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 『本心と抵抗』――売れ行き不振の理由に関する検討


[抄録]拙著『本心と抵抗―自発性の精神病理』の売れ行きが極端に不振であり、反響もきわめて乏しいことが判明した。それが通常の理由で説明しきれるものではないように思われたことから、僭越を顧みず、その原因について、実証的に可能な範囲でいくつかの角度から多少なりとも厳密な検討を行なった。その結果、どうやらその原因は、(1)ストレス学説という旧来の理論では説明できそうにないことが一見してわかる“青木まりこ現象”を筆頭とする、さまざまな日常的現象に潜む抵抗の様態を、(2)客観的指標を使って厳密に追究しているため、(3)ある程度にせよ信頼性の高い結果が得られていることが直観的にわかる、という点にあるらしいことが推定された。

はじめに

 昨2010年6月に、『本心と抵抗―自発性の精神病理』(すぴか書房)という標題の拙著(以下、本書)を、満を持して出版しました。私の心理療法に関する新著としては、2004年の『幸福否定の構造』(春秋社)以来の、6年ぶりの出版でした。ことが順調に運んでいたら、2007年頃には出版できていたはずなのですが、昨今の深刻な“出版不況”も手伝って、私の希望する形で出してくれる出版社は、意に反してなかなか見つかりませんでした。そのため、2009年1月から、全文の pdf を収録したCD-ROMを、不本意ながら私家版として暫定的に配布していました。そうした経過のなかで、40年ぶりに再会した宇津木利征氏(すぴか書房社長)のご好意により、希望通りの形で出版できる運びとなり、欣喜雀躍しながら、このたびの上梓に至ったわけです。宇津木氏は、大手の医学出版社に長年勤務した後、出したい本を自由に出したいとして、大変な犠牲を払うことを最初から覚悟したうえで、医療看護関係専門の出版社を自ら興していたのでした。

 本書は、2004年1月から当サイトで始めた、「日常生活の中で見られる抵抗や反応」という連載が下地になっています。現在でもそのままの形で掲載されているこの連載は、本書の下準備として執筆されたものですが、読者の方々からの反響をうかがうという役割も兼ねていました。そのなかの「青木まりこ現象」という章は、折りからの“ブーム”のおかげもあって、2004年10月には、リクルート社発行の無料週刊誌「R25」にとりあげられたり、数多くのブログやホームページにリンクされたりして、たくさんの方々にご覧いただきました。本書は、そうした反響が得られていたことに加えて、「片づけができない」「締切まぎわの問題」「マリッジ・ブルーマタニティー・ブルー」「子どもの虐待」などの、まさに時宜を得た身近な問題ばかりを扱っているので、売れ行きもそれなりに期待できるはずだと思い込んでいました。その点については、疑いというものをほとんど抱いていなかったのです。

 加えて、本書では、心理的原因の探りかたや、自分が本当にしたいことの突き止めかたを含め、私の心理療法のいわば手の内のほとんどすべてを、数多くの具体例をあげながら、微に入り細を穿つほどにまで明かしてしまっています。したがって、抵抗――幸福に対する抵抗――という現象さえなければ、本書を丹念に読んでくださるだけで、私の心理療法が、独力でほぼ完全に実践できるほどのお膳立てが、ここに整えてあるわけです。

 現代は、時間があり余っているにもかかわらず、自分のしたいことがわからなくて困っている人たちや、そのために時間つぶしに走っている人たちがたくさんいて、それが一種の社会問題にすらなっています(たとえば、「パチンコ熱中のお年寄り急増 年金つぎ込み家族借金も」[朝日新聞、2010年11月13日号]参照)。本書では、自分がしたいことを探り出す方法を、具体的な形でおそらく初めて公開しているのですから、それだけをとっても、関心を持つ人は少なくないだろうと踏んでいました。心理療法の事例としても、世間一般によく見られる類のものをとりあげていることもあって、本書を通じて私の心理療法に関心を持つ方が多少なりとも出てくるだろうし、その結果、心理療法の希望者が増え、場合によっては一部の方々をお断りしなければならないだろう、とまで考えていたのです。ところが、さにあらず、ふたを開けてみれば、予測とはまさに正反対の結果になったのでした。かてて加えて、本書の出版以来、新たな来室者は、事実上ひとりもいなくなってしまったのです。

 昨年の暮れ、宇津木社長から本書の実売部数を知らされた私は、そのあまりの少なさに、落胆するよりむしろ、驚きを禁じえず、いわば狐につままれたような思いに駆られました。本書は、私の心理療法の理論や方法が詳細かつ具体的に書かれているために、読者の方々の抵抗が強くなることは、もちろん十二分に予測されていました。理論的裏づけを伴って精密に描き出されている分、“逃げ道”も少なくなってしまうからです。しかしながら、人間には、科学的好奇心というものがあります。そうした科学的好奇心によって、ある程度にせよ抵抗をさて置くことのできる人たちが、たくさんとは言わないまでも少しはいるに違いない、したがって、そのような人たちなら、学問的関心という角度から喜んで読んでくれるはずだ、と信じて疑わなかったのです。にもかかわらず、予測とは正反対の結果を知らされた私は、大きな謎を突きつけられた形になったのでした。

 本が売れない原因として誰もがすぐに思いつくのは、定価が高いためではないか、あるいは、その本自体に読者を引きつける力がない、もしくは、とるに足らないことしか書かれていないためではないか、一般に知られていない出版社から出ているためではないか、さもなければ、その出版社に営業力が乏しいためなのではないか、といった理由でしょう。もちろん、そのような理由もないわけではないでしょう。しかし、その一方で、どうもそういう問題が主たる理由ではないのではないか、という疑念を拭い去ることができなかったため、今回の原因探究に至ったわけです。

 本稿は、その中間報告と言うべきものです。自著の売れ行き不振に関する考察などは、おそらくあまり前例がないでしょう。のみならず、僭越を顧みず、その報告まであえてここにするのは、その検討から、非常に大きな問題が浮上するように感じられるためです。とはいえ、今回は新しい概念が生まれるわけではなく、むしろ、人間にあまねく存在する抵抗というものの本質がより明確になるということのようですが、これは、私の研究史上でも、〈幸福否定〉――〈抵抗〉と表裏一体の関係にある無意識的意志――の発見に次ぐ、最大級の発見になるのではないか、と思われるほどです。

第1章 抵抗という考えかたに対する抵抗

 抵抗や幸福否定という考えかたに対しては、一般にきわめて抵抗が強いものです。これは、人間の本質を考えるうえで不可欠の要因であるにもかかわらず、今までその存在が全く知られていなかったという事実からもわかるとおり、その強さは実際に想像を絶するほどで、そのことを何度となく痛感されられながら今日に至っている、というのが偽らざるところです。ですから、1984年12月末に幸福否定という考えかたに辿り着く前には、まだ抵抗というものを、今よりもはるかに軽く考えていた――正確に言えば、今よりもはるかに軽くしか考えることができず、その頑強さについても根本的重要性についても、まだまだわかっていなかった――わけです。

 その後、抵抗の強さを思い知らされる出来事に次々と遭遇します。そのため、しばらくすると、人間の本質に関する探究が進むにつれ、それに基づいて構築されつつある私の心理療法は次第に不人気となり、最後には希望者がひとりもいなくなるのではないか、と危惧するようになりました。その懸念については、実際に拙著『幸福否定の構造』(笠原、2004a)に明記されています。

[心理的原因などの肝心な部分に近づくと]こうした他覚的反応が出現することは、催眠療法の中で起こるものを除けば、それまで全く知られていなかった。心身症や神経症の患者を対象にして、症状出現の直前にあるはずの心理的原因を探り出そうとすれば、例外なくそうした反応が起こるのである。それなら、反応を追ってさえ行けば、いつかは心身症や神経症の、ひいては心因性疾患全体の本質に辿り着くことができるのではないか。しかし、そうすると、抵抗はますます強くなるであろうから、私の心理療法の希望者は、最後には、ひとりもいなくなってしまうのではないか。(同書、63-64ページ)

 引用文の冒頭にある「他覚的反応」とは、あくびや一過性の眠気や身体的変化のことです。信じがたいことでしょうが、これは、抵抗というものに直面すれば、多かれ少なかれ、誰にでも見られる現象なのです。また、ここで言っている「心身症や神経症の、ひいては心因性疾患全体の本質」とは、その後に発見される幸福否定という概念に当たります。しかし、実際には、当室への来室者数は、1998年をピークにして、その後、おそらく景気低迷などの影響もあって漸減していたとはいえ、2004年の『幸福否定の構造』の出版を機に急減したわけではありません[註1]。ちなみに、1998年は、拙著『懲りない・困らない症候群』(春秋社、1997年1月刊)を出した翌年に当たります。

 この拙著は、幸福否定という考えかたが今ほど成熟していない段階で書かれたもので、人間は反省を避けようとする傾向をいかに強く持っているかという側面から俯瞰した、日常生活で観察される現象の記述が中心になっています。そのためか、この拙著に対する抵抗もまださほど強くはなく、現に、同年(1997年)1月19日付の『朝日新聞』書評欄でとりあげられたり、『日刊ゲンダイ』というタブロイド版日刊紙に、ほぼ全面を使った特集記事が掲載されたりしていたほどです(興味深いことに、規模の大きな特集だったにもかかわらず、この記事には全く反響がありませんでした)。そのおかげもあって、来室者数は予測に反して順調に増え続け、その翌年の98年にピークを迎えたのでした。

 したがって、幸か不幸か、幸福否定の発見という点について言えば、この懸念はそれほど当たらなかったわけですが、私の心理療法理論や人間観のその後の進展について言えば、この推測は当たっていたことになるのかもしれません。ここまで来るのに、予測したより少々時間がかかったとはいえ、今、まさにその予言が成就し始めたということなのでしょうか。どのような理由であっても、来室者が減少の一途を辿るのは、現実的側面からみると非常に困ることです。経営が成り立たなくなるという深刻な事態を迎えることに加えて、当室が目的とする研究も続けられなくなってしまうからです。しかしながら、科学的立場からすると、そうした現実的問題よりも、この現象自体のほうがはるかに重要なはずです。人間の抵抗というものが、どのような側面に、どれほど強く働くのかを見きわめるための、絶好の素材を提供してくれるにちがいないからです。

第2章 “伏線”の存在

 こうした展開が明らかになった今、あらためて来しかたを振り返ると、ここに至るまでの伏線のようなものが、いくつかあったことに気づかされます。それらについては、時おり立ち止まって考えるたびに、不思議だという思いに駆られてはいたものの、それ以上に注目したり追究したりすることもなく、何とはなしに見すごして今日に至ってしまったわけです。後ほどふれるように、古いものでは、40年近く前から不思議に感じていた事柄もあります。遅まきながら、今、ようやくその重要性に気づかされたわけですが、そうすると今度は、そうした問題点が、これまでとは正反対なほどに異なる脈絡に位置づけられ、全く違った見えかたをするようになるのです。これは、新たな発見一般に見られる必然的特徴と言えるでしょう。

1 青木まりこ現象の不思議

 ここでは、わかりやすい実例として、青木まりこ現象をめぐる問題をとりあげることにします。ここでも、実に不思議な事象がたくさん観察されていたのです。当サイトの「青木まりこ現象」のページは、グーグルによる検索では、ウィキペディアに次いで2番目に表示される(かつてはトップだった)ため、先述のように、何度となくホームページやブログに引用されたりリンクされたりしてきました。ところが、その中で行なわれている、幸福否定という視点に基づく検討に言及されることはまずなく、従来的な見かたの紹介にとどまるものがほとんどなのです。代表例として、フリー百科事典のウィキペディアを見ると、そこでは、青木まりこ現象は次のように説明されています。

 青木まりこ現象とは、書店(古書店、図書館などを含む)に長時間いると便意を催すという現象。
 1985年、椎名誠が編集長を務める『本の雑誌』第40号の読者投書欄に「青木まりこ」という名前で投稿された体験談が発端。
 反響を呼び次号の第41号で「いま書店界を震撼させる「青木まりこ現象」の謎と真実を追う!!」という特集が組まれ、便意を催す現象が「青木まりこ現象」と呼ばれるようになった。
 原因については、「本のインクの匂いによる」という説や「書店に入るとトイレに行けないという心理的プレッシャーによる」という説、「好きな本を買えるんだという期待感による」という説など諸説あるが、まだ定説はない。

 これが、典型的な記述です。ここには、「書店(古書店、図書館などを含む)に長時間いると」と書かれていますが、実際には、書店や図書館に足を踏み入れた瞬間に便意や下痢が起こる例も少なくありません。したがって、この点は明らかに誤りです。とはいえ、この説明は、「好きな本を買えるんだという期待感による」という説として、曲がりなりにも私の考えかたのようなものが紹介されているという点で、他の記述と比べると、まだましなほうです。ほとんどのホームページやブログでは、各人の体験が盛り込まれていることは多いものの、批判的な形としてであっても私の説にふれることはほとんどなく、その程度の内容を、飽きもせず繰り返し書いているだけなのです。

 また、この説明には「まだ定説はない」とありますが、仮説の検証をしない限り、妥当性の高い定説が生まれることなどありえないでしょう。ちなみに、ウィキペディアの「ノート」には、この現象の存在を疑う見解(「たとえば4時間の間ずっと図書館に居た人間が便意を感じるのは、単なる生理現象で説明可能でしょう」)が記されています。このように、自分で体験したことがない限り、そんなばかなことがあるはずはないと考えるのが、常識的な態度というものです。

 青木まりこ現象は、書店に長時間いて初めて起こるというものではなく、書店に足を踏み入れると、いつもその瞬間に下痢が起こってしまうなどの例も少なくありませんし、いわゆる自己暗示などの概念で説明できる現象でもありません。青木まりこ現象は、これまでの常識からしても科学知識からしても、それほど考えにくい現象だということです。しかし、体験者からすると、実際にわが身に繰り返し起こる(つまり、多くの場合、かなりの“再現性”がある)出来事なので、無視することはできないわけです。そこで、自分を納得させたいという気持ちがどうしても働くため、自分なりの説明を考えようとします。評論家の小谷野敦さんは、ウェッブの公開日記に次のように書いています。

 さまざまに、買いたい本があって、しかし全部買うわけに行かないから、どれを選ぼうかという心理的重圧が便意につながるのだと、私は考えている。その証拠に、碌な本が置いていない小さな書店や古書店では、便意を催さない。大きな書店や古書店、特に、普段いきつけでないところへ行くと、激しく催す。〔中略〕だから、図書館では便意を催さない。(「猫を償うに猫をもってせよ」2006年8月24日)

 しかしながら、小谷野さんの主張にもかかわらず、ウィキペディアにも明記されているように、実際には図書館で便意を催す人たちもたくさんいるのです。また、この現象は、CDショップやレンタルビデオ店、ゲームショップ、電気店、洋服売り場など(要するに、自分がほしいものを主体的に探し出すための場所)でも起こります。逆に、書店や図書館であっても、眠気やあくびなどの、便意以外の症状がいつも起こるという人たちもいます。ただ、そのような場合には、それぞれの体験者が少ないことに加えて、書店で起こる便意と比べると、組み合わせの意外性に乏しいためか、あまり注目されることがないようです。レンタルビデオ店でも便意を催すという、人気思想家・内田樹さんは、読売新聞への寄稿文に次のように書いています。

 書店に入るとただちに便意を催す。レンタルビデオ屋でも同じ現象が起きる。さまざまなタイトルを眺めて、「あれも読みたい、これも観たい」とそわそわしているとたちまち切羽詰まってくる。しかるに、書店は支払いを済ませていない本を個室に持ち込まれることを嫌うので、どこもトイレは少ない。〔中略〕最悪の場合には社会人として名誉回復の難しい惨状を伴う病態であるにもかかわらず、これまでこの心身相関について納得の行く説明を聞いたことがない。
 同様の心身相関は私の場合論文執筆時にも経験される。長期にわたる助走期間が過ぎて、思考が「テイクオフ」する瞬間にも激しい便意が訪れる。(「私を引きとどめる便意」読売新聞[関西版]、2006年11月26日号)

 「どれを選ぼうかという心理的重圧」という小谷野さんの原因論は、個人的体験からこの現象の原因を推測する際の限界――この例では、たぶんその上限――を示すものと言えるでしょう。それに対して、「思考が『テイクオフ』する瞬間」に便意が起こるという内田さんの観察は核心にふれるものであり、タイトルにある「私を引きとどめる便意」という着想も卓見だと思います。しかしながら、こうした心身医学的現象の原因を明確にするためには、体験者自身が自分の経験から推論を唱え合うだけではだめで、数多くの実例を拾い集めて丹念に検討し、それに基づいて仮説を立て、それを検証するという方法を使う以外にないのです。言うまでもなくそれこそが、伝統的な科学的方法だからです。

2 科学的検証の重要性

 それに対して、当サイトの「青木まりこ現象」のページでは、わざわざ「科学的検証という問題」という章を設けて、「心理的原因であっても物理的原因であっても、実験や観察によって、その仮説が正しいかどうかを検証しなければならない」のであり、「そのような手続きを踏んで、その仮説の妥当性が確かめられると、それが、時の科学知識とな」るとして、その重要性を強調しています。さまざまなホームページやブログでの青木まりこ現象の説明を見て実に不思議に思うのは、当サイトのページを参照しているにもかかわらず、この点が完全に無視されていることです。換言すれば、この現象に関心があることを書き記すだけで、あるいは自説を唱えるだけで満足しているように見えるということです。

 また、当サイトの「青木まりこ現象」のページでは、「感情の演技」という実証的検証法も紹介しています。そして、この方法を使えば、ある程度にせよ客観的指標をもとに仮説の検証が可能だと述べ、具体的な方法も説明しています。この方法は、自分なりに試すことが簡単にできるのに、このことも完全に無視されているようです。これまで調べた範囲では、稀に遭遇する、私の考えかたをそのまま引用している好意的なブログでも、その点については全く同じでした。

 アンリ・ベルクソンは、「どこまで行けるかを知るには、一つの手段しかないと思います。それは出発して歩きはじめることです」(ベルクソン、1965、12ページ)と言っています。どこまでできるかは、このように、実際に確かめてみなければわからないわけですが、それがなされないまま現在に至ってしまっている領域が、現実には、私たちの身の回りにも少なからず存在します。それこそが、私の言う“抵抗”が隠れているはずの領域であり、人間の本質を知るうえできわめて重要なヒントを与えてくれるはずの領域なのです。

「片づけができない」「締切まぎわ問題」「マリッジブルー」「マタニティブルー」「子どもの虐待」の各ページについても同様で、ブログなどでふれられることもほとんどなく、これまでのところ、全くと言っていいほど無視されています。グーグルのページランク(PR)という指標で見ると、「マタニティブルー」を除いて、そのいずれもが、「青木まりこ現象」のページと同じ10点中2になっているので(当サイトのトップページで4。一時は5だったこともある。ちなみに、朝日新聞のトップページで8、同じく日本郵便で6、日本心身医学会で5)、ある程度のアクセスがあり、それなりの評価を受けているということです。

 また、「心理的原因を探る」というページのランクは、下位ページとしてはかなり健闘していて、他のページよりもランクが上の3になっているのに、これも完全に無視されています。非常に重要な、しかもかなりの人たちに閲覧されているページが、批判的な形であっても全くふれられていないのです。こうした不思議な現象は、抵抗の結果として起こったものだと思われますが、これまでは、その焦点がどこにあるのかが、いまひとつはっきりしませんでした。今回、その理由を突き止めるための手がかりが、初めて得られたということです。

第3章 関心と回避と無視

 これまで私が見聞きした実例から推計すると、青木まりこ現象の体験者は、日本全国ではおそらく少なくとも数百万人の規模にのぼるのではないかと思われます[註2]。したがって、この現象に明確な原因が存在することについては異論の余地がなく、数のうえからも、とうてい無視できる現象ではありません。ところが、困ったことに、従来の科学知識の中には、この現象を適切に説明できる概念や理論がひとつもないのです。

 そのため、体験者以外の人たちは、ウィキペディアの「ノート」にあるように、ほとんどがこの現象の実在そのものを疑います。それは、もしこうした現象が実在するとなると、現在の科学知識では説明できない――つまり、これまでとは全く違う視点から考えなければならない――ことが直観的にわかり、無意識のうちにそれを嫌うため、ひたすら否定したくなるからではないかと思います。

 それに対して、体験者自身は、繰り返しわが身に起こることであり、場合によっては切実な問題にもなるので、この現象の実在を疑うことはできません。この現象に対する関心もそれなりにありますから、その多くが、原因を知りたいと思うわけです。体験者自身は現象を認めざるをえないのに対して、知識の側に立つそれ以外の人たちは現象を否定したがるという点で、この構図は、その原因が現行の科学知識の枠内にないことも含めて、超常現象体験の場合と非常によく似ていると言えるでしょう。

 そこで、自分なりにこの現象を説明しようとするわけですが、どうしても従来的な科学知識体系の枠内で行なうことになってしまいます。その結果、インクのにおいとか、トイレの有無にまつわる予期不安とかの理由がひねり出されるのです。まさに、「苦肉の策」的な思いつきと言えるでしょう。また、その説明を求められた専門家も、自分の専門分野の枠内で、我田引水的な理由を考えることになります。その結果、書店でリラックスするためではないかとか、果ては、まぶたを伏せる角度が自律神経を刺激するためではないかとかの、奇妙な“仮説”を思いつく――おそらく、そういう“仮説”しか考えつきようがない――わけです。ここで、ストレスという視点が出てこないことに注意してください。

 第一段階の対応としては、この程度の思いつきで許されたとしても、その妥当性を検証して誤りがはっきりした時点で、次なる段階に進まなければなりません。つまり、別の仮説を立て、その真偽を検証してゆく必要があるということです。それが、科学が伝統的に行なってきた、仮説の検証という作業です。

 仮説とは、このように、真偽の検証をするための手段なので、仮説を立てるだけで終わってしまっては何の意味もありません。ところが、青木まりこ現象の場合には、実に不思議なことに、その検証をしないまま、主観的判断に基づく自説を主張し合うことに終始しているのが現状なのです。

青木まりこ現象の原因の有力説投票
図1 青木まりこ現象の原因について、どれが有力と思うかをサイト訪問者に投票させた結果の2011年3月9日現在でのリアルタイム・グラフ。TOPPAN「本屋の歩き方」サイトより。珍しく、「幸福否定に基づく異常現象説」がとりあげられている。トイレがないことによる予期不安説は、なぜか含まれていない。興味深いことに、「インクの匂い説」が最も人気が高く、「幸福否定に基づく異常現象説」の人気が最も低い(逆に、幸福否定によると考える人が、この程度であってもいるという事実のほうを驚くべきなのかもしれない)。
 科学者は、ここにはほとんど参入していませんから、その点では、やむをえないところもありますが、これは、第三者的に見ると、非常に不思議なことであり、率直に言えば少々異常なことです。ただし、科学者が参入していないことについて補足すれば、これほど重要な現象を無視し続けることは、いやしくも真理の探究――この場合はいわゆる心身問題の解明――を目指していると称するのであれば、科学者として許される態度ではないと言うこともできるでしょう。この点をあらためて整理すると、次のようになります。

1 体験者以外の多くはこの現象の実在を疑うが、体験者自身は、他にも同じ体験をしている人がたくさんいるという事実が明らかになったこともあって、この現象を疑うことはできない
2 そこで、体験者自身は、なぜこのような現象が起こるのかを知りたいと思う。その存在を知らされた専門家の中にも、積極的にではないにせよ、稀ながら関心を持つ者がある
3 そこで、体験者は常識の中から自分なりの説明を、専門家はそれぞれの所属分野の枠内で思いつく説明を考える
4 しかし、その“仮説”を検証することなく、それぞれの見解を主張し合うだけで終わっている
5 いわゆる心身問題を探究するための絶好の素材なのに、ほとんどの科学者が見向きもしないのは、そのこと自体が説明を要する現象である

 ところで、実際に検証しようとすればすぐにわかることなのですが、これまで提出されてきた“仮説”は、いずれも簡単に反証されてしまう程度のものにすぎません。それは、本書の第1章「青木まりこ現象」の中で詳細に行なっているとおりです。それらの反証は、本サイトの「青木まりこ現象」のページでも、手短に行なっていますが、この程度のことであっても、これまでは誰もしてこなかったのです。このきわめて肝心な部分が、今まで完全に回避されてきたということです。もちろん、私がそのページで行なっている検証も、完全に無視されています。この点こそ、私が以前から非常に不思議に感じていたことなのでした。

 先の引用文の中で内田樹さんが指摘しているように、青木まりこ現象は、「最悪の場合には社会人として名誉回復の難しい惨状を伴う病態」であるにもかかわらず、この領域には、心身問題の研究者はもとより、心療内科や精神科の専門家もほとんど参入していません。たしかに、青木まりこ現象を訴えて受診する患者はあまりいないでしょうから、その点から見たら、これは、しかたがないことなのかもしれません。とはいえ、自らの専門分野の枠内で多発している現象なのですから、とうてい避けて通ることはできない問題です。加えて、そうした専門家の中にも、体験者は相当数いるはずなのです。わが身に起こることを、ふしぎと感じてその謎を解こうとしないのは、なぜなのでしょうか。

 振り返って考えると、以上列挙してきた状態は、私の言葉を使って表現すれば、次のようになるでしょう。青木まりこ現象の体験者の多くは、その現象に関心を持ち、その原因を知りたいという願望を持っている。一方、その原因の明確化を是が非でも忌避したいという、幸福の否定に基づく頑強な拒絶も、いわゆる無意識のうちに存在する。この両者の接点が、現行の科学知識の枠内で思いつく事柄を各自が唱え合うだけで満足するところにある、ということになるでしょう。

 しかし、青木まりこ現象の真の原因に誰も関心を持とうとしないことについては、今回、この問題を真剣に考えるようになるまで、私自身もその重大性にあまり注目していませんでした。単に、不思議だと思うだけで終わっていたのです。ここには、眼が開いていなかったという意味で、私自身の問題も潜んでいたわけです。

第4章 『本心と抵抗』に対する不思議な態度

 この検討を始めたのは、先述のように、宇津木氏から本書の実売部数が極端に少ないことを知らされた時点だったわけですが、振り返ってみれば、本書の出版をめぐっても、やはりいろいろな不思議がありました。現在は、とどまるところを知らない深刻な出版不況の最中ですから、もちろん、その点は割り引いて考えなければなりません。それでも、非常に不思議なことがいくつかあったのです。ここでは、出版社側に見られた現象と、出版後の読者に観察された現象のふたつに分けて検討します。

1 出版社や編集者に見られた不思議な現象

 本書は、ある著名なフリー編集者に勧められて執筆したものです。先述のように、反響をあらかじめ調べるつもりもあって、その第一段階として、当サイトに連載という形で掲載し、次の段階として、それに肉づけする形であらためて原稿を書きました。書きあげた原稿は、予定通りその編集者に送り、出版社を探してもらうことになりました。まもなく、その編集者のかつての勤務先である中堅出版社の社長さんが、ぜひ当社から出版したいと言っているという連絡がありました。それを聞いて大変喜び、出版を心待ちにしていたのですが、出版不況の厳しい現実らしきものを初めて思い知らされることになりました。その数ヵ月後に、うちからは出版できないと言ってきたという連絡が入ったのです。営業部からの強い反対に遭ったためだということでした。編集者も私も、仮にも出版社の社長がそのつもりになっていたわけですから、まさか出版できないことになるとは夢にも思っていなかったのです。

 そこで、その編集者に頼らずに、自力で出版社を探すことにしました。フリーの編集者は、企画力や編集能力がいかにすぐれていても、本として出版するには、どこかの出版社に依頼するしかありません。このところの出版不況のもとでは、そうした形での出版がますます難しくなっており、現在では、職業として成り立ちにくい状況にまでなっているのだそうです。今のわが国では、少なくとも書籍のフリー編集者は、このように非常に厳しい立場に置かれているのです。

 岩波書店で社長を務めていた大塚信一さんが、自らの出版編集史を綴った著書『理想の出版を求めて』(トランスビュー)などを見てもわかりますが、出版は、編集者と著者の個人的関係の中から――つまり、酒席での雑談の中などから――生まれることが非常に多いように思います。硬派出版社の代表格である岩波書店ですらそうなのだそうですから、他は推して知るべしでしょう。単なる仕事ではなく、何らかの思い入れが相互にないと、作品として完成しにくいということなのでしょう[註3]。そのような事情があるため、未知の出版社に原稿を持ち込むよりも、これまで関係のあった出版社に検討を依頼するほうが近道のように思われました。そこで、今はある出版社で編集長になっている、旧知の編集者に検討を依頼しました。すると今度は、あっけないほど簡単に出版が決まったのです。

 その前にも、2、3の話があったのですが、いずれも頓挫していたので、一方には信じがたい思いもありました。そして、初校、再校と順調に進み、再校ゲラを編集に戻した段階で、その不安が的中します。まもなく、当の編集長から、このままでは出版できないと突然通告されたのです。そして、「まえがき」から、「生活圏」や「芸術圏」という中原中也の言葉(笠原、2004b)が入った段落を削ってほしい、事例が多すぎるので数を減らしてほしい、第7、8章は削るか統合するかしてほしいなどと、中身にまで大々的に注文をつけてきました。かつては分厚い本ばかりを出すことで名を馳せた出版社でしたが、今は、なるべく薄くしないととても売れないというのです。

 その編集長も、自分の裁量でそこまで勝手に変更することはできないと言って、新たに発生した事態にとまどっているふうでした。やはりというべきか、営業部から横槍が入ったためのようでした。板ばさみ状態になった編集長に同情的な気持ちは湧きましたが、とうてい受け入れられる内容ではなかったため、その時点で、この出版社からの出版を断念し、あらためて他の出版社を探すことにしました。

 私の経験では、初校の段階ですらこのようなことは一度もありませんでしたし、後日、別の著名フリー編集者に意見を求めた時にも、そのような話など聞いたこともない、と言われました。やはりこれは、最近の出来事としても、かなり異例なことなのです。営業部から異論が出されたにせよ、いったんは編集長が承認していたのですから、出版社自体の対応としても不適切だったと言わざるをえません。

 次に検討を依頼したのも、これまで関係のある出版社でした。編集者自身とは初対面でしたが、いわゆる売れ筋の本を続けて出しているため、社内でも高い評価を受けているとのことでした。この編集者は、幸い、この本に好感を持ってくれたのですが、第7、8章がちょっと難しいので、この2章は、あらためて別著で出すことにして、今回は第6章まででまとめたらどうか、と提案してきました。そして、並製本にすれば定価を抑えられるので、かなりの部数が見込めるが、第7、8章が入ったままだと、ページ数からしても上製本で小部数でしか出せなくなってしまう、というのです。

 私は、現在のままの形で出版しないと意味がないとして譲りませんでした。編集者は、それでも編集会議は通ると判断していたのですが、この企画は、編集者の予測を裏切り、編集会議を通らなかったのです。このままでは売れないと判断されたのでしょう。私は、1997年の『懲りない・困らない症候群』出版の時点から、DTPソフト(初期は PageMaker、2003年からは InDesign の各バージョン)をワープロ代わりに使っているので、同時に版下ができてしまいます。したがって、組版の経費が大幅に節減できるため、一般の出版物よりもよほど有利なはずなのですが、それでも採算がとれない、と判断されたことになります(これは、結果的に見て正解でした)。

 そのため、当分は出版が難しいと覚悟して、とりあえず各章の pdf をCD-ROMに収録し、私家版として配布を始めました。そして、その段階で、大学で心理学教授を務めている友人に相談したところ、旧知の宇津木氏が、大手医学出版社勤務を経て、自ら医療関係の出版社を興していることを教えられ、今回の出版に至ったわけです。

 それぞれの出版社による奇妙な対応は、ひとつには、かたい本がますます売れなくなっているので、少しでも売れやすい本を出したいという切実な意向の現われなのでしょう。どの出版社も、経営状態が逼迫しているため、極端に言えば、売れる本なら何でもかまわないというほどの状況に陥っています。その窮状はもちろん理解しているのですが、今回の問題が果たしてそれだけだったのかというと、そこに疑問が残るわけです。ともかく、私が出したいと思っていた形で出すのが非常に難しかったことだけは、まちがいありません。

2 読者の側に見られた不思議な現象

 すぴか書房から、『本心と抵抗――自発性の精神病理』というタイトルで出版してみると、今度は、読者の側に不思議な現象が現われました。それは、CD-ROM配布の時点から観察されていたのですが、その時点では頒布数があまりに少なかったため、はっきりしなかったということもあります。それは、読者の反響がほとんど返ってこないことでした。昔は、翻訳書や著書を出すと、出版自体に権威があったためなのでしょうが、たくさんの手紙が届いたり、あちこちの新聞や雑誌の書評にとりあげられたりしたものでした。1997年の『懲りない・困らない症候群――日常生活の精神病理学』出版の時でも、まだ、かなりの反響があったのです。

 ところが、この本がある程度売れたため、2005年に同じ出版社が、『なぜあの人は懲りないのか困らないのか――日常生活の精神病理学』という今風の(同書の趣旨に反する他罰的表現の)タイトルに強引に変えて、並製本にして再刊したのですが、これには旧版ほどの反響はありませんでした。この10年弱の間に、「かたい本」が全般に売れにくくなるという一大変化が起こっていた(拙論「かたい本が売れない」[『大学出版』2010年、第82号]参照)ので、これは、そのことが関係しているのかもしれません。

 ちなみに、しばらく前までは、友人や知人に献本すると、ほとんどの相手からすぐに礼状が届いたものですが、昨今では、そのようなこともあまりなくなりました。他の著者に聞いても、似たり寄ったりの状況になっているそうなので、これも、時代の流れによるものなのでしょう。しかし、そうした変化を割り引いて考えても、また実売部数が少ないにしても、本書に対する反響がほとんどないのは、やはり不思議でした。

 ここで、影響力がないのは小部数しか出回っていないためではないか、という異論について検討しておかなければなりません。下の表1は、私の心理療法を扱った5点の著書が、全国の大学図書館や公共図書館、および都公立図書館に所蔵されている実数を示したものです。これを見ると、本書は、大学図書館には、他の図書館に比べてもそれなりに所蔵されていることがわかります。各大学の紀要などは全く受けつけないなど、最近の大学図書館が、新刊書の収蔵を極度に抑えている状況を考え合わせると、これは、本書が比較的堅実な図書と認められた結果と考えてよいのではないでしょうか。また、刊行後半年ほどしか経ってないことを考え合わせると、市販された部数と比較して、所蔵数がそれほど少ないわけではないように思います。

表1 私の心理療法を扱った拙著を所蔵する大学・公共図書館

2011年1月末現在
 
出版年
大学
 図書館 
全国公共
 図書館 
都内公立
 図書館 
 隠された心の力 1995 31 19 6
 懲りない・困らない症候群 1997 46 26 20
 幸福否定の構造 2004 51 21 11
 なぜあの人は懲りないのか * 2005 21 9 13
 本心と抵抗 2010 22 7 3
 Webcat Plus で調べた結果。複数を所蔵している施設もあるので、所蔵冊数ではない。大学図書館とは、全国の国公立・私立大学その他が運営する図書館のこと。また、全国公共図書館とは、国立国会図書館・全国都道府県立図書館・政令市立中央図書館のこと。なお、東京都立図書館は、全国公共図書館に含まれるため、都内公立図書館には含まれない。
* 『懲りない・困らない症候群――日常生活の精神病理学』の新装改題版。
 ちなみに、これまで私が出した40点弱の本の中で、大学図書館での所蔵数が最も多いのは、がんの心理療法を扱った書籍としてわが国での草分け的存在[註4]となった『がんのセルフ・コントロール』(共訳書、創元社、1982年刊)の115館、次が『多重人格障害――その精神生理学的研究』(編訳著、春秋社、1999年刊)の102館です。前者は20刷を重ねるロングセラーであり、部数もかなり出ているので当然としても、後者は1000部しか印刷されていない(完売している)にもかかわらず、何とその10分の1もが大学図書館に所蔵されていることになります。なお、私の出した本の中で最も売れ行きの好調だった『もの思う鳥たち――鳥類の知られざる人間性』(翻訳書、日本教文社、2008年刊)でも、所蔵館数は、本年2月末現在で79にとどまっています。それを見ても、本書の場合の22館は、それほど少ない数字ではないと思います。

 実売部数と影響力の関係についても、ここでふれておく必要があります。『懲りない・困らない症候群』は、3刷で総計4500部を完売していますが、『幸福否定の構造』は、初刷がわずか1200部程度であり、出版後6年以上が経過しているにもかかわらず、未だに在庫が残っています。しかし、大学図書館の収蔵数は、前者よりも後者のほうが多く、ウェッブの書評などを見る限り、影響力という点でも、後者のほうが大きいように思います。したがって、単純に、小部数しか市中に出回っていないことが反響の乏しい理由であるとは、必ずしも言えないことになるでしょう。

 もちろん、本書の場合も、読者からの反響が全くなかったわけではありません。私の心理療法を受けている人たちからは、「今度の本がいちばんわかりやすい」とか、「これを読むだけで、全部が実践できるように書かれているが、抵抗というものがあるので、実際にはできないだろう」とかの感想はもらっているからです。ウェブサイトの楽天ブックスには、発売後まもない頃に書かれた好意的なレビューが2件あります(この点については後述します)が、アマゾンでは2011年2月末現在、1件もありません。また、インターネットで検索するとわかりますが、ツイッターで本書にふれている人が3人いるだけで、事実上他には反響がないのです[註5]。私の心理療法を長年受けている人たちからも、反響らしい反響がほとんどないくらいですから、一般読者からの反響が皆無に近いのは、不思議なことではないのかもしれません。

 言うまでもないことですが、反響にも、量的な側面と質的な側面とがあります。これまで述べてきたように、本書に対して全般的に反響が乏しいのは事実ですが、それはあくまで量的な側面から見た場合です。本書では、それよりも質的すなわち内容的な側面に対する反響の乏しさのほうが、はるかに大きな問題のように思います。たとえば、間接的に耳にした、本書に対する感想の中には、これまでの著書とどこがどう違うのかわからないとか、全体としてまとまりを欠いていて、何を言いたいのかわからないとか、論理に飛躍が多い、などというものがあります。というよりも、批判的な反響としては、そのようなもの以外にはほとんどないと言ってよいくらいです。こうした疑問や感想は、ここで追究している謎を解くうえで重要なヒントになるはずです。

 本書は、これまでの著書と違って、幸福否定という考えかたがかなり成熟した段階で書かれたため、多少なりとも余裕を持って執筆されています。これまでは、さほど余裕がなかったため、わかったことをとにかく書いておくという姿勢が強かったのに対して、今回は、少し立ち止まって振り返りながら、読む側がわかりやすいように、否定的な立場から読んでも違和感がないように、さまざまな可能性を公正な視点から検討しながら、詳しくていねいに説明するよう心がけたわけです。そのため、これまでの著書では、とかく説明が行き届かずわかりにくかった部分が、多少なりともわかりやすくなっているはずなのです。「今度の本がいちばんわかりやすい」という感想は、まさにその点について述べたものなのでしょう。

第5章 本書は、これまでの著書とどこが違うのか

 ここで、これまでの拙著との比較をしておきます。拙著のうち、本書に対して最も強い抵抗が見られるとすれば、それを突き止める作業に入る前に、以前の著書とどこがどう違うのかをはっきりさせておく必要があるからです。とはいえ、本書で述べられていることの中に、これまでの著書で全くとりあげられていないものがあるわけではありません。たとえば、本書では、サブタイトルにもあるように、人間の自発性に焦点を当てていますが、この問題については、以前の拙著でもとりあげていなかったわけではないのです。

 したがって、その違いは、結局、とりあげかたの問題ということになりそうです。どのようなまとめかたをしているか、どのような角度から検討しているか、どこまで事細かに説明しているかという点が、ここでの焦点になりそうだということです。次に、抵抗となりそうな部分を列挙してみましょう。

1 書店で便意が起こるという現象や締切まぎわ問題、片づけ困難現象、虐待問題など、日常生活で遭遇しやすい卑近な問題に共通する心理的原因――つまり、幸福否定という、人間にあまねく見られる頑強な意志――を、たくさんの具体例を提示しながら掘り下げていること
2 自発性に対する抵抗を具体的な形で提示していること
3 反応――あくび、一過性の眠気、身体的変化――という他覚的変化が、日常生活の中でごくふつうに見られる事実を明らかにしていること
4 反応という客観的指標を使って、事実や真理を厳密に探り当てるための方法を詳しく紹介していること
5 反応と心因性症状は、その発生機序という点で、質的に同じものであることを明らかにしていること

 量的な違いなのではっきりとは言えませんが、以上の5項目が、その規模や詳しさという点でこれまでの著書と大きく異なっている部分でしょう。それと比べると、次の2項目は、非常に抵抗が強いことは既に確認されているものの、これまでの拙著と本書とで、扱いかたにさほど大きな差はないように思います。

6 心理的原因を意識化すると、その瞬間に症状の変化が多少なりとも起こることを明らかにしていること
7 抵抗という、人間に遍く見られる心理的現象を基盤として、全く新しい人間観を明確に提示していること

 したがって、この2項目は、きわめて抵抗が強い側面であるのは確かなのですが、本書が売れない(あるいは、反響が乏しい)大きな理由にはなりそうにないということです。

第6章 何が避けられているのか

 幸福否定という考えかたとも関係が深いのですが、結果的に何が忌避されているかという点に着目すると、新たな視界が開けるものです。では、本書の場合、その中の何が避けられているのでしょうか。つまり、批判的な形であれ肯定的な形であれ、また、意識的にであれ無意識的にであれ、誰もふれようとしない、あるいは極度に避けられている部分はどこなのかということです。その場合、もちろん肝心要の点でなければ意味がありませんし、広く一般にも避けられている事柄でなければなりません。

 その候補としては、上に列挙した7項目がまず最初に考えられるわけです。とはいえ、後の2項目は、上述のとおり、非常に抵抗の強いものであるとはいえ、これまでの著書でも既に大きく扱われています。そのため、この2項目は、本稿で問題にしている焦点には当たらないことになるわけですが、ここでは、その抵抗の強さがどれほどのものかを再確認し、抵抗の核心を浮き彫りにするため、その2項目を先に見ておくことにします。

1 これまでの著書と共通するもの

心理的原因を意識化すると、その瞬間に症状の変化が多少なりとも起こることを明らかにしていること
 反応という客観的指標を使って、心因性症状の原因を探り当てると(そして、本人がそれを意識で認めると)、その瞬間に、その症状を含め、心身の変化が多少なりとも起こります。心理的原因というものは、症状が出現した時点では、必ず記憶から消えており、私の経験では、これまでのところ例外がありません。この手順は、概念としては、精神分析の枠内で“抑圧解除”として知られていたことなのですが、精神分析でも、それを操作的に行なうことはほとんどできなかったわけです。ところが、反応を目印に使うと、それが比較的容易にできるのです。その点については、本書を紹介する当サイトのページにも明記されています。

 第2部では、心因性疾患の原因を探り出すまでの過程を、8例の事例を題材にして、具体的に説明しています。ここでは、客観的基準を使って心理的原因を絞り込んでゆく様子を、興味深く読んでいただけることと思います。一般の心理療法やその理論では、症状出現の直前に、明確に切り取れるような心理的原因が隠れているとは全く考えられていませんが、そればかりではありません。心理的原因というものが、このように操作的かつ客観的に探り出せることはもとより、そうした手続きによって症状に多かれ少なかれ変化が起こることも、夢想だにされていないのです。

 この引用文では、「第2部では」と断っていますが、客観的指標を使って事実を探り出すという方法は、心理療法の8事例を詳細に説明している第2部ばかりでなく、本書全体で用いられています。そして、事実や真理が「操作的かつ客観的に探り出せる」という主張を明確に行なっているわけですが、そのことも、本書の核心のひとつになっています。もうひとつ重要なのは、症状出現の原因は、いわゆるトラウマという概念で想定されているように、遠い過去にあるのではなく、まさに症状が出現する直前にあり、その記憶は例外なく消えているという点です。その事実に初めて気づいたのは、私の心理療法の恩師に当たる精神科医・小坂英世先生でした。小坂先生が1970年頃にこの事実を経験的に発見するまで、この点には誰ひとり着眼することがなかったのです。

 核心部分を繰り返すと、心因性症状の原因は、症状出現のまさに直前にあり、その原因に関係する出来事の記憶は必ず消えているわけですが、その出来事を思い出すと、その瞬間にその症状に多少なりとも変化が起こるということです。症状が一瞬のうちに消えることすらあります。また、この事実については、きわめて強い抵抗が一般に見られることが、既に確認されています。この問題に関心のある方は、『幸福否定の構造』第8章をご覧ください。そこでは、この点について、非常に細かい検討が行なわれています。

抵抗という普遍的現象を基盤とする、全く新しい人間観をはっきり提示していること
 本書では、反応という客観的指標を使って探り出された、これまでの常識とは正反対とも言える事柄が、きわめて豊富に提示され、幸福否定という考えかたのもとにまとめられています。そして、この幸福否定という、全く新しい考えかたに基づく人間観が、非常に具体的な形で提示されているのです。

 これまでの人間観では、人間は、外部から受ける負荷――昨今ではストレスと総称されるもの――によって、心身ともに大きく翻弄される、か弱い存在として描き出されていました。それは、むしろきわめて常識的な人間観であり、ストレスという概念を知らなくても、その見かたに違和感はないでしょう。それに対して、幸福否定という考えかたに基づく新しい人間観は、まるで正反対のものです。自らの幸福を自らの意識に対してひたすら否定するという明確な目的のもとに、心身を一瞬のうちに変化させることまでして、すべてを意図的に操作していると考えるからです。

 その一方で、そうした仕組みが意識に表出するのを妨げるため、記憶を自在に隠蔽、変形してしまうというのです。このようにして、自らの意識を完璧に操作し、自らの本質を自らの意識にひたすら包み隠している、と考えるわけです。これは、完全犯罪のようなものです。ここで、ではなぜ幸福否定などというものが存在するのか、心身の変化を一瞬のうちに引き起こす力は何か、そこまで強い幸福否定を行なうことで人間は何をしようとしているのか、という大変な難問が生まれるわけですが、それはまた次の問題です。

 ここでは、従来のものとは根本的に異質な、いわば一騎当千的能力と自己韜晦的側面とを併せ持つ、とてつもなく頑強な人間像が想定されています。これは、あまりに奇妙な人間観なので、最初は、それを考え出した私自身ですらその妥当性を疑っていましたが、その裏づけが積み重なるにつれ、次第にその事実性を確信するようになりました。これまでの拙著でも本書でも、牽強付会な奇想や暴論として片づけられてしまうことのないように、この人間観の裏づけとなる証拠を大量に提示しているわけです。

 この考えかたに対しても、これまでのところ、批判や言及は(専門家からも)一切ありません。しかし、単に無視されているだけとは思えません。たとえば、楽天ブックスのサイトには、本書のレビューとして、「著者が唱えている内容は、従来の人間観・心理的構造とは全く異なるものですが、納得できます。いろいろな心理的問題に解決をもたらす事ができるのではないかと希望を感じました」という感想が掲載されています。短いレビューなのでしかたがないのかもしれませんが、そこでは、この人間観に言及しながらも、それ以上はひとことも述べられていないのです。

 しかし、この人間観が正しいとしたら大変なことになります。進化論や心脳問題の一番の根幹にまで甚大な影響が及ぶほどの重大事になるのですが、このレビューを書いた人は、その点には全く気づいていないかのようです。「新しい人間観」などとあっさり言ってすませられるようなものではないのです。したがって、これまでの著書と共通する部分に一般の抵抗があるとすれば、それは、この人間観が事実だとした場合の“ことの重大性”を意識で認めるという点にある、ということになるでしょう。

2 これまでの著書ではあまり扱われなかったもの

日常生活で遭遇しやすい問題や現象に共通する原因が明確にされていること
 では次に、これまでの著書ではあまり統一的に扱ってこなかった側面について検討することにします。本稿の第2章「“伏線”の存在」で既に述べておいた通り、本書で扱われているいずれの現象にしても、体験者が非常に多く、その存在も広く認められています。にもかかわらず、原因ということになると、単なる思いつきを繰り返すだけで終わってしまっているわけです。それに対して、私が提示している、幸福否定という考えかたに基づく原因論は、従来的な考えかたよりも各現象をはるかに適切に説明できるばかりか、その客観的裏づけを持っているにもかかわらず、これまでのところほぼ完全に無視されているのです。時として幸福否定という言葉が引用された場合でも、否定的なものが多く、稀に肯定的な形でとりあげられた場合でも、これが従来のものとは正反対の人間観の基盤になるという点に言及されることはありません。

 この部分に抵抗があるとすると、ふたつの可能性が考えられそうです。ひとつは、卑近な日常的現象の中に、心因性疾患の原因と共通する普遍的抵抗が潜んでいることを明らかにしたことです。この点には誰もふれようとしないので、ここにも、強い抵抗が潜んでいそうです。もうひとつは、このような現象の原因を現実に探り出すことができるという事実に対する抵抗です。これは、以下で検討する「客観的指標を使って真理を探究するための方法」に対する抵抗に含まれるでしょう。

自発性に対する抵抗を具体的な形で提示していること
 本書は、さまざまな実例をあげながら、身近な問題を、副題にもあるように、人間の自発性という角度から検討したものです。自発性は、人間のみならず、生物一般にとって最も重要な根源的要素のひとつです。しかし、そうした自発性の本質的重要性は、アンリ・ベルクソンの唱えたエラン・ヴィタールという概念を含め、観念的レベルでとりあげられることはあっても、そのことが、卑近な実例によって具体的な形で示されることは、これまでほとんどなかったのではないでしょうか。

 部屋などの片づけにしても、自分が本当にしたいこと――あるいはしなければならないこと――にしても、外部からの要請に従って行なうのは、それほど難しくないでしょう。ところが、それを自発的に行なうとなると、行動としても手順としても全く同じなのに、きわめて強い抵抗が働くものです。この興味深い現象は、誰もが多かれ少なかれ経験的に承知していることなのではないでしょうか。これは、客観的にとらえられる現象で、しかも、個々人にとってはおそらくかなり深刻な問題でもあるはずなのですが、この現象自体が重要な研究対象とされることは、これまでほとんどなかったと思います。

 このような現象は、個人的レベルでは十二分に知られているわけですが、専門家は、それを研究の対象から、おそらく無意識的にはずしてきました。最近でこそ、ADHDという診断名がアメリカから移入されたおかげもあって、臨床レベルでは曲がりなりにもとりあげられるようになりましたが、それでも、ADHDの症状のひとつに還元されてしまうか、単にだらしないためとして片づけられてしまうかして、それ以上追及されることはないようです。したがって、この点にも相当強い抵抗がありそうです。

反応という他覚的な身体的変化が、日常生活の中でごくふつうに見られるという事実を明らかにしていること
 片づけにしても勉強にしても、それに抵抗を持つ人が自発的にとりかかろうとすると、私の言う反応――あくび、眠気、身体的変化――がおそらく例外なく出ます。しかも、先に引用した内田樹さんの証言にあるように、これまで想定されていたのとは違って、それが下痢であっても、まさに瞬時に起こるのです。これは、心と体の関係を、ひいては人間の本質を知るうえで無視することのできない、計り知れないほど重要な現象です。にもかかわらず、その事実は、個々人の体験としてはともかく、一般的な知識としては、これまで全く知られていませんでした。無意識のうちに、ほぼ完全に軽視ないし無視され、表面化しないまま来てしまったということです。現在のところ、その唯一とも言える例外が、青木まりこ現象なのです(もうひとつの例外は、わが国ではあまり知られていませんが、後述する“スタンダール症候群”です)。

 そう考えると、青木まりこ現象が、特に専門家にとって、本来はこのうえなく重要な研究対象であることがよくわかるのではないでしょうか。青木まりこ現象を専門家が真剣にとりあげようとしない理由は、まさにそのあたりにあるように思います。

 青木まりこ現象の場合、一般に関心を持ってとりあげられるのは、さまざまな症状のうち、ほぼ便意に限られています。それは、図1(上掲)の調査目的を見てもわかりますが、最初から、「書店に入るとトイレに行きたくなるのはなぜか」という疑問が設定されています。普遍的な現象であるはずのものを、“興味本位”から、便意というごく狭い範囲に初めから限定してしまうわけです。本サイトの「青木まりこ現象」のページでは、便意以外にも多種多様な症状も出ることがはっきり記されているにもかかわらず、ほぼ完全に無視されています。したがって、本書が、書店や図書館での便意だけでなく、反応というもの全般が、広く日常生活の中でごくふつうに見られるという事実を明らかにしていることも、本書に対する抵抗の理由のひとつになっている可能性が考えられるでしょう。

客観的指標を使って真理を厳密に探究するための方法を詳しく紹介していること
 本書が従来的な著書と決定的に違うのは、抵抗や反応という客観的指標を使って、厳密な方法論により事実や真理に可能な限り迫ろうとしていることです。それに対して、伝統的に用いられてきた方法は、要するに、主観に基づいて単なる推定を重ねるのみで、それ以上のことをしようとはしませんでした。そこでは、客観的な指標は全く使われていないのです。というよりも、客観的指標などあるはずがない、厳密な探究などできるわけがないと、暗黙のうちに決めつけられてきたと言ったほうが正確でしょう。にもかかわらず、そうして重ねられた推定が、いつのまにか、おそらく無自覚のままに原因と断定されてしまい、それを誰ひとり疑わないという、非常に奇妙な構図になっているわけです。そうした推定の頂点のひとつが、世界の定説である、心因性疾患のストレス理論です[註6]

 客観的指標を使うという方法は、もちろん、本書で初めて採用されたわけではありません。既に『懲りない・困らない症候群』でも使われていますし、それより前に出版された拙著『隠された心の力』(春秋社、1994年刊)でも同じです[註7]。とはいえ、この実証的方法を世界に先駆けて導入したのは先の小坂英世先生であり、今から40年ほども前の1970年のことでした。そのことについては、これまでの拙著でも繰り返し述べられていますし、上の引用文と同じページにも、はっきりと書かれています。これは、未来の科学史どころか世界史にすら残るかもしれないほどの、とてつもなく画期的な大発見なのです。

 この革命的な方法論は、私の心理療法の恩師である小坂英世先生の創見になるものです。小坂先生は、現在、精神医学界から、その業績ばかりかその存在すらほぼ完全に抹殺されていますが、世界の精神医学の中興の祖として、最大級の評価がもたらされる時代が、いずれ来るはずです。現在では、〔私の考えかたは〕小坂先生の考えかたとは全く違ったものになっているとはいえ、この方法論がなかったら、幸福否定という考えかたが生まれなかったのはまちがいありません。

 これまでの拙著と比べても、本書ほど、この方法論を、特に厳密性という点を強調しながら書いたことはありませんでした。本書では、それをかなり意識的に行なっているのです。「これまでの著書とどこがどう違うのかわからない」という読者は、そこを完全に見落としていることになるでしょう。したがって、この点にも、非常に強い抵抗がありそうです。そうするとここに、心理的原因をはじめとする、人間にまつわる重大な真理を、客観的指標を使って厳密に突き止めようとすることに対して、人間全般に、想像を絶するほど強い抵抗が働いている可能性が浮かび上がってきます。

反応と心因性症状の発生機序は質的に同じでものであることを明らかにしていること
 『隠された心の力』の第3章で詳細に検証しているように、心因性疾患の原因がストレスのような心的負担であることを疑う人は、世界中を探してもほとんどいません。現行の進化理論にしても相対性理論にしても、それに疑念を持つ人は多少なりともいるわけですが、広義のストレス理論に疑いを抱く人は、なぜか皆無に近いのです。逆に言えば、心因性疾患の原因は、悪いことに決まっていると、暗黙のうちに断定されており、他の可能性はないことになっているということです。そのことは、本人にとって幸福な事態が原因になるという考えかたが、経験的に推定された躁うつ病の状況論(たとえば、新福、1979、20ページ)を除けば、これまで全く存在しなかったことからもわかるはずです。

 本書では、反応というものが、日常生活の中でごくふつうに起こることを、青木まりこ現象や片づけ問題や締切まぎわ問題などを例に挙げながら説明しています。そのような場面や課題で抵抗に直面すると、一瞬のうちに下痢が始まったり、強い眠気が起こったり、あくび(いわゆる生あくび)が繰り返し出たり、あるいは蕁麻疹や喘息発作などのいわゆるアレルギー症状が発生したりするわけです。それは、多くが一過性に起こるという点で違うだけで、仕組みとしては心因性症状と全く同じです。その反応は、誰であっても、“感情の演技”という一種の思考実験で簡単に誘発されます。そして、感情の演技をやめれば、その反応は、ほぼその瞬間に収まるのです。ところが、その仕組みを現行の科学知識で説明することはどうしてもできないわけです。

 このような話を聞くと、それは、暗示によるものだと即座に考える人が多いはずです。ところが、こうした反応は、暗示とは全く異なる機序によって起こるのです。暗示の場合には、自己暗示であっても、そのような言葉を唱え、その内容を思い込む必要があるわけですが、感情の演技の場合には、暗示の場合とは正反対で、感情が簡単に作れる時には反応は出ず、感情を作ろうとしてもできないという状況で、反応が出るのです。課題となった感情を作るのを妨げるために反応を出している、と言ったほうが正確でしょう。

 ついでながらふれておくと、暗示という概念は、現象が知られているために受け入れられているだけで、言葉による暗示がなぜ身体的変化を引き起こすのかについては、やはり今の科学知識では説明できません。たとえば、後述するように、ウイルス性の皮膚疾患である“いぼ”が暗示によって高率に消えることは、催眠の専門家なら誰でも経験的に知っていますが、この現象を現在の科学知識で説明することはできないのです。この点についても、『隠された心の力』の第3章でかなり厳密に検討しているので、関心のある方はぜひご覧ください。

 3種類の反応のうち、(1)身体的変化は、感情を作ることから気持をそらせる手段として、(2)あくびは、感情を作る意欲をそぐ手段として、(3)眠気は、まさに感情が作れないようにする手段として、いわゆる無意識――私の言う内心――が、一瞬のうちに肉体を自在に操作して引き起こす結果だと考えています。ところが、現行の科学知識ではその説明ができないわけですから、これまで想定されたことのない仕組みを、どうしても考え出さなければならなくなるわけです。ここにも、大変に強い抵抗があるはずです。

 ところが私は、これらの事実に対して一般に働く抵抗の強さという点で、読みを完全に誤ったのでした。本稿の冒頭に書いておいたように、そうした抵抗は、自分の経験からして、ある程度にせよ、科学的好奇心によって乗り越えられるはずであり、したがって少なくとも一部の人たちからは、本書が喜んで迎え入れられるに違いないと信じて疑わなかったのです。宇津木社長から実売部数を知らされた時点で、私は、いわばその誤解と誤算に初めて気づかされたのでした。

 順番としては、次に、本書に対する抵抗はどこにあるのかを探ることになるのですが、その前に、本書で提示されている所見や理論が妥当なものかどうかを、念のため簡単に検討しておきます。それがもし疑わしいようなら、本書の売れ行き不振は、抵抗によるものではなく、当然の結果ということになりかねないからです。

第7章 本書に提示された事柄や考えかたの妥当性について

 当サイトのトップページに明記されているように、当研究室の目的は、現代科学が避けて通り続けている、さまざまな現象を、私自身が独自に開発した心理療法を通じて直視することにより、人間の心の本質を探究することにあります。つまり、心理療法はあくまでそのための手段であって、それ自体を目的としているわけではないということです。しかし、何かを探り出すための手段としてその技法を利用するためには、最低でも、操作的な方法を使ってこの心理療法による治療を成功させる必要があります。それができなければ、その中で使われる技法(この場合、反応という客観的指標を利用した方法)の信頼性が確保できないからです。そのためには、原則として心因性疾患にほぼ例外なく適用できる心理療法や、その基盤となる方法論を開発する必要があるわけです。

 とはいえ、私としても、最初からそこまで考えていたわけではありませんし、そこまで余裕があったわけでもありません。当初は、自分の経験のみに基づく心理療法の開発を目指すことで精一杯だったからです。しかしながら、実用的に使える心理療法が開発されつつあることを確信するようになった段階で、反応の発現機序などの探究を通じて、人間の心の本質を突き止める手段としても使えることに気づいたことで、焦点も次第にそちらへ移ってきたというのが本当のところです。それまで長年抱き続けてきた関心とこの心理療法という、全く別の経路を辿ってきたふたつの事象が、この時点で、完全に結びついたわけです。これは、私としても全く予期しなかったことでした。

 ところで、もし本書に提示されている事柄や考えかたの、少なくとも根幹がまちがっているとすれば、無意味なデータや主張が世間から無視されるという、当然の処遇を受けている以上のものではなくなります。したがって、それをこのような形で問題にするのは、それこそ思いあがりであり、筋違いということになるでしょう。逆に、もしそれらが真理であれば、あるいはその根幹に一部にせよ真理が含まれているとすれば、これまで述べてきたとおり、まさに本書の肝心な部分が極度に忌避されたまま今日に至っている――さらには、そうした状況が当分続く――のは、まちがいないことになります。そのため、あらためてここに、本書で述べられている所見や考えかたが事実と考えてよい根拠を簡潔に提示しておきます。

 これまでの拙著でも同じですが、本書でも、先述の方法論や、それによって導き出された人間観を基盤とする心理療法によって、症状の軽減および消失や、能力および人格の向上が現実に起こっていることが、詳しく述べられています。そこには、精神分裂病(昨今の名称は、統合失調症)や躁うつ病などの精神病も含まれます。その場合、私の側による舵とりは不要で、抵抗を減らしてゆきさえすれば、本人が向かうべき方向へ自然に向かうことが、繰り返し確認されています。私は、当室で心理療法を受けている方々を対象にして、既に二十数年もの間、連日のようにその妥当性を検証してきたのですが、これまでのところ、それに例外のないことがほぼ確認されているのです。

 幸福否定という考えかたが、誰の目にもとてつもなく奇妙に映るのは、まちがいないところでしょう。先述のように、自分が求めているはずの幸福が、いざ到来しそうになると、あるいは到来すると、それを、いわゆる無意識(私の言う内心)のうちに避け、自らの感情や思考を自在に操って思い込みや落ち込みなどを一瞬のうちに作りあげたり、さらには、自らの肉体を自在に操って心身症状を一瞬のうちに作りあげたりすることによって“けち”をつけ、その幸福が意識に昇らないようにする、と考えるからです。しかも、その仕組みが意識に昇らないように、その周辺を含めた記憶を意識から速やかに、しかも完全に消し去ってしまうわけです。そうすると、意識の内容は、内心によって大幅に操作されていることになります。

 したがって、この考えかたの当てはまる人たちが、一部にいるだけでも大変なことになります。ところが、長年の心理療法によって得られた所見から、現実には一部どころではなく、おそらく人類全体に、幸福否定という強い意志が、生後に置かれた環境とは無関係に、生まれつき備わっているのではないかと推定しているわけです。これが事実なら、人間にとって、どれほど重大なことかがわかると思います。

 加えて本書には、抵抗というものを浮き彫りにする方法が詳しく紹介されています。その方法を実際に試してみることを通じて、本書で紹介されている事例や考えかたが妥当かどうかを、読者の方々が自分なりに判断できるようになっているのです。試してみればすぐにわかるはずですが――もちろん、それらの方法が適切に実践できた場合の話ですが――反応というものは、非常に簡単に出るものです。その点については、これまでの経験から、日本人ばかりでなく(確認できた範囲の)外国人でも全く同じであることがわかっています。この現象は、時代や人種や民族を超えているようなのです。

第8章 本書に対する抵抗の核心を突き止める

1 全体として見た場合の抵抗

 ここでようやく、先に列挙した可能性のうち、どれが当たっているかを検討できる段階になりました。これまで考えてきたように、私の言う抵抗のために本書が売れないのが事実だとすれば、書店で手にとった時に、あるいはインターネット書店で当該のページを見た時に、その部分にすぐに気がつくようなものでなければならないはずです。これは、抵抗の焦点を明らかにするうえでかなり重要な点です。本書に接した時、まず最初に眼につくのは、カバーのデザインを別にすれば、『本心と抵抗――自発性の精神病理』というタイトルでしょう。

 それを見てわかるのは、人間の本心と抵抗というものが主題になっていることと、どうやら自発性の異常を扱っているらしいことのふたつでしょう。しかし、“本心”や“抵抗”の意味も、自発性の異常の意味も、意識ではよくわからないはずです。ただ、いわゆる本音との違いがよくわからない“本心”というものと、やはりいまひとつ意味がはっきりしない“抵抗”というものが対置されていることはわかるでしょう。

 帯には、出版社側による宣伝文句と見なされて、多少なりとも割り引いて受けとられるはずですが、「従来説(ストレス、心的外傷、精神分析、脳の病変等)では解けない、人間に特有な心因反応の仕組みを追及」と書かれています。これを見ると、これまでのものとはどうやら一線を画する、心因性疾患の原因論と心理療法について説明されているらしいことがわかります。

 また帯には、「心はすべてを知っている」とも書かれています。これには、おそらく多くの人が首をかしげるでしょう。心がすべてを知っているはずがないではないか、というわけです。それにより、本書を、信頼性に欠ける「うさんくさい本」と見なす人がいるかもしれませんが、先ほどふれておいたように、大学図書館には、それなりの数が収蔵されているので、この可能性はそれほど高くはなさそうです。

 次に目次を見ると、「青木まりこ現象」や「片づけができない」「締切まぎわの問題」「マリッジ・ブルーとマタニティー・ブルー」「子どもの虐待」など、主として、このところ話題になることの多い、非常に身近な問題を扱っていることがわかります。そのことからも、通常の心理療法やカウンセリングの本とは少々異質らしいことが、ある程度にせよ見当がつくでしょう。また、目次を細かく見ると、「科学的検証の必要性」「心因性の症状は急激に変化する」「抵抗があるために片づけができない」などという小見出しが並んでいるのがわかります。ここまでくると、次節で扱うべき問題につながってきます。

 では、以上の点で抵抗の強そうな要因として考えられるのはどれでしょうか。従来の心理療法や原因論と根本から違うことについては、これまでの著書でも明確に謳われています。したがって、これが今回の売れ行き不振の理由になる可能性は低そうです。そうすると、本書を全体としてみた場合の抵抗は、『本心と抵抗――自発性の精神病理』というタイトル自体にあるのでしょうか。あるいは、各章の内容に関係しているのでしょうか。他にそれらしいものがなければ、とりあえず、これらを検討の対象にするしかありません。

2 細かく見た場合の抵抗

 次は、細かく見た場合の抵抗がどこにあるかという問題です。これについては既に7項目の可能性をとりあげて検討してきたわけですが、本書に対する抵抗の核心ということになると、これまでの著書で既に大きく扱われている2項目は、先述のようにはずしてよいことになります。その2項目の検討から浮上した事柄と、残る5項目および、それぞれに関する検討から推定された事柄を列挙すると、次のようになります。

T この人間観が事実だとした場合の、“ことの重大性”を認めること
U 日常生活で遭遇しやすい問題や現象に共通する原因が明確にされていること――卑近な日常的現象の中に、心因性疾患の原因と共通する普遍的抵抗が潜んでいることを明らかにしたこと
V 自発性に対する抵抗を具体的な形で提示していること――自発性に対する抵抗自体が研究対象にされていること
W 反応という他覚的な身体的変化が、日常生活の中でごくふつうに見られるという事実を明らかにしていること
X 客観的指標を使って真理を探究するための方法を詳しく紹介していること――心理的原因をはじめとする、人間にまつわる重大な真理を、客観的指標を使って厳密に突き止めようとしていること
Y 反応と心因性症状は、その発生機序という点で、質的に同じものであることを明らかにしていること――これまで想定されたことのない仕組みを考え出さなければならなくなること

 もうひとつ考えられるのは、(X)の延長線上にあることですが、本書が、反応や抵抗という客観的指標を利用して、一段ずつかなり厳密に論証を進めているという点でしょう。このことは、事例の記述などを見るとはっきりするはずです。これまでは、詳しく説明するとあまりに大部の本になってしまうのを嫌って、むしろ専門誌に掲載される論文の場合のように、特に重要と思われる部分を除いて、できる限り簡潔に書いたり、可能な場合には省略したりしていたのです。この点は、本書で特にきわ立っている特徴のように思います。

X' 反応や抵抗という客観的指標を利用して、一段ずつかなり厳密に論証を進めていること

 客観的な指標を使い、かなり厳密な論証を進めると、「はじめに」でふれておいたように、“逃げ道”がほとんど封じられてしまいます。他の可能性が非常に考えにくくなくなるからです。この点がとりわけ重要であることは、まちがいないところです。

3 本書に対する抵抗の核心

 次に以上の7項目を、別の角度から整理してみます。まとめかたは他にもあるでしょうが、ここでは、いちおう次のようにします。なお、幸福に対する抵抗――つまり、幸福否定――の結果として反応というものが起こると考えるので、抵抗と反応とは表裏一体の関係にあることになります。

 言うまでもありませんが、これらが、幸福否定という考えかたに基づく人間観を構成する素材になるわけです。さて、本書の売れ行き不振の原因と、反響の乏しさの原因が同じものかどうかはわかりませんが、同時に起こったらしいことからすると、ほぼ共通していると考えるほうが自然でしょう。本書に対する抵抗の核心を探るに際して、E項の「幸福否定の“ことの重大性”を認めること」という要因は、検討の対象からははずしてもよさそうです。大きな抵抗のもとになっているのはまちがいないわけですが、本書だけにかかわっている要因ではないからです。

 したがって、上に列挙したA項からD項までの4条件を満たし、しかも本書を見てすぐに気がつくようなものを探せばよいことになります。そうすると、最も可能性の高いのは、本書のタイトルのような漠然としたものではなく、やはり、さまざまな身近な現象の中でも、とりわけ、ストレス以外の原因を考えざるをえないように見える“青木まりこ現象”を、真正面からとりあげて、詳細に検討していることでしょう。それなら、A項とB項は、まず問題なく当てはまりそうです。

 C項の自発性という点でも、先に紹介した小谷野さんと内田さんの証言を見るとわかるように、問題なくそのまま当てはまるのではないかと思います。ふたりは、自らの体験から、次のように述べていました。

●「さまざまに、買いたい本があって、しかし全部買うわけに行かないから、どれを選ぼうかという心理的重圧が便意につながる」(小谷野、(「猫を償うに猫をもってせよ」2006年8月24日))
●「さまざまなタイトルを眺めて、『あれも読みたい、これも観たい』とそわそわしているとたちまち切羽詰まってくる」(内田、「私を引きとどめる便意」読売新聞[関西版]、2006年11月26日号)

「読みたい」本、「買いたい」本を選び出すことに関係して、便意が起こっているというのです。重圧というストレスに近い見かたはともかく、さすがに名の通った評論家や思想家だけあって、ほしい本を選ぶことが便意に関係しているという観察は鋭いと思います。それと通底することなのですが、同じ書店に入っても、動機によって反応の出かたが異なるという現象があります。この点については、旧知の書籍編集者による証言がヒントになります。

 その編集者の場合、書店で起こるのは「体がだるく、茫然と」なるという症状(反応)であって、便意ではありませんでしたが、非常に興味深いものでした。その症状は、買いたい本が特に決まっていない時に限って起こるのに対して、買う本があらかじめ決まっている時には、同じ書店であっても起こらないというのです(笠原、2010年、20ページ)。また、青木まりこ現象を持つ人であっても、新刊書に囲まれた職場や図書館で仕事をしている時には、それによって自動的に便意が起こるようなことはありません。これも、読みたい本を自発的に探し求める時にこそ、この反応が起こることの裏づけになるでしょう。また、本書では、青木まりこ現象についても、その原因を厳密に検討しているわけですから、D項もそのまま当てはまりそうです。

 では、青木まりこ現象の原因を客観的指標を使って厳密に探究していることが、本書に対する抵抗の唯一の理由かというと、たぶんそうではなく、「片づけ問題」「締切まぎわ問題」「マリッジブルー」「マタニティブルー」「児童虐待問題」などを、同じく客観的指標を利用して、同じように厳密に検討していることも関係しているのではないかと思います。つまり、身近な現象に、私の言う幸福否定に基づく抵抗が潜んでいて、それを、厳密な客観的方法を使ってあぶり出しているところに、本書の売れ行き不振の原因があり、本書への読者による反響が乏しい理由があるのではないかということです。

4 “青木まりこ現象”の特殊性と普遍性

 しかし、なぜ青木まりこ現象が特別なのかと言えば、それは、他の現象と違って、反応そのものに名前がつけられていることです。これは、欧米で知られている、後述の“スタンダール症候群”を別にすれば、反応が命名されている唯一の現象でしょう。マリッジブルーもマタニティブルーも、症状全体の名前とは言えますが、その時その時の反応につけられた名称ではありません。また、マリッジブルーにしてもマタニティブルーにしても、ストレスで説明できそうに見えるのに対して、青木まりこ現象はそうではありません。だからこそ、インクのにおいやリラックスや瞼を伏せる角度など、ストレス以外の“仮説”が出てくるのです。青木まりこ現象は、そうした点で少々突出しているということです。

 一方、自発的にはできない片づけを無理にしようとしたり、締切まぎわにならないうちに、当該の勉強や仕事に無理やり着手しようとすれば、次に示すとおり、青木まりこ現象の場合と同じく反応が出ます。このことは、実際に試してみればすぐにわかります。

 片づけができない人たちが、〔中略〕〔別のことをしたいという〕誘惑をこらえて、むりに片づけをしようとすると、先述のような反応が起こるようになります。頭痛や下痢や脱力やアレルギー様反応などの身体症状が起こるかもしれませんし、あくびが出たり、強い眠気が襲ってきたりするかもしれません。
 このように、抵抗の結果として起こる身体症状として、鼻水やかゆみや喘鳴などの、いわゆるアレルギー症状が起こることもあります。(笠原、2004年a、49ページ)

 しかし、反応が出るという事実は、体験者にこそ知られているものの、一般的な知識になっているわけではありませんし、反応に名前がつけられているわけでもありません。これらの場合も、青木まりこ現象と全く同じ仕組みで反応が出るのですが、便意について言えば、青木まりこ現象の場合ほどには起こらないはずです。書店や図書館で便意が起こる頻度が高いのは、その場にとどまりにくくする、つまり、本を探そうとする行為を中断させることが、その反応の目的になっているからだと思います[註8]。片づけや締切のある課題に直面した場合には、便意よりむしろ脱力感や眠気が起こりやすいのも、やはり行動の阻止という目的に適った反応が選択されるからでしょう。しかも、その選択は即座に行なわれるということです。このことは、症状選択の機序という問題を考える際の、重要なヒントになるはずです。

 青木まりこ現象に対する関心は依然として強く、当サイトの「青木まりこ現象」のページも、たくさんの方々のブログやホームページに紹介されているにもかかわらず、その核心部分が完全に無視されている状況が今なお続いているわけですが、ある意味でそれは、暗示効果や偽薬(プラシーボ)効果という現象と似ています。

 先述のように、いぼは、ウイルス性の皮膚疾患であるにもかかわらず、暗示によってかなりの高率(5割から7割ほど)で消えることが知られています(スパノス他、2002年;DuBreuil et al., 1993)。それは、催眠の専門家なら誰もが承知しているほどの経験的事実なので、その現象自体を否定することはできません。ところが、暗示効果の原因を、現在の科学知識の中に求めることはできないのです。つまり、暗示とは何かという疑問に適切に答えることは誰にもできないわけですが、そればかりではありません。暗示の本質を解明しようとする研究もほとんど行なわれることのないまま、現在に至っているのが実情なのです。

 偽薬効果の研究も、全く同じ状況にあります。偽薬は、それ自体には薬効がないにもかかわらず、それに擬せられた医薬品と同じ効果を多少なりとも発揮し、場合によってはその副作用をも発現させます。たとえば、抗がん剤と称して患者に投与すれば、ある程度の比率で抗がん剤のような作用が観察される一方で、強い吐き気が出たり髪の毛が抜けたりすることもあるのです。これは、反偽薬(nocebo)効果と呼ばれる現象です(たとえば、ウォルフ、2002年;ベンソン、2002年参照)。ところが、その仕組みはと言えば、やはり全くわかっていないのです。偽薬効果は被暗示性と無関係に起こるとする研究もあるので、もしかすると通常の暗示による現象とは一線を画する側面があるのかもしれません。この現象を、ベータ・エンドルフィンなどの脳内産生物質の働きで、いかにも“科学的”に説明しようとする研究者もいるようですが、反偽薬効果の存在を持ち出すまでもなく、それでは何の説明にもなりません。

 青木まりこ現象は、発生率が高く、その存在が広く認められており、人間の心の本質を解明するうえで重要な手がかりになる現象であるにもかかわらず、現在の科学知識の枠内ではそれを適切に説明することができず、その本質を追究しようとする研究者がほとんどいないという点で、暗示効果や偽薬効果と相同の現象であると言えるでしょう。

5 まとめ

 以上の検討からわかってきたのは、本書に対する抵抗の核心は、どうやら(1)青木まりこ現象という、従来的なストレス理論では説明できそうにないことが一見してわかる現象を筆頭とする、さまざまな現象の本質を、(2)客観的指標を使って厳密に追究しているいるため、(3)ある程度にせよ信頼性の高い結果が得られていることが直観的にわかるという点にある、ということです。本書第1章の「青木まりこ現象」は、草稿の段階では、サブタイトルが「私の治療理論と一般常識のインターフェイス」となっていました。この言葉は、同章の本文にそのまま残っています。これは、文字通りの意味で、幸福否定という考えかたと、常識的世界との橋渡しをしてくれるはずの現象だということです。私は、青木まりこ現象の存在によって、幸福否定という考えかたが、少なくとも理論的には、より理解しやすくなるはずだと思い込んでいたわけです。

 とはいえ、そうなると、これまでどうしても解けなかったいくつかの謎が、一挙に解けた感じになります。そのうちのひとつは、本稿第2章第1節「青木まりこ現象の不思議」に書いておいたことです。体験者たちの関心は、表面的な説明とそれぞれの私見とがブログなどに書かれるだけで終わってしまっているわけですが、それは、一瞬のうちに便意や下痢が起こるのはなぜか、という本質的疑問の解明に向かうことにきわめて強い抵抗が働く結果ということになります。この強さは、どうやら科学的好奇心をはるかに上まわるようです。

 もうひとつだけあげておくと、それは、小坂英世先生が創始した小坂療法が、専門家ばかりか患者の家族からも、きわめて強い反発に遭い、その結果として、小坂療法のみならず、小坂先生の存在すらほぼ完全に抹殺されてしまったことです[註9]。この問題については、既に『幸福否定の構造』第8章「共同妄想とその裏面」で詳細に検討しているのですが、それだけでは不十分な感じがどうしても否めませんでした。ところが、客観的指標を用いた厳密な検討という方法論に対して頑強な抵抗が働くことが、今回、どうやら明らかになったおかげで、その不全感が大幅に薄れたのです。つまり、小坂療法がほぼ完全に抹殺されるに至ったのは、客観的指標を使って、厳密に原因を探り出すという方法を導入した結果だということです。

 ついでながらふれておくと、本書に対する抵抗の強さから判断する限り、幸福否定という考えかたに対する抵抗は、超常現象一般の場合よりも強そうです。これは、私にとって、非常に意外な結果でした。超常現象に対する抵抗の強さが尋常一様のものではないことは、長年の経験から骨身にしみて知っているので、それ以上に強い抵抗が存在することは、しかも、それが自分で続けてきた心理療法の枠内にあることは、全く意想外のことだったのです。灯台下暗しとは、まさにこのことなのでしょう。

おわりに

 ここまで検討を進めてはっきりしてきたのですが、この問題は、ことのほか重大なようで、本格的に検討するとなると、おそらく著書1冊くらいの分量になってしまいます。それと比べると、以上の検討はかなり粗雑なものなので、粗い網では小魚が捕らえられないのと同じ道理で、肝心な要素が抜け落ちてしまっている可能性は否定できません。とはいえ、それはまた機会を改めて行なうことにして、本稿での検討は、上の仮説の検証を宿題にして、いちおう終わることにします。

 最後に、補足的にふれておきたいことがふたつあります。それは、(1)新しい概念を無視しないまでも、古い概念と並存させようとする姿勢が――極端な場合には、古い枠組みの中に無理やり押し込めてしまおうとする姿勢が――専門家の間にすら広く見られることと、(2)いわゆる自然科学が、これまで科学の頂点に置かれてきたことに対して強い疑問が感じられること、の2点です。

1 ひとつの見解という見かた

 全く新しいデータ群や仮説や理論は、従来の枠組には収まらない(あるいは、収まりきらない)ため、特に当初の段階では無視されることが多いものです。これは、芸術の方面でも同じだと思いますが、歴史的に見て否定しようのない事実です。また、完全に無視しないまでも、それを、従来の概念と並存させようとしたり、従来の枠組みの中に無理やり押し込めようとしたりという奇妙な姿勢も、ごくふつうに見られるものです。表面的に見ると、それは、旧来の根本理論の変更や放棄を嫌うため、ということになるでしょう。次に引用するのは、楽天ブックスのサイトに掲載された本書のレビューのひとつです。肯定的な評価にはちがいないのですが、その立場を表明した典型例になっています。

統合失調症の家族がおり、いろいろな心理本をよみましたがどれも同じような解釈でしっくりいきませんでした。だいぶ偏った内容ですが、違う視点からとらえており「このような考えも一つある」と思えました。読み物としては読みづらいですが・・

 ここには、「このような考えも一つある」と書かれています。一般の読者にそこまで要求するのは酷なのかもしれませんが、幸福否定という考えかたや、それに基づく私の心理療法は、他の理論や方法論とは根本的に相容れないものであり、本書でも、これまでの拙著でも、そのような形で提示されています[註10]。旧来の理論や方法論とそのまま両立させることは、実際にできないからです。それが許される唯一とも言える例外は、“教科書”でしょう。教科書には、たくさんの理論や立場を、偏りなく“公平”に紹介する責務があるからです。しかし、独り立ちした研究者には、こうした、いわば八方美人的姿勢は許されません。稀代の生物学者だった今西錦司さんは、そのような姿勢を厳しく批判しています。

わが国の大学の先生方〔中略〕が知識を吸収するのに一ばん手取り早い方法は、まず教科書を読むことであるが、教科書にはこういう説もあり、ああいう説もあると、いろいろな説が並べてある。〔中略〕自分の現場でえた体験や、その体験に基づいた理論的要請にしたがうというのではなく、なんとなくはじめから競争と共存を、両立ささなくては具合が悪いかのように、思っておられるらしいのである。(今西、1978年、168-169ページ)

 これは、今西さんが、自らの大恩人でもあった、元京都大学理学部動物学科教授・宮地伝三郎さんの、研究者としての姿勢を痛烈に批判している文章の一部です。文中の「競争と共存」とは、ネオダーウィニズムで言う種内および種間の競争と、今西さんが唱える進化論で言う、それぞれの“種社会”の棲みわけ共存のことですが、このふたつの概念は、本来的に相容れないのです[註11]。わが国では、いわゆる対立を嫌うためか、そもそも相容れない複数の概念を、是が非でも並存させようとする傾向が、特に大学教授を筆頭とする研究者の多くに強く見られるのは、まちがいないところでしょう。歯に絹を着せる態度を極度に嫌う今西さんは、そうした生きかたを端的に批判しているわけです[註12]

 当該の分野の知識をまだ身につけていない段階では、教科書を読むことは、全体像や歴史的経過を把握するためにむしろ必要です。教科書というものは、そのためにこそ存在しているわけです。とはいえ、研究者がその後もそうした初心者的態度をとり続けるようなら、とうてい研究者とは言えませんし、真の研究などできるはずもありません。幸福否定という考えかたやそれに基づく心理療法および人間観が正しければ、旧来のものは根本からまちがっていることになります。それらは、逆に、幸福否定の枠組みの中でとらえ直さなければならなくなるわけです。そのため、ここには、とてつもなく深刻な事態が発生するのです。

 したがって、真の科学者であれば、本書に提示されているデータ群や考えかたを、自分なりに真剣に検証する必要――正確に言えば、責務――があるのです。どちらがまちがっているのかを――旧来の知識を弄した演繹によってではなく、経験的事実を通じて――はっきりさせることが、科学者に負わされた使命なのですが、これまでのところ、この挑戦を受けて立つ科学者は、まことに残念ながらひとりもいないようです。いやしくも科学者を自称するのであれば、わが国の科学者によく見られる“評論家的態度”に終始するのではなく、本来の責務をきちんと果たしてほしいと願うものです。

2 自然科学と“人文科学”の位置づけ

 もうひとつは、これまで、物理学を筆頭とする自然科学が、科学の中で最上位にあるという一般通念は、既に時代遅れになっているにもかかわらず、旧態依然とした態度が広く一般に見られることです。物理学を頂点とするいわゆるハードサイエンスは、“再現性”が完全にある、あるいはきわめて高い――つまり、同じ条件で実験すれば、いつ誰が行なっても同じ結果が得られる、あるいはその確率がきわめて高い――ことが、科学分野としてすぐれていることを示す指標とされてきたわけですが、はたしてそうなのでしょうか。たとえば生物科学では、それと比べると再現性が多少なりとも低くなります。ではそれは、科学分野として二流だからなのでしょうか。

 しかし、現在では、時代の花形は、むしろ生命科学と呼ばれる生物学の分野に移ってきています。この分野では、物理科学と比べると、再現性は多少なりとも低いわけですが、では二流科学なのかと言えば、そうだと答える人はほとんどいないのではないでしょうか[註13]。この場合、再現性が低いのは、要するに実験に関係する要因が多すぎて、コントロールが難しいためです。そうした観点からすると、むしろ要因が少なくコントロールしやすいために再現性が高い物理科学よりも、はるかに高度の研究分野ということになるはずです。

 そこまではよいとしても、では、心が関係する分野、特に心理学などのいわゆる人文科学(Humanities)と呼ばれる分野はどうなのでしょうか。これは、“自然科学者”からすれば、好意的に見てもせいぜい二流、三流の科学であり、実際には科学ですらない、ということになるでしょう。このように、あっさり切り捨てられてきたことに対して、“人文科学者”の側は、その指摘を否定することもできず、さりとて“再現性”を高めることもできないため、言葉を濁すか、さもなければ、自ら“二級市民”の立場に甘んじて今に至っているというのが、実際のところでしょう。

 これまで述べてきたように、幸福否定という考えかたに基づく心理療法では、客観的指標を使って事実を、かなりの確度で確認することができます。突き止められた内容が事実であることは、それを意識で認めると症状に変化が起こるとともに、能力の発揮や人格の向上なども、それらと並行して起こることによって確認されます。それが稀にしか、あるいは一部でしか起こらないのであれば、別の理由で説明できるのかもしれませんが、もし大多数で、さらには、ほぼ例外なく起こるとすれば、両者の間に因果関係があることは、どうしても否定できなくなるはずです。

 では、こうした客観的指標を、同じく“人文科学”とされる文学や芸術の分野にまで導入することは可能でしょうか。それを初めて試みたのが、2004年に出版した拙著『希求の詩人・中原中也』(麗澤大学出版会)でした。その「まえがき」には、次のように書かれています。

 本書にもうひとつ目的があるとすれば、それは、主観というあいまいなものに基づいて行なわれてきた文学作品の鑑賞や研究に、ある意味で客観的な指標を導入できるかどうかを、私なりの角度から検討することである。文学のみならず、芸術一般について言えることであろうが、こうした分野では、客観的指標が全くと言ってよいほど存在しないため、作品の鑑賞や評価は、各人の見る目≠ノ全面的に任されてきた。〔中略〕本書で試みている客観的指標の導入がわずかにせよ成功したかどうかについては、読者の方々の判断を待つ他ない。(笠原、2004b、vページ)

 この著書は、昭和初期に活躍した詩人・中原中也の生きざまを、全く新しい角度から浮き彫りにしようとする試みでした。その過程で、中也にまつわるさまざまな(信じがたいほどの)誤解――正確に言うと、思い込みに基づく誤信――が、中也の中心的研究者の間にすら数多く存在することを明らかにし、中也に関する定説の多くを、実証的証拠に基づいて反証しています。

 また、2回の精神病状態の原因を厳密に探究することを含め、いわゆる病蹟学的な側面でも、実証的方法を使ってどこまで事実に迫れるかを確認しようとしたわけです。文学関係の自著も何点か出版しているある編集者は、私宛ての私信の中で、この著書は「中原についての文学史の書き直しを迫ったもの」であり、「その文学史のくみ直しの過程そのもののほうが、私には面白く思いました」という感想を書いてくださっています。しかし、各地の文学館や中也の主な研究者に献本しているにもかかわらず、この本も、2、3の雑誌に短評は掲載されたものの、それ以外はほぼ完全に無視され、売れ行きもきわめて不振だったのです(この拙著を所蔵する大学図書館は、本年2月末現在で73館)。

 ところで、フランスの文豪スタンダールは、まだ無名の時代の1817年に、ゲーテにあやかってイタリア旅行をしている中で、フィレンツェを訪れます。そして、市内のある教会(サンタ・クローチェ聖堂)に入ったとき、心臓の動悸が激しくなり、今にも倒れるのではないかという恐怖に駆られたのです。とはいえ、スタンダールの証言を俟たずとも、同様の症状が特に市内のウフィッツィ美術館で起こることは、既にその頃から知られていたのだそうです。

 イタリアの精神科医グラツィエラ・マゲリーニ(Magherini, 1995)は、1977年から86年までの10年間に、フィレンツェで芸術作品を鑑賞した後、一過性の精神症状を呈して入院してきた106名の観光客を対象にした研究に基づいて、こうした一連の症状を、スタンダールの体験に因んで“スタンダール症候群”と呼びました(本稿では、これを狭義のスタンダール症候群とします)。

 これは、すぐれた美術品に接することによって出現するとされる心因性の症状ですが、私のこれまでの経験(『幸福否定の構造』134-136ページ参照)によれば、同様の症状は、美術品に限らず、特定の場所や物品に接することで、ごくふつうに起こる(広義のスタンダール症候群)のです。その場合、一瞬のうちに眠り込んでしまうほどの強い眠気やあくびの頻発が起こりやすい(そして、その作品から眼をそらした瞬間にその反応が消える)のですが、激しい吐き気や便意を起こす人たちもいます。ところが最近までは、青木まりこ現象と同じく、この現象は各人の経験知にとどまっており、一般には全く知られていませんでした。

 こうした反応――つまり、広義のスタンダール症候群――を目印に使えば、少なくとも本人にとってすぐれた芸術作品が、主観的にではなく、客観的な指標によって探り当てられるはずです。私はある女性から、「目の前に立ったときにあくびや眠気が出るかどうかで、それがすぐれた作品かどうかを判断しています」という話を聞いたことがあります。この女性は、誰に教わるでもなく、反応を実用的な目印として使っていたのです。

 私の言う反応は、その原因の記憶が消えているという条件を伴ううえに、ほぼ例外なく悪印象が残るものなのですが、スタンダール症候群の場合には、狭義のものであっても広義のものであっても、そうではないようです。自分が反応を起こす対象となった芸術作品をきちんと自覚し、しかも、その秀逸さや傑出性を認めながら反応が出るというのが、スタンダール症候群の特徴なのです。この点で、他の反応とは一線を画しているわけですが、これはなぜなのでしょうか。どこかに否定が働いているのは確かだと思いますが、ここにも、反応一般の本質を突き止めるための、重要なヒントが隠されているはずです。

 はたして、こうした基準による判断が、すぐれた作品を客観的に探り出す指標として、広く一般に使えるものでしょうか。それは、こうした反応を出す人たちをたくさん集めて、厳密な条件を設定し、実験を行なうことで検証できると思います。また、仮にそうした指標が実用的に利用できないとしても、では、なぜ特定の作品の前に立つと、私の言う反応が出るのかという謎はそのまま残り、その追究を続けることができるはずです。このようにしてゆけば、広大な研究領域が新たに開けることでしょう。

【追 記】

 狭義のスタンダール症候群は、青木まりこ現象と比べると、その発生率ははるかに低いと思いますが、科学を生みだした西洋では、こうした現象を無視することなく、きちんと研究しようとする姿勢を見せています。既に1988年に、スタンダール症候群を扱った論文がアメリカの医学雑誌に掲載され、その中で Hyperkulturemia〔文化過敏症〕という“病名”が提唱されています。また、初歩的なものとはいえ、この現象を扱った医学論文は他にもいくつかあります(たとえば、Guerrero et al., 2010)。

 一方、イギリスのテレグラフ紙は、2010年7月28日付の電子版で、「科学者グループがスタンダール症候群――偉大な芸術が引き起こす失神――を調査」という見出しの記事を載せています。わが国には、欧米のスタンダール症候群など、数のうえで足元にも及ばない青木まりこ現象という、体験者がおそらく数百万人にものぼる現象が広く一般に知られているにもかかわらず、科学者からは、それがほぼ完全に無視されているという現状があるわけです。このような事実を目の当たりにすると、彼我の断絶とも言うべき大きな落差をつくづく感じます[註14]。科学は、理論の側にではなく、何よりも経験の側に寄り添うものでなくてはなりません。そうしなければ、真理の探究としての科学の発展などありえないからです。まことに残念なことですが、やはり日本は、技術者の国ではあっても、科学者の国ではないのかもしれません。

[註1]来室者数は、その後、2005年にいったん底を打ち、景気の回復に伴うかのように2002年の水準にまで回復しましたが、2009年から再び下降に転じ、2010年は、これまでの最低を記録しました。本年は、景気はむしろ回復基調にあるそうですが、当室への来室者はさらに急減しそうな気配です。

[註2]外国でも同じ現象があるのではないかと思いますが、英語圏のインターネット・サイトを調べた範囲では、それらしきものは1件しか見つかりませんでした。しかも、もともと過敏性大腸をもっている50代の女性の例です。その女性によると、「本屋さんに入るといつも下痢が起こります。世界中でいちばん好きな本がものすごくたくさんあるので、とっても興奮するせいだと思います」とのことです。必ず下痢になるので、トイレがあることをいつも確認してから書店に入っているそうです。なお、息子さんにも同じ症状があるということです。英語圏では珍しい現象なのか、それとも、かつてのわが国のように、まだ互いの存在を知らずにいる状態のままなのかのどちらかなのでしょうが、本当のところはわかりません。

[註3]最近、ふたりの書籍編集者と相次いで話す機会があり、意見を求めたところ、どの編集者も忙しすぎて、未知の出版社に原稿を送っても、まず読んでもらえないし、場合によっては捨てられてしまうので、やめたほうがいい、と言われました。また、仮に目を通したとしても、著者を個人的に知らなければ、本腰を入れて読む気にはなれず、おざなりな読みかたになってしまうということでした。

[註4]がんの心理療法の本としては、『がんのセルフ・コントロール』の監訳者でもある近藤裕さんが、サイモントン療法をわが国に紹介する本として書いた『もう一つのガン療法』(日新報道)がその先駆けで1977年、続いて、アメリカの心理療法家ローレンス・ルシャンの『ガンの感情コントロール療法』(プレジデント社)の翻訳出版が1979年なので、『がんのセルフ・コントロール』出版のほうが遅いのですが、この2点はあまり話題にならないまま事実上消えてしまいました。

[註5]『介護新聞』(北海道医療新聞社発行の週刊紙)2010年7月29日号の「本」欄に、「経験的事実に立脚、ユニークな心の理論」という見出しで、本書の紹介があるそうです。

[註6]ストレス理論そのものは、ハンス・セリエという、ハンガリー出身のカナダの生理学者が、動物実験で得られた所見から1930年代に唱え、後に心因性疾患全般に拡張されたものですが、外部から負荷がかかれば、人間は大きな影響をこうむるという考えかたは、それ以前から、暗黙の常識だったはずです。したがって、ここでは、狭義のストレス理論だけでなく、古来からの常識的な考えかたも含みます。

[註7]ちなみに、この拙著は、超常的なものを含めた人間の能力という側面をテーマにしており、非常に抵抗の強そうな現象を扱っているにもかかわらず、また、300ページ弱(そのうち、索引と参考文献だけで54ページ)で、定価も当時としては高額の3300円ほどであったにもかかわらず、初版2500部が完売となり、刊行17年後の今でも、古書としては高額で取引きされているようです。この拙著については、評論家の芹沢俊介氏が、1996年1月20日の東京新聞夕刊に、一面の半分を使った長文の書評を書いています。ところが、この書評では、超常現象の部分だけがとりあげられ、同書全体の半分ほどを占める私の心理療法に関する記述は、なぜか完全に無視されているのです。

[註8]公開質問サイトのヤフー知恵袋に、「本屋とかに行くとトイレに行きたくなる現象が(たぶん)人一倍激しくて、少しだけ困っています。なにか、克服する方法などないのでしょうか? ご存知の方いたら、助けてください。ゆっくり本が選べません」という質問が掲載されています。これを見てもわかりますが、便意が起こると、本をゆっくり選んでいる余裕がなくなるわけで、実際に困っている人がいるのです。

[註9]小坂先生が籍を置いていた公立精神科病院の図書室にも、小坂先生の“伝説”は残っているにもかかわらず、小坂療法に関する著書は、ごく最近まで一冊もなかったそうです。

[註10]技法だけなら、これまでの心理療法と併用することは可能かもしれません。そのような折衷的方法は、これまでにもとられてきたところです。つまり、どの症状には精神分析、どの症状には自律訓練法、どの症状には箱庭療法といった、いわば広量なやりかたです。しかし、幸福否定という考えかたに基づく心理療法の場合、そのような使いかたをすると、他の方法との間に大幅な齟齬をきたし、少なくとも治療者側の内部矛盾は非常に大きくなるはずです。

[註11]だからこそ、ふつうは、世界の定説であるネオダーウィニズムやその延長線上にある機械論的理論が絶対視され、今西進化論のほうが無意味な空論として却下されるのです。両者が両立しえないものであることは、ふつうの生物学者なら十分承知しているということです。とはいえ、一部には、今西進化論の概念は、すべてダーウィニズムに含まれると主張する生物学者もいます。いずれにせよ、今西進化論には、見るべきものがないと言いたいのでしょう。

[註12]晩年の今西さんは、「生存競争と調和のとれた生物全体社会の進化とは、私の頭の中でどうしても両立の許されないものに映る」(今西、1986、87ページ)、「創生の神話に依拠する今西進化論は、歴史のすすむ方向にたいして、前向きの進化論であり、ダーウィニズムは歴史の方向にたいして、後向きの進化論である。ダーウィンも今西も進化は分化であるという点では一致しながら、ダーウィンは競争と選択に走り、今西は棲み分けをとった」と述べながらも、自らこの立場を放棄するかのように、「どちらが正しいかは検証できない。この二つは二つのちがった進化論として、認めてゆきたい」(同、90-91ページ)と、一歩譲った発言をしています。これはしかし、自分の立場を放棄したためではなく、むしろ少々ゆとりが生まれためか、寛容になったためと考えるべきなのでしょう。

[註13]生物学の分野からは、たとえば、次のような発言があります。「実験によって証明できないこと、再現実験ができないことは科学の研究とは言えないという狭量な教条主義」が未だに存在し、「得られるデータにばらつきのある生物学は科学の名に値しないと本気で口にする物理学者が、未だにいる」(渡辺、2009年、432ページ)。

[註14]たとえば、先にふれた偽薬効果という現象は、わが国でもよく知られているにもかかわらず、利用されるだけで終わっており、それ自体の研究は全く行なわれていないのが現状です。それに対して、欧米では、この方面の研究は相当数にのぼっています(拙編書『偽薬効果』 [2002年、春秋社刊]参照)。日本は、かつてサル真似の国と言われましたが、決してそうではなく、なぜか欧米から入ってくることのない研究領域も、少なからず存在するのです(拙著『隠された心の力』第4章参照)。

参考文献

  • 今西錦司(1978)「宮地伝三郎」『自然と進化』(筑摩書房)所収
  • 今西錦司(1986)「自然学の提唱――進化論研究の締めくくりとして」『自然学の提唱』(講談社学術文庫)所収
  • 笠原敏雄(1995)『隠された心の力──唯物論という幻想』春秋社
  • 笠原敏雄(1997)『懲りない・困らない症候群──日常生活の精神病理学』春秋社
  • 笠原敏雄編(1999)『多重人格障害──その精神生理学的研究』春秋社
  • 笠原敏雄編(2002)『偽薬効果』春秋社
  • 笠原敏雄(2004a)『幸福否定の構造』春秋社
  • 笠原敏雄(2004b)『希求の詩人・中原中也』麗澤大学出版会
  • 笠原敏雄(2010)『本心と抵抗――自発性の精神病理』すぴか書房
  • 新福尚武(1979)「成因 総論」高橋良他編『現代精神医学大系 躁うつ病I』(中山書店)所収
  • S・ウォルフ(2002)「偽薬投与の効果と毒性反応の発生」笠原敏雄編『偽薬効果』(205-210ページ)〔春秋社〕所収
  • N・P・スパノス、V・ウィリアムズ、M・I・グウィン(2002)「いぼの退縮に対する催眠療法、偽薬、サリチル酸治療の効果」笠原敏雄編『偽薬効果』(266-274ページ)〔春秋社〕所収
  • H・ベルクソン(1965)「意識と生命」『ベルクソン全集 5 精神のエネルギー』(白水社)所収
  • H・ベンソン(2002)「反偽薬効果――その歴史と生理学」笠原敏雄編『偽薬効果』(231-239ページ)〔春秋社〕所収
  • 渡辺政隆(2009)「訳者あとがき」C・ダーウィン『種の起源 下巻』〔光文社文庫〕所収
  • DuBreuil, S.C., and Spanos, N.P. (1993). Psychological treatment of warts. In J.W. Rhue, S.J. Lynn, & I. Kirsch (Eds.), Handbook of Clinical Hypnosis (pp. 623-48). Washington, D.C.: American Psychological Association.
  • Magherini, G. (1995). Sindrome di Stendhal. 2nd ed. Firenze: Ponte Alle Grazie.
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