本書は、2004年1月から当サイトで始めた、「日常生活の中で見られる抵抗や反応」という連載が下地になっています。現在でもそのままの形で掲載されているこの連載は、本書の下準備として執筆されたものですが、読者の方々からの反響をうかがうという役割も兼ねていました。そのなかの「青木まりこ現象」という章は、折りからの“ブーム”のおかげもあって、2004年10月には、リクルート社発行の無料週刊誌「R25」にとりあげられたり、数多くのブログやホームページにリンクされたりして、たくさんの方々にご覧いただきました。本書は、そうした反響が得られていたことに加えて、「片づけができない」「締切まぎわの問題」「マリッジ・ブルーとマタニティー・ブルー」「子どもの虐待」などの、まさに時宜を得た身近な問題ばかりを扱っているので、売れ行きもそれなりに期待できるはずだと思い込んでいました。その点については、疑いというものをほとんど抱いていなかったのです。
加えて、本書では、心理的原因の探りかたや、自分が本当にしたいことの突き止めかたを含め、私の心理療法のいわば手の内のほとんどすべてを、数多くの具体例をあげながら、微に入り細を穿つほどにまで明かしてしまっています。したがって、抵抗――幸福に対する抵抗――という現象さえなければ、本書を丹念に読んでくださるだけで、私の心理療法が、独力でほぼ完全に実践できるほどのお膳立てが、ここに整えてあるわけです。
現代は、時間があり余っているにもかかわらず、自分のしたいことがわからなくて困っている人たちや、そのために時間つぶしに走っている人たちがたくさんいて、それが一種の社会問題にすらなっています(たとえば、「パチンコ熱中のお年寄り急増 年金つぎ込み家族借金も」[朝日新聞、2010年11月13日号]参照)。本書では、自分がしたいことを探り出す方法を、具体的な形でおそらく初めて公開しているのですから、それだけをとっても、関心を持つ人は少なくないだろうと踏んでいました。心理療法の事例としても、世間一般によく見られる類のものをとりあげていることもあって、本書を通じて私の心理療法に関心を持つ方が多少なりとも出てくるだろうし、その結果、心理療法の希望者が増え、場合によっては一部の方々をお断りしなければならないだろう、とまで考えていたのです。ところが、さにあらず、ふたを開けてみれば、予測とはまさに正反対の結果になったのでした。かてて加えて、本書の出版以来、新たな来室者は、事実上ひとりもいなくなってしまったのです。
昨年の暮れ、宇津木社長から本書の実売部数を知らされた私は、そのあまりの少なさに、落胆するよりむしろ、驚きを禁じえず、いわば狐につままれたような思いに駆られました。本書は、私の心理療法の理論や方法が詳細かつ具体的に書かれているために、読者の方々の抵抗が強くなることは、もちろん十二分に予測されていました。理論的裏づけを伴って精密に描き出されている分、“逃げ道”も少なくなってしまうからです。しかしながら、人間には、科学的好奇心というものがあります。そうした科学的好奇心によって、ある程度にせよ抵抗をさて置くことのできる人たちが、たくさんとは言わないまでも少しはいるに違いない、したがって、そのような人たちなら、学問的関心という角度から喜んで読んでくれるはずだ、と信じて疑わなかったのです。にもかかわらず、予測とは正反対の結果を知らされた私は、大きな謎を突きつけられた形になったのでした。
本が売れない原因として誰もがすぐに思いつくのは、定価が高いためではないか、あるいは、その本自体に読者を引きつける力がない、もしくは、とるに足らないことしか書かれていないためではないか、一般に知られていない出版社から出ているためではないか、さもなければ、その出版社に営業力が乏しいためなのではないか、といった理由でしょう。もちろん、そのような理由もないわけではないでしょう。しかし、その一方で、どうもそういう問題が主たる理由ではないのではないか、という疑念を拭い去ることができなかったため、今回の原因探究に至ったわけです。
本稿は、その中間報告と言うべきものです。自著の売れ行き不振に関する考察などは、おそらくあまり前例がないでしょう。のみならず、僭越を顧みず、その報告まであえてここにするのは、その検討から、非常に大きな問題が浮上するように感じられるためです。とはいえ、今回は新しい概念が生まれるわけではなく、むしろ、人間にあまねく存在する抵抗というものの本質がより明確になるということのようですが、これは、私の研究史上でも、〈幸福否定〉――〈抵抗〉と表裏一体の関係にある無意識的意志――の発見に次ぐ、最大級の発見になるのではないか、と思われるほどです。
その後、抵抗の強さを思い知らされる出来事に次々と遭遇します。そのため、しばらくすると、人間の本質に関する探究が進むにつれ、それに基づいて構築されつつある私の心理療法は次第に不人気となり、最後には希望者がひとりもいなくなるのではないか、と危惧するようになりました。その懸念については、実際に拙著『幸福否定の構造』(笠原、2004a)に明記されています。
引用文の冒頭にある「他覚的反応」とは、あくびや一過性の眠気や身体的変化のことです。信じがたいことでしょうが、これは、抵抗というものに直面すれば、多かれ少なかれ、誰にでも見られる現象なのです。また、ここで言っている「心身症や神経症の、ひいては心因性疾患全体の本質」とは、その後に発見される幸福否定という概念に当たります。しかし、実際には、当室への来室者数は、1998年をピークにして、その後、おそらく景気低迷などの影響もあって漸減していたとはいえ、2004年の『幸福否定の構造』の出版を機に急減したわけではありません[註1]。ちなみに、1998年は、拙著『懲りない・困らない症候群』(春秋社、1997年1月刊)を出した翌年に当たります。
この拙著は、幸福否定という考えかたが今ほど成熟していない段階で書かれたもので、人間は反省を避けようとする傾向をいかに強く持っているかという側面から俯瞰した、日常生活で観察される現象の記述が中心になっています。そのためか、この拙著に対する抵抗もまださほど強くはなく、現に、同年(1997年)1月19日付の『朝日新聞』書評欄でとりあげられたり、『日刊ゲンダイ』というタブロイド版日刊紙に、ほぼ全面を使った特集記事が掲載されたりしていたほどです(興味深いことに、規模の大きな特集だったにもかかわらず、この記事には全く反響がありませんでした)。そのおかげもあって、来室者数は予測に反して順調に増え続け、その翌年の98年にピークを迎えたのでした。
したがって、幸か不幸か、幸福否定の発見という点について言えば、この懸念はそれほど当たらなかったわけですが、私の心理療法理論や人間観のその後の進展について言えば、この推測は当たっていたことになるのかもしれません。ここまで来るのに、予測したより少々時間がかかったとはいえ、今、まさにその予言が成就し始めたということなのでしょうか。どのような理由であっても、来室者が減少の一途を辿るのは、現実的側面からみると非常に困ることです。経営が成り立たなくなるという深刻な事態を迎えることに加えて、当室が目的とする研究も続けられなくなってしまうからです。しかしながら、科学的立場からすると、そうした現実的問題よりも、この現象自体のほうがはるかに重要なはずです。人間の抵抗というものが、どのような側面に、どれほど強く働くのかを見きわめるための、絶好の素材を提供してくれるにちがいないからです。
これが、典型的な記述です。ここには、「書店(古書店、図書館などを含む)に長時間いると」と書かれていますが、実際には、書店や図書館に足を踏み入れた瞬間に便意や下痢が起こる例も少なくありません。したがって、この点は明らかに誤りです。とはいえ、この説明は、「好きな本を買えるんだという期待感による」という説として、曲がりなりにも私の考えかたのようなものが紹介されているという点で、他の記述と比べると、まだましなほうです。ほとんどのホームページやブログでは、各人の体験が盛り込まれていることは多いものの、批判的な形としてであっても私の説にふれることはほとんどなく、その程度の内容を、飽きもせず繰り返し書いているだけなのです。
また、この説明には「まだ定説はない」とありますが、仮説の検証をしない限り、妥当性の高い定説が生まれることなどありえないでしょう。ちなみに、ウィキペディアの「ノート」には、この現象の存在を疑う見解(「たとえば4時間の間ずっと図書館に居た人間が便意を感じるのは、単なる生理現象で説明可能でしょう」)が記されています。このように、自分で体験したことがない限り、そんなばかなことがあるはずはないと考えるのが、常識的な態度というものです。
青木まりこ現象は、書店に長時間いて初めて起こるというものではなく、書店に足を踏み入れると、いつもその瞬間に下痢が起こってしまうなどの例も少なくありませんし、いわゆる自己暗示などの概念で説明できる現象でもありません。青木まりこ現象は、これまでの常識からしても科学知識からしても、それほど考えにくい現象だということです。しかし、体験者からすると、実際にわが身に繰り返し起こる(つまり、多くの場合、かなりの“再現性”がある)出来事なので、無視することはできないわけです。そこで、自分を納得させたいという気持ちがどうしても働くため、自分なりの説明を考えようとします。評論家の小谷野敦さんは、ウェッブの公開日記に次のように書いています。
しかしながら、小谷野さんの主張にもかかわらず、ウィキペディアにも明記されているように、実際には図書館で便意を催す人たちもたくさんいるのです。また、この現象は、CDショップやレンタルビデオ店、ゲームショップ、電気店、洋服売り場など(要するに、自分がほしいものを主体的に探し出すための場所)でも起こります。逆に、書店や図書館であっても、眠気やあくびなどの、便意以外の症状がいつも起こるという人たちもいます。ただ、そのような場合には、それぞれの体験者が少ないことに加えて、書店で起こる便意と比べると、組み合わせの意外性に乏しいためか、あまり注目されることがないようです。レンタルビデオ店でも便意を催すという、人気思想家・内田樹さんは、読売新聞への寄稿文に次のように書いています。
「どれを選ぼうかという心理的重圧」という小谷野さんの原因論は、個人的体験からこの現象の原因を推測する際の限界――この例では、たぶんその上限――を示すものと言えるでしょう。それに対して、「思考が『テイクオフ』する瞬間」に便意が起こるという内田さんの観察は核心にふれるものであり、タイトルにある「私を引きとどめる便意」という着想も卓見だと思います。しかしながら、こうした心身医学的現象の原因を明確にするためには、体験者自身が自分の経験から推論を唱え合うだけではだめで、数多くの実例を拾い集めて丹念に検討し、それに基づいて仮説を立て、それを検証するという方法を使う以外にないのです。言うまでもなくそれこそが、伝統的な科学的方法だからです。
また、当サイトの「青木まりこ現象」のページでは、「感情の演技」という実証的検証法も紹介しています。そして、この方法を使えば、ある程度にせよ客観的指標をもとに仮説の検証が可能だと述べ、具体的な方法も説明しています。この方法は、自分なりに試すことが簡単にできるのに、このことも完全に無視されているようです。これまで調べた範囲では、稀に遭遇する、私の考えかたをそのまま引用している好意的なブログでも、その点については全く同じでした。
アンリ・ベルクソンは、「どこまで行けるかを知るには、一つの手段しかないと思います。それは出発して歩きはじめることです」(ベルクソン、1965、12ページ)と言っています。どこまでできるかは、このように、実際に確かめてみなければわからないわけですが、それがなされないまま現在に至ってしまっている領域が、現実には、私たちの身の回りにも少なからず存在します。それこそが、私の言う“抵抗”が隠れているはずの領域であり、人間の本質を知るうえできわめて重要なヒントを与えてくれるはずの領域なのです。
「片づけができない」「締切まぎわ問題」「マリッジブルー」「マタニティブルー」「子どもの虐待」の各ページについても同様で、ブログなどでふれられることもほとんどなく、これまでのところ、全くと言っていいほど無視されています。グーグルのページランク(PR)という指標で見ると、「マタニティブルー」を除いて、そのいずれもが、「青木まりこ現象」のページと同じ10点中2になっているので(当サイトのトップページで4。一時は5だったこともある。ちなみに、朝日新聞のトップページで8、同じく日本郵便で6、日本心身医学会で5)、ある程度のアクセスがあり、それなりの評価を受けているということです。
また、「心理的原因を探る」というページのランクは、下位ページとしてはかなり健闘していて、他のページよりもランクが上の3になっているのに、これも完全に無視されています。非常に重要な、しかもかなりの人たちに閲覧されているページが、批判的な形であっても全くふれられていないのです。こうした不思議な現象は、抵抗の結果として起こったものだと思われますが、これまでは、その焦点がどこにあるのかが、いまひとつはっきりしませんでした。今回、その理由を突き止めるための手がかりが、初めて得られたということです。
そのため、体験者以外の人たちは、ウィキペディアの「ノート」にあるように、ほとんどがこの現象の実在そのものを疑います。それは、もしこうした現象が実在するとなると、現在の科学知識では説明できない――つまり、これまでとは全く違う視点から考えなければならない――ことが直観的にわかり、無意識のうちにそれを嫌うため、ひたすら否定したくなるからではないかと思います。
それに対して、体験者自身は、繰り返しわが身に起こることであり、場合によっては切実な問題にもなるので、この現象の実在を疑うことはできません。この現象に対する関心もそれなりにありますから、その多くが、原因を知りたいと思うわけです。体験者自身は現象を認めざるをえないのに対して、知識の側に立つそれ以外の人たちは現象を否定したがるという点で、この構図は、その原因が現行の科学知識の枠内にないことも含めて、超常現象体験の場合と非常によく似ていると言えるでしょう。
そこで、自分なりにこの現象を説明しようとするわけですが、どうしても従来的な科学知識体系の枠内で行なうことになってしまいます。その結果、インクのにおいとか、トイレの有無にまつわる予期不安とかの理由がひねり出されるのです。まさに、「苦肉の策」的な思いつきと言えるでしょう。また、その説明を求められた専門家も、自分の専門分野の枠内で、我田引水的な理由を考えることになります。その結果、書店でリラックスするためではないかとか、果ては、まぶたを伏せる角度が自律神経を刺激するためではないかとかの、奇妙な“仮説”を思いつく――おそらく、そういう“仮説”しか考えつきようがない――わけです。ここで、ストレスという視点が出てこないことに注意してください。
第一段階の対応としては、この程度の思いつきで許されたとしても、その妥当性を検証して誤りがはっきりした時点で、次なる段階に進まなければなりません。つまり、別の仮説を立て、その真偽を検証してゆく必要があるということです。それが、科学が伝統的に行なってきた、仮説の検証という作業です。
仮説とは、このように、真偽の検証をするための手段なので、仮説を立てるだけで終わってしまっては何の意味もありません。ところが、青木まりこ現象の場合には、実に不思議なことに、その検証をしないまま、主観的判断に基づく自説を主張し合うことに終始しているのが現状なのです。
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図1 青木まりこ現象の原因について、どれが有力と思うかをサイト訪問者に投票させた結果の2011年3月9日現在でのリアルタイム・グラフ。TOPPAN「本屋の歩き方」サイトより。珍しく、「幸福否定に基づく異常現象説」がとりあげられている。トイレがないことによる予期不安説は、なぜか含まれていない。興味深いことに、「インクの匂い説」が最も人気が高く、「幸福否定に基づく異常現象説」の人気が最も低い(逆に、幸福否定によると考える人が、この程度であってもいるという事実のほうを驚くべきなのかもしれない)。
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1 体験者以外の多くはこの現象の実在を疑うが、体験者自身は、他にも同じ体験をしている人がたくさんいるという事実が明らかになったこともあって、この現象を疑うことはできない
2 そこで、体験者自身は、なぜこのような現象が起こるのかを知りたいと思う。その存在を知らされた専門家の中にも、積極的にではないにせよ、稀ながら関心を持つ者がある
3 そこで、体験者は常識の中から自分なりの説明を、専門家はそれぞれの所属分野の枠内で思いつく説明を考える
4 しかし、その“仮説”を検証することなく、それぞれの見解を主張し合うだけで終わっている
5 いわゆる心身問題を探究するための絶好の素材なのに、ほとんどの科学者が見向きもしないのは、そのこと自体が説明を要する現象である
ところで、実際に検証しようとすればすぐにわかることなのですが、これまで提出されてきた“仮説”は、いずれも簡単に反証されてしまう程度のものにすぎません。それは、本書の第1章「青木まりこ現象」の中で詳細に行なっているとおりです。それらの反証は、本サイトの「青木まりこ現象」のページでも、手短に行なっていますが、この程度のことであっても、これまでは誰もしてこなかったのです。このきわめて肝心な部分が、今まで完全に回避されてきたということです。もちろん、私がそのページで行なっている検証も、完全に無視されています。この点こそ、私が以前から非常に不思議に感じていたことなのでした。
先の引用文の中で内田樹さんが指摘しているように、青木まりこ現象は、「最悪の場合には社会人として名誉回復の難しい惨状を伴う病態」であるにもかかわらず、この領域には、心身問題の研究者はもとより、心療内科や精神科の専門家もほとんど参入していません。たしかに、青木まりこ現象を訴えて受診する患者はあまりいないでしょうから、その点から見たら、これは、しかたがないことなのかもしれません。とはいえ、自らの専門分野の枠内で多発している現象なのですから、とうてい避けて通ることはできない問題です。加えて、そうした専門家の中にも、体験者は相当数いるはずなのです。わが身に起こることを、ふしぎと感じてその謎を解こうとしないのは、なぜなのでしょうか。
振り返って考えると、以上列挙してきた状態は、私の言葉を使って表現すれば、次のようになるでしょう。青木まりこ現象の体験者の多くは、その現象に関心を持ち、その原因を知りたいという願望を持っている。一方、その原因の明確化を是が非でも忌避したいという、幸福の否定に基づく頑強な拒絶も、いわゆる無意識のうちに存在する。この両者の接点が、現行の科学知識の枠内で思いつく事柄を各自が唱え合うだけで満足するところにある、ということになるでしょう。
しかし、青木まりこ現象の真の原因に誰も関心を持とうとしないことについては、今回、この問題を真剣に考えるようになるまで、私自身もその重大性にあまり注目していませんでした。単に、不思議だと思うだけで終わっていたのです。ここには、眼が開いていなかったという意味で、私自身の問題も潜んでいたわけです。
そこで、その編集者に頼らずに、自力で出版社を探すことにしました。フリーの編集者は、企画力や編集能力がいかにすぐれていても、本として出版するには、どこかの出版社に依頼するしかありません。このところの出版不況のもとでは、そうした形での出版がますます難しくなっており、現在では、職業として成り立ちにくい状況にまでなっているのだそうです。今のわが国では、少なくとも書籍のフリー編集者は、このように非常に厳しい立場に置かれているのです。
岩波書店で社長を務めていた大塚信一さんが、自らの出版編集史を綴った著書『理想の出版を求めて』(トランスビュー)などを見てもわかりますが、出版は、編集者と著者の個人的関係の中から――つまり、酒席での雑談の中などから――生まれることが非常に多いように思います。硬派出版社の代表格である岩波書店ですらそうなのだそうですから、他は推して知るべしでしょう。単なる仕事ではなく、何らかの思い入れが相互にないと、作品として完成しにくいということなのでしょう[註3]。そのような事情があるため、未知の出版社に原稿を持ち込むよりも、これまで関係のあった出版社に検討を依頼するほうが近道のように思われました。そこで、今はある出版社で編集長になっている、旧知の編集者に検討を依頼しました。すると今度は、あっけないほど簡単に出版が決まったのです。
その前にも、2、3の話があったのですが、いずれも頓挫していたので、一方には信じがたい思いもありました。そして、初校、再校と順調に進み、再校ゲラを編集に戻した段階で、その不安が的中します。まもなく、当の編集長から、このままでは出版できないと突然通告されたのです。そして、「まえがき」から、「生活圏」や「芸術圏」という中原中也の言葉(笠原、2004b)が入った段落を削ってほしい、事例が多すぎるので数を減らしてほしい、第7、8章は削るか統合するかしてほしいなどと、中身にまで大々的に注文をつけてきました。かつては分厚い本ばかりを出すことで名を馳せた出版社でしたが、今は、なるべく薄くしないととても売れないというのです。
その編集長も、自分の裁量でそこまで勝手に変更することはできないと言って、新たに発生した事態にとまどっているふうでした。やはりというべきか、営業部から横槍が入ったためのようでした。板ばさみ状態になった編集長に同情的な気持ちは湧きましたが、とうてい受け入れられる内容ではなかったため、その時点で、この出版社からの出版を断念し、あらためて他の出版社を探すことにしました。
私の経験では、初校の段階ですらこのようなことは一度もありませんでしたし、後日、別の著名フリー編集者に意見を求めた時にも、そのような話など聞いたこともない、と言われました。やはりこれは、最近の出来事としても、かなり異例なことなのです。営業部から異論が出されたにせよ、いったんは編集長が承認していたのですから、出版社自体の対応としても不適切だったと言わざるをえません。
次に検討を依頼したのも、これまで関係のある出版社でした。編集者自身とは初対面でしたが、いわゆる売れ筋の本を続けて出しているため、社内でも高い評価を受けているとのことでした。この編集者は、幸い、この本に好感を持ってくれたのですが、第7、8章がちょっと難しいので、この2章は、あらためて別著で出すことにして、今回は第6章まででまとめたらどうか、と提案してきました。そして、並製本にすれば定価を抑えられるので、かなりの部数が見込めるが、第7、8章が入ったままだと、ページ数からしても上製本で小部数でしか出せなくなってしまう、というのです。
私は、現在のままの形で出版しないと意味がないとして譲りませんでした。編集者は、それでも編集会議は通ると判断していたのですが、この企画は、編集者の予測を裏切り、編集会議を通らなかったのです。このままでは売れないと判断されたのでしょう。私は、1997年の『懲りない・困らない症候群』出版の時点から、DTPソフト(初期は PageMaker、2003年からは InDesign の各バージョン)をワープロ代わりに使っているので、同時に版下ができてしまいます。したがって、組版の経費が大幅に節減できるため、一般の出版物よりもよほど有利なはずなのですが、それでも採算がとれない、と判断されたことになります(これは、結果的に見て正解でした)。
そのため、当分は出版が難しいと覚悟して、とりあえず各章の pdf をCD-ROMに収録し、私家版として配布を始めました。そして、その段階で、大学で心理学教授を務めている友人に相談したところ、旧知の宇津木氏が、大手医学出版社勤務を経て、自ら医療関係の出版社を興していることを教えられ、今回の出版に至ったわけです。
それぞれの出版社による奇妙な対応は、ひとつには、かたい本がますます売れなくなっているので、少しでも売れやすい本を出したいという切実な意向の現われなのでしょう。どの出版社も、経営状態が逼迫しているため、極端に言えば、売れる本なら何でもかまわないというほどの状況に陥っています。その窮状はもちろん理解しているのですが、今回の問題が果たしてそれだけだったのかというと、そこに疑問が残るわけです。ともかく、私が出したいと思っていた形で出すのが非常に難しかったことだけは、まちがいありません。
ところが、この本がある程度売れたため、2005年に同じ出版社が、『なぜあの人は懲りないのか困らないのか――日常生活の精神病理学』という今風の(同書の趣旨に反する他罰的表現の)タイトルに強引に変えて、並製本にして再刊したのですが、これには旧版ほどの反響はありませんでした。この10年弱の間に、「かたい本」が全般に売れにくくなるという一大変化が起こっていた(拙論「かたい本が売れない」[『大学出版』2010年、第82号]参照)ので、これは、そのことが関係しているのかもしれません。
ちなみに、しばらく前までは、友人や知人に献本すると、ほとんどの相手からすぐに礼状が届いたものですが、昨今では、そのようなこともあまりなくなりました。他の著者に聞いても、似たり寄ったりの状況になっているそうなので、これも、時代の流れによるものなのでしょう。しかし、そうした変化を割り引いて考えても、また実売部数が少ないにしても、本書に対する反響がほとんどないのは、やはり不思議でした。
ここで、影響力がないのは小部数しか出回っていないためではないか、という異論について検討しておかなければなりません。下の表1は、私の心理療法を扱った5点の著書が、全国の大学図書館や公共図書館、および都公立図書館に所蔵されている実数を示したものです。これを見ると、本書は、大学図書館には、他の図書館に比べてもそれなりに所蔵されていることがわかります。各大学の紀要などは全く受けつけないなど、最近の大学図書館が、新刊書の収蔵を極度に抑えている状況を考え合わせると、これは、本書が比較的堅実な図書と認められた結果と考えてよいのではないでしょうか。また、刊行後半年ほどしか経ってないことを考え合わせると、市販された部数と比較して、所蔵数がそれほど少ないわけではないように思います。
2011年1月末現在 |
出版年 |
大学 図書館 |
全国公共 図書館 |
都内公立 図書館 |
|
隠された心の力 | 1995 | 31 | 19 | 6 |
懲りない・困らない症候群 | 1997 | 46 | 26 | 20 |
幸福否定の構造 | 2004 | 51 | 21 | 11 |
なぜあの人は懲りないのか * | 2005 | 21 | 9 | 13 |
本心と抵抗 | 2010 | 22 | 7 | 3 |
Webcat Plus で調べた結果。複数を所蔵している施設もあるので、所蔵冊数ではない。大学図書館とは、全国の国公立・私立大学その他が運営する図書館のこと。また、全国公共図書館とは、国立国会図書館・全国都道府県立図書館・政令市立中央図書館のこと。なお、東京都立図書館は、全国公共図書館に含まれるため、都内公立図書館には含まれない。
* 『懲りない・困らない症候群――日常生活の精神病理学』の新装改題版。 |
実売部数と影響力の関係についても、ここでふれておく必要があります。『懲りない・困らない症候群』は、3刷で総計4500部を完売していますが、『幸福否定の構造』は、初刷がわずか1200部程度であり、出版後6年以上が経過しているにもかかわらず、未だに在庫が残っています。しかし、大学図書館の収蔵数は、前者よりも後者のほうが多く、ウェッブの書評などを見る限り、影響力という点でも、後者のほうが大きいように思います。したがって、単純に、小部数しか市中に出回っていないことが反響の乏しい理由であるとは、必ずしも言えないことになるでしょう。
もちろん、本書の場合も、読者からの反響が全くなかったわけではありません。私の心理療法を受けている人たちからは、「今度の本がいちばんわかりやすい」とか、「これを読むだけで、全部が実践できるように書かれているが、抵抗というものがあるので、実際にはできないだろう」とかの感想はもらっているからです。ウェブサイトの楽天ブックスには、発売後まもない頃に書かれた好意的なレビューが2件あります(この点については後述します)が、アマゾンでは2011年2月末現在、1件もありません。また、インターネットで検索するとわかりますが、ツイッターで本書にふれている人が3人いるだけで、事実上他には反響がないのです[註5]。私の心理療法を長年受けている人たちからも、反響らしい反響がほとんどないくらいですから、一般読者からの反響が皆無に近いのは、不思議なことではないのかもしれません。
言うまでもないことですが、反響にも、量的な側面と質的な側面とがあります。これまで述べてきたように、本書に対して全般的に反響が乏しいのは事実ですが、それはあくまで量的な側面から見た場合です。本書では、それよりも質的すなわち内容的な側面に対する反響の乏しさのほうが、はるかに大きな問題のように思います。たとえば、間接的に耳にした、本書に対する感想の中には、これまでの著書とどこがどう違うのかわからないとか、全体としてまとまりを欠いていて、何を言いたいのかわからないとか、論理に飛躍が多い、などというものがあります。というよりも、批判的な反響としては、そのようなもの以外にはほとんどないと言ってよいくらいです。こうした疑問や感想は、ここで追究している謎を解くうえで重要なヒントになるはずです。
本書は、これまでの著書と違って、幸福否定という考えかたがかなり成熟した段階で書かれたため、多少なりとも余裕を持って執筆されています。これまでは、さほど余裕がなかったため、わかったことをとにかく書いておくという姿勢が強かったのに対して、今回は、少し立ち止まって振り返りながら、読む側がわかりやすいように、否定的な立場から読んでも違和感がないように、さまざまな可能性を公正な視点から検討しながら、詳しくていねいに説明するよう心がけたわけです。そのため、これまでの著書では、とかく説明が行き届かずわかりにくかった部分が、多少なりともわかりやすくなっているはずなのです。「今度の本がいちばんわかりやすい」という感想は、まさにその点について述べたものなのでしょう。
したがって、その違いは、結局、とりあげかたの問題ということになりそうです。どのようなまとめかたをしているか、どのような角度から検討しているか、どこまで事細かに説明しているかという点が、ここでの焦点になりそうだということです。次に、抵抗となりそうな部分を列挙してみましょう。
1 書店で便意が起こるという現象や締切まぎわ問題、片づけ困難現象、虐待問題など、日常生活で遭遇しやすい卑近な問題に共通する心理的原因――つまり、幸福否定という、人間にあまねく見られる頑強な意志――を、たくさんの具体例を提示しながら掘り下げていること
2 自発性に対する抵抗を具体的な形で提示していること
3 反応――あくび、一過性の眠気、身体的変化――という他覚的変化が、日常生活の中でごくふつうに見られる事実を明らかにしていること
4 反応という客観的指標を使って、事実や真理を厳密に探り当てるための方法を詳しく紹介していること
5 反応と心因性症状は、その発生機序という点で、質的に同じものであることを明らかにしていること
量的な違いなのではっきりとは言えませんが、以上の5項目が、その規模や詳しさという点でこれまでの著書と大きく異なっている部分でしょう。それと比べると、次の2項目は、非常に抵抗が強いことは既に確認されているものの、これまでの拙著と本書とで、扱いかたにさほど大きな差はないように思います。
6 心理的原因を意識化すると、その瞬間に症状の変化が多少なりとも起こることを明らかにしていること
7 抵抗という、人間に遍く見られる心理的現象を基盤として、全く新しい人間観を明確に提示していること
したがって、この2項目は、きわめて抵抗が強い側面であるのは確かなのですが、本書が売れない(あるいは、反響が乏しい)大きな理由にはなりそうにないということです。
その候補としては、上に列挙した7項目がまず最初に考えられるわけです。とはいえ、後の2項目は、上述のとおり、非常に抵抗の強いものであるとはいえ、これまでの著書でも既に大きく扱われています。そのため、この2項目は、本稿で問題にしている焦点には当たらないことになるわけですが、ここでは、その抵抗の強さがどれほどのものかを再確認し、抵抗の核心を浮き彫りにするため、その2項目を先に見ておくことにします。
この引用文では、「第2部では」と断っていますが、客観的指標を使って事実を探り出すという方法は、心理療法の8事例を詳細に説明している第2部ばかりでなく、本書全体で用いられています。そして、事実や真理が「操作的かつ客観的に探り出せる」という主張を明確に行なっているわけですが、そのことも、本書の核心のひとつになっています。もうひとつ重要なのは、症状出現の原因は、いわゆるトラウマという概念で想定されているように、遠い過去にあるのではなく、まさに症状が出現する直前にあり、その記憶は例外なく消えているという点です。その事実に初めて気づいたのは、私の心理療法の恩師に当たる精神科医・小坂英世先生でした。小坂先生が1970年頃にこの事実を経験的に発見するまで、この点には誰ひとり着眼することがなかったのです。
核心部分を繰り返すと、心因性症状の原因は、症状出現のまさに直前にあり、その原因に関係する出来事の記憶は必ず消えているわけですが、その出来事を思い出すと、その瞬間にその症状に多少なりとも変化が起こるということです。症状が一瞬のうちに消えることすらあります。また、この事実については、きわめて強い抵抗が一般に見られることが、既に確認されています。この問題に関心のある方は、『幸福否定の構造』第8章をご覧ください。そこでは、この点について、非常に細かい検討が行なわれています。
これまでの人間観では、人間は、外部から受ける負荷――昨今ではストレスと総称されるもの――によって、心身ともに大きく翻弄される、か弱い存在として描き出されていました。それは、むしろきわめて常識的な人間観であり、ストレスという概念を知らなくても、その見かたに違和感はないでしょう。それに対して、幸福否定という考えかたに基づく新しい人間観は、まるで正反対のものです。自らの幸福を自らの意識に対してひたすら否定するという明確な目的のもとに、心身を一瞬のうちに変化させることまでして、すべてを意図的に操作していると考えるからです。
その一方で、そうした仕組みが意識に表出するのを妨げるため、記憶を自在に隠蔽、変形してしまうというのです。このようにして、自らの意識を完璧に操作し、自らの本質を自らの意識にひたすら包み隠している、と考えるわけです。これは、完全犯罪のようなものです。ここで、ではなぜ幸福否定などというものが存在するのか、心身の変化を一瞬のうちに引き起こす力は何か、そこまで強い幸福否定を行なうことで人間は何をしようとしているのか、という大変な難問が生まれるわけですが、それはまた次の問題です。
ここでは、従来のものとは根本的に異質な、いわば一騎当千的能力と自己韜晦的側面とを併せ持つ、とてつもなく頑強な人間像が想定されています。これは、あまりに奇妙な人間観なので、最初は、それを考え出した私自身ですらその妥当性を疑っていましたが、その裏づけが積み重なるにつれ、次第にその事実性を確信するようになりました。これまでの拙著でも本書でも、牽強付会な奇想や暴論として片づけられてしまうことのないように、この人間観の裏づけとなる証拠を大量に提示しているわけです。
この考えかたに対しても、これまでのところ、批判や言及は(専門家からも)一切ありません。しかし、単に無視されているだけとは思えません。たとえば、楽天ブックスのサイトには、本書のレビューとして、「著者が唱えている内容は、従来の人間観・心理的構造とは全く異なるものですが、納得できます。いろいろな心理的問題に解決をもたらす事ができるのではないかと希望を感じました」という感想が掲載されています。短いレビューなのでしかたがないのかもしれませんが、そこでは、この人間観に言及しながらも、それ以上はひとことも述べられていないのです。
しかし、この人間観が正しいとしたら大変なことになります。進化論や心脳問題の一番の根幹にまで甚大な影響が及ぶほどの重大事になるのですが、このレビューを書いた人は、その点には全く気づいていないかのようです。「新しい人間観」などとあっさり言ってすませられるようなものではないのです。したがって、これまでの著書と共通する部分に一般の抵抗があるとすれば、それは、この人間観が事実だとした場合の“ことの重大性”を意識で認めるという点にある、ということになるでしょう。
この部分に抵抗があるとすると、ふたつの可能性が考えられそうです。ひとつは、卑近な日常的現象の中に、心因性疾患の原因と共通する普遍的抵抗が潜んでいることを明らかにしたことです。この点には誰もふれようとしないので、ここにも、強い抵抗が潜んでいそうです。もうひとつは、このような現象の原因を現実に探り出すことができるという事実に対する抵抗です。これは、以下で検討する「客観的指標を使って真理を探究するための方法」に対する抵抗に含まれるでしょう。
部屋などの片づけにしても、自分が本当にしたいこと――あるいはしなければならないこと――にしても、外部からの要請に従って行なうのは、それほど難しくないでしょう。ところが、それを自発的に行なうとなると、行動としても手順としても全く同じなのに、きわめて強い抵抗が働くものです。この興味深い現象は、誰もが多かれ少なかれ経験的に承知していることなのではないでしょうか。これは、客観的にとらえられる現象で、しかも、個々人にとってはおそらくかなり深刻な問題でもあるはずなのですが、この現象自体が重要な研究対象とされることは、これまでほとんどなかったと思います。
このような現象は、個人的レベルでは十二分に知られているわけですが、専門家は、それを研究の対象から、おそらく無意識的にはずしてきました。最近でこそ、ADHDという診断名がアメリカから移入されたおかげもあって、臨床レベルでは曲がりなりにもとりあげられるようになりましたが、それでも、ADHDの症状のひとつに還元されてしまうか、単にだらしないためとして片づけられてしまうかして、それ以上追及されることはないようです。したがって、この点にも相当強い抵抗がありそうです。
そう考えると、青木まりこ現象が、特に専門家にとって、本来はこのうえなく重要な研究対象であることがよくわかるのではないでしょうか。青木まりこ現象を専門家が真剣にとりあげようとしない理由は、まさにそのあたりにあるように思います。
青木まりこ現象の場合、一般に関心を持ってとりあげられるのは、さまざまな症状のうち、ほぼ便意に限られています。それは、図1(上掲)の調査目的を見てもわかりますが、最初から、「書店に入るとトイレに行きたくなるのはなぜか」という疑問が設定されています。普遍的な現象であるはずのものを、“興味本位”から、便意というごく狭い範囲に初めから限定してしまうわけです。本サイトの「青木まりこ現象」のページでは、便意以外にも多種多様な症状も出ることがはっきり記されているにもかかわらず、ほぼ完全に無視されています。したがって、本書が、書店や図書館での便意だけでなく、反応というもの全般が、広く日常生活の中でごくふつうに見られるという事実を明らかにしていることも、本書に対する抵抗の理由のひとつになっている可能性が考えられるでしょう。
客観的指標を使うという方法は、もちろん、本書で初めて採用されたわけではありません。既に『懲りない・困らない症候群』でも使われていますし、それより前に出版された拙著『隠された心の力』(春秋社、1994年刊)でも同じです[註7]。とはいえ、この実証的方法を世界に先駆けて導入したのは先の小坂英世先生であり、今から40年ほども前の1970年のことでした。そのことについては、これまでの拙著でも繰り返し述べられていますし、上の引用文と同じページにも、はっきりと書かれています。これは、未来の科学史どころか世界史にすら残るかもしれないほどの、とてつもなく画期的な大発見なのです。
これまでの拙著と比べても、本書ほど、この方法論を、特に厳密性という点を強調しながら書いたことはありませんでした。本書では、それをかなり意識的に行なっているのです。「これまでの著書とどこがどう違うのかわからない」という読者は、そこを完全に見落としていることになるでしょう。したがって、この点にも、非常に強い抵抗がありそうです。そうするとここに、心理的原因をはじめとする、人間にまつわる重大な真理を、客観的指標を使って厳密に突き止めようとすることに対して、人間全般に、想像を絶するほど強い抵抗が働いている可能性が浮かび上がってきます。
本書では、反応というものが、日常生活の中でごくふつうに起こることを、青木まりこ現象や片づけ問題や締切まぎわ問題などを例に挙げながら説明しています。そのような場面や課題で抵抗に直面すると、一瞬のうちに下痢が始まったり、強い眠気が起こったり、あくび(いわゆる生あくび)が繰り返し出たり、あるいは蕁麻疹や喘息発作などのいわゆるアレルギー症状が発生したりするわけです。それは、多くが一過性に起こるという点で違うだけで、仕組みとしては心因性症状と全く同じです。その反応は、誰であっても、“感情の演技”という一種の思考実験で簡単に誘発されます。そして、感情の演技をやめれば、その反応は、ほぼその瞬間に収まるのです。ところが、その仕組みを現行の科学知識で説明することはどうしてもできないわけです。
このような話を聞くと、それは、暗示によるものだと即座に考える人が多いはずです。ところが、こうした反応は、暗示とは全く異なる機序によって起こるのです。暗示の場合には、自己暗示であっても、そのような言葉を唱え、その内容を思い込む必要があるわけですが、感情の演技の場合には、暗示の場合とは正反対で、感情が簡単に作れる時には反応は出ず、感情を作ろうとしてもできないという状況で、反応が出るのです。課題となった感情を作るのを妨げるために反応を出している、と言ったほうが正確でしょう。
ついでながらふれておくと、暗示という概念は、現象が知られているために受け入れられているだけで、言葉による暗示がなぜ身体的変化を引き起こすのかについては、やはり今の科学知識では説明できません。たとえば、後述するように、ウイルス性の皮膚疾患である“いぼ”が暗示によって高率に消えることは、催眠の専門家なら誰でも経験的に知っていますが、この現象を現在の科学知識で説明することはできないのです。この点についても、『隠された心の力』の第3章でかなり厳密に検討しているので、関心のある方はぜひご覧ください。
3種類の反応のうち、(1)身体的変化は、感情を作ることから気持をそらせる手段として、(2)あくびは、感情を作る意欲をそぐ手段として、(3)眠気は、まさに感情が作れないようにする手段として、いわゆる無意識――私の言う内心――が、一瞬のうちに肉体を自在に操作して引き起こす結果だと考えています。ところが、現行の科学知識ではその説明ができないわけですから、これまで想定されたことのない仕組みを、どうしても考え出さなければならなくなるわけです。ここにも、大変に強い抵抗があるはずです。
ところが私は、これらの事実に対して一般に働く抵抗の強さという点で、読みを完全に誤ったのでした。本稿の冒頭に書いておいたように、そうした抵抗は、自分の経験からして、ある程度にせよ、科学的好奇心によって乗り越えられるはずであり、したがって少なくとも一部の人たちからは、本書が喜んで迎え入れられるに違いないと信じて疑わなかったのです。宇津木社長から実売部数を知らされた時点で、私は、いわばその誤解と誤算に初めて気づかされたのでした。
順番としては、次に、本書に対する抵抗はどこにあるのかを探ることになるのですが、その前に、本書で提示されている所見や理論が妥当なものかどうかを、念のため簡単に検討しておきます。それがもし疑わしいようなら、本書の売れ行き不振は、抵抗によるものではなく、当然の結果ということになりかねないからです。
とはいえ、私としても、最初からそこまで考えていたわけではありませんし、そこまで余裕があったわけでもありません。当初は、自分の経験のみに基づく心理療法の開発を目指すことで精一杯だったからです。しかしながら、実用的に使える心理療法が開発されつつあることを確信するようになった段階で、反応の発現機序などの探究を通じて、人間の心の本質を突き止める手段としても使えることに気づいたことで、焦点も次第にそちらへ移ってきたというのが本当のところです。それまで長年抱き続けてきた関心とこの心理療法という、全く別の経路を辿ってきたふたつの事象が、この時点で、完全に結びついたわけです。これは、私としても全く予期しなかったことでした。
ところで、もし本書に提示されている事柄や考えかたの、少なくとも根幹がまちがっているとすれば、無意味なデータや主張が世間から無視されるという、当然の処遇を受けている以上のものではなくなります。したがって、それをこのような形で問題にするのは、それこそ思いあがりであり、筋違いということになるでしょう。逆に、もしそれらが真理であれば、あるいはその根幹に一部にせよ真理が含まれているとすれば、これまで述べてきたとおり、まさに本書の肝心な部分が極度に忌避されたまま今日に至っている――さらには、そうした状況が当分続く――のは、まちがいないことになります。そのため、あらためてここに、本書で述べられている所見や考えかたが事実と考えてよい根拠を簡潔に提示しておきます。
これまでの拙著でも同じですが、本書でも、先述の方法論や、それによって導き出された人間観を基盤とする心理療法によって、症状の軽減および消失や、能力および人格の向上が現実に起こっていることが、詳しく述べられています。そこには、精神分裂病(昨今の名称は、統合失調症)や躁うつ病などの精神病も含まれます。その場合、私の側による舵とりは不要で、抵抗を減らしてゆきさえすれば、本人が向かうべき方向へ自然に向かうことが、繰り返し確認されています。私は、当室で心理療法を受けている方々を対象にして、既に二十数年もの間、連日のようにその妥当性を検証してきたのですが、これまでのところ、それに例外のないことがほぼ確認されているのです。
幸福否定という考えかたが、誰の目にもとてつもなく奇妙に映るのは、まちがいないところでしょう。先述のように、自分が求めているはずの幸福が、いざ到来しそうになると、あるいは到来すると、それを、いわゆる無意識(私の言う内心)のうちに避け、自らの感情や思考を自在に操って思い込みや落ち込みなどを一瞬のうちに作りあげたり、さらには、自らの肉体を自在に操って心身症状を一瞬のうちに作りあげたりすることによって“けち”をつけ、その幸福が意識に昇らないようにする、と考えるからです。しかも、その仕組みが意識に昇らないように、その周辺を含めた記憶を意識から速やかに、しかも完全に消し去ってしまうわけです。そうすると、意識の内容は、内心によって大幅に操作されていることになります。
したがって、この考えかたの当てはまる人たちが、一部にいるだけでも大変なことになります。ところが、長年の心理療法によって得られた所見から、現実には一部どころではなく、おそらく人類全体に、幸福否定という強い意志が、生後に置かれた環境とは無関係に、生まれつき備わっているのではないかと推定しているわけです。これが事実なら、人間にとって、どれほど重大なことかがわかると思います。
加えて本書には、抵抗というものを浮き彫りにする方法が詳しく紹介されています。その方法を実際に試してみることを通じて、本書で紹介されている事例や考えかたが妥当かどうかを、読者の方々が自分なりに判断できるようになっているのです。試してみればすぐにわかるはずですが――もちろん、それらの方法が適切に実践できた場合の話ですが――反応というものは、非常に簡単に出るものです。その点については、これまでの経験から、日本人ばかりでなく(確認できた範囲の)外国人でも全く同じであることがわかっています。この現象は、時代や人種や民族を超えているようなのです。
それを見てわかるのは、人間の本心と抵抗というものが主題になっていることと、どうやら自発性の異常を扱っているらしいことのふたつでしょう。しかし、“本心”や“抵抗”の意味も、自発性の異常の意味も、意識ではよくわからないはずです。ただ、いわゆる本音との違いがよくわからない“本心”というものと、やはりいまひとつ意味がはっきりしない“抵抗”というものが対置されていることはわかるでしょう。
帯には、出版社側による宣伝文句と見なされて、多少なりとも割り引いて受けとられるはずですが、「従来説(ストレス、心的外傷、精神分析、脳の病変等)では解けない、人間に特有な心因反応の仕組みを追及」と書かれています。これを見ると、これまでのものとはどうやら一線を画する、心因性疾患の原因論と心理療法について説明されているらしいことがわかります。
また帯には、「心はすべてを知っている」とも書かれています。これには、おそらく多くの人が首をかしげるでしょう。心がすべてを知っているはずがないではないか、というわけです。それにより、本書を、信頼性に欠ける「うさんくさい本」と見なす人がいるかもしれませんが、先ほどふれておいたように、大学図書館には、それなりの数が収蔵されているので、この可能性はそれほど高くはなさそうです。
次に目次を見ると、「青木まりこ現象」や「片づけができない」「締切まぎわの問題」「マリッジ・ブルーとマタニティー・ブルー」「子どもの虐待」など、主として、このところ話題になることの多い、非常に身近な問題を扱っていることがわかります。そのことからも、通常の心理療法やカウンセリングの本とは少々異質らしいことが、ある程度にせよ見当がつくでしょう。また、目次を細かく見ると、「科学的検証の必要性」「心因性の症状は急激に変化する」「抵抗があるために片づけができない」などという小見出しが並んでいるのがわかります。ここまでくると、次節で扱うべき問題につながってきます。
では、以上の点で抵抗の強そうな要因として考えられるのはどれでしょうか。従来の心理療法や原因論と根本から違うことについては、これまでの著書でも明確に謳われています。したがって、これが今回の売れ行き不振の理由になる可能性は低そうです。そうすると、本書を全体としてみた場合の抵抗は、『本心と抵抗――自発性の精神病理』というタイトル自体にあるのでしょうか。あるいは、各章の内容に関係しているのでしょうか。他にそれらしいものがなければ、とりあえず、これらを検討の対象にするしかありません。
T この人間観が事実だとした場合の、“ことの重大性”を認めること
U 日常生活で遭遇しやすい問題や現象に共通する原因が明確にされていること――卑近な日常的現象の中に、心因性疾患の原因と共通する普遍的抵抗が潜んでいることを明らかにしたこと
V 自発性に対する抵抗を具体的な形で提示していること――自発性に対する抵抗自体が研究対象にされていること
W 反応という他覚的な身体的変化が、日常生活の中でごくふつうに見られるという事実を明らかにしていること
X 客観的指標を使って真理を探究するための方法を詳しく紹介していること――心理的原因をはじめとする、人間にまつわる重大な真理を、客観的指標を使って厳密に突き止めようとしていること
Y 反応と心因性症状は、その発生機序という点で、質的に同じものであることを明らかにしていること――これまで想定されたことのない仕組みを考え出さなければならなくなること
もうひとつ考えられるのは、(X)の延長線上にあることですが、本書が、反応や抵抗という客観的指標を利用して、一段ずつかなり厳密に論証を進めているという点でしょう。このことは、事例の記述などを見るとはっきりするはずです。これまでは、詳しく説明するとあまりに大部の本になってしまうのを嫌って、むしろ専門誌に掲載される論文の場合のように、特に重要と思われる部分を除いて、できる限り簡潔に書いたり、可能な場合には省略したりしていたのです。この点は、本書で特にきわ立っている特徴のように思います。
X' 反応や抵抗という客観的指標を利用して、一段ずつかなり厳密に論証を進めていること
客観的な指標を使い、かなり厳密な論証を進めると、「はじめに」でふれておいたように、“逃げ道”がほとんど封じられてしまいます。他の可能性が非常に考えにくくなくなるからです。この点がとりわけ重要であることは、まちがいないところです。
言うまでもありませんが、これらが、幸福否定という考えかたに基づく人間観を構成する素材になるわけです。さて、本書の売れ行き不振の原因と、反響の乏しさの原因が同じものかどうかはわかりませんが、同時に起こったらしいことからすると、ほぼ共通していると考えるほうが自然でしょう。本書に対する抵抗の核心を探るに際して、E項の「幸福否定の“ことの重大性”を認めること」という要因は、検討の対象からははずしてもよさそうです。大きな抵抗のもとになっているのはまちがいないわけですが、本書だけにかかわっている要因ではないからです。
したがって、上に列挙したA項からD項までの4条件を満たし、しかも本書を見てすぐに気がつくようなものを探せばよいことになります。そうすると、最も可能性の高いのは、本書のタイトルのような漠然としたものではなく、やはり、さまざまな身近な現象の中でも、とりわけ、ストレス以外の原因を考えざるをえないように見える“青木まりこ現象”を、真正面からとりあげて、詳細に検討していることでしょう。それなら、A項とB項は、まず問題なく当てはまりそうです。
C項の自発性という点でも、先に紹介した小谷野さんと内田さんの証言を見るとわかるように、問題なくそのまま当てはまるのではないかと思います。ふたりは、自らの体験から、次のように述べていました。
「読みたい」本、「買いたい」本を選び出すことに関係して、便意が起こっているというのです。重圧というストレスに近い見かたはともかく、さすがに名の通った評論家や思想家だけあって、ほしい本を選ぶことが便意に関係しているという観察は鋭いと思います。それと通底することなのですが、同じ書店に入っても、動機によって反応の出かたが異なるという現象があります。この点については、旧知の書籍編集者による証言がヒントになります。
その編集者の場合、書店で起こるのは「体がだるく、茫然と」なるという症状(反応)であって、便意ではありませんでしたが、非常に興味深いものでした。その症状は、買いたい本が特に決まっていない時に限って起こるのに対して、買う本があらかじめ決まっている時には、同じ書店であっても起こらないというのです(笠原、2010年、20ページ)。また、青木まりこ現象を持つ人であっても、新刊書に囲まれた職場や図書館で仕事をしている時には、それによって自動的に便意が起こるようなことはありません。これも、読みたい本を自発的に探し求める時にこそ、この反応が起こることの裏づけになるでしょう。また、本書では、青木まりこ現象についても、その原因を厳密に検討しているわけですから、D項もそのまま当てはまりそうです。
では、青木まりこ現象の原因を客観的指標を使って厳密に探究していることが、本書に対する抵抗の唯一の理由かというと、たぶんそうではなく、「片づけ問題」「締切まぎわ問題」「マリッジブルー」「マタニティブルー」「児童虐待問題」などを、同じく客観的指標を利用して、同じように厳密に検討していることも関係しているのではないかと思います。つまり、身近な現象に、私の言う幸福否定に基づく抵抗が潜んでいて、それを、厳密な客観的方法を使ってあぶり出しているところに、本書の売れ行き不振の原因があり、本書への読者による反響が乏しい理由があるのではないかということです。
一方、自発的にはできない片づけを無理にしようとしたり、締切まぎわにならないうちに、当該の勉強や仕事に無理やり着手しようとすれば、次に示すとおり、青木まりこ現象の場合と同じく反応が出ます。このことは、実際に試してみればすぐにわかります。
しかし、反応が出るという事実は、体験者にこそ知られているものの、一般的な知識になっているわけではありませんし、反応に名前がつけられているわけでもありません。これらの場合も、青木まりこ現象と全く同じ仕組みで反応が出るのですが、便意について言えば、青木まりこ現象の場合ほどには起こらないはずです。書店や図書館で便意が起こる頻度が高いのは、その場にとどまりにくくする、つまり、本を探そうとする行為を中断させることが、その反応の目的になっているからだと思います[註8]。片づけや締切のある課題に直面した場合には、便意よりむしろ脱力感や眠気が起こりやすいのも、やはり行動の阻止という目的に適った反応が選択されるからでしょう。しかも、その選択は即座に行なわれるということです。このことは、症状選択の機序という問題を考える際の、重要なヒントになるはずです。
青木まりこ現象に対する関心は依然として強く、当サイトの「青木まりこ現象」のページも、たくさんの方々のブログやホームページに紹介されているにもかかわらず、その核心部分が完全に無視されている状況が今なお続いているわけですが、ある意味でそれは、暗示効果や偽薬(プラシーボ)効果という現象と似ています。
先述のように、いぼは、ウイルス性の皮膚疾患であるにもかかわらず、暗示によってかなりの高率(5割から7割ほど)で消えることが知られています(スパノス他、2002年;DuBreuil et al., 1993)。それは、催眠の専門家なら誰もが承知しているほどの経験的事実なので、その現象自体を否定することはできません。ところが、暗示効果の原因を、現在の科学知識の中に求めることはできないのです。つまり、暗示とは何かという疑問に適切に答えることは誰にもできないわけですが、そればかりではありません。暗示の本質を解明しようとする研究もほとんど行なわれることのないまま、現在に至っているのが実情なのです。
偽薬効果の研究も、全く同じ状況にあります。偽薬は、それ自体には薬効がないにもかかわらず、それに擬せられた医薬品と同じ効果を多少なりとも発揮し、場合によってはその副作用をも発現させます。たとえば、抗がん剤と称して患者に投与すれば、ある程度の比率で抗がん剤のような作用が観察される一方で、強い吐き気が出たり髪の毛が抜けたりすることもあるのです。これは、反偽薬(nocebo)効果と呼ばれる現象です(たとえば、ウォルフ、2002年;ベンソン、2002年参照)。ところが、その仕組みはと言えば、やはり全くわかっていないのです。偽薬効果は被暗示性と無関係に起こるとする研究もあるので、もしかすると通常の暗示による現象とは一線を画する側面があるのかもしれません。この現象を、ベータ・エンドルフィンなどの脳内産生物質の働きで、いかにも“科学的”に説明しようとする研究者もいるようですが、反偽薬効果の存在を持ち出すまでもなく、それでは何の説明にもなりません。
青木まりこ現象は、発生率が高く、その存在が広く認められており、人間の心の本質を解明するうえで重要な手がかりになる現象であるにもかかわらず、現在の科学知識の枠内ではそれを適切に説明することができず、その本質を追究しようとする研究者がほとんどいないという点で、暗示効果や偽薬効果と相同の現象であると言えるでしょう。
とはいえ、そうなると、これまでどうしても解けなかったいくつかの謎が、一挙に解けた感じになります。そのうちのひとつは、本稿第2章第1節「青木まりこ現象の不思議」に書いておいたことです。体験者たちの関心は、表面的な説明とそれぞれの私見とがブログなどに書かれるだけで終わってしまっているわけですが、それは、一瞬のうちに便意や下痢が起こるのはなぜか、という本質的疑問の解明に向かうことにきわめて強い抵抗が働く結果ということになります。この強さは、どうやら科学的好奇心をはるかに上まわるようです。
もうひとつだけあげておくと、それは、小坂英世先生が創始した小坂療法が、専門家ばかりか患者の家族からも、きわめて強い反発に遭い、その結果として、小坂療法のみならず、小坂先生の存在すらほぼ完全に抹殺されてしまったことです[註9]。この問題については、既に『幸福否定の構造』第8章「共同妄想とその裏面」で詳細に検討しているのですが、それだけでは不十分な感じがどうしても否めませんでした。ところが、客観的指標を用いた厳密な検討という方法論に対して頑強な抵抗が働くことが、今回、どうやら明らかになったおかげで、その不全感が大幅に薄れたのです。つまり、小坂療法がほぼ完全に抹殺されるに至ったのは、客観的指標を使って、厳密に原因を探り出すという方法を導入した結果だということです。
ついでながらふれておくと、本書に対する抵抗の強さから判断する限り、幸福否定という考えかたに対する抵抗は、超常現象一般の場合よりも強そうです。これは、私にとって、非常に意外な結果でした。超常現象に対する抵抗の強さが尋常一様のものではないことは、長年の経験から骨身にしみて知っているので、それ以上に強い抵抗が存在することは、しかも、それが自分で続けてきた心理療法の枠内にあることは、全く意想外のことだったのです。灯台下暗しとは、まさにこのことなのでしょう。
最後に、補足的にふれておきたいことがふたつあります。それは、(1)新しい概念を無視しないまでも、古い概念と並存させようとする姿勢が――極端な場合には、古い枠組みの中に無理やり押し込めてしまおうとする姿勢が――専門家の間にすら広く見られることと、(2)いわゆる自然科学が、これまで科学の頂点に置かれてきたことに対して強い疑問が感じられること、の2点です。
ここには、「このような考えも一つある」と書かれています。一般の読者にそこまで要求するのは酷なのかもしれませんが、幸福否定という考えかたや、それに基づく私の心理療法は、他の理論や方法論とは根本的に相容れないものであり、本書でも、これまでの拙著でも、そのような形で提示されています[註10]。旧来の理論や方法論とそのまま両立させることは、実際にできないからです。それが許される唯一とも言える例外は、“教科書”でしょう。教科書には、たくさんの理論や立場を、偏りなく“公平”に紹介する責務があるからです。しかし、独り立ちした研究者には、こうした、いわば八方美人的姿勢は許されません。稀代の生物学者だった今西錦司さんは、そのような姿勢を厳しく批判しています。
これは、今西さんが、自らの大恩人でもあった、元京都大学理学部動物学科教授・宮地伝三郎さんの、研究者としての姿勢を痛烈に批判している文章の一部です。文中の「競争と共存」とは、ネオダーウィニズムで言う種内および種間の競争と、今西さんが唱える進化論で言う、それぞれの“種社会”の棲みわけ共存のことですが、このふたつの概念は、本来的に相容れないのです[註11]。わが国では、いわゆる対立を嫌うためか、そもそも相容れない複数の概念を、是が非でも並存させようとする傾向が、特に大学教授を筆頭とする研究者の多くに強く見られるのは、まちがいないところでしょう。歯に絹を着せる態度を極度に嫌う今西さんは、そうした生きかたを端的に批判しているわけです[註12]。
当該の分野の知識をまだ身につけていない段階では、教科書を読むことは、全体像や歴史的経過を把握するためにむしろ必要です。教科書というものは、そのためにこそ存在しているわけです。とはいえ、研究者がその後もそうした初心者的態度をとり続けるようなら、とうてい研究者とは言えませんし、真の研究などできるはずもありません。幸福否定という考えかたやそれに基づく心理療法および人間観が正しければ、旧来のものは根本からまちがっていることになります。それらは、逆に、幸福否定の枠組みの中でとらえ直さなければならなくなるわけです。そのため、ここには、とてつもなく深刻な事態が発生するのです。
したがって、真の科学者であれば、本書に提示されているデータ群や考えかたを、自分なりに真剣に検証する必要――正確に言えば、責務――があるのです。どちらがまちがっているのかを――旧来の知識を弄した演繹によってではなく、経験的事実を通じて――はっきりさせることが、科学者に負わされた使命なのですが、これまでのところ、この挑戦を受けて立つ科学者は、まことに残念ながらひとりもいないようです。いやしくも科学者を自称するのであれば、わが国の科学者によく見られる“評論家的態度”に終始するのではなく、本来の責務をきちんと果たしてほしいと願うものです。
しかし、現在では、時代の花形は、むしろ生命科学と呼ばれる生物学の分野に移ってきています。この分野では、物理科学と比べると、再現性は多少なりとも低いわけですが、では二流科学なのかと言えば、そうだと答える人はほとんどいないのではないでしょうか[註13]。この場合、再現性が低いのは、要するに実験に関係する要因が多すぎて、コントロールが難しいためです。そうした観点からすると、むしろ要因が少なくコントロールしやすいために再現性が高い物理科学よりも、はるかに高度の研究分野ということになるはずです。
そこまではよいとしても、では、心が関係する分野、特に心理学などのいわゆる人文科学(Humanities)と呼ばれる分野はどうなのでしょうか。これは、“自然科学者”からすれば、好意的に見てもせいぜい二流、三流の科学であり、実際には科学ですらない、ということになるでしょう。このように、あっさり切り捨てられてきたことに対して、“人文科学者”の側は、その指摘を否定することもできず、さりとて“再現性”を高めることもできないため、言葉を濁すか、さもなければ、自ら“二級市民”の立場に甘んじて今に至っているというのが、実際のところでしょう。
これまで述べてきたように、幸福否定という考えかたに基づく心理療法では、客観的指標を使って事実を、かなりの確度で確認することができます。突き止められた内容が事実であることは、それを意識で認めると症状に変化が起こるとともに、能力の発揮や人格の向上なども、それらと並行して起こることによって確認されます。それが稀にしか、あるいは一部でしか起こらないのであれば、別の理由で説明できるのかもしれませんが、もし大多数で、さらには、ほぼ例外なく起こるとすれば、両者の間に因果関係があることは、どうしても否定できなくなるはずです。
では、こうした客観的指標を、同じく“人文科学”とされる文学や芸術の分野にまで導入することは可能でしょうか。それを初めて試みたのが、2004年に出版した拙著『希求の詩人・中原中也』(麗澤大学出版会)でした。その「まえがき」には、次のように書かれています。
この著書は、昭和初期に活躍した詩人・中原中也の生きざまを、全く新しい角度から浮き彫りにしようとする試みでした。その過程で、中也にまつわるさまざまな(信じがたいほどの)誤解――正確に言うと、思い込みに基づく誤信――が、中也の中心的研究者の間にすら数多く存在することを明らかにし、中也に関する定説の多くを、実証的証拠に基づいて反証しています。
また、2回の精神病状態の原因を厳密に探究することを含め、いわゆる病蹟学的な側面でも、実証的方法を使ってどこまで事実に迫れるかを確認しようとしたわけです。文学関係の自著も何点か出版しているある編集者は、私宛ての私信の中で、この著書は「中原についての文学史の書き直しを迫ったもの」であり、「その文学史のくみ直しの過程そのもののほうが、私には面白く思いました」という感想を書いてくださっています。しかし、各地の文学館や中也の主な研究者に献本しているにもかかわらず、この本も、2、3の雑誌に短評は掲載されたものの、それ以外はほぼ完全に無視され、売れ行きもきわめて不振だったのです(この拙著を所蔵する大学図書館は、本年2月末現在で73館)。
ところで、フランスの文豪スタンダールは、まだ無名の時代の1817年に、ゲーテにあやかってイタリア旅行をしている中で、フィレンツェを訪れます。そして、市内のある教会(サンタ・クローチェ聖堂)に入ったとき、心臓の動悸が激しくなり、今にも倒れるのではないかという恐怖に駆られたのです。とはいえ、スタンダールの証言を俟たずとも、同様の症状が特に市内のウフィッツィ美術館で起こることは、既にその頃から知られていたのだそうです。
イタリアの精神科医グラツィエラ・マゲリーニ(Magherini, 1995)は、1977年から86年までの10年間に、フィレンツェで芸術作品を鑑賞した後、一過性の精神症状を呈して入院してきた106名の観光客を対象にした研究に基づいて、こうした一連の症状を、スタンダールの体験に因んで“スタンダール症候群”と呼びました(本稿では、これを狭義のスタンダール症候群とします)。
これは、すぐれた美術品に接することによって出現するとされる心因性の症状ですが、私のこれまでの経験(『幸福否定の構造』134-136ページ参照)によれば、同様の症状は、美術品に限らず、特定の場所や物品に接することで、ごくふつうに起こる(広義のスタンダール症候群)のです。その場合、一瞬のうちに眠り込んでしまうほどの強い眠気やあくびの頻発が起こりやすい(そして、その作品から眼をそらした瞬間にその反応が消える)のですが、激しい吐き気や便意を起こす人たちもいます。ところが最近までは、青木まりこ現象と同じく、この現象は各人の経験知にとどまっており、一般には全く知られていませんでした。
こうした反応――つまり、広義のスタンダール症候群――を目印に使えば、少なくとも本人にとってすぐれた芸術作品が、主観的にではなく、客観的な指標によって探り当てられるはずです。私はある女性から、「目の前に立ったときにあくびや眠気が出るかどうかで、それがすぐれた作品かどうかを判断しています」という話を聞いたことがあります。この女性は、誰に教わるでもなく、反応を実用的な目印として使っていたのです。
私の言う反応は、その原因の記憶が消えているという条件を伴ううえに、ほぼ例外なく悪印象が残るものなのですが、スタンダール症候群の場合には、狭義のものであっても広義のものであっても、そうではないようです。自分が反応を起こす対象となった芸術作品をきちんと自覚し、しかも、その秀逸さや傑出性を認めながら反応が出るというのが、スタンダール症候群の特徴なのです。この点で、他の反応とは一線を画しているわけですが、これはなぜなのでしょうか。どこかに否定が働いているのは確かだと思いますが、ここにも、反応一般の本質を突き止めるための、重要なヒントが隠されているはずです。
はたして、こうした基準による判断が、すぐれた作品を客観的に探り出す指標として、広く一般に使えるものでしょうか。それは、こうした反応を出す人たちをたくさん集めて、厳密な条件を設定し、実験を行なうことで検証できると思います。また、仮にそうした指標が実用的に利用できないとしても、では、なぜ特定の作品の前に立つと、私の言う反応が出るのかという謎はそのまま残り、その追究を続けることができるはずです。このようにしてゆけば、広大な研究領域が新たに開けることでしょう。
一方、イギリスのテレグラフ紙は、2010年7月28日付の電子版で、「科学者グループがスタンダール症候群――偉大な芸術が引き起こす失神――を調査」という見出しの記事を載せています。わが国には、欧米のスタンダール症候群など、数のうえで足元にも及ばない青木まりこ現象という、体験者がおそらく数百万人にものぼる現象が広く一般に知られているにもかかわらず、科学者からは、それがほぼ完全に無視されているという現状があるわけです。このような事実を目の当たりにすると、彼我の断絶とも言うべき大きな落差をつくづく感じます[註14]。科学は、理論の側にではなく、何よりも経験の側に寄り添うものでなくてはなりません。そうしなければ、真理の探究としての科学の発展などありえないからです。まことに残念なことですが、やはり日本は、技術者の国ではあっても、科学者の国ではないのかもしれません。
[註2]外国でも同じ現象があるのではないかと思いますが、英語圏のインターネット・サイトを調べた範囲では、それらしきものは1件しか見つかりませんでした。しかも、もともと過敏性大腸をもっている50代の女性の例です。その女性によると、「本屋さんに入るといつも下痢が起こります。世界中でいちばん好きな本がものすごくたくさんあるので、とっても興奮するせいだと思います」とのことです。必ず下痢になるので、トイレがあることをいつも確認してから書店に入っているそうです。なお、息子さんにも同じ症状があるということです。英語圏では珍しい現象なのか、それとも、かつてのわが国のように、まだ互いの存在を知らずにいる状態のままなのかのどちらかなのでしょうが、本当のところはわかりません。
[註3]最近、ふたりの書籍編集者と相次いで話す機会があり、意見を求めたところ、どの編集者も忙しすぎて、未知の出版社に原稿を送っても、まず読んでもらえないし、場合によっては捨てられてしまうので、やめたほうがいい、と言われました。また、仮に目を通したとしても、著者を個人的に知らなければ、本腰を入れて読む気にはなれず、おざなりな読みかたになってしまうということでした。
[註4]がんの心理療法の本としては、『がんのセルフ・コントロール』の監訳者でもある近藤裕さんが、サイモントン療法をわが国に紹介する本として書いた『もう一つのガン療法』(日新報道)がその先駆けで1977年、続いて、アメリカの心理療法家ローレンス・ルシャンの『ガンの感情コントロール療法』(プレジデント社)の翻訳出版が1979年なので、『がんのセルフ・コントロール』出版のほうが遅いのですが、この2点はあまり話題にならないまま事実上消えてしまいました。
[註5]『介護新聞』(北海道医療新聞社発行の週刊紙)2010年7月29日号の「本」欄に、「経験的事実に立脚、ユニークな心の理論」という見出しで、本書の紹介があるそうです。
[註6]ストレス理論そのものは、ハンス・セリエという、ハンガリー出身のカナダの生理学者が、動物実験で得られた所見から1930年代に唱え、後に心因性疾患全般に拡張されたものですが、外部から負荷がかかれば、人間は大きな影響をこうむるという考えかたは、それ以前から、暗黙の常識だったはずです。したがって、ここでは、狭義のストレス理論だけでなく、古来からの常識的な考えかたも含みます。
[註7]ちなみに、この拙著は、超常的なものを含めた人間の能力という側面をテーマにしており、非常に抵抗の強そうな現象を扱っているにもかかわらず、また、300ページ弱(そのうち、索引と参考文献だけで54ページ)で、定価も当時としては高額の3300円ほどであったにもかかわらず、初版2500部が完売となり、刊行17年後の今でも、古書としては高額で取引きされているようです。この拙著については、評論家の芹沢俊介氏が、1996年1月20日の東京新聞夕刊に、一面の半分を使った長文の書評を書いています。ところが、この書評では、超常現象の部分だけがとりあげられ、同書全体の半分ほどを占める私の心理療法に関する記述は、なぜか完全に無視されているのです。
[註8]公開質問サイトのヤフー知恵袋に、「本屋とかに行くとトイレに行きたくなる現象が(たぶん)人一倍激しくて、少しだけ困っています。なにか、克服する方法などないのでしょうか? ご存知の方いたら、助けてください。ゆっくり本が選べません」という質問が掲載されています。これを見てもわかりますが、便意が起こると、本をゆっくり選んでいる余裕がなくなるわけで、実際に困っている人がいるのです。
[註9]小坂先生が籍を置いていた公立精神科病院の図書室にも、小坂先生の“伝説”は残っているにもかかわらず、小坂療法に関する著書は、ごく最近まで一冊もなかったそうです。
[註10]技法だけなら、これまでの心理療法と併用することは可能かもしれません。そのような折衷的方法は、これまでにもとられてきたところです。つまり、どの症状には精神分析、どの症状には自律訓練法、どの症状には箱庭療法といった、いわば広量なやりかたです。しかし、幸福否定という考えかたに基づく心理療法の場合、そのような使いかたをすると、他の方法との間に大幅な齟齬をきたし、少なくとも治療者側の内部矛盾は非常に大きくなるはずです。
[註11]だからこそ、ふつうは、世界の定説であるネオダーウィニズムやその延長線上にある機械論的理論が絶対視され、今西進化論のほうが無意味な空論として却下されるのです。両者が両立しえないものであることは、ふつうの生物学者なら十分承知しているということです。とはいえ、一部には、今西進化論の概念は、すべてダーウィニズムに含まれると主張する生物学者もいます。いずれにせよ、今西進化論には、見るべきものがないと言いたいのでしょう。
[註12]晩年の今西さんは、「生存競争と調和のとれた生物全体社会の進化とは、私の頭の中でどうしても両立の許されないものに映る」(今西、1986、87ページ)、「創生の神話に依拠する今西進化論は、歴史のすすむ方向にたいして、前向きの進化論であり、ダーウィニズムは歴史の方向にたいして、後向きの進化論である。ダーウィンも今西も進化は分化であるという点では一致しながら、ダーウィンは競争と選択に走り、今西は棲み分けをとった」と述べながらも、自らこの立場を放棄するかのように、「どちらが正しいかは検証できない。この二つは二つのちがった進化論として、認めてゆきたい」(同、90-91ページ)と、一歩譲った発言をしています。これはしかし、自分の立場を放棄したためではなく、むしろ少々ゆとりが生まれためか、寛容になったためと考えるべきなのでしょう。
[註13]生物学の分野からは、たとえば、次のような発言があります。「実験によって証明できないこと、再現実験ができないことは科学の研究とは言えないという狭量な教条主義」が未だに存在し、「得られるデータにばらつきのある生物学は科学の名に値しないと本気で口にする物理学者が、未だにいる」(渡辺、2009年、432ページ)。
[註14]たとえば、先にふれた偽薬効果という現象は、わが国でもよく知られているにもかかわらず、利用されるだけで終わっており、それ自体の研究は全く行なわれていないのが現状です。それに対して、欧米では、この方面の研究は相当数にのぼっています(拙編書『偽薬効果』 [2002年、春秋社刊]参照)。日本は、かつてサル真似の国と言われましたが、決してそうではなく、なぜか欧米から入ってくることのない研究領域も、少なからず存在するのです(拙著『隠された心の力』第4章参照)。