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PTSD理論の正当性を問う 5

 ストレスに対する対応――被爆者を中心として

 これまで、PTSDについてさまざまな角度から検討してきましたが、もうひとつ、きわめて重要な問題が残されています。それは、本当の意味でのストレスに対して、人間はどのような反応をするのか、それはPTSDとどこがどう違うのかという、PTSDの実在性を検討するうえで避けて通ることのできない問題です。その問題を検討するには、まず、ストレスとは何かを明確にしておく必要があります。

 心因性の症状は、ストレスによって起こるとされていますが、私の経験では、臨床の場で遭遇する心身症をはじめとする心因性疾患は、ストレスが原因で起こったものではなく、幸福心を自ら否定しようとする内心の強い意志によって作りあげられた異常であることが、既に明らかになっています。そのような観点からすると、日常生活のストレスと言われるものは、原則として、通常の心因性疾患の原因になるものではないことになります。では逆に、人間の心身に影響を及ぼす本当のストレスは存在しないのでしょうか。

 1930年代半ば、カナダの生理学者ハンス・セリエは、生物体が外界からの刺激(ストレッサー)に直面した時に、自らの破綻を回避する目的で適応反応を起こすことを、一連の動物実験から得られた結果に基づいて主張しました(セリエ、1962年)。これが、後に心身症の仕組みを説明するとされるに至る、セリエの有名なストレス理論です。しかしながら、これは、生物体の自己防衛反応を記述しているにすぎず、特に珍しいことを言っているわけではありません。その本来の理論は、次のようなものです。細菌に攻撃された生物体は、その刺激から身を守ろうとして、浸襲を受けた部位に局所的防衛反応を起こします。それに対応(適応)できている間に刺激が消失してくれれば問題はないのですが、刺激がそのまま長びくと、生物体は疲弊困憊してきます。そして、最悪の場合には回復不能な段階に陥り、もはや死を待つのみの状態になってしまうのです(同書、128-129ページ)。

 しかしながら、その刺激は、細菌に限られないことがわかってきます。鋭い音を聞かされたネズミにも、厳寒にさらされたネズミにも、四肢に火傷をうけたネズミにも、ストレスの指標とされる副腎皮質の肥大が多少なりとも見られた(同書、92ページ)からです。セリエは、これを“適応症候群”と呼びました。ストレスに対して、生体が起こす正常反応という意味です。

 その後、その刺激はさらに、外傷、出血、感染、薬物、寒暖、心理的刺激、絶食など、さまざまな“有害作因”にまで拡張されました。このように、セリエのストレス学説は、種々の刺激によって非特異的な(一定の)身体反応が起こるという、非常に機械的な理論なのです。それが、結局、人間の心身症の原因とされるまでになる[註50]のですが、そもそも、持続すると死に至るほど強い刺激が想定されているわけですから、本当にストレスによって心身症が起こるとすれば、それはきわめて強い刺激でなければならないはずなのです[註51]

 そのため、本章では、セリエの当初の主張に立ち返り、ストレスを激烈なものに限ることにして、世界史的に見て未曾有の被害をこうむった被爆者と、ナチの強制収容所から奇跡的に生還した被収容者という、真の意味での被害者を中心に検討を進めてゆくことにします。60年以上が経過した現在でもなお、被爆体験や強制収容所体験を語れない人たちが少なからずいる[註52]ことからしても、被爆や強制収容所での虐待が想像を絶するほど大きな心的体験になっていることは、否定しようのない事実だからです。

記憶が消えることの意味

記憶が消えるという現象

 その検討を始めるに当たり、PTSDに事実上ふたつの基準が存在することが、まず問題になります。ひとつは、アメリカ精神医学協会が作成、提唱するDSM(精神疾患を診断するための定量的指針)で定義されるPTSDであり、もうひとつはジュディス・ハーマンが提唱するような臨床的立場からの定義です。ちなみに、PTSDをDSMへ導入する際に大きな役割を演じたのは、これまでにも本連載に何度か登場している精神科医ロバート・J・リフトンだそうです(たとえば、ヤング、2001年、149-153ページ参照)。このふたつの基準は、一部重なるものの、出自や立場が異なるため、本来的に異質のものと考えるべきでしょう。前者は、現実に起こった自然災害や原爆などの人為的被災によるものも含まれるように作られていますが、後者は、レイプや虐待など、女性に起こる対人間の(後に想起された)出来事によるものに主眼が置かれています。したがって、被爆者の“トラウマ”を考える場合には、主として前者の定義を採用することになります。なお、“トラウマ”の記憶が消えているという条件は、前者には特に含まれておらず、後者にしかありません。

 これまでにも何度か述べてきたように、ジュディス・ハーマンは、“トラウマの記憶”が消えていることを特段に重視しています[註53]。そして、例によってそれを、“トラウマ”があまりに大きかった結果だと当然のごとくに考えているわけです。したがって、“トラウマの記憶”が消えていないことになると、特にハーマンによるトラウマ理論を支えている有力な根拠の一角が崩れることになるわけです。そのため、本章ではまず、被爆体験をはじめとする激烈なストレスの記憶が本当に消えるのかどうかを検討することにします。

 被爆者の場合、どの資料を見てもはっきりしているのは、被爆直後の記憶がきわめて鮮明に保たれていることです。1977年に東京、広島、長崎で開催された「被爆の実相と被爆者の実情」という国際シンポジウムで、ある社会学者が発表した「被爆者の精神的苦悩」という論文では、次のように述べられています。

 被爆者は、被爆直後のショックと惨状をいつまでも鮮明に記憶している。とくに、家族や近親者の悲惨な死やそれを放置して自己の生存のためにほのおに追われて逃げまどったことなどは、思い出すだけで苦痛である。この苦痛に満ちた記憶を、核兵器や核実験に関するニュース、自己の健康の悪化など、さまざまなきっかけによって思い出し、苦痛を感じる。
 被爆者のなかでも、近距離で被爆者したものほど、強烈なショックを受け、死の危険に迫られ、自己の生命を守るために家屋の下敷きになった家族や隣人を見捨てて避難する、など悲惨な体験をしている。この被爆直後の行動が忘れられず、自らが非人間的な行動をしたことを悔み、恥や罪の意識をいだき、苦悩している。(山手、1978年、151ページ)

 当然のことながら、この記述は、リフトンが自著『死の内の生命』で繰り返し述べていることと符合します。またこれは、DSM-IVによるトラウマの基準を満たしているようにも見えます。そして、リフトンも他の専門家の多くも、被爆体験をトラウマと位置づけ、何らかのきっかけによって被爆直後の惨状を思い出すという現象を、“フラッシュバック”と見なすようです[註54]。しかし、何らかの刺激によって昔の出来事を思い出すのはふつうのことなので、それだけでそれを、“症状”としてのフラッシュバックと即断することはできないはずです。話が少々わき道にそれますが、ここで、このふたつの違いについて、少々検討しておく必要があるでしょう。

 本連載の2回目に当たる「PTSD理論の政治学」の註24に書いておきましたが、イギリスのエドガー・ジョーンズらは、ヴィクトリア朝の戦役から湾岸戦争に至るまでの、戦闘帰還者の軍人恩給記録から、各人の病歴を調べました。戦闘によって起こったと思われる症状の有無と内容を検討した結果、昔は身体的な症状が中心を占めていたのに対して、時代が下るにつれて心理的な症状が中心になるなど、症状の内容が時代によってかなり変化していることが明らかになったのです。“フラッシュバック”は、アメリカで、ベトナム戦争の帰還兵に発生したために大きく取りあげられるようになったわけですが、次の表5にあるように、それ以前にはほとんど見られなかったのでした(Jones, et al., 2003, p. 160)。本人たちが、その種の現象など問題にしなかったということでしょう。

表5 戦闘後症候群におけるフラッシュバックの発生率


戦   争(全症例数)
フラッシュバックを
報告した症例数(%)
ヴィクトリア朝戦役(28)   0(0)
ボーア戦争(400)      0(0)
第一次世界大戦(640)   3(0.5)
第二次世界大戦(367)   5(1.4)
マラヤおよび朝鮮戦争(21) 0(0)
湾岸戦争(400)        36(9.0)
*Jones, et al., 2003, p. 160 より引用。イギリスはベトナム戦争に参加していないため、朝鮮戦争の後が湾岸戦争になる。

 以上のデータからわかるように、症状としてのフラッシュバックの起源は、それほど古いものではないようです。とはいえ、この場合、原爆投下はベトナム戦争より前の出来事なので、被爆体験の後遺症としてフラッシュバックは起こりえないという演繹的論法は成立しません。それはそうとしても、何らかの刺激によって過去の出来事を思い出すという現象が昔からあったことは経験的事実なので、“フラッシュバック”という症状とは無関係であることが、このデータのおかげでよりはっきりしたとは言えるでしょう。したがって、何らかの刺激によって過去のいまわしい体験が蘇れば、そこにトラウマが隠れているという論理は、これによって破綻したことになります。“フラッシュバック”と呼ばれる症状の原因は、“トラウマ”とは別のところに求めなければならない、ということです。

 話を戻すと、ハーマンによる定義の条件とは逆に、被爆者たちは“トラウマ”の記憶を消しているどころか、「被爆直後の行動が忘れられず……苦悩している」のです。連載第1回の「PTSD理論の根本的問題点」で指摘しておいたように、そもそもハーマンの定義は、女性解放運動という政治的問題意識や同情心から出発しているため、ベトナム帰還兵や被爆者が示す心理的“後遺症”を中心に発展させたリフトンのPTSD概念とは、根本的な点で相容れません。ハーマンの定義は、性急にその一般化を図ろうとするあまり、自らの定義の中にリフトン的概念を強引に押し込めようとした点で、大きなむりがあるのです。

 次に、DSM-IVの基準からいったん離れ、はたして被爆体験の後遺症のようなものはPTSDと言えるのかどうかという問題を、まず記憶の消失という角度から検討します。

どのような記憶が消えるのか

 高山や海洋などで遭難し、九死に一生を得るという究極的経験をした人たちの場合も、その間の記憶は異常に鮮明です。たとえば、中国の高山で遭難し、19日後に疲憊状態で奇跡的に救出された登山家は、その記録の中で、「幸か不幸か、僕の記憶は鮮明である。鮮明でありすぎる。すべてを、僕は思い出すことができる」(松田、1983年、275ページ)と書いていますし、油壺・グアム間のヨットレースで遭難して、やはり疲憊状態で奇跡的に救出された男性も、救出されるまでの27日間の出来事を、驚嘆するほど鮮明に記憶していました(佐野、1992年)。また、阪神淡路大震災などの大災害の場合でも、地震に見舞われた時の記憶は鮮やかに保たれています。期間の長短にかかわらず、このような緊急時には、人間本来の能力が発揮されやすくなるからなのでしょう[註55]

 ところが、最も大きな衝撃を受けた時間帯の記憶は鮮明なのに、自らの身の安全が確認された後の記憶が消えている人たちが、おそらく少数ながらいるのも事実です。次に引用するのは、西宮市で被災した50代の女性の手記です。

 いきなり、ギシギシという異様な振動に、浅い眠りから覚めた私は、次の瞬間頭上から落下してきた物の下敷きになり、身動きが取れなくなった。〔中略〕隣室に居るはずの娘たちの声が遥か遠くからのように聞こえてきた。
 「お願い、助けて! 起きられないの」
 自分の声がくぐもって聞こえる。大きな揺れが何度も襲ってくる中を、娘夫婦が這うようにして私たちの部屋に入ってくると、懸命に私たちをひっぱり出してくれた。
 停電で真っ暗闇の室内から、とにかく外へ出ようとしたが、鉄の扉はビクとも動かない。〔中略〕隣人たちの誘導で、夢中になってベランダのハッチを蹴破り、夜明け前の寒気の中を、パジャマ姿のまま足をガクガクさせながら、一階のロビーまで階段を降りていった。
 マンションの玄関先は、着のみ着のままの住民たちでごった返していた。どの顔も血の気を失い、夢遊病者のように呆然とした表情で、揺れが来るたびに悲鳴を上げている。
 それからの時間は私の記憶から完全に喪失している。気がついたら、自宅の中に居て、着られるだけの物を身にまとい、足の踏み場もなく散乱した家具の隙間でへたりこんでいた。(御茶の水女子大学桜蔭会兵庫県支部、1996年、232-233ページ)

 一番の恐怖だったはずの場面の記憶は鮮明なのに、身の安全が確認されてからの記憶が、このように消えてしまう場合があるのです。一般にはこれは、“気が緩んだ”ためとして説明される現象でしょう。本例は、大地震の被災者の事例ですが、次に引用するのは、ある精神科医が、自著『ヒバクシャの心の傷を追って』(岩波書店)の中で紹介している、広島の被爆者の事例です。この精神科医は、前回の「PTSD理論が忌避するもの」で説明しておいた、生活臨床という先進的取り組みに携わった後、都内にある、在京被爆者のための中心的治療・検診施設に勤務し、数多くの被爆者と接してきたのです。

 Hさんも被爆直後のことはよくおぼえている。一時失神しているが、その後の避難経路は本能的とはいえ適切である。宇品線沿いを北上し、わが家に帰るために矢賀駅を目指している。しかし、御幸橋から矢賀駅までの七時間あまりの記憶が飛んでいるのである。丹那駅と大河駅の間で見た被災者のみを鮮明におぼえているだけといったほうがよい。あとはおぼえていないといってよい。矢賀駅まで約五・〇キロメートルを七時間以上かけて歩いている。その間、どこで何をしていたのであろうか。(中澤、2007年、28-29ページ)

 この精神科医は、数例の記憶脱落例を同書で紹介していますが、被爆直後の記憶は、「すべての被爆者」で鮮明に保たれていることを認めています(同書、16ページ)。にもかかわらず、その後、しばらくしてからの記憶が脱落している被爆者が一部にあるということです[註56]。「補遺 第1部2」の第3章「きのこ雲の下で」に紹介している通り、一般に市内を歩き回った時の記憶も、鮮やかに残っているものです。それを感情麻痺と呼ぶべきかどうかはともかく、初めは衝撃的だった光景も、凄惨このうえない現実をいやおうなく突きつけられるにつれて、老若男女を問わず、次第に慣れてくるわけです。そうすると、「記憶が消えている事例では、それは、身の安全が確認された以降に限られる」と言えそうです。ところが、この精神科医は、被爆者の記憶脱落の原因について、次のように述べているのです。

 一瞬のうちに消えたまち、目の前で肉親・知人が死んでいくさま、大量の異形の死体、幽鬼のごとき被災者の列、手助けできない自分、末期の水さえ与えられなかった自分……。これらの体験をすればだれでも「心に深い傷」を受ける。それを聞き、知った人はだれでもそのことを理解する。それは、その深さゆえに何年経っても忘れるものではない。〔中略〕受けた「心の傷」の深さはわれわれの想像を超えるものである。それを教えてくれるのが記憶の欠損であり感情麻痺である。(同書、162-163ページ)

 引用文中の「中略」の前後には、大きな矛盾があるように見えます。「その深さゆえに何年経っても忘れるものではない」と書いたすぐ後で、その時に「受けた『心の傷』の深さ……を教えてくれるのが記憶の欠損……である」と断定しているからです。そして、この精神科医によれば、記憶の欠損が起こるのは、「いきなり襲った『恐怖・驚愕』、想像することさえできなかった事態の出現(一瞬にして消えたまち・大量の異形の死体)に対する自我防衛反応」(同書、41ページ)のためなのだそうです。この決定的とも言える矛盾は、はたして“自我防衛反応”という常識的概念によって、埋め合わせることができるものでしょうか。

 ここで展開されている論理をあらためて辿ったうえで、この矛盾を解消しようとすると、次のようになるでしょう。自らが被爆したことよりも、他の被爆者たちの惨状を目の当たりにしたことや、その人たちに手を差し伸べられなかったことによって、筆舌に尽くしがたいほど「心に深い傷」を負う。そのため、何年経っても、その経験を忘れることはできない。その「心の傷」がいかに深いかは、記憶の欠損や感情麻痺が起こっている事実からわかる。記憶が意識の上に保たれている部分よりも、記憶の欠損が起こっている部分――すなわち、いきなり襲った恐怖や驚愕、想像さえできなかった事態の出現――のほうが、「心の傷」が深かったからである。

 直観的にも奇妙に感じられるでしょうが、この論理には、そもそもむりがあります。自らの被爆体験および、他の被爆者の姿を目の当たりにした経験や、助けを求める被爆者たちに手を差し伸べられなかったことによる後悔・自責の念よりも、「いきなり襲った恐怖や驚愕、想像さえできなかった事態の出現」のほうが、「心の傷」が深かったという結論にならざるをえないわけですが、現実には、「いきなり襲った恐怖や驚愕、想像さえできなかった事態の出現」の記憶は、どの被爆者の場合にも鮮明に保持されているからです。このような決定的矛盾が発生するのは、その根底に、不快があまりに強い場合には、それに耐えきれずに記憶を消すという仕組み(“自我防衛反応”)が、人間一般に、疑問の余地なく備わっているとする常識的大前提が、暗黙のうちにあるためです。

 しかしながらそれは、専門家か非専門家かを問わず、昔から保持されている強固な思い込みにすぎず、科学的に実証された事実ではありません。それとは逆に、実際に記憶が消えるのは、私の経験では原則として幸福に関係する事柄に限ります(笠原、2004年、2005年参照)[註57]。この観察事実は、確かに、世間一般の常識とも専門家の常識とも相容れませんが、記憶が消えるのは、このような場合、自らの身の安全が確認された後に起こった出来事に限定される、という観察事実とは符合することがわかるでしょう。したがって、事実を冷静に見すえる限り、記憶が消えている部分にこそ強いトラウマがあるという結論を導き出すことはできないことになります。にもかかわらず、この精神科医を含めた心の専門家は、そうした結論を、“常識”に基づいて強引に導き出しているわけです[註58]

 そうすると、この方向からの検討によっても、被爆によってPTSDが起こったとする着想を支えるべき、重要な根拠が失われてしまいそうです。「被爆体験は、大災害、地震、津波、大量虐殺、拷問、テロなどの『恐怖をともなった脅威的できごと』と比較にならぬ、史上最悪のもの」(中澤、2007年、98ページ)であることはまちがいないとしても、被爆後に起こる心的体験は、“PTSD”と呼ばれる異常な症状(つまり、作りあげられた症状)の原因となる“トラウマ”ではなく、そうした脅威的事象に対して、人間が起こす自然な反応(すなわち、自然な感情を伴った自然な体験)と考えざるをえないように思います。それは、たとえば肉親を殺された遺族が加害者を激しく憎み、強烈な悲しみに暮れ、そのために絶望、憔悴するのが、あくまで正常反応であってPTSDではないのと同じです[註59]。ただし、そうした結論を出す前に、念のため、もうひとつ検討しておかなければならないことがあります。

ある入市被曝者の記憶が不鮮明な理由

 先の精神科医は、原爆が投下された後に市内に入ったため、知らず知らずのうちに残留放射能を浴びてしまった入市被曝者の中に、やはり記憶が(消えているとまでは言えないにしても)不鮮明になっている事例があることを報告しています。直接に被爆しているわけではない、入市被曝者の記憶に不鮮明な部分があるとすれば、「記憶が消えるのは、自らの身の安全が確認された後に起こった出来事に限定される」とは言えなくなってしまいます。おそらくこのような事例は、被爆してしばらくした後の記憶が消える例と比べると、はるかに数が少ないのではないかと思われますが、少数であっても存在するのが事実であれば、その検討をせずにすませることはできません。それは、次のような事例です。

 大森克剛さんは一四歳のときに広島で被爆している。入市被曝である。
「〔原爆投下の翌日、江田島から〕朝五時二〇分発の連絡船に乗り、動員先の工場に向かった。〔中略〕一〇時少し前に広島駅に到着。〔中略〕工場は悲惨な状況で、天井のガラスは全部崩れ落ち、鉄骨は曲がっている……。粉々になったガラスの上に、はだか同然の被災者が横たえられ、わずかに動ける人が看病していた。頭の毛は焼けちぢれ、簡単服はぼろになって、やけど、ばっくり口を開けた傷が煤で黒く包まれ、息絶え絶えに『水をくれ』『薬をくれ』とうめいていた。」
 大森さんはオロオロするばかりで何もできず、一時間から一時間半くらいでそこを立ち去っている。ここまで大森さんの記憶は乱れていない。その後の記憶がしだいに曖昧になってくるのである。〔中略〕大森さんは、市の中心部についての記憶も断片的であるが、広島駅から江田島までどう帰ったのかの記憶にも混乱が見られる。(同書、21−24ページ)

 それまで休暇で江田島の自宅にいたこの少年は、原爆投下当日の8月6日、翌日からの出勤に備えて、市内にある徴用先の工場の寮に戻ろうとして、爆心から10キロほど離れた呉線の駅にいた時のことでした。轟音とともに、見たこともないほど巨大できれいな入道雲が市内上空に湧き上がるのを、そこで目撃したのです。その後、駅員から、市内は大変な状況なので、とても入って行けないと聞かされて自宅まで引き返し、翌8月7日、苦労した末にようやく市内に入ることができたのです。工場に着くまでの間に、市内の惨状を目にしているのはもちろんですが、その時の記憶は消えていないそうです。ところが、工場で被爆した同僚たちの凄惨な状況を目の当たりにしてから、江田島の自宅に帰り着くまでの記憶が判然としないのです(同書、21-24ページ) 。

 しかしながら、先ほど検討したように、これを、受けた心の傷が深かったためとすることには、やはりむりがあります。ひとつには、市内を通り、工場にたどり着いて、そこで同僚たちの悲惨な状態を見るまでの間と、それから自宅に帰るまでの間の体験が、後半によほど特殊な出来事でもない限り、「恐怖や驚愕」という点で決定的に違っているとは考えにくいからです。また、こうした状況の中で一般に起こるのは、自分は九死に一生を得たという強い安堵感や、被爆した同僚や一般市民に対する同情心でしょう。だからこそ、「自分だけが生き残った」ことに対する「罪意識」(リフトン、1971年、302ページ)が、ほとんどの被爆者に見られるわけです。そして、「この被爆直後の行動が忘れられず、自らが非人間的な行動をしたことを悔み、恥や罪の意識をいだき、苦悩」(山手、1978年、151ページ) することになるわけです。いずれにせよ、入市被曝者の記憶が不鮮明になっている理由を「心の傷が深かったため」と考えたいのであれば、安堵感や同情心という要因(私の考えでは、記憶を消す原因となりうるもの)が、記憶を不明瞭化する原因になっていないことを証明しなければなりません。

 「生き残ったことのうしろめたさ」や「他人を見捨てることによって生きながらえた」という思いは、被爆者に共通する「心の傷」だ(中澤、2008年、71ページ)と、先の精神科医が述べているのも、自分は九死に一生を得たという強い安堵感が、その裏にあったことを認めているからでしょう。続いて、この精神科医は、「自責感をともなう鮮明な記憶」は、「いくら経っても封印されることはなく、逆に強化される」(同書、73ページ)と明言しながら、「いきなり襲った恐怖や驚愕、想像さえできなかった事態の出現」のほうが、それよりもはるかに深い“心の傷”になったからこそ、その記憶が消えたと主張しているわけです。この矛盾が解消しない限り、入市被曝者の記憶不全も、この精神科医が考える理由で説明することはできないことになるでしょう。

 ただし、一部にせよ入市被曝者の記憶が消えているのは事実なのでしょうから、その説明は必要です。それについては、本人に確認しないとわかりませんが、たとえば、8月6日に市内にいなかったおかげで助かったという安堵の気持が、たくさんの被爆者を目の当たりにすることによって強化されたことなどが、その可能性として考えられるでしょう。もしそうであれば、被爆者一般に見られる深い罪業感も、同じ否定(つまり、自分が助かったことによる安堵感との対比やその否定)の結果として生まれたものなのかもしれません。

 被爆体験がトラウマになって残り、その後に起こる“症状”は、そのトラウマに基づくPTSDだという主張の根拠が薄弱なものであることが、以上の考察からはっきりしてきました。次章では、そのことを別の角度からさらに明確にしたうえで、被爆などの甚大なストレスに対して、人間はどのような反応をするのかという問題を検討することにします。

本当のストレスに対する反応

被爆者の“トラウマ”という問題

 被爆者の心理学的研究で重要なものは、これまでふたつ行なわれています。ひとつはリフトンが1967年に出版し、わが国でもその数年後に翻訳、刊行された『死の内の生命――ヒロシマの生存者』(朝日新聞社)であり、もうひとつは、先の精神科医による著書『ヒバクシャの心の傷を追って』です。この精神科医は、被爆者の心理的特徴について、次のように述べています。

 被爆体験は、大災害、地震、津波、大量虐殺、拷問、テロなどの「恐怖をともなった脅威的できごと」と比較にならぬ、史上最悪のものである。しかも、放射線障害が中心であったため、その日がピークでしだいにうすれていくものではなかった。その日が恐怖、脅威のスタートであり、後障害の発症というトラウマに追われ続け、フラッシュバックをさける(ママ)ようとする手立てや生活ぶりがほとんど役に立っていないといえる。こういうメカニズム(消えない、次々と心的外傷が加重する)をもった脅威的できごとは原爆体験以外にはない。(中澤、2007年、98-99ページ)

 “トラウマ”や“フラッシュバック”という概念はともかくとして、被爆による被害が「史上最悪のもの」であることに、異論を差し挟む余地はありません。次の表は、被爆後30周年に当たる1975年11月に、当時の厚生省が広島市と長崎市で実施した、被爆者と非被爆者の労働力の有無に関する調査の結果です。おおまかなデータではありますが、被爆から30年もの長年月が経過しているにもかかわらず、被爆者と非被爆者の差が依然として存在することは、これにより一目瞭然です。

表6 広島・長崎両市における被爆者・非被爆者の労働力の有無

単位は%
広    島    市 長    崎    市
全  体 男  性 女  性 全  体 男  性 女  性
被爆者 非被爆者 被爆者 非被爆者 被爆者 非被爆者 被爆者 非被爆者 被爆者 非被爆者 被爆者 非被爆者
労働力あり
労働力なし
57.5
42.5
70.3
29.7
81.9
18.1
96.1
3.9
41.5
58.5
45.1
54.9
46.7
53.3
63.6
36.4
74.6
25.4
91.3
8.7
31.7
68.3
39.0
61.0
*広島市長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』(1979年)314ページの表を改変。

 次の図は、2004年3月に長崎市が、5万人弱の被爆者手帳保持者を対象にして行なった健康意識調査(回収率72パーセント)の結果です。「非常によい」は被爆者群には事実上皆無ですが、非被爆者群でも非常に少なく、どちらにしても、無視してよいほどの比率でしかありません。そこで、「よい」と「ふつう」を加えた年齢別の比率の変化に着目すると、被爆者ではそれが全体として低いことがわかります。また、「よい」と「ふつう」を加えた比率は、一般高齢者では、80-84歳を下限に、それ以上の年齢では逆に高くなっているのに対して、被爆者では、その比率が高齢になるにつれて減少の一途を辿ってます。これらの資料からもわかるように、被爆者には、被爆による一次的被害の上に、二次的、三次的被害が次々と重なってくるわけです。

被爆者手帳保持者を対象にした健康意識調査の結果
図1 2004年3月に長崎市が、被爆者手帳保持者を対象にして行なった健康意識調査の結果。中澤著『ヒバクシャの心の傷を追って』(岩波書店、2007年)147ページより再掲。

 被爆体験というものは、強烈な熱線による火傷や外傷などの直接的影響ばかりでなく、必然的に目立つ顔面をはじめとする露出部のケロイドや欠損、放射線障害、それに付随して起こる白血病や乳がんをはじめ、被爆者の一生を左右する深刻な後遺症、後々まで続く身体的不調などを高率に伴います。それに加えて、家族の崩壊(原爆孤児や原爆孤老を含む)や生活基盤の崩壊などによる貧困(伊東他、1978年、145-150ページ; 広島市長崎市原爆災害誌編集委員会、1979年、298-346ページ)、世間の白眼視や偏見などの社会的圧力を免れにくいこともまちがいありません。被爆者自身には全く罪がないのに、このような理不尽な結末が次々と到来するのです。これこそ、まちがいなく真の意味でのストレスです。

 ところで、先ほどの検討から、被爆者に起こる一連の災厄は“PTSD”の原因とされる“トラウマ”とは異質のものであることがほぼ明らかになりました。一方、DSM-IVによるPTSDの基準は、被爆者が持つ“症状”なども含まれるように作られているはずですから、被爆者を次々と襲う災厄(の少なくとも一部)をPTSDと言っても、形式的には正しいはずです。このような矛盾が起こるのは、この基準そのものに、あるいはその背後にある基本的前提に深刻な欠陥があるためです。連載第3回の「PTSD理論の内部構造」でも指摘しておいたように、問題は、やはりこの基準が、正常反応と異常反応という本来的に異質な事象を全く区別していないところにある、ということです。

 DSMに限りませんが、この種の基準には、一般に正常域に関する記述がありません。つまり、“ストレス”に対して、どのような反応をするのが正常なのかが述べられていないのです。ただ、どのような体験をした後に、どのような症状がどの程度の期間以上続けば、PTSDという診断が自動的にできるように作られているにすぎないのです。もともと「定量的手引き」と銘打っているだけに、そこで問題になるのは、量的な基準でしかありません。そして、この基準の根底にあるのは、正常と異常は量的な差でしかないという思い込みです。

 正常反応は、あくまで自然にして必要な反応なので、原則として治療の対象とならず、その消失は、現実的な問題解決や時間の経過に委ねるしかないのに対して、少なくとも心因性の異常反応はそうではありません[註60]。この点については、既に「PTSD理論の内部構造」の中の「正常反応と異常反応の間」という節で簡単に扱っていますが、後ほどもう一度検討することにします。ここでは、正常反応は、生命の特性である前向きの要素を内包しているのに対して、異常反応は必然的にうしろ向きであり、事実の否定や拒絶を伴うものであるという点を指摘しておくに留めます。

 被爆者一般の対応が正常の枠内に収まるものであることは、原爆を投下した側であるアメリカ合衆国政府やその政策決定者を特にうらむこともせず、多少の時間が必要だったとしても、一丸となって、ひたすら原水爆禁止運動へと昇華、発展させたという、全体として前向きの姿勢が見られることからもわかります。これは、DSM-IVの基準のC項にある「当該の外傷に関係する刺激を執拗に避け、全般的な反応性の麻痺が執拗に続く状態が(その外傷を受ける前にはなかったのに)見られること」という条件とは、多少なりとも相容れない行動と言えるでしょう。そうすると、被爆者たちの対応は、やはりPTSDの定義から少々逸脱していることになります。したがって、以上の点から見ても、被爆者たちが抱えている苦悩は、“PTSD”という異常反応とは、やはり根本から異なっていると考えるべきでしょう。

異質な要素を区別することの重要性

“ストレス”の構造

 他の惨事に巻き込まれた場合も同じなのですが、原爆投下によって生じた結果は、現実にはひとつの事象ではなく、先述のようにきわめて複合的なものです。人間存在にかかわる重大事なので当然と言えば当然ですが、他にも、この問題をさらに複雑にする要因がいくつかあります。そして、その中には、ストレスとは異質の要因も含まれるのです。まずひとつは、肉親が大きな傷害を負ったり死亡したりすることによる悲しみです。それを迷うことなくストレスと考える専門家が多いでしょうが、この悲しみは、その相手に愛情を抱いているために生ずる感情なので、悲しみが起こるのが自然なのです。先ほど述べた通り、それによって起こる苦悩や落ち込みは異常な反応ではない[註61]ので、その消褪は、自然の経過に委ねるほかありません。

 また、ストレスとなる出来事が明らかに存在する場合でも、その状況の中で起こった自然な悲しみを否定して、もし症状が出たのであれば、その原因は“トラウマ”とは無関係なので、その症状を“PTSD”と呼ぶべきではありません。その発症の仕組みからすると、それは、幸福否定によるものと考えなければならないからです。

 ストレス以外の要因は、もちろん他にもあります。そうした大惨事に遭遇したにもかかわらず、自分や家族が九死に一生を得たという要因が、まず考えられるでしょう。他にも、本連載第1回の「PTSD理論の根本的問題点」にも書いておいた通り、その艱難を切り抜ける精神力や体力が自分にあることが自覚されたとか、家族の愛情の強さがあらためて感じられたとか、友人や知人が自分を心から心配していることが身にしみてわかったとか、他者との間に共感を強く抱くことができたとか、本当の意味で大切なものに気づかされたとか、人間の真の強さを実感として認めざるをえなかったとか、人間として品性を保ち続けられるかどうかが試される機会が与えられたとかの、実にさまざまな要因が考えられるわけです。

 さらには、被爆によって生じたストレス状況に立ち向かう本人や家族の姿勢、それに伴って起こる健康の回復や一家の再建、各人の成長をはじめとするさまざまな好事や慶事なども、そこに含まれるでしょう。つまり、ストレスと考えてよい要因と、それに付随して起こるストレス以外の要因とが、あざなえる縄のごとくに並存しているということです。したがって、このような異質の要因を分けて考えなければ、無意味な検討になってしまうわけですが、従来的な検討は、それらが区別されないまま行なわれていたのです。

 本当のストレス状況と、それ以外の要因とが複雑に絡み合っている場合、両者を分離して検討を進めるには、どうすればよいのでしょうか。次に、そのために使えそうなひとつの分類案を示します。この暫定的シェーマは、本当のストレス状況にある場合とない場合の、それぞれに対する人間の対応をおおまかに分類したものです(ブラウザが Internet Explorer の場合、ツリー構造が正しく表示されないので、Firefox か、Google Chrome でご覧ください)。このシェーマを使って説明すると、従来的な考察では、本当はストレスなどない時(B状況)にも、心因性とおぼしき症状があれば、その原因になったストレスがどこかにある(A状況)はずだと、断定的に考えられていたことになります。換言すれば、心因性症状の原因は、ストレス以外にありえないという、科学的根拠を欠く思い込みに基づいてやみくもに“ストレス”を探し求め、いざそれらしきものが見つかると、それを原因と即断するという同語反復的操作を、無自覚的にしていたということです。また、ここには、ストレスに対する生体の反応という正常反応を、心因性症状という異常反応と区別していないという問題もあります。

 “PTSD”に関するリフトンの概念は、主に、このシェーマのA状況から記述しようとしたものであることがわかるでしょう。それに対して、ハーマンの概念は、その自覚はないものの、いわばB状況をゆがめて記述しているわけです。このシェーマでは、人間を、A状況であれB状況であれ、本人が置かれた状況に対して、あるいはその状況の中で発生した出来事や自然な感情に対して、積極的かつ素直に対応する人たち(イ群)と、それとは逆に積極的にも素直にも対応しない人たち(ロ群)とに分けています。また、A状況であれB状況であれ、2−ロ群では、幸福否定という強い内心の意志により、愛情や好事などを否定した結果として(さらには、負うべき責任が自らにある場合には、たいていはそれを“加害者”に押しつけて)、心因性の症状を作りあげていることになります。この場合、幸福を否定するために、心因性の症状を作りあげるのであって、心的外傷(トラウマ)がある結果として機械的に“ストレス障害”が起こるわけではありません。

 別の角度から見れば、本当のストレス状況にある場合にもない場合にも、その両極には、ストレス状況や日常生活の中で遭遇する難事に対して積極的かつ素直に立ち向かい、それを克服しようと努力する人たち(イ群)と、特に積極的には努力せず、なりゆきに任せる人たち(ロ群)とがいるのです。また、このシェーマにはあえて含めていませんが、ストレス状況から積極的に逃避しようとする人たちもいるはずです。このイ群とロ群のそれぞれに属する人たちは、状況によってある程度の入れ替わりはあるでしょうが、原則としてそれほど大きな移動はないように思います。しかし、そのストレスが大きければ大きいほど、イ群とロ群の差はより明瞭になってくるはずです。

本当のストレス状況に対する正常な対応

 次に、ストレス状況に対する正常な対応とはどういうものかについて、具体例を題材にして考えてみましょう。以下の引用文は、2001年にハワイ沖で発生した「えひめ丸」事件で行方不明になった教師や生徒たちの家族の心の動きを推定したもので、本連載第2回の「PTSD理論の政治学」で取りあげたものです。現地に到着した、行方不明者の家族の悲しみや怒りや憎しみやあせりは、時間が経つにつれて強まるばかりで、不眠や苛立ちなどを募らせる人たちもいました。そのため、アメリカの慈善団体が、ホノルルの日本総領事館を通じてカウンセラーの派遣を申し出たわけです。ところが、総領事館は、「必要な状態にない」として、その申し出を謝絶したのでした。

 自分の子どもや夫や父親が、米軍の遊興的愚行の結果として行方不明になったことに対して、自分たちが心配したり憤ったりして、食事がのどを通らなかったり眠れなかったりするのは、場合によってはパニックのようになるのは当然のことではないか。その正常な心の動きを病的なものと勝手に見なして、愛する家族を思う自分たちの気持をないがしろにするつもりか、ということなのだと思います。自分の家族が海中で行方不明になっている時に、落ち着いた気持で捜索活動の進展を待ち、夜には安眠しようなどという気持があるはずもないでしょう。

 このような状況の中で、米軍による捜索活動を冷静に見守り、ふつうに食事をして安眠している家族がいたとしたら、周囲の人たちはどう思うでしょうか。肉親が行方不明になっているのに、どうして心配しないのかとふしぎがるはずですし、それこそがまさに異常な対応だと思うはずです。ここで必要不可欠なのは、現実をかけ値なしに直視するという姿勢です。そしてそれが、残された家族の救われる道であり、行方不明者が浮かばれる道でもあるのです。

 山口県光市で、18歳の少年に最愛のふたりの肉親を惨殺された犯罪被害者の遺族は、この問題にまつわるマスコミ報道の姿勢を批判して、次のように述べています。「真実が報道されなければ、つまり、どんなひどいことが行われたのかが報道されなければ、死んだ人間は浮かばれない。犯行の残忍性を和らげて、どうして二人が味わった苦しみや怒り、無念さが理解されるのか」(門田、2008年、101ページ)。常識とは正反対の見解のように見えるかもしれませんが、これが、被害者の本当の気持ちなのです。

 第二次世界大戦終結後、悪名高きアウシュヴィッツ強制収容所から奇跡的に生還した、40歳の誕生日を迎えたばかりの精神科医ヴィクトール・フランクルは、収容中の体験について次のように述べています。

 わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげるという性格を帯びていた。詩人のリルケを衝き動かし、「どれだけ苦しみ尽くさねばならないのか!」と叫ばせた、あの苦しむことの性格を帯びていたのだ。リルケは、「やり尽くす」というように、「苦しみ尽くす」と言っている……。
 わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。〔中略〕
 たとえば、あるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫は消えたのでしょうね、とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた。
 「そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ……」(フランクル、2003年、132-133ページ)

 第二次大戦中、ヨーロッパ大陸にいたユダヤ人たちは、ユダヤ人だからという理不尽きわまりない理由で、いやおうなしにナチの強制収容所に閉じ込められ、信じがたいほど残忍な処遇を受けました。被収容者たちは、被爆者にまさるとも劣らないほど激烈なストレスを受け続けたわけですが、その内容は大幅に違っています。被爆者の場合には、核爆発による物理的被害が中心だったのに対して、被収容者の場合には、全くの他人たちから、じかに、しかも長期にわたってひどい虐待を受け続けたのです。フランクルは、同じ被収容者の中に、それぞれ別の群に属する人たちがいることについて、次のように述べています。

 ひとりの人間が避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを甘受する流儀には、きわめてきびしい状況でも、また人生最期の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かに開かれている。勇敢で、プライドを保ち、無私の精神をもちつづけたか、あるいは熾烈をきわめた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹となりはてたか、苦渋にみちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。そして「苦悩に値」したか、しなかったか。〔中略〕
 それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。病人の運命を考えてみるだけでいい。とりわけ、不治の病の病人の運命を。(同書、113-114ページ)

 同じストレス状況にあっても、本人の対応によってその“運命”は大きく変わります。フランクルは、アウシュヴィッツ強制収容所の医長から聞いた話として、非常に興味深い実例を紹介しています。その医長によれば、1944年のクリスマスから新年までのわずか1週間の間に、この収容所でかつてなかったほど大量の死者が出たのだそうです。医長の見解では、その現象は、労働条件がより過酷になったことや、食糧事情が悪化したこと、寒い季節になったこと、感染性の疾患が新たに広まったことなどによっては説明できず、「むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる」というのです。つまり、待望のクリスマスの時期が近づいても、収容所の新聞にそれらしき記事が載らないので、被収容者たちは落胆と失望にうちひしがれ、それによって体の抵抗力に悪影響が及んだ結果、この時期に大量死が起こったということです(同書、128ページ)。

 生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は傷ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。(同書、129ページ)

 セリエのストレス理論では、過酷なストレスが続くと、ある程度までは持ちこたえられる(適応できる)ものの、その限界を超えてしまうと、身体が疲憊し、結局は死に至るとされています。上の経過が事実なら、「希望を失う」という心理的要因が関係しているとはいえ、ストレス理論で予言された通りの、動物と同質の現象が人間でも起こることが、ほぼ立証されたと言えるでしょう。しかしながらそれは、あくまで激烈な非日常的ストレスの結果として起こった正常反応の一環なのであって、臨床場面で遭遇する、“PTSD”とされる症状出現の仕組みが、それによって証明されたわけではありません。また、人間の場合には、おそらく動物とは異なり、「生きる意志」という要因によって、ストレスの受け止めかた自体が大きく違ってくる、とも言えるはずです。

 このような人たちを目の当たりにしたフランクルは、自殺願望を持つふたりに、生きる意味を持たせるべく働きかけ、ふたりを前向きにさせることに成功しています。「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が『なぜ』存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる『どのように』にも耐えられるのだ」(同書、134ページ)。収容所から解放された後、フランクルは、そうした経験を踏まえて、「生きる意味」を中心に据えた「ロゴセラピー」という独自の心理療法を発展させるのです[註63]

 生きる意味を持つことによって、死すべき人間が立ち直るとすれば、生をあきらめようとしていた人間が、がんばって生きようと思い直すことによって、現実に健康を回復するという現象が起こりうることになります。興味深いことに、この現象と関連しそうな驚くべき実例が、これまで別の分野でいくつか報告されています。次に紹介するのは、臨死体験を持つ医師が報告した事例と、著名な外科医であるバーニー・シーゲルが報告した事例です。

 ひとりは、出血多量で、輸血で少々苦労した女性の患者さんです。私は、「〇〇さん、死んじゃだめだ」と、懸命に呼びかけました。そのことが功を奏して、こういう患者さんたちが蘇ったんだと、本当に思っています。こういう人たちは戻りたくないと思っているからです。この私だって、戻りたくなかったくらいですから。(セイボム、2006年、90ページ)

 ある時、肥満がひどいため手こずった、若い男性の緊急開腹手術が終わり、回復室へ運ぼうとしていると、この男性の心臓が止まってしまった。蘇生処置には反応しなかった。麻酔医はあきらめて出て行った。それから、私は、回復室のほうを向いて、大声で言った。「ハリー君、まだその時じゃないぞ。戻って来なさい。」すると、すぐに心電図が電気活動を映し出し始め、結局、その男性は完全に回復した。証明することはもちろんできないが、言葉による命令が変化をもたらしたことを、私は確信している。(同書、90-91ページ)

 死への甘美な誘惑を振り払わせるには、まだ現世にいる意味があることを、死のうとしている本人に悟らせる必要があるというのです。ここまで来ると、生と死の持つ意味が、ほぼ逆転しています。とはいえ、肝心なのは(現世での)現実を直視することだ、という点では共通しています。

 ここで話を戻すと、先の精神科医は、ストレスをテーマにした別著で、次のように言い切っています。「ストレスを一つ一つ乗り越えることが、『人間』の発達なのである。ストレスは元来、避けるべき対象ではなく、乗り越えるべき対象なのである。一切のストレスを回避すれば、それは楽であろうが、その人は成長もまたあきらめることになるのである」(中沢、1998年、29ページ)。これは、自己の成長という課題を絶えず念頭に置いている人たち(先のイ群)からすれば、むしろ当然の発想であり、ストレスというものに対する適切な対応です。“ストレス”をこのようなものととらえると、幸福否定という観点から眺めた時と、かなり近い見えかたになってきます。しかし、この精神科医の先ほどの考えかたからすると、被爆者ばかりはさすがに例外だということなのでしょう。しかし人間は、それほど弱いものなのでしょうか。

 小学校5年生の時に広島で被爆した高校2年の少女は、被爆後の心境の変化について、次のように書いています。

 あれから五年、世の中がしずまると共に、私の心の中も落着きを取りもどしました。ころんでは立ちあがり、又ころんでは立ちあがるように、人間の道はいばらの山道なのです。つまずいたままでは駄目なのです。やがて私達の眼前には美しい清らかな泉が現れます。私達は、その清らかな泉の水を、自分達の手ですくえるまでは、歩みつづけなければならないのです。それが生きて行く事なのです。(長田、1965年、312ページ)

 この少女の姿勢は、「ストレスを一つ一つ乗り越えることが、『人間』の発達」だという立場と軌を一にしています。もちろん、この例だけでは、被爆者全体が被爆というストレス状況に前向きに対応したことの裏づけになるわけではありません。とはいえ、どの程度の比率かはともかく、そのような人たちが、年齢を問わず存在することの証拠にはなるでしょう。また、一時は完全な廃墟と化した広島と長崎の急速な復興を見る限り、ほとんどの被爆者が、さまざまな後遺症や不安を抱えながら、加害者たるアメリカを責めることも、被爆を口実にすることもなく、前向きに生きてきたことは確かなようです。

ストレス状況の中で、高みに到達する人たち

人格や品性を向上させる被害者

 ところで、先のシェーマで、ストレス状況に「積極的に対応する」(A−1−イ群)という表現を使ったとしても、その内容はさまざまで、ふつうの意味で積極的に対応する人たちから、人間として考えられる限界に近い、崇高とも言うべき対応をする人たちまでが含まれます。しかし、そのストレス状況が厳しいものであれば、その分だけ“手綱をゆるめる”人たちが多くなり、残る人たちは次第に少なくなるはずです。そして、落伍することなくそれに耐え抜いた“精鋭”たちは、常人には到達しえないほどの高みにまで、自らの人格を向上させるのです。

 たとえば、肉親を殺害されながら、その悲しみ(念のため繰り返すと、愛情があるからこそ起こる自然な感情)を、幸福否定の一環として否定するため、遺品をすべて処分するまでして肝心な記憶を消し、その出来事からひたすら逃避してしまう遺族(A−2−ロ群)がいる(たとえば、奥野、2006年)一方で、同じく肉親が殺害されたことによる怒りや悲しみをばねにして、加害者はもとより、日本の司法制度が内包する、加害者過護的な姿勢に対しても敢然と戦いを挑み、被害者不在の法律を変えてしまうほどの遺族(A−1−イ群)がいる(門田、2008年)のは、まぎれもない事実です。そして、この人たちは、そうした苦闘を通じて、「大きく人間的な成長を遂げ」る(同書、213ページ)のです。この点について、フランクルは次のように述べています。

 たしかに、このような高みにたっすることができたのは、ごく少数のかぎられた人びとだった。収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。けれども、それがたったひとりだとしても、人間の内面は外的な運命よりも強靭なものだということを証明してあまりある。(フランクル、2002年、114ページ)

 誰よりも、フランクル自身が、「苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できた……ごく少数のかぎられた人びと」のひとりだったのでしょう。フランクルと同じく、正当な理由なくナチの強制収容所に閉じ込められ、ほとんどの収容者が虐殺されるか餓死ないし病死する中で、自らも、数日後に訪れる死をもはや待つのみという状態に陥っていた、若い女性がいました。にもかかわらず、この女性は、そうした境遇に置かれたことを、「晴れやかに」感謝していたというのです。フランクルは、自著『夜と霧』の中でこの事例を紹介する際に、この女性が譫妄状態にあるのではないかと疑ったことを認めています。しかし、そうではありませんでした。

 「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」
 彼女はこのとおりにわたしに言った。
 「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」
 その彼女が、最期の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。
 「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」
 彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。板敷きの病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、花房をふたつつけた緑の枝が見えた。
 「あの木とよくおしゃべりをするんです」〔中略〕
 「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって……」(同書、116-117ページ)

 これは、過酷な現実から目をそらせた結果ではなく、過酷な現実をかけ値なしに見すえた結果なのです。この女性と同じく、もしフランクルが強制収容所に収容されることなく、平穏無事な生活を続けることができたとしたら、私たちの知るフランクルはいなかったはずです。安穏とした生活を送る中で人格を向上させるのは、過酷な状況に置かれた時と比べると、おそらく相当に難しいからです。もしかすると、イエス・キリストが言うように、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(「マタイによる福音書」第19章24節)かもしれません。人間の一生の大きな目的のひとつが人格を向上させることにあるとすれば、この女性もフランクルも、このうえなく恵まれた環境に置かれていたことになります。まさに、「禍福は糾える縄のごとし」です。

 「それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられ」ると、フランクルも書いている通り、このような機会は、日常生活の中にも時おり出現します。前回の「PTSD理論が忌避するもの」に登場する、がんの再発から立ち直った男性新聞記者の場合も、そうした状況にいやおうなく置かれたわけですし、実母から凄絶な虐待を受け続け、「何があったとしても、命を奪われずにすんだのなら、そのできごとは人をより強くするだけ」(ペルザー、2003年、361ページ)という悟りに到達したデイヴ・ペルザーさんの場合もそうでした。次に引用するのは、本村洋さんの法廷での証言です。

 「事件発生から八年以上が経過しました。この間、私は多くの悩みや苦しみがありました。しかし、挫けずに頑張って前へ進むことで、多くの方々と出会い、支えられて、今日まで生きてきました。〔中略〕そして、私が年を重ねる毎に多くの素晴らしい出会いがあり、感動があり、学ぶことがあり、人生の素晴らしさを噛み締めています」(門田、2008年、218-219ページ)

 フランクルは、収容所から解放された翌年の1946年に行なった講演の中で、人間の心は、「すくなくともある程度まで、ある範囲までは、『重荷』を担うことでかえってしっかりするように思われる」と語っています。そして、「とてもたくさんの弱い人間が、強制収容所に入ったときより良好な、いわばしっかりした心の状態で収容所を出ることができた」(フランクル、1993年、138ページ)というのです。昔から、「艱難なんじを玉にす」という言葉がある通り、歯を食いしばりながら艱難辛苦に立ち向かい、それを乗り越えた人たちは、このように人格的に大きな成長を遂げるものです。そして、「神以外はもうなにもこわいと思えない」(同書、156ページ)という心境に到達することすらあるのです。

 そのことが一般に事実として知られているからこそ、「神よ、我に艱難辛苦を与えたまえ」として、あえて困難を選択する人たちもいるのです。それに対して、さまざまな犠牲を払ったうえで、艱難という絶好の機会が与えられたにもかかわらず、そこからひたすら逃避してしまう人たちも現実にいます。以上の点を勘案すると、激烈なストレス状況や、PTSDが起こるとされる過酷な状況は、人間にとって、いわば踏み絵のような役割を果たしていると言えるでしょう。

「いわんや悪人をや」

 ところで、人格の成長という問題を考えるに当たって、やはり避けて通ることのできない現象が、さらにもうひとつあります。それは、人為的ストレスの場合には、そのストレスを受けた側ばかりでなく、それを生み出した加害者の側にも、きわめて稀とはいえ、同じように大きな成長を遂げる道が開かれているということです。本連載第2回の「PTSD理論の政治学」でふれておいた、オウム真理教の元幹部で、地下鉄サリン事件の実行犯でもあった林郁夫さんが、その好例と言えるでしょう(この点については、拙著『幸福否定の構造』第7章で詳しく説明していますので、関心のある方はご覧ください)。このことは、「善人なお以て往生を遂ぐ、(いわ)んや悪人をや」という歎異抄の言葉が端的に語っている通りです。この言葉は、安穏な暮らしをしている善人よりも、極悪人のほうが、乗り越えるべき課題が与えられている分だけ、人格的成長を遂げるのが容易だという事実をそのまま伝えているだけであり、特にふしぎなことを言っているわけではありません。

 とはいえ、被害者やその遺族の場合には、一生を左右するほど大きな被害を受けたり、筆舌に尽くしがたいほどの損失をこうむったりしているため、多かれ少なかれその不幸を埋め合わせてくれるものがあってしかるべきだとしても、被害者やその遺族を苦しめ抜いた加害者が、被害者側への謝罪や補償とは無関係にその人格を高めることがあるとすれば、そのようなことは許しがたいという思いを禁じえない人もいることでしょう。少なくとも、置き去りの形になった被害者側から見れば、その“不公平”感は免れない感じがするのではないでしょうか。

 刑法には、量刑に際して情状を酌量するという、加害者の罪意識の度合に応じて罪の軽重を考量できる仕組みが備わっています。このように、加害者の反省や改心という要素がことのほか重要視されているのは、人間のあるべき姿をそこに見ようとしているからなのでしょう。とはいえ、こうした法の精神はよいとしても、加害者側の悔悟の度合を(特に、改悛の情ではなく、その言葉を)考量するばかりで、被害者側の感情に配慮しなければ、当然のことながら片手落ちになります。ところが、現在の死刑廃止論者の論理は、狭量なヒューマニズムに終始し、この重要な点をほとんど無視してしまっているのです。この場合の狭量とは、真の問題解決にはならないという意味です。光市の母子惨殺事件の差し戻し控訴審では、まさにこの問題が焦点になりました。

 その事件の被害者の遺族である本村洋さんは、あるシンポジウムの席上で、この問題に関連して重要な発言をしています。それは、「裁判は加害者に刑罰を与えるだけの場ではありません。我々被害者が加害者と和解する場であり、被害者の被害回復の場でもあり、われわれ被害者が立ち直るためのきっかけとなる場でもあります」(門田、2008年、111ページ)という、きわめて意味深長な発言です。法廷は、本来、そのような場であるべきなのでしょう。しかし、この殺人事件の加害者は、わずかに反省のそぶりを見せるだけで、真の反省からは、終始、ほど遠いところにいました。そのため、「被害者が加害者と和解」するという崇高な目標は、最後まで達成されませんでした。そのような観点からすれば、最初から最後まで、徹底的に反省から逃げ回り続けた加害者に死刑判決が下ったことは、被害者側の勝利ではなく、敗北ということになります。

 死刑制度廃止が世界的な流れになっている現在、近い将来、わが国もその範に倣わざるをえなくなる時が来るでしょう。しかし、この、いわば積年の難題が克服できない限り、死刑制度廃止の動きは世論の強い反対に遭って、その実現が難しいはずです。仮に世論の反対を押し切って、むりやり死刑制度を廃止したとしても、被害者側の心情を無視し、真の意味での問題解決を回避しただけのことであり、この難題が根本から解決するわけではありません[註64]

 では、被害者やその遺族が納得する形で死刑制度を廃止するには、どうすればよいのかと言えば、それは、被害者やその遺族が心から納得するまで、加害者に自分の罪を深く悔いさせるための方策を設け、それを懲罰や強制教育の根幹に位置づける以外にないでしょう。次に引用するのは、本連載第2回の「PTSD理論の政治学」で述べている、本題に関係する部分です。現在の死刑制度は、凶悪事件を抑止する力はなく、単に被害者の遺族や一般国民の復讐心を満足させる手段になり下がってしまっているわけですが、この課題を根本的に解決するにはどうすればよいのかについて、私見を述べたものです。

 殺人などの凶悪事件を本当に防止したいのであれば、それを阻止する力のない死刑制度は撤廃し、代わりに“反省刑”というものを設けて、心から反省するまでむりやり反省させるほうが圧倒的に効果的であるように思います。その“苦痛”は、死に直面することによる苦痛とは比較にならないほど強いはずです。また、そのほうが、遺族にとってもはるかに大きな救いになることでしょう。

 その場合、本連載第1回の「PTSD理論の根本的問題点」で紹介しておいた殺人事件の、加害者と被害者の遺族の関係が参考になるはずです。この加害者は、自分をかばうという姿勢を全く示しませんでした。遺族に問われるまま、事実を包み隠さず率直に答えていたのです。おそらくこれが、真の悔悟や反省に必要不可欠な条件なのでしょう。この事件の被害者の遺族のように、それだけで加害者に対するうらみを捨て去ることすらあるのです。これこそが、本村さんの言う、「被害者と加害者の和解」を達成するための最低条件でしょう。

 そのような角度から見れば、加害者が、自らの行為を冷徹に点検した結果、人格や品性を向上させたとすれば、それは、被害者やその遺族にとって、このうえない喜びになるはずです。受けた被害そのものは、もはや取り返しがつかないわけですから、被害者やその遺族の望みは、同じ目に遭う人をこの地上からなくしたいことと、加害者がすべての事実をうそ偽りなく認めることにしかないからです。

 人間にとって、真の意味での反省は、きわめて厳粛なものです。そして、犯した失敗や犯罪が重大なものであればあるほど、あるいはその罪が重ければ重いほど、ますます深い反省を迫られるわけですが、苦しい反省の先には、ふしぎなことに、人格や品性の向上――すなわち、真の喜び――が待ち受けているのです。これが、反省の本質です。本来は喜びであるはずの反省を、苦しいものとして嫌う人たちが多いのは、このような仕組みを誰もが無意識のうちに承知しているためなのでしょう。キリストは、「人が犯す罪や冒涜は、 どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない」(「マタイによる福音書」 第12章31節)と明言しています。霊を私の言う本心に置き換えれば、これは、とてつもなく深い意味を持つ言葉であることがわかるはずです。

結 論

 これまで、本当のストレスに対する人間の反応と“PTSD”と呼ばれる症状との関係を長々と検討してきました。激烈なストレスを実際に受けた人たちがいる一方で、“PTSD”とされる症状を示す人たちがいるという事実があります。それに対して、専門家の間では、両者は同一グループに属するはずだと、当然のごとくに考えられています。同様に、幼少期に親から実際に虐待を受けた人たちと、後年、幼児期の“虐待の記憶”を“想起”したという、解離性障害などを起こす人たちも、やはり同一グループに属するはずだと、疑問の余地なく考えられているわけです。そして、本来のストレス学説を拡大解釈した常識論が、それらを強引に結びつける魔法の吸着剤になっているのです。

 しかしながら、これまでの検討によって、これらの間の結びつきは、ほぼ完全に否定されました。つまり、実際に過酷なストレス状況にあった人びとが示す“症状”は、原則として生体が起こす自然な反応であるのに対して、解離性障害や“PTSD”と呼ばれる症状は、過去のトラウマやストレスとは無関係の原因によって起こる異常な反応(すなわち、心因性の症状)だということです。つまり、両者は、その成因という点で、根本から異質なのです。この問題をわかりやすく整理すると、次のようになるでしょう。

 これでようやく、過酷なストレスと“トラウマ”および“PTSD”の関係がはっきりしてきました。このような形で整理してみると、似て非なるものが、他にもあることがわかってきます。たとえば、同じ“トラウマの再現”と呼ばれる現象にも、2種類あることです。ひとつは、実際に起こった出来事を、遊びとしてそのまま再現するという現象であり、もうひとつは、自虐的ないし自滅的行動を、実生活の中で繰り返すという現象です[註65]。これらは、発現機序も違えば、目的も違っています。たとえば、現実に幼時に虐待を受けた子どもたちであっても、実生活の中で自虐的、自滅的な行動を起こしたとすれば、それは、過去の“トラウマ”や“虐待”の再現ではなく、その直前にあった原因(幸福な出来事の否定)による自傷行為の一環ということになるでしょう。

 ストレスと“PTSD”の位置づけは、これでかなりはっきりしたわけですが、この問題の周辺には、まだかなりの謎が残されています。たとえば、本連載第1回の「PTSD理論の根本的問題点」の最後のパラグラフで、「母性愛に逆らってまでして、最もかわいい子どもに過酷な虐待を続けてきた母親の隠された愛情」と書いておきましたが、このような母親は、無意識的であるとしても、それをどこまで意図的に行なっているのか――私の言葉を使うと、内心が主導権を握っているはずの虐待行動に本心がどこまで関与しているのか――ということです。

 常識的に考えられるように、そこに隠された意図がなかったとすれば、岸田秀さんの言う通り、人間は、「本能の壊れた動物」ということになりかねませんが、逆に、そこまでの意図があるとなると、どういうことになるでしょうか。その場合には、人間という生物種が、とてつもなく奥深い叡知を秘めた存在ということになるのはもちろんですが、ことはそれだけに留まりません。さらに大きな規模の破壊行為についても、その原因を探究するための、さらには人間の進化の謎を解くための、きわめて有力な糸口が得られることになるのです。

[註50]ここに至るまでの経緯とその問題点については、拙著『隠された心の力――唯物論という幻想』(春秋社)第3章に書いておきましたので、関心のある方は参照してください。

[註51]心身症のストレス理論の有力な裏づけとしてよく引き合いに出されるのは、この方面で有名な、“胃瘻のトム”の事例(たとえば、Wolf, 1950)です。しかしながら、一定の心理的刺激によって胃粘膜に物理的変化が起こるという観察自体は正しいとしても、この事例は、その刺激になったものが、本来的な意味でのストレスであることの証明になるわけではありません。心身医学の研究者たちは、「本人にとってきわめて大きな意味を持つ、あるいは、きわめて大きな脅威となるストレスや葛藤が、それが意識的なものにしても無意識的なものにしても、胃であれ、他のどの部位であれ、その変化の生起に最も関係の深いストレスや葛藤なのである」(Wolff, 1950, p. 1063)として、両者の間に因果関係があることを認めるわけですが、この場合の核心は、その「ストレスや葛藤」になるとされる言語刺激が、本当の意味で(つまり、動物のストレス実験で得られたのと質的に同じ)ストレスなのかどうかということです。この問題は、やはり、『隠された心の力――唯物論という幻想』第3章で詳述していますので、関心のある方はご覧ください。

[註52]被爆者中央相談所の理事長を務める、自らも広島で被爆した元軍医によれば、「いつでも求められれば自分の被爆体験を語れる人は、数千人のレベル」のようです。これでは、被爆者全体の5パーセント以下にしかなりません(中澤、2007年、119ページ)。

[註53]ハーマンの“抑圧理論”を批判する、記憶の実験室的研究者であるエリザベス・F・ロフタスは、抑圧されていた記憶が後に蘇ったとするためには、次の3条件が必要だと述べています。(1)当該の虐待が実際に起こっていること、(2)ある期間、その出来事が忘れ去られ、思い出す機会がなかったこと、(3)その後に思い出されたこと(Loftus & Davis, 2006, p. 471)。“抑圧”という現象に懐疑的なロフタスのような研究者でも、この3条件が揃いさえすれば、その実在を認める用意があると言っているわけです。

[註54] アウシュヴィッツ強制収容所から解放されたある若い女性は、解放された後、「夜になると、夢の中でアウシュヴィッツでの恐ろしい光景が再現され、いつも断続的にしか眠れない」状態が続いたそうです(ニューマン、1993年、163ページ)。しかしながら、これも自然な現象(単なる悪夢)であって、異常な現象と考えるべきではないでしょう。

[註55]人間の意識的記憶は、一部の動物と比べると、それほどすぐれたものではありません。たとえば、冬季に備えて保存食を秘匿する習性を持つカラス科の鳥は、そうした数千箇所を長期にわたって記憶しているそうです(バーバー、2008年、12ページ)。しかし、人間の中には、さらに驚嘆すべき記憶力を持つ人たちがいます。その典型例は、ソ連の著名な心理学者が報告した男性です。それによると、この男性は、いったん記憶したことは、忘れるということができないほどだったそうです(ルリア、1983年)。これが、人間が本来持っている記憶能力なのかもしれません。

[註56]厳密に言うと、60年ほど前の記憶について遡って問題にしているわけですから、翌日には既にその記憶が消えていたのか、それともその後しばらくしてから忘れたのかが確認できないという問題があります。

[註57]それ以外に記憶の消えるものがあるとすれば、愛情と表裏一体の関係にある悲しみの記憶と、本人に強く反省を迫る失敗や罪過の記憶くらいのものです。反省を強く迫る行動の記憶が消えることがあるのは、それを意識に留めていると、反省せざるをえなくなる、つまり前向きにならざるをえなくなるからです。

[註58]ここにはもっと重要な問題が潜んでいます。そうした決定的矛盾が起こることを強引に無視するまでして常識論を貫徹しようとするのは、実は、幸福の記憶こそが意識から消えやすいという“仕組み”の意識化を、無意識のうちに、万難を排して避けようとするためであり、さらには、そうした強力な意志が存在する可能性に“意識の光”を向けないようにするためではないかと、私は考えています。

[註59]たとえば、最愛の妻子を惨殺され、絶望の淵にいた本村洋さんを立ち直らせたのは、やはり家族を惨殺されて同じ絶望の淵に立たされたことのある犯罪被害者であり、事実の追究に燃える検事や警察官であり、自分のしたことを真剣に考えようともしない加害者であり、加害者の人権を守ることに主眼が置かれた司法制度であり、被害者やその遺族の人権に配慮しようとしないマスコミ関係者であり、加害者の罪を軽くすることばかり考えて、事実を平然と無視しようとする弁護団でした。そうした現実からかけ離れたところにいる“心の専門家”が、本村さんの目の前に現われたとしても、ほとんど力はなかったでしょう。

[註60]異常反応も自然な反応ではないか、という異論があるかもしれません。言葉の定義にもよるので難しいところはありますが、治療の対象となるような異常反応は、その出現機序が根本から異なるため、原則として自然な反応ではないと私は考えています。

[註61]もちろん、症状としての異常な悲しみもあります。典型例は“ペットロス症候群”と呼ばれる症状です。この場合、本来的に悲しみが弱い時にはそれを増幅して、落ち込みなどの症状を作るのですが、本来的に悲しみが強い時には、悲しみを否定して何ごともなかったかのような状態を作りあげるという、対人的対比になっているのです。それは、ペットの死と肉親の死の対比の場合もありますし、父親の死と母親の死の対比の場合もあります。この現象については、「「対比とは何か」をご覧ください。

[註62]このような人たちの場合は、何らかの理由で現実に直面するのを避けているということです。問題は、その「何らかの理由」です。もしそこに幸福否定が関係しているとすれば、心因性の症状が出ることになります。

[註63]ついでながらふれておくと、ロゴセラピーは、こうした特殊な状況に置かれた人たちには有効かもしれませんが、心因性疾患全般に有効であることの保証はありません。極度のストレス状況に対する自然な反応と心因性疾患の発症機序とは、完全に異質なものだからです。

[註64]アメリカでは、死刑制度がある州とない州とがあります。ニュージャージー州では、昨年(2007年)12月に、死刑制度が廃止され、それまで死刑囚だった人たちは終身刑に減刑されました。同じく自分の肉親を殺害された遺族の中にも、死刑制度の存続を願う人たちと、苦しみながら死刑制度に反対の立場に立つようになった人たちとがいるようです(たとえば、真鍋、2008年)。

[註65]このふたつは、おそらく起源が違っており、前者が実際に悲惨な出来事があったグループ、後者が事実上そのような出来事はなかったグループに対応するのではないかと思います。これに関連して、非常に興味深い現象があります。ナチの強制収容所に収容されていたユダヤ人の子どもたちが、自分たちが日常的に目にする虐待を、そっくりそのまま遊びに取り入れていたというのです。それは、たとえば次のようなものです。これは、アウシュヴィッツ収容所に収容されていた子どもたちに見られた遊びだそうです。

 「収容所の長老」「地区の長老」、それに「点呼」などという遊びがあった。「点呼」ゲームのとき子どもたちは「脱帽!」と叫び、収容所の点呼に集められ、弱っていてなぐり倒される病人の役をみんながやった。「ドクター」という遊びもあった――病人から配給の食事を取り上げ、わいろの出せない患者の面倒は一切見ないというドクターが演じられる……「ガス室」という遊びもあった。子どもたちが地面に穴を掘り、次々に石をほうり込む。石は焼き場のかまに投げ込まれる人間を表わしていた。子どもたちはそのときの叫び声を真似た。(アイゼン、1996年、166ページ)

 これこそ、“虐待の再現”であり、“トラウマの再現”と言うべき現象でしょう。また、“前世”の記憶を持つ子どもたちの中にも、稀ではありますが、前世で死因となった出来事を遊びのように再現する子どもたちがいます。それは、次のような事例です。

 マウン・ミント・ソエというミャンマーの男の子は、渡し船に乗っていて溺死した男性の記憶を語り、時おり、沈没する船から脱出しようとする場面を演じてみせた。レバノンのラメズ・シャムスは、ライフルに見立てた棒を喉もとに当てて、前世の人格が自殺する場面を繰り返し再現した。(タッカー、2006年、145ページ)

 〔前世で、頭を拳銃で打ち抜いて自殺した記憶を持つ〕ルプレヒト・シュルツは、子どもの頃、自分が落ち込んだり叱られたりした時にはいつでも、人差し指を伸ばして、手で拳銃の形を作ったのを覚えていた。そして、いつもその人差し指をこめかみに当て、「ぼくを撃つぞ」と言うのであった。本人は、このしぐさをあまりに頻繁に繰り返したため、母親は悩み心配した。(スティーヴンソン、2005年、464ページ)

 もちろん、このような事例で問題になるのは、前世というものが本当にあるのかどうか、あるとしてもその“記憶”が事実なのかどうかということです。その点については、ヴァージニア大学の精神科医たち(たとえば、スティーヴンソン、1990年、2005年; タッカー、2006年)が、詳細な調査に基づいて厳密に検討していますので、関心のある方は参照してください。そのような場面を再現しようとする動機はにわかにはわかりませんが、本人がその場面に強い恐怖を感じているわけではないことは、はっきりとわかります。

参考文献

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