相変わらず患者たちは、一般にもよく言われる通り、ある意味で素直でしたし、けなげですらありました。また再発も、それまでと同じく、ふつうの再発だったのです。

 ところが、いわば本性(ほんしょう)を現わした患者たちの場合、その後の再発は、対応がきわめて困難な、小坂さんの言う“イヤラシイ再発”[註46]に変容してしまうのです。 それ以降、小坂さんは患者を見る眼が一変し、患者たちに対して厳しい接しかたをするようになりました。小坂さんが、古い患者たちに向かって、「小坂は変身した」と、直接間接に語っているのを、私は何度か耳にしたことがあります。

 私が接するようになった頃(1973年)の小坂さんは、ひとつの出来事についての対応の不適切さに対する、患者の後悔・自責の念(の抑圧)を発症の原因と考え、両親の責任ではなく、既に患者自身の責任を問うようになっていました。分裂病の発症は、全面的に本人の責任で起こるというのです。非常に興味深いのは、ほとんどの批判者が、これ以降の小坂療法の展開を知らないか、知っていても曲解ないし無視していることです(たとえば、浅野、2001年、82―83ページ。浜田、1986年)。このトラウマ理論からの脱却は、本来なら、精神医学史上で最大級のトピックとして扱われるべきものだと思います。

 ところで、精神科医なら他の誰よりもよく知っているはずですが、分裂病という疾患の場合、一定の心理的操作だけで、その症状を鎮静化する方向にコントロールすることはできないことになっています。もしそれができれば、そもそも薬物をはじめとする一般の精神科的治療は不必要になってしまうわけです。クレペリンの昔から無傷のまま続いてきたこの定説に対して、小坂さんは、患者が再発の原因を意識の上で認めさえすれば、どれほど激しい症状であったとしても、それが一瞬のうちに消失するという主張を、きわめて豊富な臨床経験に基づいて行なったのです。

“抑圧解除”法による治療が不問に付される

 ここで不思議なのは、どの精神科医も、抑圧解除によって分裂病症状が一瞬のうちに消える、という小坂さんの主張を一顧だにしておらず、そうした自らの態度を疑問にすら感じていないという事実です。それを重視するどころか、考慮に入れることすらなく、その場面を目の当たりにしたことのある精神科医であっても、まるで何ごともなかったかのように、いつのまにかその事実から遠ざかってしまうのです。

 小坂さんが提唱する理論が正しければ、仮にそれが一部の患者にしか当てはまらないとしても、精神医学にとってまさしく革命的な方法となります。したがって、この点の確認は、世界的な視野で見ても今なお沈滞状態を続ける精神医学が真の発展を遂げるうえで、きわめて重要な課題のはずなのです。にもかかわらず、小坂療法の存在そのものを不問に付した状態が未だに続いているのは、どうしてなのでしょう。このきわめて重要な問題については、拙著『幸福否定の構造』(笠原、2004年)で詳細に検討していますので、関心のある方はぜひご覧ください。

 話を戻すと、小坂さんは、両親による幼児期からの“冷たい仕打ち”[註47]によって抑圧が起こり、それが思春期以降に破綻を起こす素地になるという分裂病トラウマ理論を放棄し、発病の原因は患者自身にあるという考えかたに大転換したのでした。それに決定的に気づいたきっかけは、原因に関係した出来事について患者が感じた、「しまった」という後悔・自責の念を“抑圧”している事実がわかったことでした。次に紹介するのは、そのことを小坂さんが初めて明確に記した文章です。

 素朴な心因論者(心理的原因で発病すると考える人、多くの家族がそうです)は、「ショック」ということを重視します。しかしそれは間違いのもとになります。単なるショックでは、分裂病患者とて、非分裂病者が起こすのと同様な、単なる反応(怒り、嘆き、憂うつなど)しか起こしません。〔中略〕
 患者が症状に走るキッカケとなるのは、あくまでも「シマッタ」という後悔、自責の念なのです。〔中略〕
 私は大まかにいうと、「シマッタ」という念は、その人間が自分のもっている「倫理観」に反する行為をしたときと、もう一つは、自分のもっている「価値観」からすると損害をこうむったときに起きるものと考えます。〔中略〕分裂病患者の場合、その「シマッタ」につながる「倫理観」とは、あくまでも「社会から習いおぼえて身につけたもの」であり、それを裏切る行為は「親から習いおぼえて身につけたもの」であるということです。また「シマッタ」につながる「価値観」とは、まったく「親から習いおぼえて身につけたもの」なのです。(小坂、1973年a、4−5ページ)

 親から習い覚えた倫理観および価値観と、社会から身につけた倫理観および価値観との間に大きな断絶があることに、何かのきっかけで気づかされた時、親からその倫理観や価値観を無批判に受け継いでいることに対する「後悔、自責」を避け、自己欺瞞にのめり込んでしまうということです。そして、その自己欺瞞の一環が、その出来事やそれにまつわる心の動きの記憶を意識から消し去ることであり、分裂病症状を発現させることだというのです。「シマッタ」という後悔、自責の念があるということは、その価値観・倫理観が親から身につけたものであるとはいえ、その責任は、親にではなく自分にこそあることを、完全に承知しているということに他なりません。

 小坂さんの理論が急速に発展し続けたのは、その実証的態度のためでした。梅棹忠夫さんや故・藤岡喜愛(よしなる)さんといったいわゆる京都学派と親交を持っていたこともあって、研究姿勢もこのように探検的な傾向がきわめて強かったのです。非常に観察眼が鋭く、ちょっとした手がかりから推理を進め、それを実証的に確認するという科学的手順を絶えず踏んでいました。ですから、小坂さんの主張は、どの段階のものであれ、従来の精神科医たちと違って、それなりの事実の裏打ちを必ず持っていたわけです。

専門家たちの奇妙な反応

精神科医たちによる人格攻撃

 では、小坂さんのそうした主張に対して、専門家たちはどのような反応をしたのでしょうか。小坂さんが“抑圧解除法”を用いるようになって以降、小坂療法に対して精神科医たちが示してきた反応は、かつての私にとって、ことごとく了解不能なものでした。節度あるはずの専門家たちが、こと小坂療法となると、それだけで奇異ないし異常な反応を見せたからです。本節では、その問題を手短に検討し、その裏にある抵抗の焦点を明らかにします。

 小坂さんからは、理論や治療法とは何の関係もない人格攻撃的な流言や雑言が、何と学会の中でもいくつか流されたことを聞きましたが、私も同種の体験を何度かしています。その典型例は、当時、わが国で指導的な立場にいた、国立大学精神科教授の態度です。

 ある会合で、私が小坂療法を行なっていることを、私が勤めていた病院の院長から聞かされた教授は、「きみ、小坂の言ってることはみんなうそだよ」と、私の前で断言しました。にもかかわらず、実際には、小坂さんに対するその種のうわさ話を耳にしていただけで、小坂療法自体については、ほとんど知らなかったのです。現実に小坂療法の効果を確認している者の前で、専門家としての名声が高いとはいえ、それについては無知に近い人物が、なぜこのような態度が取れるのか、当時の私には全く理解できませんでした。

 私が聞いたことがある流言は、「小坂はいつも街中で登山靴をはいている」という話と、「小坂は、自殺者が出たので、ネパールに逃げてしまった」(小坂さんはネパールに分裂病罹患率の調査に出かけたのであって、自殺者とは無関係)などの話です。要するに小坂という人物は、社会常識を欠いており、自分の治療を受けた患者の中に自殺者が出たら逃げ出してしまうような、責任感のない異常な人間だとでも言いたいのでしょう。これらは、精神医療の専門家たちによる発言とはとうてい思えないものです。

 私は知りませんでしたが、小坂さんが公の場からいったん姿を消した後[註48]にも、たくさんのうわさが流されたようです。小坂さんのかつての理解者は、1985年に開催された、家族療法に関する専門家のシンポジウムの講演(「小坂理論と私」)で、次のように発言しています。

 昭和五十一年六月のパンフ〔1976年発行の「私の病因論と治療法」のこと〕を最後に、彼は消えました。その後の話は暗い話ばかりです。彼一家はマンションを転々とし、神奈川の大秦野という山奥に、家出をした患者達との共同住居をつくったが、入る人がなくなってしまったとか……、抑圧解除され家出した人が自殺した……、興奮して上妻病院に数多く入院した(彼は入院絶対反対論者の急先鋒だったはず)……、小坂夫人苦労の連続で白髪に……、などなど(浜田、1986年、263ページ)。

 ほとんどは完全に事実に反していますが、それを別にしても、専門家向けであれ一般向けであれ、講演というものに似つかわしくない異様な発言であることがただちにわかるでしょう。小坂理論の当否を確認するという科学的手続きを、知らず知らずのうちに回避し、科学的な論争から完全にかけ離れた、的はずれの人格攻撃に終始しているからです。このような精神科医たちによる没論理的非難に対して、かつて小坂さんは、「万が一、私が異常だとしても、だからと言って、私の言っていることがまちがっている証明にはならない」と話していました。

 小坂療法について未だにきちんとした評価を行なうことのないまま、ひたすらまちがっていることにして終わらせようとしている、批判者たちのこうした一連の態度は、論争という観点から見ると、自らの完全な敗北宣言に等しいと言わざるをえません。小坂療法に対して精神科医たちが不可解な態度を取り続ける理由が何であったとしても、“根拠に基づく医療(EBM)”という理念が世界の主流になりつつある現在、このような状況が続くことは、それ自体、時代錯誤のように見えます。

専門家の非専門家的抵抗

 当時の私は、こうした理不尽な抵抗を、新しい学説に対してよく見られる、一般的な抵抗と同列のものと考えていました。しかし、それから30年もの歳月が流れてみると、それは、通常の抵抗とは全く異質の現象だということがわかってきました。そのことを示唆する事実はいくつかあります。ひとつは、この抵抗が、通常のものよりも格段に強いことです。たとえば、ある精神科医は、小坂理論について次のように述べています。

 「小坂理論」とは、生活臨床と初歩的な精神分析理論の合体の産物である。そして治療技法は、ある種の宗教における求道法に類似している。
 分裂病の原因を心理的抑圧に求め、その抑圧の解除が「原因療法」であるとしているが、これはフロイドの神経症理論の引き写しにすぎない。彼自身も述べているように、彼の頭の中には、分裂病と神経症の区別は存在していなかったのである。症状を問題にすることは有害であるとまで言い切っていた。〔中略〕
 彼は、自らの技法が有効でない症例に出会うと、自らの「理論」を吟味するのではなく、その責を患者・家族に帰している。(浅野、2000年、82―83ページ)

 昔の論文(藤沢、1971年)からの、この「引き写し」的見解は、小坂さんが提唱した方法論を、 初期の時代から丹念に追って来れば、とうてい出てこないはずのものです。こうした発言は、小坂さんの一連の主張を全く理解していないことを示しています。この中に含まれる多くの(おそらくは無意識的な)歪曲を別にしても、ここには、大きな問題が潜んでいます。それは、従来の知識に基づく演繹的論証や批判は、少なくとも科学者の取るべき道ではないということです。

 小坂理論を自分で検証できる立場にいる専門家が、自分たちに課せられた責務でもあるその検証もせずに、このような没論理的批判をするのは、どうしてなのでしょうか。この理論の真偽は、そこで提示されている方法によって現実に治療が可能かどうかにのみかかっています。要するに、小坂さんの方法が求道法のように見えるとしても、神経症理論の引き写しのように見えるとしても、それによって真の意味での治療が可能であれば、何の問題もないということです。科学の基本理念を承知していれば、その点について異論はないでしょう。しかし、不思議なことにこれまでのところでは、この種の“批判”しか存在しないのです。

 逆に、いかにもっともらしく見えても、治療に役立たなければその理論は無意味です。精神医学や心身医学の領域でこれまで提出されてきたほとんどの理論は、その程度のものだったのです。

 ここで、ひとつ指摘しておかなければならないことがあります。上の引用文には、小坂療法に対する批判らしきものが並んでいますが、小坂療法の中核概念である抑圧解除については、やはりそれが正しいとも、まちがっているとも述べられておりません。その判断は(もちろん、できるはずもありませんが)知らず知らずのうちに避けられているのです。 あるいは、「自らの技法が有効でない症例に出会うと」などという表現をしていることからすると、小坂さんの方法が有効な症例も実在することを暗に認めている、と考えてよいのでしょうか。また、もし少数にせよそうした症例があるとすれば、それだけで小坂さんの理論を革命的なものと認めざるをえなくなるはずなのですが、この精神科医にはそうした認識はないのでしょうか。

 このような場合、一般には、専門家が何らかの(たとえば、自分たちの立場が危うくなるなどの)利害を秤にかけた末、そうした暴挙に及んだのではないか、と考えることでしょう。しかし、仮にそのような“思慮”があったとしても、それはおそらく副次的な理由でしかありません。ここで私が言おうとしているのは、小坂療法に対する異常な攻撃は、精神医療の専門家としての立場に基づくものではなく、それぞれの個人的抵抗に端を発した異常行動なのではないか、 ということです。そして、ほとんどの人たちが同質の抵抗を強く持っているため、それが暗黙の協定と化し、専門家であれ一般人であれ、ほぼ全員が、必然的に同一歩調を取ることになるのです。

非専門家的抵抗の起源を探る

抵抗が起こった時点を突き止める

 この問題については、症状や異常行動はその原因となる出来事の直後に発生する、という原則に照らして検討することができます。そのためには、専門家の抵抗(という異常行動)が小坂療法を抹殺してしまうほどに強まったのは、小坂療法の発展段階のどの時点なのかを、まず明確に突き止める必要があります。

 これまで述べてきた経過を見るとはっきりしますが、小坂療法(というよりも、現象的には、むしろ小坂さん個人)に対する異常な攻撃が始まったのは、小坂さんが抑圧解除法を提唱してまもない頃でした。しかし、単に“心理的原因”を患者に思い出させていた頃や、幼少期の“抑圧体験”を遡って解消するようになり、「真の原因は家族の冷たい仕打ちにある」として、患者に対する謝罪を家族に迫っていた頃には、家族会や同調者たちの離反(たとえば、広田、1971年。藤沢、1971年を参照)はあったものの、精神科医たちの抵抗は、まだそれほどでもありませんでした。没論理的なものではあっても、依然として批判が表立って続けられていたからです。

 確かに、その頃から、ほとんどの患者が“イヤラシイ再発”を起こすようになりましたし、それまで静観していた専門家たちも、その頃から、 精神医療の専門家であることも忘れ去り、小坂療法をめぐる科学論争ではなく、小坂さん個人に対して臆面なく人格攻撃を繰り返すようになっていました。しかし、小坂療法に対する専門家たちの抵抗が決定的に強くなったのは、本人の責任を問う形で、より操作的に抑圧解除が行なわれるようになった後でしょう。そのあたりから学界では、小坂療法や小坂さんの存在そのものが、ほぼ抹殺されるようになったのです。

 その状況は、今なおそのままの形で続いています。未来の科学史は、この問題を特段に重視するはずです。あるいは現在でも、偏見のない科学社会学者であれば、この“事件”を、ガリレオの宗教裁判にも匹敵するレベルの、きわめて重要な研究対象と考えるかもしれません。

 この異常反応は、分裂病を持つ人たちがある種の出来事に直面した時に、不可抗力の結果としてではなく、無意識的なものであるにしても自分から異常を積極的に作りあげ、その原因を思い出した瞬間にそれを引っ込める、という事実経過が明確になるにつれて強くなってきたと言えます。

 分裂病と他の心因性疾患では、原因論的に見て、大幅に違う部分がいくつかあることがわかっています(笠原、2004年、第2、8章)。本節に関係する部分だけあげると、分裂病では、心理的原因に関係した出来事が意識に浮かび上がっただけで、その瞬間に幻覚妄想や興奮がほとんど消えてしまうのに対して、それ以外の心因性疾患では、そこまでの劇的変化が起こる場合は少ないことです。そのため、両者を同一のものとして扱うことはできませんが、専門家が抵抗を起こす焦点には、両者に共通する部分があります。それは、これまでの説明からおわかりいただけるように、次の2点に集約することができます。

 (1)はどちらかと言えば治療的側面に関係が深いと言えますが、それに対して(2)は、理論的側面や人間観に関係が深いと言えるでしょう。以下、この2点を手短に検討します。

“抑圧解除”によって症状が瞬時に消えることに対する抵抗

 症状出現の直前にある出来事を探り出すという、かなりの労力を要する手順が必要だとしても、“抑圧解除”という簡単な手続きで、症状が多少なりとも消えるのであれば、まずはっきり言えるのは、心因性の症状は、いかに重度に見えるものであっても、それほど重大な問題ではないということです。私のこれまでの経験では、その時の細かい心の動きを(作業としては大変ですが)さらに丹念に掘り起こせば、心因性の症状は完全に消え、同程度の原因に直面しても再発しなくなるものです。

 ところが、そうした事実を認めることに対して一般にきわめて強い抵抗があるとすると、心因性疾患の本質をそのようなものと考えたくないという非常に強固な意志が、人間一般のいわゆる無意識に潜在していることになるでしょう。その理由としては、ふたつの可能性を考えることができます。ひとつは、同情という要因が関係している可能性であり、もうひとつは、従来的な人間観の変更を迫られることに関係している可能性です。前者の場合には、常識的な意味での抵抗が働いていることになるのに対して、後者の場合には、私の言う幸福否定に基づく抵抗が働いていることになります。

 前回までの連載で、PTSDの政治的側面の裏側には、〈個人的同情に基づく公私混同〉が潜んでいることを指摘しておきました。ここでも、それと同じ仕組みが関係しているのでしょうか。“抑圧解除”によって簡単に症状が薄れたり消えたりするとすれば、同情が入り込む余地はほとんどなくなります。もし同情を寄せる余地が少なくなるために、“抑圧解除”という現象を認めたくないということであるなら、ほぼ全員に同質の抵抗がなければなりません。

 ところが、同情に裏打ちされているはずのPTSDの場合には、その疾患の実在や原因論について専門家の意見がそれほど一致しているわけではありません。それに対して、心因性疾患、特に分裂病が“抑圧解除”によって治療できるという考えかたに対しては、専門家がほぼ例外なく異を唱えるのです。そうすると、同情(ができなくなる)という要因によってこの抵抗を説明するのは、かなり難しいという結論になるでしょう。

 では、〈人間観の変更を迫られることに対する抵抗〉という可能性はどうでしょうか。小坂療法で、単に抑圧解除によって症状が消えるとされていた段階では、慢性化した後であっても、分裂病は取り返しのつかない病気ではないことはわかっていましたが、人間観の変更を根本から迫るほどのものではありませんでした。とはいえ、そのまま先に進めば、人間観を根底から変えざるをえないところにまで行き着くことになるのはまちがいありません。この可能性については、次項で引き継いで検討します。

患者自身の責任という側面に対する抵抗

 単なる“抑圧解除”に対する抵抗よりもはるかに強いのが、患者自身の責任によって症状が出たという考えかたに対する抵抗です。この抵抗については、患者に対する同情という要因ではもちろん説明できません。したがってこの場合は、それによって必然的に人間観が根本から変わってしまうことに対する抵抗と考えざるをえないでしょう。ここでまず、それによって人間観がどのように変わるのかを見ておくことにしましょう。

 小坂さんは、分裂病患者とその親たちがどのような特徴を持っているかを、私的レベルのものを含めて、膨大な接触の中でいやというほど体験していました。世界的な視野で見ても、これほどの経験を積んだ人は、専門家、非専門家を問わず、他にはおそらく皆無に近いでしょう。その小坂さんも、最初は無条件に患者に同情し、親ばかり責めていたわけです。ところが、症状出現の直前にある原因を明確にしてゆく過程で、患者が「しまった」という後悔・自責の念を“抑圧”している事実と、原因を自罰的に思い出させた時のほうが患者の好転が大きいという事実がはっきりした段階で、それまでの考えを根本からあらためたのでした。このように、それまでの自分の常識よりも観察事実を優先させるという姿勢こそ、真の科学者の取るべき道です。

 かくして、見かたが根本から変わったことで、それまでの考えかたにいくつか変更が生じましたが、そのうち大きいものとしては、次の2点があげられます。

 このふたつの変更のうち重要なのはどちらでしょうか。(イ)のほうはやはり治療的な側面が大きいのに対して、(ロ)は人間観の変革という側面に関係したものです。そうすると、より重要なのは、主として技法という側面が関係する(イ)ではなく、人間観が関係する(ロ)のほうでしょう。もし(ロ)が正しいとすると、人間は強い主体性を隠し持っていることがはっきりしてきますが、そればかりではありません。人間の意識というものが、そのような見かたに対する、きわめて強い抵抗を合わせ持っていることも、同時に明らかになるのです。

 ところで、そうした強い主体性は、アウシュヴィッツに収容されながら九死に一生を得た人たちや、高山で生死を分ける遭難をして生還した人たち、重犯罪の被害にあった人たちやその家族、親から現実にひどい虐待を受けた人たちが、その後の対応の中で示す行動に共通して観察される要素でもあります。連載第1回で紹介しておいた、傑出した登山家ラインホルト・メスナーさんが掘り起こした転落体験者たちのその後の行動パターン(「死の可能性が大きければ大きいほど、それが人間の心に及ぼす作用は軽い」)や、愛する家族を殺された遺族が、殺害の状況を包み隠さず話した犯人に対してかけた言葉(「本当のことを話してくれてありがとう」)や、カリフォルニアでも屈指とされるほどの虐待を受けていたデイヴ・ペルザーさんによる崇高な発言(「何があったとしても、命を奪われずにすんだのなら、そのできごとは人をより強くするだけ」)をここで思い起こしてください。

 また、26歳で睾丸腫瘍を発病し、その後の2回の再発を含めて、危機的状況を壮絶な戦いの末に切り抜け、今なお元気に活動を続けている30代の男性新聞記者は、その体験記の中で次のような心情を吐露しています。

 あの忌まわしいヤツめは、ひどい試練をもたらすと同時に、あらゆる授業をはるかに上回る学びの機会をくれたのだ。自分や他人の一生について、こんなに真剣に考えたことは今までなかったし、自分の弱さといや応なく向き合わされることもなかった。鈍感な「強者」になっていた自分に気づいたのも、世の中にあふれる幾多の苦しみや悲しみに思いをはせるようになったのも、すべてがんがきっかけだった。
 花や木々の色、風のにおいや雨の音に敏感になった。移りゆく季節を味わい、惜しんでいる自分がいる。(上野、2002年、219ページ)

 もちろんこの男性は、負け惜しみを言っているわけではありません。がん体験を通じて、自分の人格が向上したことを、素直に喜んでいるのです。逆に、“運よく”大きな不幸に遭うことなく、順風満帆な生涯を送ることができた人は、死の床で何を考えるでしょうか。自分の来しかたを振り返り、自分は本当に幸福だったと、心底から思うものでしょうか。

 ところが、このような“実存的転換”体験や、転落体験者たちのその後の意外な行動や、ペルザーさんの崇高な発言は、珍しい逸話や体験として、あるいは美談として片づけられるか、さもなければ無視されてしまうことがほとんどなのではないでしょうか。そして、実際には、そこから先の研究が行なわれることはまずないのです。

 話を戻すと、精神科医たちが(のみならず、世間一般の人たちも)小坂療法に対して激烈な心理的抵抗を示す原因は、常識的にはきわめて考えにくいことですが、それによって人間の本質が明らかになることに対する抵抗らしいことが、以上の検討によってはっきりしてきたと言えそうです。ナチの強制収容所に収容され、想像を絶するほど過酷な非人間的扱いを受け続けたにもかかわらず、あるいは岩山などで絶望視される状況で転落したにもかかわらず、あるいは重病による危機的状況を壮絶な戦いの末に切り抜けて、それぞれ九死に一生を得た人たちの場合には、そうした体験を通じて“悟った”人間の本質を異口同音に語ったとしても、あくまでそれは、体験者個人の感想にすぎず、主観的見解以上のものではありません。ところが、分裂病が一定の心理的操作だけでふつうの人間になることが明らかになってしまうと、話が根本から違ってきます。本人が心理的操作によって分裂病状態を作りあげていたことが、疑問を差し挟む余地なくはっきりしてしまい、単なる主観的体験として片づけることができなくなるわけです。

 分裂病という(脳内の)不可逆的過程のように見える疾患ですら、そうした心理的操作によって作りあげられた結果だということが明らかになってしまうと、従来的な人間観を根本から変えざるをえなくなります。その結果、人間はひたすら環境に翻弄される受身的存在にすぎないという、何の根拠もない思い込みが、客観的証拠によって崩れ去ることになるわけです。とてつもなく考えにくいことは確かですが、この方面の研究が、忌避され続けた結果これまでほとんど存在しなかったという事実に思いを致せば、この結論は、それほど考えにくいことではなくなるように思えます。

おわりに

 意識の上で苦痛を感じるからといって、あるいは、心因性の症状が出るからといって、そのようなものを “ストレス”や“PTSD”と呼び、それからひたすら逃れようとすることは、人間の人格の成長や人間本来の生きかたという観点から見た場合、 どのような意味を持っているのでしょうか。また、そのような人たちに同情し、“癒し”を施そうと努めることについては、どうなのでしょう。

 躁うつ病を持っていた40代のある男性は、自分は病気になったおかげで、自分を変えるチャンスが与えられたが、病気を持っていない弟は、自分を変える機会がないのでかわいそうだ、と語っていました。この男性の弟は、疾患と呼べるものこそありませんが、非常に大きな人格的問題を、おそらく全く無自覚のまま抱えているようなのです。

 話を戻すと、PTSD理論を含めた心因論一般がいわゆる無意識のうちに避けようとしているのは、〈人間は主体的な存在である〉という事実のようです。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、この主体性の本質を〈エラン・ヴィタール〉という言葉で表現したのでしょう。そうすると、人間は一般に、エラン・ヴィタールの実在を心底からは認めまいとしていることになるようです。

 一般の人たちはもちろん、PTSD仮説の信奉者を含めた“心の専門家”たちも、症状が出現する直前に起こった出来事に、絶対にといってよいほど目を向けないようにしています[註49]。そこに何かあるとしても、ちょっとしたきっかけにすぎないだろう、という程度の認識しか持っていないのです。ところが、これまで検討してきたことからわかるように、その部分を直視し、そこに隠されている事柄を掘り下げてゆくと、最終的には、人間は環境とは無関係に主体的な生きかたをしているという事実が明らかになってくるわけです。

 そうすると、専門家たちが症状出現の直前に起こった出来事を避けようとしているのは、人間が(というよりも生物全体が)受身的な存在ではなく、環境を巧みに利用して生きる主体的、積極的実在であることを意識で認めるのを、万難を排して避けようとしている結果ということになるのではないでしょうか。これが、これまでの私の検討から導き出される推論です。それとともに、ではなぜ人間は、自らを含めた生物が主体的な生きかたをしていることを認めまいとするのか、というより大きな疑問が浮上してくるのです。

 では、その考えかたが正しいとすると、どういうことになるのでしょうか。その脈絡で考えると、生物進化の〈ネオ・ダーウィニズム仮説〉や、人間を含めた動物の〈行動主義仮説〉も、PTSD仮説とある意味で等価なものだということがわかってきます。そのまま推理を進めてゆくと、エラン・ヴィタールに対する各人の個人的抵抗の結果として生まれたものが、PTSD仮説やネオ・ダーウィニズム仮説や行動主義仮説をはじめとする受動的人間仮説だという、非常に奇妙な推論に辿り着くのです。とはいえ、これらの3仮説に全く実証性がないことから判断すると、その可能性を科学的に検証する必要はおおいにありそうです。

[註38] いちいち断ってはいませんが、本稿では、拙著『幸福否定の構造』(笠原、2004年)第8章からの引用がかなりあります。

[註39] ただし、心療内科ではそうではありませんでした。心療内科の揺籃期には、催眠療法などが非常に効果的に使われていました。それは、わが国の心身医学の開祖とも言うべき池見酉次郎さんの初期の著書(たとえば、池見、1965/79年)などを見るとわかります。新しい分野の黎明期には、それなりの熱意や活気が見られるもので、この著書は、そうした観点から見てもきわめて興味深いものです。

[註40] もちろん、何の取り組みもなされなかったわけではありません。後ほどふれるように、群馬大学精神科では、生活臨床という先進的な実践が行なわれていましたし、それ以外にも、主として個人レベルでさまざまな試みが行なわれていたようです。それらについては、山中康裕さん(1993年)や臺弘さん(1978年)の編著を参照してください。

[註41] ある時、私の知っているがん患者が、抑うつ症状を示したため、主治医がある国立大学の心療内科に受診させました。紹介状を持参したためか、わが国でも屈指の心療内科医が診察してくれました。ところがその所見には、「長男であることによるストレス」が原因で、その症状が起こったと書かれていたのです。本人や、同行した母親の訴えから推定したことなのかもしれませんが、どうすればそのような断定ができるのでしょうか。

[註42] 対象患者の長期予後については、いくつかの報告(たとえば、小川ら、1994年)がありますので、関心のある方は参照してください。ついでながらふれておくと、生活臨床の実践者たちの多くは、分裂病を生物学的な原因を持つ疾患と考えていたようです(臺、1978年、6ページ)。

[註43] 私は1973年頃に、半ば冗談なのかもしれませんが、小坂さんから次のような逸話を聞いたことがあります。息子の分裂病が再発すると、真夜中に自転車で町中を走り回るという女性がいたのだそうです。群馬大学生活臨床グループの中心にいた江熊要一さんは、その女性の行動を「理解できる」と言ったのだそうですが、それに対して小坂さんは、「私には理解できない」と反論したというのです。ここまで見解が違っているという事実がはっきりしたことが、決別する直接のきっかけになったということでした。

[註44] 1975年から82年にかけて中山書店から刊行された『現代精神医学大系』全25巻(56冊)には、「小坂英世」という名前が第5巻A「精神科治療学T」に2回、第10巻A1「精神分裂病Ta」と第23巻A「社会精神医学と精神衛生T」にそれぞれ1回ずつ出てきます。

[註45] 小坂さんが考えていた分裂病患者の“もちあじ”とは、おおよそ次のようなものです。 「自己の責任で決定しない」ことに加えて、 「ある人々(身体の悪い人、貧乏な人、学歴や資格のない人、ある種の職業の人、独身者等)に対する強烈な差別感をもっていること、親子間に両面的な共生関係があること、他人の気持ち・立場を的確に理解しないこと、万事につけて対処することが拙劣なこと、抑圧を起こしやすい傾向を持っていること、疾病への逃避を起こしやすい傾向を持っていること(小坂、1972年b、15ページ)。もちろん、これらの一部は一般にも広く見られる特徴ですが、分裂病患者の場合には、それが信じがたいほど極端な形で発揮されるわけです。以上の特徴の一端については、現在なら、「浦河べてるの家」について書かれた書籍(たとえば、浦河べてるの家、2002年。斉藤、2002年。横川、2003年)に目を通すと、わかりやすいと思います。ついでながら小坂さんは、一般人と分裂病患者の間に見られる性格的、行動的特徴の差を、おそらく「基本的には量的な差」だが、「ある段階で質的に変化する」ものと考えていました(小坂、1972年b、232ページ)。

[註46] 小坂さんによれば、イヤラシイ再発とは、「患者が利得(ウサバラシ、義務放棄、家族の慰撫など)を求めて症状(らしきもの)をチラツカセて駆け引きし、利得を手にするとアッサリ症状を引っこめる意識的な『疾病』の『利用(悪用)』、俗語でいえば『芝居』、専門語で言えば『詐病』」であって、「実に『イヤラシイ』としか表現の仕様のないほど醜悪・陋劣・好o・狡猾」で、「分裂病の仕組みを知りながら、病気から立ち直ろうとせず、むしろ分裂病であることをフルに活用することに専念」するという状態のことです(小坂、1973年b、11―12ページ)。誤解を恐れずに、わかりやすい表現を使えば、分裂病という仮面を捨て去り、いわば人格障害(精神病質)的な本性を現わすようになった状態と言えるかもしれません。この状態は、実際に目にしない限り、理解できないものだと思います。
 ついでながら、この問題に関連して、ある精神科医は、次のような発言をしています。「分裂病者は『ウソがつけず、人がよい』とよくいわれる。しかしウソをつく分裂病者もまた容易に発見できる。それはむしろ『自己欺瞞』に近いかもしれないが。それ以外にも、分裂病者に、ひとりよがり、ひねくれ、不遜等の反・美徳が陰に陽に認められるのは争うべからざる事実である。一見無害、温順とみえる病者の中にも、たとえば小坂英世が『いやらしさ』と呼んだような特性をみぬくこともできる」(安永、1977年、54ページ)。

[註47] 「冷たいしうち」として小坂さんが列挙しているものは、児童虐待の専門家が掲げる心理的虐待の内容とかなり共通しています。次の通りです。子どもとの約束を守らない、何でも親が決める、子どもの胸のうちを汲み取らない、子どもが嫌がることを無理にさせる、子どもに親の見解を押しつける、子どもをペット扱いする、子どもに言いたいことを言わせない、子どもに言われても聞き流す、子どもに対して納得のいく説明をしない、子どもに謝るべきことがあっても謝らない、言い訳・弁解に終始する、実の子どもを「もらいっ子、拾いっ子」と言って叱る材料にする、子どもに芸をやらせたり、からかったりして慰みものにする、生まれた子犬や子猫の処分を子どもにさせる、親が再婚であることや異父・異母がいることや養子に出した同胞がいることを子どもに話さない、愛人との密会に子どもをだしにしてつれてゆく、手術・性行為・家畜の屠殺などの衝撃的場面を平気で子どもに見せる、子どもがだいじにしているものを勝手に捨てる、子どもの服装を親が勝手に決める(小坂、1972年a、35−37ページ)。

[註48] 小坂さんは、少なくとも1977年秋頃までは小坂教室を運営していました。そして、いったんしばらく沈黙した後、1980年代半ばに今度は精神障害を対象とする漢方医として、再び表舞台に登場するのです(遠藤、1986年)。漢方には以前から深い関心を寄せており、その間は、日本漢方医学研究所(渋谷診療所)の山田光胤医師の教えを受けていたのではないかと思われます。

[註49] 現在の日本の精神医学界の重鎮のひとりである笠原嘉さんは、40年前に「内因性精神病の発病に直接前駆する『心的要因』について」という論文の中で、分裂病と躁うつ病の発病状況の研究をもとに、発症前の心理的要因について検討しています。この種の研究で問題なのは、具体的な出来事の裏に潜むとされる、いわば哲学的、“人間学的”状況を取りあげていることと、それが単なる推定に終わってしまっていることです。つまり、科学的な方法論を使っていないため、それが「発病に直接前駆する心的要因」なのかどうかが、客観的に確認できていないということです。これでは、それが事実かどうかわからないことに加えて、まことに残念ながら、そうした知見が治療に役立つこともありません。


 【本稿の参考文献は、第4部の末尾に一括して収録しています。】
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Copyright 2008 © by 笠原敏雄 | last modified on 10/28/08