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 レビューの検討 3 『幸せを拒む病』

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はじめに

 前回、拙著や拙訳書へのレビューに関する検討を書いたのは2011年の3月でしたから、今回は5年半ぶりということになります。その間は、今西進化論に関する拙著の原稿にほぼかかりきりになっていたため、本業を別にすれば、他のことをする余裕がほとんどありませんでした。その原稿も、先日いちおうの完成をみたことで、少し時間ができました。『加害者と被害者の“トラウマ”――PTSD理論は正しいか』を2011年9月に出して以来、本年(2016年)6月に久しぶりに出版した新著(『幸せを拒む病』、以下、本書)に対して、ちょうどいくつかのレビューをいただいたこともあって、今回の検討を行なうことになった次第です。

幸せを拒む病

 本書は、売れ筋のいわゆる自己啓発書をたくさん出している出版社(フォレスト出版)から新書として刊行されたものです。同社の新書の装丁は、ピンクのカバーがかかったデザインなのですが、最近は、その上に広い帯をかけて、そのカバーを見えにくくしてあります。これが帯であって二重のカバーではない証拠は、上部を3ミリほどあけてピンクのカバーがわずかに見えるようにしてあることなのだそうです。いずれにせよ、この出版社から本書が上梓されたおかげで、これまでとは大幅に異なる読者層にアクセスする機会が得られました。そのような事情もあって、多くの読者は本書を自己啓発書のようなものととらえるようです。

 本書は、新著とはいえ、これまで出した3点の拙著(『懲りない・困らない症候群』、『幸福否定の構造』、『本心と抵抗』)から、主として幸福否定理論の中核となる部分を、編集者の協力を得ながら抜き出してまとめたものです。しかしながら、あちこちに分散していた解説がまとめられたおかげで、幸福否定理論の全体像が1冊の小さな本に目を通すだけでおわかりいただけるようになりました。その結果、いくつかの興味深い現象が観察されました。その点では、本書の出版には非常に大きな意味があったように思います。

 本書の企画は、ある編集プロダクションを主宰する女性編集者が、昨2015年の夏に、フォレスト出版の編集者とともに品川区西五反田の心の研究室を訪れた時に始まりました。ふたりは、幸福否定という考えかたが世間に知られていないのは、これまで専門的な著書として出版されてきたためであり、一般読者向けにわかりやすい本を出せば、相当の部数が見込めるし、幸福否定理論も世に知られるようになるはずだと、熱を込めて語ってくださいました。外側から見れば、私がこの理論を広く一般に知らせるのにあまり積極的ではないことに加えて、出版社側の宣伝が不足している結果のように感じられるのかもしれません。

 まだ『懲りない・困らない症候群』を出す前のことですが、作家の遠藤周作さんと対談した際に、幸福否定理論の話をしたことがありました。それを聞いた遠藤さんは、冗談半分なのでしょうが、「それは出したらベストセラーになるぞ」と言いました。しかし、実際には、遠藤さんの予言は、まことに残念ながら完全に外れています。ベストセラーどころではなく、幸福否定理論を扱った拙著で最もよく売れた『懲りない・困らない症候群』(後に、『なぜあの人は懲りないのか、困らないのか』と改題されて再刊)ですら、7800部がようやく売り切れたにすぎません。また、『幸福否定の構造』は、完売されたといってもわずか1300部ですし、まだ在庫のある『本心と抵抗』に至っては、実売部数は聞いていませんがおそらく数百部程度だと思います。その理由は私なりにははっきりしていて、読者による通常の解釈が入る余地のある書きかたをしていれば売れ行きもそれなりに悪くないのですが、他の解釈が成立しにくい書きかたをすると、それとともに売れ行きも極端に落ちるということです(「『本心と抵抗』――売れ行き不振の理由に関する検討」参照)。


懲りない・困らない症候群――日常生活の精神病理学』
『懲りない・困らない症候群――日常生活の精神病理学』(1997年、春秋社刊)
幸福否定の構造
『幸福否定の構造』(2004年、春秋社刊)
本心と抵抗――日常生活の精神病理』
『本心と抵抗――自発性の精神病理』(2010年、すぴか書房刊)
加害者と被害者の“トラウマ”』
『加害者と被害者の“トラウマ”――PTSD理論は正しいか』(2011年、国書刊行会刊)。ストレスやPTSDという概念の根本的誤謬を明らかにした書。

 話を戻すと、当室を訪れたふたりの編集者に対して、私は、この理論が世間一般に知られていないのは、宣伝不足などのためではなく、抵抗という現象の結果であることを説明しました。これまでたくさんの人たちにこの理論の説明をしてきた経験からすると、一部にしてもそれを理解できるのは、おそらく10人にひとり程度であること、理解できるとしても理論の一部にすぎないこと、理解するのはなぜかアトピー性皮膚炎の罹患者に多いことなどを説明したわけです。「幸福否定」という言葉を聞いただけでかなりのことが独力でわかり、幸福否定という考えかたがきわめて重要なものであることを即座に認める方もごく少数ながらいるのは事実です。ところが、ほとんどの人は、詳しく説明されればされるほど、いわばそっぽを向いてしまうのです。

 本書は、7月21日付「日刊ゲンダイ」の「新書あからると」という欄に短評という形でとりあげられましたが、かつてこの「日刊ゲンダイ」は、『懲りない・困らない症候群』が刊行されてまもない時に、一面の半分以上を割いてこの拙著をとりあげ、詳しく解説してくださったことがあるのです(そして、この記事は、当日の民放ラジオ放送でも紹介されました)。ところが、それほどまでして応援してくださったにもかかわらず、あろうことかその反響は全くありませんでした。この記事を見て私に連絡をとってきた方や当室を訪れた方は、ひとりもいなかったということです。

 もしそれだけの紙面を使って広告を打てば、おそらく百万円単位の費用が必要になるでしょう。したがって、この場合、費用対効果どころの話ではなかったことになります。私は、ふたりの編集者にこのような説明をして、ことはそう簡単ではないことを伝えようとしたわけです。しかしながら、ふたりは、この段階ではあまり納得した様子を見せませんでした。

 どのようにしたところで、幸福否定理論が一般に浸透するはずがないことは、これまでの経験から、私は既にわかりすぎるほどわかっているつもりです。抵抗というものがあるおかげで、知識の伝達という従来的な方法がほとんど役立たないからです。知的な理解を完全に超えたところにある、経験を通じてしかわからない性質のものだということです。

 それはそれとしても、売れ筋の本をたくさん作ってきた出版社がせっかく出版してくださるというのですから、この際、そのご好意に甘えることにしました。品性を損なわないように気をつけながら、編集者の意見をできるだけとり入れ、できる限り手を入れていただくようにする。そして、少々断定的に感じられる表現になることをいとわず、可能な限り留保条件を付さないようにし、引用文献の明記も必要最小限にとどめることにしたのです。

 これらの要素が、一般向けの著書として煩雑な印象を与えていたことは否定できません。このように、私なりに多少なりとも譲歩をしたのは、今回の出版をひとつの実験と考えたからです。そこまで譲った場合、どのようなことになるのか。つまり、詳しく書けば書くほど売れなくなるという私の経験則がまちがっていたことになるのかどうかということです。そして、数ヵ月後にようやく出版の企画が通った後、そのような私の意図を、実際にふたりの編集者に伝えました。この時のふたりは、社内で企画がなかなか通らなかったという事実に直面していたためでしょうが、抵抗の大きさというものがある程度にしても実感できていたようでした。

 直観的にであれ理論的にであれ、幸福否定理論の重要性がわかる人からすれば、なぜこの考えかたが一般に知られないのかとふしぎな感じがするのですが、わからない人からすれば、どのように説明されてもわからないのです。使っている言語は同じでも、知らない外国語で話されているようなもので、意味や重要性が全くと言っていいほど伝わりません。興味深いことに両者は、話が通じ合わないでいることも知りませんし、それどころか互いの存在自体を知らないままでいるようです。その状況は、あたかも、両者が次元の違う世界に棲んでいるかのような印象を受けるほどのものです。

 ついでながらふれておくと、これまでの拙著を読んで、当室の心理療法を受けるようになった方は、『懲りない・困らない症候群』の場合にはたぶん20名ほどおられたのに対して、『幸福否定の構造』では数名、『本心と抵抗』では事実上皆無でした。これは、傾向としては実売部数に沿っているように見えるかもしれませんが、それよりもむしろ、ぞれぞれに対する抵抗の強さに比例していると言ったほうが事実に近いでしょう。そして、今回の『幸せを拒む病』の場合には、心理療法を続けるようになったのは、8月中旬現在で2名のみです。わかりやすい表現を使ったとしても、幸福否定理論の全体像をできるだけ正確に提示するとその分だけ抵抗も強くなり、いわば集客効果はほとんどなくなってしまうということでしょう。

 もうひとつついでにふれておくと、本書の帯にある「幸福を避けたがる心の悪魔を退治する」というキャッチコピーは、出版社の編集者によるものですが、もちろん実際にはそう簡単なことではありません。たとえば、ヨガにしても座禅にしても、一般向けの解説書を読んで、それだけでそれらをマスターできると考える人はいないでしょうが、その点はこの心理療法の場合も同じです。まねごと以上のものにはならないわけです。ところが、本書の読者は、これを自己啓発書と位置づけるためなのかもしれませんが、簡単にできると思ってしまう方が多いようです。どの心理療法にしても、本を読んだだけで簡単にできるようなら、そもそも専門家は必要ありません。

 それはともかくとして、この実験の結果はどうなったのでしょうか。本稿では、各レビューアーに敬意を表し、それぞれのレビューの裏にある真意を探ることにしたいと思います。

事例の紹介と検討

1 Amazon のサイトに掲載されたレビューとその検討

 8月16日(2016年)現在で、Amazon での拙著のレビューは4件になっています。その4件は、出版後ひと月ほどの間に相次いで掲載されたのですが、その後は、売れ行きとともに投稿も止まってしまっています。内容的には、先述のように、全体として自己啓発書のようなとらえかたがされています。私は、本書の「はじめに」の後段で、次のようなお願いをしておいたのですが、それはほとんど無視されたということです。

この考えかたの当否を判断なさる場合には、本書の随所で提示されるさまざまな根拠をご覧いただいたうえで、第4章で説明する “感情の演技” という具体的方法を通じて、客観的に検討してくださるよう、切にお願いいたします。その際に、本書の原典となった拙著(『懲りない・困らない症候群』〔『なぜあの人は懲りないのか困らないのか』と改題されて再刊〕、『幸福否定の構造』〔以上、春秋社〕および『本心と抵抗』〔すぴか書房〕)を参照していただければ幸いです。

 後ほど詳しくふれますが、幸福否定という考えかたは、従来のあらゆる心理療法理論とは根本から異質なものです。反応という客観的指標に基づいて厳密に構築されているため、単なる推測に基づく解釈のようなものではありません。症状の原因についても、感情の演技という方法を通じて反応を確認することにより、いちいちの当否を客観的に検証しているわけです。その点は最も重要なので、何度も繰り返し書いておいたのですが、この部分はどなたも無視ないし軽視されたということでしょう。これは、幸福否定理論を支える基盤に当たる部分なので、ここを看過してしまうと議論の前提が完全に崩れてしまいます。

 ただし、ひとりだけ、「毎日欠かさず、なんとか1単位だけでもトレーニング」していると書いている方がおられます。2分間の感情の演技を5回続けるのが1単位ですから、それを毎日実行なさっているということでしょう。この方以外には、感情の演技を実行したと明記している方はおられません。しかしながら、この方にしても、抵抗に直面することを目指すのではなく、感情を作る「トレーニング」としてとらえていますし、感情の演技の結果、反応が出たかどうかという肝心な点にもふれていません。したがって、本書のレビューを Amazon に書いてくださった4名の方はいずれも、幸福否定理論で最も重要な要素の検証を等閑視していることになります。

 4件のうち、私の言う抵抗が明瞭に観察されるという点で最も興味深いのは、「もってまわった心理療法の宣伝」と題された次のレビューです。なお、このレビューには、14 人中の3人が、「参考になったと投票」しているそうです。

 人には自らが幸せになることを拒む病があると著者笠原氏はいう。原稿を締め切り前日でないと書けない病、約束した時間にいつも遅れてしまう病、一番好きな異性を素直に受け入れられない病、等々数え上げればきりがない。昔流行った言い方をすれば「分かっちゃいるけどやめられない!」ってやつである。
 ところが笠原氏に言わせれば、そんなシンプルな表現だと病の実態をつかむことが出来ず結果として幸せを逃してしまうことになるらしい。心理学では人間の心理を意識と意識下に分けて色々な分析を試みるものだが、笠原氏は独自に意識下を更に二分し、意識下には内心と本心があるとおっしゃる。本心は優れた人間性が集積したものであり幸せを追求する心理はここに宿っている。しかし笠原氏独自の見解によると、正義の本心の意図をくじく企みをもって意識に強く働きかけるのが内心だという。
 意識、内心、本心と分けただけに笠原氏の心理分析には逆説的表示が横行し複雑を極める。笠原氏は内心の横暴な作用を阻むための心理療法を考案した。それは幸福を逃さないために幸せの演技をすることだ。ここまで読んで僕はこの本の目的が笠原氏の心理療法の宣伝であることに気がついた。
 笠原氏は自分が提唱する心理療法(幸せの演技をする)を途中でやめてしまう人が多いことを驚くべき現象として報告している。しかし心理療法に疑問を感じた人が途中で脱落してゆくのは極めて自然なことである。笠原氏の表現は「あろうことか無断で心理療法の施療を受けるのをやめてしまう人さえあるのだ」等と驚きを隠さないのだが、込み入った理屈をこねて心理演技なるものをさせられると嫌気を催す人が多いという現象を理解できない笠原氏こそ治療を施されねばならない人間なのではないのだろうか?

 これは、4件のレビューのうち、実名で書かれたらしい唯一のものです。インターネットを通じての発言は、ほとんどが匿名によるものであり、Amazon のレビューもその例外ではありません。ところが、このレビューアーは、実名のみならず自らの肖像写真まで公開しています。写真はともかくとしても、自分の発言に責任をもつためには、やはり実名を明記することが必要不可欠の条件と言えるでしょう。このレビューアーに対しては、その点をおおいに評価しなければならないと思います。

 フロイトは、心理療法の中でその種の事例にどうしても遭遇してしまうためでしょうが、「成功した時に破滅する者たち」という概念をもっていました。幸福否定という考えかたで説明できそうな事例が存在することを承知していたということです。しかしながら、それはあくまで個人的な傾向や障害ということなのであって、人類にあまねく存在する意志によるものという意味ではありません。幸福否定の意志が万人に内在しているという考えかたとは、似て非なるものであり、両者の間には天と地ほどの違いがあるのです。

 ところが、このレビューアーは、そうした従来的な考えかたを踏襲しているわけではありません。「人には自らが幸せになることを拒む病があると著者笠原氏はいう」として、私の理論をその点では正確に把握しているからです。これは、簡単なように見えるかもしれませんが、実際にはなかなか難しいことなのです。

 『本心と抵抗』の原稿を読んだ、ある心理学関係の書籍編集者は、「この理論が当てはまるのはどのような人ですか」と私に質問して、私を仰天させました。この編集者は、私にこの拙著を書くことを勧めてくれた、心理学書専門とも言える、業界でも名うての編集者なのですが、幸福否定という意志が万人にあるという私の主張を、そのことが繰り返し明記された原稿を精読したはずであるにもかかわらず、全く把握できていなかったのでした。原稿を読むプロである編集者ですら、場合によってはこのような状態に陥ってしまうのです。そのことを考えると、否定的な立場からであっても、その点を正確に把握したこのレビューアーの力量は、やはりそれなりに評価しなければならないでしょう。

 もうひとつ評価すべきは、第二段落の記述です。「笠原氏独自の見解によると、正義の本心の意図をくじく企みをもって意識に強く働きかけるのが内心だという」とする記述は、おおむね正しいと思います。この部分も、曲解する人が多いからです。したがって、このレビューを前半と後半に分けるとすると、前半は、幸福否定理論を推定に基づく解釈にすぎないと、従来の常識に従って曲解していることを除けば、それほどまちがったことを言っているわけではありません。

 問題は、「この本の目的が笠原氏の心理療法の宣伝であることに気がついた」として、なぜか突然に急ぎ足になった感のある後半です。「笠原氏の心理分析には逆説的表示が横行し複雑を極める」という表現からすると、おそらく途中まで読んで、頭に入ってこなくなったか、意味がとれなくなったかして、あるいは反応が出て読み進められなくなったかしてやめてしまったのでしょう。その場合、意識の上では、幸福否定という考えかたを意味のないつまらない主張と考えることになるはずです。そして、このレビューアーは、他の点をすべて無視したうえで、次のように断定しているわけです。念のため、その部分を再掲します。

 笠原氏は自分が提唱する心理療法(幸せの演技をする)を途中でやめてしまう人が多いことを驚くべき現象として報告している。しかし心理療法に疑問を感じた人が途中で脱落してゆくのは極めて自然なことである。笠原氏の表現は「あろうことか無断で心理療法の施療を受けるのをやめてしまう人さえあるのだ」等と驚きを隠さないのだが、込み入った理屈をこねて心理演技なるものをさせられると嫌気を催す人が多いという現象を理解できない笠原氏こそ治療を施されねばならない人間なのではないのだろうか?

 かつて、と学会という同好会の会長を務めていたSF作家の山本弘さんも、これと同類の発言をしたことがあります。今でいう掲示板のようなサイトで、私が、反応としてのあくびについて説明したのに対して、それは退屈であくびが出たにすぎないのに、そのような心のしくみを知らないまま、奇妙な理屈を唱えている笠原は心理学者として失格だと断定したのです。

 そのような心理学者がいるとしても、これは論理として問題があります。仮に私がいわゆる生あくびの存在を知らないとしても、そのことは、山本さんにはわからないからです。にもかかわらず、そのような断定をしたということは、その前提として、私の言う反応としてのあくびは実在しないという条件が必要になります。したがって、山本さんは、最初から私の主張を否定するという明確な目的をもって、私が生あくびの存在を知らないと強引に断定したことになるでしょう。これは、本末を転倒した行為であり、データにはデータをもって対応すべしという科学の鉄則に完全に反する行為でもあります。

 翻って、このレビューアーも、私の心理療法を受けている方が無断で来なくなってしまうことについて、山本さんと同じく、私が「込み入った理屈をこねて心理演技なるものをさせられると嫌気を催す人が多いという現象を理解できない」ためであるとして、私の無知のせいにして片づけています。

 私は、このようないわば曲解を未然に防ぐべく、さまざまな実例をあげて説明しています。予約を忘れてしまうクライアント自身が困ってしまう場合が多いこと、無断で中断してしまったものの、心理療法の再開を望むクライアントが多いこと、にもかかわらず、再開希望の連絡をするのを毎日のように忘れてしまうということを繰り返し、連絡ができるまでに2,3年もかかってしまう場合すらあることなどです。したがって、このレビューアーは、私の無知のせいにして片づけるという明瞭な目的をあらかじめもって、それらの記述を完全に無視したことになります。ここに、このレビューアーの抵抗がはっきり見てとれるわけです。

 なお、最後の、「笠原氏こそ治療を施されねばならない人間なのではないのだろうか」という主張は、反応や症状や異常行動は、自分に見せるための手段だという私の考えかたに照らすと非常に興味深いと思います。全く経験のない方が、心理療法ばかりの経験を既に43年も積んでいる専門家について、自らの意識にこのように言い聞かせる必要がどうしてもあったことになるからです。それによって、意識の上では、幸福否定という理論を完全に葬り去れたつもりになって安心できるということなのでしょう。裏を返せば、幸福否定という意志が万人にあることになると、大変な事態に陥ってしまうことを――つまりは、その “ことの重大性” を――少なくとも意識下では完全に承知しているということです。

 繰り返しになりますが、幸福否定理論で重要なのは、単なる推定に基づく臆説ではないどころか、少なくとも私の中では仮説の段階はとうの昔に過ぎ去り、反応という客観的指標により30年以上にわたって日常的に確認され続けてきたという事実です。それについて、私は、本書の「はじめに」で、次のように書いておきました。

 こうした奇妙な考えかたは、私の恩師が発見した “反応” という客観的指標を使って、個々の着想を厳密に検討しながら、少しずつ発展させてきたものであり、単なる推定から生まれたものではありません。そして、三十年以上の年月をかけて、細かい観察や実験的検証を経て、さらには、幸福否定の理論に基づいた心理療法による治療効果を通じて、この考えかたの妥当性を確認し続けてきたのです。

 しかも、それは私だけの経験にとどまるものではありません。私のたくさんのクライアントたちも、身近な人たちを対象にして、あるいは私のクライアント自身が専門家である場合には、それぞれがもつクライアントたちを対象にして、抵抗やその指標である反応を確認し続けているのです。したがって、この理論を常識に基づいて否定することは、控えめな言いかたをしても、もはや不可能な段階になっているということです。

 そのような事情もあって、読者のみなさんにも、反応というものがどれほど簡単に出るものかを確かめていただきたいと思い、先のお願いをしたわけです。にもかかわらず、その提案を無視される方が多いとなると、そのことについては、どのように考えればよいのでしょうか。その検討をする前に、Amazon 以外のメディアに掲載されたレビューを見ておくことにしましょう。次にとりあげるレビューは、この問題を検討するうえでも役立つはずです。

2 それ以外のメディアに掲載されたレビューとその検討

 それは、Facebook に掲載されたレビューで、やはり実名で書かれたものです。このレビューアーは、ホーリスティック医学と総称される方法を実践している歯科医師だそうですが、ありがたいことに、本書をおそらく含めた拙著を4冊も読んでくださったそうです。したがって、このレビューは、『幸せを拒む病』だけでなく、幸福否定という考えかた全体を対象にしたものです。実践家の立場から書かれているためなのでしょうが、先ほどの観念的な立場からのレビューと違って、基本的には好意的です。とはいえ、まことに残念なことではありますが、その主張の全体が、新しい理論に対する批判にありがちな、自分のほうがよく知っているという態度で覆われてしまっています。

彼が提唱する治療法にはかなりの成果が期待できる・つまり治療メソッドしてはかなり使えるということだ。 しかし病因論としては浅い。メソッドが使えるからといってその想定されている原理が的を得ているとは限らない。実はもう一つ二つ奥がある。
また幸福否定は間違いではないけれど
そうせざるを得ない患者の幾つかのタイプの「理由」なり「動機」に気付いていない部分が足りない。 また幸福の定義もあいまいで、万人の幸福がひとくくりになってしまっている(幸福って言うのはこういうもんだという決めつけ)ところが足りなさを感じる。
素晴らしい知性と素晴らしい実績に元づいた著書群であるが、一つのドグマに全てを結びつけ誘導しようとする強烈なバイアスと恣意性の不自然さを感じざるを得ない。人間の認知って面白い。
抵抗とは病気が治ることに対する抵抗と、自分が得たいものを得られないように無意識で自ら妨害している類のもの。その本当の願望達成の無意識の妨害なり達成の忌避の手段に病気が使われている事が多い。ってみんな知〔っ〕てるよね。笠原氏はそれを幸福否定と呼んでいる。

 要するに、笠原が提唱している方法は、(1)「治療メソッドしてはかなり使える」し、「かなりの成果が期待できる」ものの、病因論としては浅薄なものにすぎないということです。また、(2)その方法が効果的であるとしても、その基盤となっている理論が正しいとは限らない。(3)幸福否定という見かたは、現象のとらえかたとしてまちがいではないが、幸福を否定せざるをえない理由や動機がクライアント側に内在しているのに、笠原はそれに気づいていない。加えて、(4)幸福の定義があいまいで、万人の幸福がひとくくりに扱われてしまっている。そのこともあって、(5)すべてを幸福否定というひとつのドグマに基づいて強引に説明しようとする結果になっている。それは、笠原の認知のゆがみに基づくものである、というわけです。以下、これらの主張についてひとつずつ簡単に説明します。

1.治療法としては使えるが病因論としては浅薄
 次項でとりあげるように、治療法として有効であったとしても、その基盤となる理論が必ずしも妥当と言えないのは確かです。とはいえ、私の理論を、原因論として浅薄と即断する前に、実際に感情の演技によって反応が出るものかどうかを、さらには、次項に列挙する心理的原因の特徴が実際に確認できるものかどうかを独自に検討(追試)しなければなりません。それが科学の世界で承認された科学的方法というものです。そして、そのような方法を使って検証した結果、私が探り当てたと主張している心理的原因の特徴などがまちがっていることが明らかになった時に初めて、浅薄な原因論として却下することができるわけです。
2.効果があるからといってその基盤となる理論が正しいとは限らない
 このことは、上述のように否定しようのない事実です。これは、英米で行なわれてきた心理療法研究 Psychotherapy research という研究領域の成果でもあります(註1)。どの心理療法にしても、それが正反対の主張であったとしても、症状の軽減という側面では多少なりとも効果のあることが経験的に知られています。したがって、効果があるからといって、その理論の妥当性が保証されるわけではないという結論になります。

 私は、そのような事実をあらかじめ承知していたため、そのことをいつも念頭に置いて検証を続けてきました。そして、反応や症状はでたらめに出ることはないことや、そのこともあって反応という客観的指標がほぼ完全に利用できること心理的原因には次のような厳密な条件があることを経験的に突き止めたわけです。これには、原則として例外はありません。

 @ 心理的原因は、症状出現のまさに直前(1、2秒前)にあること
 A 漠然としたものではなく、明確な言葉で表現できる出来事や状況であること
 B その出来事や状況の記憶は、必ず本人の意識から消えていること
 C 原因の内容は、原則として、本人の幸福感を呼び覚ますものであること
 D 原因にまつわる出来事や状況の記憶が意識に出てきても、本人は、それが原因に関係していることをなかなか認めない(場合が多い)こと

 幸福否定理論は、豊富な裏打ちとともに厳密な論理で構築されているため、正当な方法で否定するのはもはやほとんど不可能とも言える段階になっています。効果があるということから、単なる思いつきに基づいて作りあげられた空論ではないのです。この理論が形成される経緯についても、本書の最終章で詳しく説明しておきました。したがって、否定するとしても、相当な時間とエネルギーを割いて、ひとつひとつを厳密に検証して行くしかありません。そのようにして、この理論が反証されるかどうかを確認する必要があるわけです。それこそが、科学の世界で認められた唯一の方法なのです。

3.幸福を否定せざるをえない理由や動機がクライアント側にある
 幸福を否定せざるをえない理由や動機がクライアント側にあるという主張は、見かたによってはまちがいではありません。ただし、その場合の理由や動機は、本人が大きな幸福を感ずる部分にあるはずです。しかしながら、このレビューアーは、そのような意味で言っているのではなさそうです。つまり、やむにやまれない(同情すべき)点があるとして、クライアントを擁護しているように感じられるからです。

 もしそうであれば、幸福否定という心の動きは個人的な事情によって生起することになり、従来的な理論の枠内での議論となってしまいます。そうなると、この批判そのものが自己矛盾に陥ってしまいそうです。幸福否定が万人にあるとする私の主張を批判するために、個人の事情による幸福否定という従来的な主張をもち出していることになるからです。それでは、新たな主張を旧来の概念で否定するという、科学の作法に反する行為をしていることになってしまいます。

 批判するのであれば、相手が何を言っているのかを、正確に把握するところから始めなければなりません。幸福否定の意志は、言うまでもなく、個々のクライアントの事情のような通常の理由や動機によって発現するものではありません。したがって、私の主張を反証するためには、私の提示する心理的原因の条件がまちがっていることを、客観的な方法を使って証明しなければならないのです。この問題は、次項にも関連しています。

4.幸福の定義があいまいで、万人の幸福がひとくくりに扱われてしまっている
 私は、幸福の内容自体を限定したことはありません。幸福感は自らの進歩につながる感情であることを、ベルクソンの指摘に従って述べていることに加えて、各人が否定している内容が、少なくともその時点で本人の幸福感を呼びさますはずのものだと言っているだけです。ですから、幸福の内容には多少なりとも個人差がありますし、同じ人でも、進歩するに従ってもその内容も大なり小なり変わってきます。さらには、文化圏や時代背景によっても社会的な階層によっても相当に違ってくるでしょう。そのことも、本書の随所で繰り返し説明しておきました。したがって、万人の幸福をひとくくりにして扱っているという批判は、完全に的が外れていることになります。このレビューアーは、この点についても根本から誤読してしていることになります。
5.すべてを幸福否定というひとつのドグマに基づいて強引に説明しようとしている
 本書で詳しく説明しておいたように、幸福否定理論を導き出すまでにはさまざまな段階がありました。繰り返しになりますが、この理論は単なる思いつきに基づいて私が勝手に作りあげた臆説のようなものではないのです。本書でも述べていますが、結果的に、常識を大幅に逸脱するものになってしまったのはまちがいありません。とはいえ、この理論は既に30年以上にわたって、客観的指標を通じて確認され続けているので、「ひとつのドグマに基づいて強引に説明しようとしている」としてあっさり片づけられるような段階にはないのです。

 この種の批判は、むしろ幸福否定理論の裏づけにこそなれ、適切な批判にはなりえません。この主張は、おそらくこのレビューアーが最も言いたかったことなのでしょう。これも、先ほど述べたように、自分の意識を説得するための方策と考えると興味深いと思います。真の幸福感は自らの進歩に関係する感情ではないことに加えて、そのような意味での幸福の否定は万人にあるわけではないと、自らの意識にどうしても言い聞かせたかったことになるからです。

 幸福否定という考えかたは、あらゆる心理療法理論に対する挑戦であるのみならず、現行の科学知識体系全体に対する、いわば大それた宣戦布告にもなっているわけです。したがって、批判に際しては、その点を念頭に置かなければならないでしょう。この場合にも、“ことの重大性”を認識する必要があるということです。

妥当性が簡単に検証できるにもかかわらず、それを避けるのはなぜか

1.小坂療法の場合

 私の心理療法の恩師である精神科医、小坂英世先生が唱えた、精神分裂病(昨今の名称は統合失調症)のための心理療法理論である小坂理論(小坂、1972年a,b、1973年、1976年)は、幸福否定理論の出発点になっているわけですが、本書でも詳しく書いておいたとおり、正当な批判を受けたことは、事実上ただの一度もありません(註2)。100歳を超えてからも現役として活動していたことで知られる、元東京大学精神科教授の秋元波留夫先生は、既に40年以上も昔の、東大を退官して間もない頃のことですが、私が小坂療法を実践しているのを知って、「きみ、小坂の言っていることはみんなうそだよ」と私に向かって断言してみせました。小坂療法については何の経験もないはずであるにもかかわらずです。

 また、本書にも書いておいたように、精神分析を専門とする、甘えの理論で有名な土居健郎先生ですら、小坂理論を「ずい分幼稚な精神分析的なやり方ですね」と批判していたそうです(浜田、2010年、163ページ)。小坂先生は、精神分析を、経験に基づいて強く批判していたので、その点でもこの批判は的が外れています。ふつうの表現をすれば、土居先生は、ほんの表面しか見ようとしていないということです。それは、否定すること自体が大前提になっていたためでしょう。

 これらの専門家たちは、簡単に検証できる立場に置かれているにもかかわらず、小坂理論の検証を一度も行なうことなく、このように批判にならない批判を一方的にしてすませてきました。それと同じく、幸福否定理論についても、専門家を含めてほとんどの人が、批判のためには必要不可欠なその検証をなぜか一様に避け続けているのです。新たなデータや理論に対しては、既存の概念や理論ではなくデータをもって対応すべし、という科学的方法の初歩を完全に無視した、科学者にあらざるこのような態度については、どのように考えるべきなのでしょうか。

 そのことは、小坂理論で具体的に示されている方法を、現実のクライアントに適用して、いわゆる正気に戻る場面を目の当たりにした場合を考えるとわかりやすいでしょう。小坂先生が主張しているように、目の前で一瞬のうちに幻覚妄想や異常行動が消えて正気に戻る場面を見ると、そのこと自体は否定できなくなります。統合失調症は、心理的原因で起こるものとは考えられていませんから、このように純粋に心理的な方法で、しかも一瞬のうちに、その中核症状とされる幻覚妄想が消えたとなると、小坂先生の主張が全面的に正しいと認めるか、妄想類似の理屈をつけて否定するか、あるいは見なかったことにするかのいずれかの道しかないことになります。

 実際に、小坂療法を統合失調症のクライアントに適用して、症状が消えるのを確認した精神科医を、私はふたり知っています。ひとりは私の勤務していた精神科病院の当時の副院長です。この副院長は、私がやっていたことを見よう見まねで試してみたらしいのです。すると、その直後から、長年にわたって執拗に続いていた慢性的な異常行動が速やかに消えてしまい、急速に落ち着いたのです。ところが、悪いことは何ひとつ起こらなかったにもかかわらず、副院長は、その後は何ごともなかったかのように、このやりかたをやめてしまったのでした。

 もうひとりは、かつて都立松沢病院で小坂先生の同僚で、一時は同志でもあった、後に “街の精神科医” として一般にも有名になる浜田晋先生です(たとえば、浜田、1994年、2006年)。私は、1973年の秋に小坂先生の紹介により、松沢病院で浜田先生にインタビューしたことがあるのですが、そのころから浜田先生は、小坂療法に対してかなり批判的でした。

 しかし、それ以前には、小坂療法によるクライアントの変化を目の前で見ていて、「確かにその霊験あらたかな症例があったことも事実で、私達の眼前で『よくなってしまう症例』を見せられたものです」として、その事実を率直に認めているのです(浜田、1986年、256ページ)。この表現から、小坂先生の方法によって一瞬のうちに症状が消える場面を、浜田先生は他の同席者とともに何度も目撃していることがわかります。そればかりか、自分でも、成功例を何例かもっているようなのです(たとえば、浜田、2001年、150-151、202ページ)。

 ところが浜田先生は、症状が消えた理由として、「なにかひとつの理論の背後には『とてもその理論を説明するに都合のいい実例』というものが、集まってくる」という不可思議な一般論を唱えることで片づけてしまっています(浜田、1986年、256ページ)。統合失調症といういわば難病には、「その理論を説明するに都合のいい実例」として、心理的な方法で一瞬のうちに幻覚妄想が消えるような事例が含まれているとは考えられていません。したがって、そのような理屈は、現行の精神医学では通用しえないのです。

 そうすると、小坂理論が当てはまる事例が、少なくとも一部には存在することになってしまい、統合失調症の従来の原因論の最重要の一角が完全に崩れ去ってしまいます。精神科医たちは、表向きと違って、裏では「治ったら診断がまちがっていた」などと言い続けてきたのです。にもかかわらず浜田先生は、妄想とも見まごう牽強付会な理屈で最後まで押し通そうとしたわけです。そして、これもきわめて重要な点なのですが、これまでのところでは、浜田先生のこの理屈に異を唱える専門家もほとんど存在しないのです。

 浜田先生は、その後、小坂批判の急先鋒になり、小坂先生の個人攻撃や小坂理論に対する没論理的批判を、2010年末に亡くなる直前まで、おそるべき熱意をもって続けられました(浜田、2010年)。自らの品性をかなぐり捨ててまでして、最後まで頑強に否定し続けたのです。そこまでするからには、その必要が浜田先生自身にあったためと考える以外にないでしょう。では、その動機はどこにあったのでしょうか。浜田先生と小坂先生のふたりを昔からよく知っているある精神科医は、このような浜田先生の態度について、困ったものだと語っていました。この場合も、「頭隠して尻隠さず」のようなものですから、この理屈は浜田先生自身の意識を説得するための手段と考えるとわかりやすいはずです。

 最後にもう一例だけふれておくと、立命館大学生存学研究センターの社会学者であり、障害者の権利保護の立場から活動している立岩真也さんも、小坂理論について不可思議な批判をしています。立岩さんは、自著『造反有理――精神医療現代史』(2013年、青土社刊)の「松沢病院」と題した節の註で、次のように述べているからです。

〔小坂は〕家族に責任を帰す論から、本人に問題を見る立場に転じ、それを想起することで統合失調症はなおるという説に移行していったのだと言う。笠原敏雄が弁護している(笠原、[2011: 197ff]等)。事実関係で私には判断しようのないところを除くと、受けいれられるものではないと思える。(立岩、2013年、199ページ)

 事情を知らない者が読むと何を言っているのかわからない文章ですが、これは、必要な説明を補足すると、要するに次のような意味になるでしょう。小坂は、記憶が消えていた心理的原因に関係する出来事をクライアントに思い出させると、その瞬間に症状が消えることを確認したことから、統合失調症が心因性の疾患であると主張した。最初はその原因を家族に帰していたが、経験を重ねるうち、その原因は家族にではなく、患者自身にあることが次第に明らかになったという。そして、小坂のその主張を、笠原が自著(『加害者と被害者の “トラウマ”』)の中で弁護している。

 その説明の後に、立岩さんがおそらく最も言いたかったはずの次の文章が続くわけです。

事実関係で私には判断しようのないところを除くと、受けいれられるものではないと思える。

 これは、誰が何を受け入れるということなのかが判然としない文章ですが、全体の記述から推定すると、「小坂が主張している統合失調症心因論は、専門家を含めて、一般に受け入れられるものではないと私は考える」という意味ではないかと思います。しかし、私は、立岩さんが引用している自著の中で具体的な事例を掲げて説明しているので、この批判も非常に奇妙です。障害者の権利保護という立場を標榜しながら、いわば体制側に立って、何の確認もしようとしないまま、単なる印象に基づいて判断しているからです。立岩さんの場合も、この発言を自分の意識を説得する手段と考えると理解しやすいでしょう。

 また、立岩さんは、心理的原因を思い出すことで統合失調症が治ると小坂先生が主張していたと言っていますが、それも大きな誤解です。その点についても、私はかなり詳しく説明しているのですが、それを無視しているからです。やはり、この歪曲も抵抗の結果ということなのでしょう(註3)。

2.幸福否定理論の場合

 それに対して、幸福否定理論のほうは、専門家からは完全に無視されて現在に至っています。自由に研究を進めるうえでは、幸いなことと言わなければなりません。それはともかくとしても、感情の演技によって反応が出るかどうかを、それを求められてすら確かめようとしない人が多いのは、どうしてなのでしょうか。この問題については、小坂療法の場合と同じく、もし感情の演技をして反応が出たらどうなるかを考えるとわかりやすいと思います。反応が出てしまうと、やはりわが身に起こった出来事ということになりますから、反応が出ること自体は否定できなくなります。

 長年にわたって(たとえば30年近くも)、私の心理療法を受けているクライアントであっても、大きな進歩をした場合、強い抵抗を起こすことは決して少なくありません。これは、クライアント自身の意識が許容できる範囲を超えて大きく好転した結果として、その否定を起こすという、私が好転の否定と呼んでいる現象です。この事実は、人間はどこまでも進歩することができることを示す証拠でもあるのですが、自らの現状を超えて大きく進歩すると、そのつど、スランプに似た状態に陥るということです。

 16世紀スペインの聖女であるアビラの聖テレサは、自著『霊魂の城』(アビラの聖テレサ、1992年)の中で、人格が向上するにつれて、悪魔の誘惑もより高度なものになることを、おそらく修行的な経験に基づいて述べています。相当の進歩を遂げても、抵抗から逃れることはできないどころか、むしろその抵抗はより強いものになるということです。

 その中で、クライアントは、好転の喜びを否定する目的で症状を作りあげたり、場合によっては私に逆うらみを向けたりすることもあります。好転が大きく、それに伴って否定も強く起こる場合には、それまで自らが依拠しながら治療を進めてきたはずの幸福否定理論そのものを否定することすらあるほどです。その場合、自分はよくなっているどころか悪化している、この理論はすべてまちがっている、と声高に主張することも少なくありません。このような場合に興味深いのは、幸福否定理論を否定したつもりでいることはできても、反応が出たことや、抵抗というものが存在することまでは否定できないという事実です。

 このように、反応が出たとしても、牽強付会な理屈をつけさえすれば、クライアント自身の中で幸福否定理論を否定することはできないわけではありません。他者の目にどのように映ろうとも、それによって自分の意識を説得できればすんでしまうからです。そして、そのまま心理療法から遠ざかり、この問題を考えないようにすれば、その姿勢を貫くこともあるいはできるかもしれません。それに対して、心理療法を継続し、この問題に直面し続ける場合には、この否定は一時的なものにとどまります。その場合には、この状態は遅かれ早かれ消え去り、好転だけが後に残るという結果になるのです。いわば一時の熱が冷めてしまうと、幸福否定理論を否定するのは難しくなるということです。

 ただし、感情の演技の目的によっては、反応を通じて探り当てられた事柄を認めずにすませることも可能です。たとえば、能力が潜在的にどの程度あるかを調べるために、「自分は、人一倍すぐれた能力をもっている」などの感情の演技をして強い反応が出たとしても、「そんなふうには思っていないが、そう考えたい気持ちがないわけではないので、自分を喜ばせるためにわざと反応を出したのではないか」などという理屈をつける余地が残されているのです。それにより、自分にはそれほどの潜在能力がないことにするわけです。

 この理屈では、なぜ反応というものを出さなければならないのかが説明できないという、最も重要な疑問が看過されている――つまり、後づけの理由になっている――のですが、自分の意識を説得するための手段なので、それですませようとすればできないことはありません。あとは、何ごともなかったことにしてしまえばよいのです。この問題については、後ほど、補遺3でとりあげることにします。

 ところが、反応が出るかどうかを確認すること自体を目的にして感情の演技をした場合には、事情が根本から違ってきます。その条件で反応が出た場合には、このような理屈をつけて逃げることはできません。幸福否定理論の妥当性を裏づける形で反応が出たことを認めざるをえなくなってしまうからです。反応が出るように暗示をかけているわけではないので、暗示によって反応のようなものが出たという強弁をして片づけるのも難しいでしょう。したがって、この戦略も使えないことになるわけです。

 感情の演技によって反応が出ることを確認するという、幸福否定理論からすれば最も基本的な手順を回避する人が多いのは、このような事情があらかじめわかるためなのではないかと思います。信じがたいことでしょうが、人間というものは、もちろん無意識的にではありますが、このような判断を即座に、しかも実に的確に下すことができるものなのです。そのことも、長年にわたって経験を積み重ねるうちに自然にわかってきた事実です。

まとめと結論

 本稿では、本年(2016年)6月に出版した拙著『幸せを拒む病』へのレビューを、その中から主として2件とりあげ、できるだけ客観的かつ詳細な検討を行ないました。その際、それらの批判の裏に潜んでいると思しきレビューアーの真意を探ることを主眼としました。その結果、このふたりのレビューアーは、本書の中で私が繰り返し要請しているにもかかわらず、感情の演技によって反応が出るかどうかを確かめようとしないまま、常識や従来的な概念をもとにして、幸福否定理論を支えるまさに基盤を無視ないし否定していることが、あらためて明らかになりました。

 そうすると、簡単にできるにもかかわらず、感情の演技という方法によって反応が出るかどうかを確認しようとしない理由が大きな問題になるはずです。反応という客観的指標を実用的に使う心理療法は、幸福否定理論の出発点になった小坂療法を除けば、私の知る限り、他にはひとつもありません。というよりも、そもそも心理療法の中で客観的な指標が使えることなどは、誰であれ夢想だにしなかったことなのです。

 したがって、感情の演技をせずに幸福否定理論を否定するということは、この理論を最初から否定しようとする意志が暗黙の裡に強く働いた結果と考えざるをえなくなります。そうすると、問題は、幸福否定理論を頭から否定しようとするのはなぜなのか、という点に絞られることになります。そしてそれは、現行の科学知識体系や人間観が根本的な変更を迫られること、そしてそれが、人間にとってきわめて重要な進歩につながることを暗黙の裡に承知しているためではないか、という推測が生まれるわけです。

 この推測は、既に感情の演技によって繰り返し確認されているのですが、そのことを万人が納得するような形で実証し提示するのは難しいでしょう。納得させることができないからです。ここに、科学的方法の限界があるように思います。

補遺1 共同妄想と逸脱指数

 反応という客観的変化が自分の身に繰り返し起こると、そのこと自体を否定するのがきわめて難しいことは、先述の実例からもわかるでしょう。青木まりこ現象にしても超常現象にしても、自分で経験してしまうと、それを否定するのは難しくなるものです。

 青木まりこ現象と言われるものは、要するにたくさんの選択肢がある場面で、ある程度の時間をかけて自分の好きなものを選び出すという至福の状況の中で起こることを、私は、反応を通じて繰り返し確認しています。その喜びを否定しなければ、いわば女性たちのショッピングの際に見られるように、好きなものをじっくり選ぶという至福の状態にひたれるわけですが、その否定が起こると、一瞬のうちに反応を出して、それとは正反対の苦しみを作りあげてしまうということです。

 ただし、この場合、頭痛や咳込みなどの身体症状やあくびなどを出したのでは、その場に自分をとどまらせることになってしまうため、多くの場合は、その場からわが身を遠ざける目的で便意という症状が選択されるということなのでしょう。このような事情から、青木まりこ現象は、書店だけでなく図書館でもCDショップでも起こりますし、数は少ないですが、洋服などの商品が並んでいる店でも起こります。それに対して、同じ書店であっても、好きな本を選ぼうとする時には起こっても、最初から買う本が決まっている場合には起こらないことが多いようです。

 しかしながら、青木まりこ現象のようなものなら、インクのにおいなどの物理的な理由をむりやりこじつけてすませることも、できないわけではありません。青木まりこ現象の場合、いくつかの着想を同等に扱い、どれがいちばんもっともらしいかを多数決で判断するという、信じがたい方法がとられるようです。その場合、このように簡単に反証できる程度の理屈でも、もっともらしいと感じられるものに同意する人たちがたくさん出てくるのです。

 世間話のようなものとして扱うのであれば、それでもいいのかもしれませんが、科学の枠内で扱うとすれば、当然のことながらそれではすみません。青木まりこ現象という客観的現象は、同じ条件で繰り返し観察されるのですから、実験的な追認や検証が難なくできるはずです。ところが、現在の段階では、なぜかそれが完全に避けられているのです。これは、かなり異常な事態と考えるべきでしょう。

 たとえばインクのにおいをその仮説にした場合には、印刷所の人たちはどうなのかとか、印刷されたばかりの本を開いて鼻を近づけてにおいをかげば本当に便意が起こるかどうかとか、古書店や図書館でしか便意が起こらない人の場合はどうなのかとか、雑誌では起こりにくいのはなぜなのかなど、さまざまな疑問が湧き上がります。したがって、それらを仮説にした検証実験もできるはずなのです。ところが、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」の道理で、ほぼ全員がそれらの疑問に目を向けないようにしているようです。そうすれば、実際にそれですんでしまいます。ここでは、何か重要なことを避けようとする意志が、あたかもユングの唱えた集合的無意識にも似て、ほとんどの人に共通して働いていると考えざるをえません。

 このように、何かを避けようとする強い意志がきわめて多くの人に共通して働いているとすれば、そのような人たちは何を避けようとしているのでしょうか。その角度から考えるなら、青木まりこ現象を説明するための仮説の中で、最も避けられているものを考えればよいことになります。次のグラフは、かつてTOPPAN「本屋の歩き方」サイトに掲載されていたもので、青木まりこ現象の原因について、どれが有力と思うかをサイト訪問者に投票させた結果を集計したリアルタイム・グラフです(2011年3月9日現在)。

青木まりこ現象の原因の有力説投票
ここでは、「幸福否定に基づく異常現象説」が珍しくとりあげられている一方で、トイレがないことによる予期不安説は、なぜか含まれていない。興味深いことに、「インクのにおい説」が最も人気が高く、「幸福否定に基づく異常現象説」の人気が最も低い。

 これを見るとわかるように、「インクのにおい説」が最も人気が高く、「幸福否定に基づく異常現象説」の最も人気がないことがわかります。そうであるとしても、この現象を幸福否定によるものと考える人たちが、この程度であってもいるという事実のほうをむしろ驚くべきなのかもしれません。また、「トイレがないことによる予期不安説」は、なぜかここに含まれていませんし、条件反射説もそれほど人気があるわけではありませんから、これだけで安易な結論を出すことはもちろんできません。とはいえ、私の仮説は反応という客観的指標を使って検証されているという事実を無視して、単なる人気投票で片づけようとしていることを、ここでは重視すべきでしょう。

 「青木まりこ現象」を Google で検索すると、かつては心の研究室のサイトが最上位に位置づけられていました。当サイトは、Wikipedia にこの項目が登場した時点で第2位となり、最近では第5位あたりに位置づけられています。そのような事情もあって、かつて当サイトはかなり参照されていたのです。にもかかわらず、このような結果になっているということは、私の説明が全くと言ってよいほど理解されていないことを示しています。このことは、Wikipedia の記述を見るとはっきりします。たとえば、「笠原説の反証可能性」という項目には次のような記述があります。

笠原は自説が高い論理性に基づいて構築されていることを示すために、自説の反証可能性についても触れている。フロイトの精神分析に代表される、古典的な心理学においてはその反証可能性の低さが問題とされることがあるが、笠原は「感情の演技」という思考実験において自説は反証可能であるとした。例えば「読みたい本が見つかってうれしい」という感情をイメージしようと試みるとする。はじめは雑念による介入がノイズとなるが、イメージに心身が慣れてノイズが軽減するにつれて、心理的負担に対する「反応」を観察されるようになるという。心理的負担とその反応については古典的には催眠に近い概念として説明され「解除反応」と称されてきた。笠原は「幸福否定」の「反応」についても、以上のような方法で合理性を補強しうるとした。

 好意的なとらえかたをされているのはわかりますが、肝心な点で信じがたいほど的が外れています。そもそも私は、反応を心理的負担によるものなどと説明したことは一度もありませんし、最後の2文は論理に飛躍があり、意味もよくわかりません。また、この説明は、相当数の人たちが、書店に入るだけで即座に便意を催したり下痢を起こしたりという身体反応を繰り返し発生させている――つまり、現実の中での再現性がきわめて高い――という事実を軽視しています。このような説明を書く前に、まず実験的に検証してみるべきでしょう。そうすれば、私の考えかたが、実証性という点で他の臆説とは全く異質なものであることがすぐにわかるはずです。

 青木まりこ現象は、私の言う反応に名前がつけられている、世にも珍しい現象なのです。これと同じ位置づけにある現象は、世界的に見ても「スタンダール症候群」という、主として美術作品を見た時に起こる心身の反応を除けば、私の知る限り、ほとんど存在しません。上の引用文の説明は、このことの重大性が、全くと言ってよいほど意識でわかっていないことを示しています。これは、抵抗とそれによる反応というものが、知的なレベルでいかに理解されにくいものかを教えてくれる好例と考えるべきなのでしょう。

 たとえば、「自分の病気が治ってうれしい」や「自分の希望が実現してうれしい」などの感情の演技をして反応が出てしまうと、こじつけるべき理屈はほとんど見つからなくなります。そのため、うっかり感情の演技などをして、もし本当に反応が出てしまったら、現在の人間観や現行の科学知識体系が根本から覆りかねないのでまずい、という判断が無意識のうちに働いているはずです。その結果として、及び腰になっているということなのでしょう。それを裏から見れば、それが真理であることを実はよく知っているという可能性が浮かび上がるわけです。ここでは手短に説明することしかできないので、論理が飛躍しているように感じられるかもしれませんが、記述のひとつひとつは反応を使っていちいち確認されているとお考えください。

 かくして、本心では完全に承知しているはずの真理をおそらく避けるため、ここに、たとえばインクのにおい説という共同妄想が生まれるのです(註4)。妄想というものは、精神病によるいわば孤立妄想も含めて、事実を否定するという明確な目的をもって、正反対のあるいは無関係の方向に作りあげられるものだからです。私の考えでは、その最終形態が現行の唯物論的科学知識体系ということになるわけです。ここでは詳述しませんが、この問題は、拙著『隠された心の力――唯物論という幻想』(1995年、春秋社刊)のテーマにもなっているので、関心のある方はぜひ参照してください。

 こうした共同妄想は、事実からかけ離れた思い込みということになりますが、どれほどかけ離れているかがもし数量化できるとすれば、それが大きければ大きいほど、事実からの逸脱度が高いことになります。仮にそれが可能であるとすれば、たとえば、青木まりこ現象の場合の「インクのにおい説」と、小坂療法の場合の「その説明につごうのよい事例が集まる」説の逸脱度はどちらが高いかが、ある程度にしてもわかることになるわけです。それを逸脱指数として、その高さを、当該の現象に対する抵抗の強さの指標とするのです。もちろん、これはまだ単なる着想の段階にすぎませんし、アイデア倒れに終わってしまうかもしれません。しかし、この着想自体はおもしろいのではないかと思っています。

補遺2 本書で詳述している超常的現象に、否定論者がふれようとしないのはなぜか

 ところで本書の第5章では、私の心理療法の中で頻繁に起こる超常的現象についてもとりあげて解説しています。面接でのやりとりを後で聞きなおすためにクライアントが録音すると、録音媒体はさまざまなのに、肝心な箇所にほぼ限って同質の雑音(静電音)が入っていて聴きとれなくなることや、スカイプでの面接の際に、やはり肝心な箇所で電子音が聞こえたり、音量が低下したり音声が途切れてしまったり、さらには接続が切れてしまったりなどの現象が起こることなどを、具体例をあげながら説明しているわけです(もっと極端な場合には、ブルースクリーンになってしまったり、パソコン自体がシャットダウンされてしまったりすることもあります)。これらについては、「うさんくさい」とか「非科学的」といった定型的なとらえかたをされることが当然のことながら予測されたのですが、この問題にコメントした批判者は、これまでのところひとりもおりません。

 私がこの現象に最初にふれたのは、英文で発表した原著(Kasahara,1983)を除けば、1989年に出版した『超心理学ハンドブック』(ブレーン出版刊)の章(補章7)としてなのですが、その後も、そのダイジェスト版である『超心理学読本』(講談社プラスアルファ文庫)の第4章を含めて何度かとりあげています。にもかかわらず、それ以降も無視されて現在に至っているのです。これは、実にふしぎなことのように思います。このことは、この事実に注意を向けること自体を嫌っているためとしか私には考えられないのですが、どうなのでしょうか。

 本書には、超常現象への批判について、これまではっきり書いたことがなかったことも明記しています。この点は非常に重要なので、少々詳しく説明しておきます。

 本書の第5章で私は、次のように述べています。超常現象の正規の定義は、「現在の科学知識では説明できない物理的、心理的現象」となっている。これは、科学の理念から導き出される中立的な定義である。それに対して、懐疑論者を自称する、事実上は否定論者と呼ぶべき人びとは、現行の科学知識体系が絶対的に正しいことを大前提にして、超常現象の実在を裏づける証拠を頭から否定する。

 この戦法は、天に向かって唾を吐くのと同類の自縄自縛的論法を必ず伴う。「現在の科学知識体系と矛盾するので超常現象は存在しない」とあからさまに主張したのでは、科学の理念に反していることがあまりにはっきりしてしまう。そのため、科学と科学知識をすりかえるという反則的な戦法を、どうしてもとらざるをえなくなる。

 つまり、超常現象と呼ばれるものは「科学ではない」、あるいは「科学で説明できない」から存在しない、さらには、「科学と矛盾する」のでありえないという論法を使う以外になくなってしまうということです。権威を後ろ盾にした虚勢ということでもあります。その際に、その主張の信頼性を高めようとするためでしょうが、研究者の能力や資質を疑うという手法も併用します。ただの見まちがいなのではないかとか、手品が見抜けなかっただけだ、というわけです。うさんくさそうな現象であることを示すために、いわゆるオカルトと一緒くたにすることも少なくありません。
 ところが、先述の通り、科学とは要するに方法のことなので、科学と矛盾するなどという言いかたはそもそもありえません。新しいデータは科学で説明できないから必ずまちがっている、と言ったら正気を疑われるのと同じことです。したがって、これは自己欺瞞になっているのですが、当人たちにその自覚はありません。その自覚を、意識の上から消し去っているということであり、要するに、これは異常行動だということです。

 ここまで挑発的なことを書いているわけですから、超常現象研究についていつも否定的な発言をするいわゆる懐疑論者たちは、黙っていられないはずなのですが、少なくともこれまでのところでは、なぜかこの挑発に乗ってこないのです。もう少し待たないとはっきりしたことは言えませんが、同じ状況が続くようなら、ここには、何か重大な理由があると考えざるをえなくなるでしょう。

補遺3 幸福否定理論は既に知られていたか

 先にとりあげたレビューアーのうちの後者は、抵抗の力は病気が治ることに対しても働くし、得たいものが得られないようにする際にも働くと述べているのみならず、病気は自らの真の願望を達成することを妨げるための手段として使われる場合が多いとも述べています。そこまでは、不十分とは言えても、大きなまちがいはありません。ところが、先述のようにこのレビューアーは、そのことは誰もが知っていると主張しているわけです。誰もが知っているとは、私には初耳です(註5)。

 幸福否定によって、いわゆる心因性の症状や異常行動が出現する機序として私が主張しているのは、自らが幸福になるのを阻止しようとする働きがあることの他に、「はじめに」に書いておいた通り、次のような心の動きがあることです。

@ 自らの「無意識の一部」が、自分が幸福の状態にあることを極度に嫌い、その幸福感を意識にのぼらせないような策を講ずる。
A それと並行して、自分が幸福ではないことを自分の意識に言い聞かせるために、目の前に問題を作りあげる。
B その結果として生み出されるのが、心身症や精神病という病気であり、行動の異常である。

 つまり、症状や異常行動は、単に幸福の方向に向かうのを阻止するだけでなく、自分の意識を説得するための手段として使われているということです。ところが、このレビューアーの主張はそうではありません。自分の意識に対する説得工作という視点が完全に欠落しているのです。

 ホーリスティック医学の実践家でもあるというこのレビューアーは、3分間診療と揶揄される通常の医療の従事者とは違って、時間をかけて診療することが多いのでしょう。その場合、治ることに抵抗するクライアントに時おり遭遇するはずです。しかし、経験的にそのような事実がわかったからといって、それを、万人に抵抗があるためと考える治療者はいないでしょう。少なくとも私はそのような人をひとりも知りませんし、そのような認識が書かれた本や論文を読んだこともありません。

 幸福否定という考えかたで重要なのは、このように、自分の意識の説得工作という点と、その意志が生まれながらにして万人に内在しているという点のふたつです。これらの主張が事実なら、従来的な人間観は完全に崩れ去ってしまいます。そして、これらの主張は、既に30年以上にわたって、反応という客観的指標を使って実証され続けているのです。これがどれほど重大なことかを真剣に考えれば、従来的な人間観や常識によって安易に否定できるたぐいのものではないことが、すぐにわかるはずなのです。これまでの批判者には、この点についての “ことの重大性” の認識が完全に欠落していることになります。ちなみに、ことの重大性の認識の欠落度と先の逸脱指数は、かなり近い関係にあるはずです。

 私は、幸福否定という概念を既に誰かが提示しているかどうかに強い関心があるので、いろいろな資料を調べてきたのですが、これまでのところでは、そのような記述は見つかっていません。ですから、もしそのような発言をしている方がいるのであれば、ぜひ知りたいと思います。私が見つけた中で、いちばん近いと思うのは、起源という側面ではアンリ・ベルクソンが『創造的進化』の中で書いている抵抗という概念です。

 また、治療法およびその基本概念として、ある程度にしても似通っていると思うのは、珍しく反省という課題を前面に打ち出している新宗教、GLAの代表である高橋佳子(けいこ)さんがいくつかの自著(たとえば、高橋、2001年)に、さまざまな行として詳述しており、その会員の方がたが実践している、非常に具体的な方法論です。すぐれた宗教家にはものごとの本質を見抜く力があると思いますが、これはまさにその好例と言えるでしょう(註6)。

[註1]心理療法研究 については、拙著『隠された心の力――唯物論という幻想』(1995年、春秋社刊)の第5章で詳述しています。この分野は、わが国でもほとんど関心をもたれておらず、あまり知られていないようです。なお、この分野の邦訳書としては、行動療法の創始者でもある、英国の著名な心理学者、ハンス・アイゼンクによるもの(アイゼンク、1988年)や、それとは少々視点が異なりますが、アメリカの精神科医、ジェローム・フランクによるもの(フランク、1969年)があります。

[註2]ただし、公平を期すためここに明記しておきますが、小坂理論に対して比較的好意的な姿勢を示す方々が、精神科医の中にも何人かいました。それは、名古屋大学精神科教授であった笠原嘉(よみし)先生(笠原嘉、1974年)、東京大学精神科助教授であった安永浩先生(安永、1977年)、都立松沢病院精神科部長であった林直樹先生(林、2010年)です。精神科領域ではいずれも重鎮に当たる人たちです。
 ついでにふれておきますと、私は、安永先生が主宰されていた研究会の会誌に、小坂療法を扱った拙論(笠原、1976年)を寄稿したことがあるのですが、これを仲介してくださったのが、当時、名古屋市立大学精神科におられた中井久夫先生でした。歴史的な事実として、ここに記しておきたいと思います。

[註3]立岩さんは、統合失調症の治癒という問題に関連して、よくありがちな重大な誤解をしているので、その点についてここで手短に説明しておきます。症状の原因となった出来事やその裏にある心の動きをクライアントが思い出すと、幻覚妄想などの症状が消えて一瞬のうちに正気に戻るのは事実です。しかしながら、それは、単にそれまであった症状が消えるということにすぎず、再発傾向はそのまま残ります。ですから、治癒させるためには、薬を必要とせず、しかも再発しない状態にもってゆく必要があるわけですが、これがとてつもなく難しいのです。「治ったら分裂病ではない」などど裏で言われてきた難病ですから、そう簡単に行くはずはないでしょう。
 しかも悪いことに、原因を思い出させて症状を消した場合には、次の再発が、小坂先生が「いやらしい再発」と呼んだ、対応がきわめて難しい状態になってしまうのです。立岩さんは、こうした記述を完全に無視していることになります。このあたりの事情については、本書第5章である程度の説明をしておきましたので、関心のある方はご覧ください。

[註4]共同妄想については、拙著『幸福否定の構造』(2004年、春秋社刊)の第8章で詳述しているので、関心のある方は参照してください。

[註5]Amazon でのレビューアーのひとりは、本書について、「まるで、『達人のサイエンス』においてアメリカの教育者兼合気道家のJ・レナードが書いた第三章の内容を『幸福否定』と言う理論でより詳しく&対処法を詳しく説明したかのような本」と論評しています。もしかしたら重要な発言をしているかもしれないと思い、『達人のサイエンス』を入手して読んでみました(ここで、レナードさんがリーア・ホワイトさんと共著で『スポーツと超能力』(1984年、日本教文社刊)という本を書いていると書いておきましたが、これは私の勘違いで、ホワイトさんの共著者は、エサレン研究所の共同創設者のマイケル・マーフィーさんでした)。これは、私の担当編集者が編集した邦訳書であることがわかり、その点でも身近な本でした。
 ところが、その中でレナードさんが、第3章ではなく第3部で語っているのは、修行に邁進しようとすると、ホメオスタシス(定常性)のために抵抗が起こるということにすぎず、私の言う幸福否定とは、残念ながら何の関係もありませんでした。また、たとえば その中に出てくる“積極思考の力”、“素直であれ”、“するべきことの優先順位”、“怠惰から救い出す” などのキーワードを表面的に見ると、いかにも私と同じようなことを言っているように感じてしまうのかもしれません。ところが、私の言う反応は、レナードさんに言わせると、「ホメオスタシスからの注意信号」(レナード、1991年、119ページ)という常識的なとらえかたになってしまうらしいのです。これでは、似て非なるものと言わざるをえないでしょう。

[註6]A Course in Miracles というアメリカの精神科医たちが出版した大部の書籍(たとえば、Foundation for Inner Peace, 2007)があります。この著書の基盤には幸福否定という概念があるのではないかと考える方もおられます。この問題については、心の研究室の Facebook で議論されているので、関心のある方はごらんください。
 なお、この著書とその中で提示されている方法は非常に人気が高いようで、さまざまな版が出ていることに加えて、24か国語に翻訳され、邦訳も何通りか出版されているようです。Amazon で A Course in Miracles を検索すると、おびただしい数の版が出ていることに驚かされます。このような人気は宗教と同じで、本質的なことを突いている一方で、逃げ道がたくさんある場合にほぼ限られます。抵抗やそれによる反応も出るかもしれませんが、意識の上で感ずる魅力のほうが大きいので、訓練を続けるのはそれほど難しくない人が多いということなのでしょう。
 それに対して、感情の演技は、それよりもはるかに修行的なので、内容は簡単に見えても、独力で続けるのはきわめて難しいのです。現実に、数多くの修行を行ない、座禅に至っては50年も続けてきたというある老年のクライアントは、感情の演技について、これほど難しい修行はないと語っていました。

参考文献

  • H・J・アイゼンク (1988年)『精神分析に別れを告げよう――フロイト帝国の衰退と没落』批評社
  • アビラの聖テレサ(1992年)『霊魂の城』聖母文庫
  • 笠原敏雄 (1976年)「精神分裂病患者の防衛機制」『東大分院神経科研究会誌』第2号、78-92ページ
  • 笠原敏雄(2011年)『加害者と被害者の “トラウマ”――PTSD理論は正しいか』国書刊行会
  • 笠原嘉(1974年)「書評:小坂英世著『精神分裂病読本』」『精神医学』第16巻、630-31ページ
  • 小坂英世(1972年a)『患者と家族のための精神分裂病理論』珠真書房
  • 小坂英世(1972年b)『精神分裂病読本』日本看護協会出版部
  • 小坂英世(1973年)『再発の研究』小坂教室(私家版)
  • 小坂英世(1976年)『私の病因論と治療法』小坂教室(私家版)
  • 高橋佳子(2001年)『新しい力――「私が変わります」宣言』三宝出版
  • 立岩真也(2013年)『造反有理――精神医療現代史へ』青土社
  • 浜田晋(1986年)「小坂療法と私――小坂流家族療法の再検討」大原・石川編『家族療法の理論と実 際 1』〔星和書店〕所収
  • 浜田晋(2001年)『私の精神分裂病論』医学書院
  • 浜田晋(2006年)『街角の精神医療 最終章』医学書院
  • 浜田晋(2010年)「日本社会精神医学外史[その8]――小坂英世という男」『精神医療』第59号、153-62ページ
  • 林直樹(2010年)「小坂理論に見る精神療法の『理論』」『精神療法』第36巻、776-78ページ
  • J・D・フランク (1969年) 『心理療法の比較研究――説得と治療』岩崎学術出版社(原著第3版の邦訳は、「説得と治療:心理療法の共通要因」2007年、金剛出版刊)
  • H・ベルクソン(2010年)『創造的進化』ちくま学芸文庫
  • 安永浩(1977年)「分裂病患者にとっての『主体他者』」安永浩編『分裂病の精神病理 6』(東京大学出版会)所収
  • G・レナード(1991年)『達人のサイエンス――真の自己成長のために』日本教文社
  • Foundation for Inner Peace (2007). A Course in Miracles. Combined Volume. Mill Valley, CA: Foundation for Inner Peace.
  • Kasahara, T. (1983). A presumed case of spontaneous psychokinesis in a psychotherapy situation. Journal of the American Society of Psychosomatic Dentistry and Medicine, 30, 56-65, 75-84.
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